この世に生まれた瞬間の記憶なんて何一つ覚えてないけど、自分が何を思ったのかは想像できる。

あなたに会えて嬉しいーー。

ただその一つの感情がとめどなく(あふ)れて、俺は大きな産声を上げたんだ。



(こう)、今年も桜が咲き始めたよ。俺が弁当を作るからさ、二人で見に行こうよ…」

目の前で眠る綺麗(きれい)な人に、静かに声をかける。
あまりにも動かないから、心配して眠る顔に耳を近づけた。
(かす)かに聞こえる呼吸音を確認してホッと息を吐くことを、いったい何度繰り返しただろう。
目が隠れるほどに伸びた昊の前髪を撫でつけて、白い額に唇を寄せる。

「もう何も心配しなくていいんだ。俺が絶対に守るからさ…目を覚ましてくれよ…」

たまらず華奢(きゃしゃ)な身体を抱きしめた。
ただ、生きてそこにいてくれるだけでいいと思っていたけど、俺の名を呼ぶ声を聞きたい。俺に向かって笑う顔を見たい。
昊の甘い匂いを()ぎながら目を閉じようとして、ポツポツという音に目線を上げた。
横殴りの雨が窓に当たっている。

「なんだよ、花びらが散ってしまうじゃねぇか…」

そう呟くと、再び昊の首に顔を伏せた。



俺には二つ上の兄がいる。
名前は(こう)
人形のようにとても綺麗(きれい)な顔をした、自慢の兄だ。

俺がキッチンで皿を洗っていると、昊が冷蔵庫の水を取りに来た。
その時伸ばした白い腕の内側に、赤い跡がついてることに気づく。
俺は濡れたままの手で昊の腕を掴み「どうしたの、これ?」と聞く。

「なんでもない…触るな」

そう冷たく言い放って、昊が俺の手を振り払う。
目を合わすことも無くリビングから出て行った昊の華奢(きゃしゃ)な背中を見て、深く息を吐いた。

またかよ…。いつからあんな素っ気なくなったんだろ。俺は以前のように仲良くしたいのに。

皿洗いを再開しながら、俺は昔の昊を思い返した。



「あれ?青、どうしたんだ?ここ赤くなってるよ?」

僕の手を引いて今日あった事を楽しく話していた昊が、足を止めて顔を(のぞ)き込んできた。

「…友だちにつねられた…」
「なんでっ?」

昊が、僕の肩を掴んで怖い顔をする。
僕は、どんな表情になっても昊は綺麗だなぁと見とれた。

「なんかね、生意気なんだって…。女の子たちが僕にばっかり話しかけるから、生意気なんだって…」
「はあ?なにそいつっ!青が人気あるの、気に入らないだけじゃん!わかった。明日、俺がそいつに注意してやるから。だから青は元気出せよ、な?」

コツンと額を当てられて、僕はニコリと笑って(うなず)く。
二つ年上の小学三年生の昊は、学校ですごく人気だ。
女の子よりも綺麗な顔に細く長い手足に、冷たく見えるけど実は優しい性格。運動も出来て、僕の自慢の昊なんだ。
だから別にクラスの女の子たちに話しかけられても嬉しくないし、それを生意気だと怒られても困る。
でも、こうやって昊が心配してくれるなら、たまには意地悪されてもいいかなぁなんて悪いことを思ってしまう。

「後で冷やしてやる」とつねられた頬を撫でられて、僕はもっと笑顔になって、昊の手を強く握りしめた。

翌日の昼休みに昊が僕の教室に来て、僕を(いじ)めた男の子に注意をした。
男の子は、赤い顔をして昊を見ていたけど、すぐに僕に謝ってくれた。
僕は、昊が僕のために怒ってくれたことが嬉しくて、クラスのみんなが昊に見とれていることが自慢で、笑顔で「いいよ」と許してあげた。

「青、また何か困ったことがあったら、すぐに兄ちゃんに言えよ?」
「うん!」

昊がそう言って、僕をギュッと抱きしめる。
その柔らかく暖かい感触に、とても良い香りに、僕の中が幸せでいっぱいになる。
何度も振り返りながら去っていく昊に手を振りながら「昊と同じクラスがよかったなぁ」と呟いた。

朝は昊と手を繋いで学校に行き、帰りは僕の方が早く終わるけど、昊が終わるのを待って手を(つな)いで帰った。
僕は、友だちと遊ぶ約束はしなかった。
だって昊と遊びたかったから。
でも昊は、時々友だちと遊びに行ってしまう。
そんな時、僕が寂しそうに(うつむ)くと「青も一緒に遊ぶ?」と連れて行ってくれた。
昊の友だちは、僕がついて来ても怒らなかった。昊に似てみんな優しかった。

「青くん、可愛(かわい)いね!このお菓子、食べる?」
「青くん、ほんと可愛い顔してるよね。何して遊ぶ?」

昊の友だちは、僕を可愛がってくれた。
昊は「青が可愛いからだよ」と言ってたけど。
昊の方が可愛いのに…と不思議に思ったけど、昊に可愛いと言われるのは嬉しい。
僕は、いつでも昊の一番でいたい。

僕は友だちと約束はしなかったけど、時々いきなり家に呼びに来る子がいたりする。
昊と遊びたいから断ろうとすると「僕とばかりじゃなく、友だちとも遊んだ方がいいよ」と昊に言われて、渋々遊びに行くこともあった。
その日も、リビングのソファーで昊と並んでアニメを見ている時だった。
インターフォンが鳴って、対応したお母さんに「青、お友達が来てるわよ」と呼ばれた。

「僕、今忙しいから」
「何言ってんの。昊とアニメ見てるだけじゃない。せっかく来てくれたんだから遊びに行ってらっしゃい」

昊とアニメ見る方が楽しいのに。
むう…とむくれた僕の頭を()でて、昊が笑う。

「そんな顔するな。じゃあさ、今日は俺も一緒についてくよ。それならいいだろ?」
「え?昊も一緒?うんっ、じゃあ遊びに行くっ」

僕はソファーを飛び降りて、昊の手を握ってはしゃいだ。
昊も笑いながら立ち上がり、僕の手を引いて玄関に向かう。

「じゃあお母さん、行ってくる」
「昊…無理につき合わなくてもいいのよ?」
「大丈夫だよ。可愛い弟のためだもん」
「青はいつまでも甘えん坊で困ったわねぇ。青、お兄ちゃんの言うこと聞くのよ?」
「うん、じゃあいってきまーす」

僕は大きく頷いて、玄関で靴を()くと、勢いよくドアを開けた。

「え?青の兄ちゃんも来るの?」

玄関前で待っていた友だちの颯大(はやと)が、目を丸くして言う。

「そうなんだ。いいかな?颯大くん」
「まあ、別にいいけど」

素っ気なく言って、颯大がふいと顔を()らす。

「ありがと。じゃあ行こっか」

昊はそう言うと、僕と繋いだ反対側の手で颯大の手を握った。

「なっ、なにすんだよっ!」
「なにって、上の子が下の子の面倒見るのは当たり前だろ?迷子にならないように手を(つな)ぐんだよ」
「お、男となんて手は繋がねぇっ」
「あははっ、そりゃそっか!手を繋ぐなら女の子の方がいいよな。でも危ないし…。わかった。じゃあ青と手を繋げよ」
「え?」

僕は昊の手を振りほどいた颯大の手を、素早く(つか)んだ。
昊と手を繋いでいいのは、僕だけだ。
昊が颯大の手を握ったのを見て、気に入らなかったんだ。
だから、また繋がれないように、颯大の手をしっかりと握った。

「年上の言うことは聞かないとだめなんだぜ、颯大。ところでどこ行くの?」

渋々僕と手を繋いで、颯大が「あそこ」と指を指す。
颯大の指は、住宅地を抜けた先にある、小さな山を指し示していた。

「あそこで何するの?」
「この前さ、めっちゃいい場所を見つけたんだよ。俺たちの秘密基地にしようぜ」

颯大が、鼻息荒く言う。
秘密基地という言葉に、乗り気じゃなかった僕も、だんだんと楽しくなってきた。

「そうなのっ?どんな感じ?」
「へへっ、気になるだろ?あ…、青の兄ちゃん、俺たちの秘密基地だから、皆には内緒にしててくれよな」
「わかってるって。でも俺もその基地の仲間に入れてくれよ」
「しゃあねーなぁ」

溜息を吐きながら言う颯大に「生意気」と昊が笑う。
昊は女の子から人気だけど、男友だちも多い。
でも、その友だちの中でも、僕が一番の仲良しだ。
昊はいつも僕を大好きだと言ってくれる。だから僕の友だちの颯大にも優しいんだ。
そして颯大を見てて思う。
颯大は、きっと昊のことが好き。
でも僕の方が好きが大きい。それに僕の方が昊とたくさん一緒にいる。
だから颯大が昊に馴れ馴れしく話すのが気に入らないけど、たまにはしょうがない…と許してあげることにした。
だんだんと民家が(まば)らになり、途切れた所で山の入口に着いた。
頻繁(ひんぱん)に人が通って出来た細い道の先を見る。
道は、山というよりは丘と言った方がいいくらい、緩やかな登りになっている。
颯大は入口で一旦止まると「ちゃんとついてこいよ」と言って、僕の手を離して前を歩き始めた。
僕が隣に立つ昊を見上げると、先に行けという風に昊が僕の背中を押す。
二人並んで歩くには狭い道だから、僕は昊と繋いでいた手を離して、颯大の後に続いた。
颯大、僕、昊の順番で山道を進んで行く。
登り始めて十分くらいすると、颯大がいきなり横道に()れた。

「えっ、こんな狭いところ行くの?」
「当たり前だろ。秘密基地なんだから。誰にも見つからない場所じゃないと」
「そ…だけど…」

両側から長く伸びた草や枝が迫ってくる細い道を、怖々と歩く。
膝下までのズボンを履いているせいで、進む度にズボンから覗く足に、草や枝が(こす)れて痛い。
少し速度が落ちた僕の頭を、昊が後ろからポンポンと撫でた。

「どうした?足、痛い?長ズボン履いてくれば良かったな」
「昊…」
「帰ったら見てあげるから、な?」
「うん…。なあ颯大、まだ?」

昊に優しくされて、僕はすぐに元気になる。
僕は足を早めて颯大に追いつくと、あとどれくらいかかるのかを聞いた。

「もうすぐだよ。あ、この先、道がすごく細くなってるんだ。通りにくいし気をつけろよ」
「うん」

少し先を見ると、大きな枝が張り出して道を(ふさ)いでいる。
颯大が枝を押し上げて下をくぐり抜ける。
僕も同じようにしてくぐり抜け、昊も僕の後に続いた。

「あっ、見えて来たよっ」

颯大が叫んで、歩く速度を速める。
僕は、思ったより遠かったよな…と、身体を伸ばしながら空を仰いだ。そして初夏の空の青さに目を奪われて、固まった。

「青?」

昊に呼ばれて、慌てて顔を戻す。
その動作が、まずかった。
僕は立ちくらみのような状態になって、身体の均衡を保てなくなった。

「青っ!」

身体がゆっくりと傾いて、数メートルの深さはある谷へと倒れていく。

あ…!まずい…っ。

そう思った瞬間、昊が僕に飛びついて抱きしめた。
そのままザザーっと斜面を転がり落ちる。
実際は、ほんの数秒のことだったと思う。
だけど斜面の下にある木にぶつかるまで、すごく長く感じた。
やっと落ちるのが止まり、固く閉じていた目を開ける。
つい先程も見た、美しい空の青が目に飛び込んでくる。

「く…っ…」

顔の傍で昊の苦しそうな声がして、僕は(あせ)って昊の名前を呼んだ。

「昊…っ!大丈夫?どうしたの?」
「青っ!大丈夫っ?」

僕の声に被せるように、斜面の上から颯大の声がした。

斜面の上を見上げると、颯大が心配そうに(のぞ)き込んでいる。

「僕は大丈夫だよ!ちょっと待ってっ。昊が…っ」
「えっ?青の兄ちゃんどうしたのっ?」
「昊っ、どっか痛い?」

僕は心臓をバクバクさせながら、身体を起こして昊に聞く。
昊は、僕を見て笑おうとしたみたいだけど、すぐに顔を(ゆが)ませて(うめ)き出した。

「青…大丈…っ、あっ、いたっ!いた…い」
「どっ、どこっ?」

昊の身体を見ても、どこが痛いのかわからない。
ごろりと横向きになった昊の背中側を(のぞ)いて、僕の心臓が大きく()ねた。

「こっ、こうっ!背中っ!いっ、痛い…っ?あ…あ…どうしよう…」
「あっ!青の兄ちゃんっ、背中から血が出てるっ!俺っ、大人呼んでくるからっ!待っててっ」

颯大がそう言うや否や、その場から急いで駆け出した。
僕は、どうしたらいいのかわからなくて、ただ昊の手を握りしめて震えていることしか出来ない。

「青…大丈夫だよ…。こんなの…薬を塗ればすぐ治るから…。青こそ、痛いとこない?どこか…怪我してない?」
「いっ、痛くないっ…!ひっ、ひぅっ、ごっ、ごめんねっ…僕のせいだ…っ」
「違うよ…。青を助けようとして…俺が足を滑らせたんだ…。なんか…かっこ悪いな」
「ううんっ…!かっこよかった!昊は、かっこよくて綺麗でっ、僕の大好きな昊だよ…っ!」
「ありがとう、青…。俺も、青が大好き。青が怪我しなくて…本当に良かった…」

ぽろぽろと僕の頬を流れ落ちる涙を、昊が細い指で拭う。
その指がふいにポトリと地面に落ちて、昊がぐったりと動かなくなった。

「こっ、こう…?昊っ!やだっ!動いてよっ!死んじゃやだっ!こうーーっっ!」

僕は、怖くて怖くて仕方なくて、昊の身体にしがみついて、颯大が大人を連れて戻って来るまで、ずっと泣き叫んでいた。



「お母さん、買い物行ってくるから。昊、何か食べたい物ある?」

ドアから顔を(のぞ)かせて、お母さんが聞いてくる。

「んー、じゃあプリン買ってきて。青は?」
「…いらない」
「わかったわ。家族分買ってくるから。昊、大人しく寝てるのよ?青も静かにね」
「うん。行ってらっしゃい」

昊が、お母さんに向かって手を振る。部屋のドアが閉まって、すぐに玄関に鍵がかかる音が聞こえてくる。

「青の好きなアイスも頼めば良かったのに」
「いらない…」

昊が寝ているベッドの(はし)に頭を乗せて、小さな声で言う。
僕の頭上からクスリと笑う気配を感じて、そっと顔を上げた。

「青、来いよ」

昊がベッドの端に寄って、タオルケットを持ち上げる。
僕はのそのそと立ち上がると、昊の隣に寝転んだ。

「早くいつもの元気な青に戻って欲しいな」

昊が僕の背中に手を回して、抱きしめてくれる。
僕は昊の胸に顔を押し当てて、ここ数日でずいぶんと緩くなった涙腺を、また緩ませた。

「うっ、ずっ…、だっ…て、昊の怪我…(あと)が残るって…」
「ちょっとだけだよ?それに俺は男だし。これは勲章(くんしょう)だ」
「でも…昊…|綺麗(きれい》な肌なのに…、ぐす…っ」
「青…青が泣いてると俺も泣きたくなる。俺はさ、青が怪我しなくて良かったって嬉しいんだから。これが逆にさ、青に守られて俺は無傷で、青が怪我してたとしたら、俺は悲しくて死んじゃうかもしれないぜ?」
「えっ?やっ、やだ…っ!」

あの時の、昊が気を失ってぐったりとしてしまった時の恐怖を思い出して、僕は大声で泣き出した。

「昊が死んじゃうならっ、僕も死ぬ…っ!うわぁーんっ!」
「青…」

わあわあと泣く僕の背中を、昊が優しく叩く。

「大丈夫。俺は死なない。青を置いて死んだりしないよ…」

リズムよく背中を叩かれ、心地よい声で名前を呼ばれて、だんだんと気持ちが落ち着いてくる。
僕はやっと泣き止んで、時々しゃくり上げながら昊に強くしがみついた。

「ふふ…青は可愛いな」
「昊…僕、昊が一番好き。お父さんやお母さんよりも好き」
「俺もだよ、青。誰よりも好き」

昊の唇が、僕の耳に触れるからドキドキする。
兄弟なのに変かなぁと思うけど、昊はその辺の女の人よりも綺麗なんだから、しょうがないよなぁとも思う。
僕は、昊に誰よりも好きと言われたことが嬉しくて、昊の胸から顔を上げると、やっと笑顔を見せた。