「悪いな、恐田。服を乾かしてくれただけじゃなくて、シャワーまで借りちまって」
恐田宅の浴室から上がり、恐田から制服を受け取る。乾燥機から取り出したばかりの制服はほんのり温かい。
俺が着替えている間、恐田はじーっと俺を凝視していた。布の擦れる音だけが洗面所内に染み入ってゆく。
親切にしてもらった手前、あまり言いたくないが――
「……悪い。あまりジロジロ見ないでくれ」
「何で?」
「何でって……」
想定外の返事に俺は面食らう。だが、恐田の疑問はもっともだ。着替えなど体育の授業で何度も見られているし、気に留めたこともない。
しかし、洗面所という密室内で、しかも至近距離で恐田に着替えを見られてるというのは、なんとも気恥ずかしい。
(恥ずかしい? 恐田に見られるのが?)
鼓動が早まってゆくのを誤魔化すように、俺は「ともかく!」と話を切り上げる。
「あっち向いててくれ!」
恐田は納得いっていない様子だったが、素直に俺に背を向けた。何だか変な感じだ。身体の奥底がむず痒い。
変な気を起こす前に着替えてしまおう。俺はボトムスに右脚を突っ込んだ。
「おっ!?」
焦りは禁物だ。ズボンの裾が捻れており、俺は裾に足を通すことができなかった。
「わっわっわっ!!」
ぴょんぴょんぴょんと片足立ちで堪えていたものの、とうとうバランスを崩し、恐田の背中へと倒れてゆく。
俺の異変に気付き、恐田が振り返るものの時既に遅し。俺は恐田に折り重なる形で廊下に倒れ込んだ。
激しいデジャヴを覚える。ノートの一件の際にも、階段滑りの着地に失敗して恐田を下敷きにしていた。
「いてて……悪い、恐田。怪我はないか?」
恐田の顔を覗き込むと、顔がほんのり赤みがかっていた。口を真一文字に結び、何事か言いたそうにしている。やはりデジャヴ。あの時と同じシチュエーションだ。
ただ一つ違う点と言えば、身体に伝わる鼓動が俺のものか恐田のものか判然としない、ということくらいだろう。
やはり恐田は下敷きにされて怒っているのだろうか。それとも、どこか身体を打って痛みを堪えているのだろうか。
不安になる俺に対し、しかし恐田はゆっくりと身体を起こす。
「……平気。鬼越は?」
「あ、ああ……俺は大丈夫」
まさか恐田から心配されるとは思っておらず、俺は狼狽した。何より驚いたことは――
「てっきり逃げるかと思ったよ」
ノートの一件の時、俺の下敷きにされた恐田はすぐさま逃げ出した。それから恐田に避けられるようになったため、俺は恐田を怒らせたのだと思っていたのだが……。
恐田はおもむろに周囲を見回し、やがて苦笑する。
「どこに?」
「どこにって……」
(……そうか、逃げる場所がないのか)
自宅は安全な場所であると同時に、逃げ場のない行き止まりだ。ここでは逃げるという発想自体、恐田には無いのかもしれない。
「言われてみれば、自宅は檻の中みたいなもんだよな」
「檻……」
恐田がぼそりと呟く。何事か思案しているようだが、怒っているわけでなさそうで俺は安心した。
着替えを済ませ、靴を履く。玄関ドアを開くと、外は薄闇が迫ってきていた。
ひとまず恐田の追跡には成功した。恐田が俺を避けていた理由はまだわからないが、自宅でならまともに話すことができるとわかっただけでも収穫だろう。今度はもう少し日の高い時間帯にお邪魔するとしよう。
「じゃあな」
振り返ると、目の前に恐田が立っていた。靴も履かず、裸足のまま土間に降りている。
恐田は俺の手首を掴んでいた。掴まれた部位から恐田の熱が伝わってくる。
「どうした?」
「……おでん」
「おでん?」
恐田は意を決し、俺の目を見つめて言い放った。
「せっかく来たんだから、おでんでも食べていけよ」
俺は目を瞬かせた。
(お茶以外のパターンあるんだ)
笑えばいいのか、感心すればいいのか判断がつかなかった。確かに帰りの道中、恐田はコンビニでおでんを買っていたが。
恐田が窺うように俺を見つめる。その目を見れば、恐田の本気度がわかる。
俺はくしゃっと笑い、靴を脱いだ。
「おっ、気が利くなぁ。丁度こんにゃく食いてぇ気分だったんだ」
それなら良かった、と恐田が伏し目がちに呟く。いじらしいその態度に胸の奥がキュッとなる。何なんだ、その顔は。
気を引こうとしているのかと思えば、急に避けだしたり、避けているかと思えば、家に招き入れたり、掴みどころのない男だ。
だが、そんな男に振り回されているこの状況を、楽しいと感じている俺がいるのもまた事実だった。
***
恐田宅は、玄関を入って正面に廊下が伸びており、突き当たりを左に折れると階段が、右に折れるとリビングがある。
階段へと差し掛かりながら、リビングへ続く扉の隙間を覗き見る。テレビ、テーブル、ソファ、スタンド型の間接照明。アンティーク調の家具が並んだリビングは、ここが他人の家であることを実感させる。
掃き出し窓から夕日が差し込み、リビングを妖しく照らしている。洒落た造りでありながらガランとした空間に寂寥感を抱く。どこか違和感を覚える。
「誰もいないよ」
階上から恐田の声が降り注ぐ。俺を待っているようだ。
俺は早足で階段を上る。
「親は仕事?」
「そう」
「兄弟は?」
「いない。一人っ子。……っぽい?」
「正直、納得はした」
甘えることにも甘やかすことにも無縁そうな印象だ。
二階に上がると、左右に廊下が広がっていた。恐田は右手側の突き当たりにある部屋へと俺を通した。
ひと目で恐田の部屋だとわかった。勉強机に本棚、ベッド、クローゼット。恐田らしくシンプルなレイアウトだ。いずれも木目調であるのは親御さんの好みなのかもしれない。
座って、と恐田に促され、俺はローテーブルの前に胡座をかく。キョロキョロと室内を見渡してみるものの、目を引くものはない。至って普通の男子高校生の部屋だ。
「珍しいものはないと思うけど」
「そうなんだけど……いや、むしろそれが意外っつうか、もっとこう……何て言えばいいんだ」
謎な言動が多い恐田のことだから、自室もわけのわからないもので溢れていると思っていた。例えば、土産屋で売っているモチーフのわからない置物や、どこで買えるのかわからない小物類がそれに当たる。
何とか考えを言語化しようとしていると、恐田は何事か思い至った様子で手を打った。
「もしかして、こういうの探してた?」
恐田はベッドとマットレスの間に手を差し込んだ。ゴソゴソと手を動かし、やがて何かを引っ張り出す。
「そりゃ気になるよな。高校生だもんな」
思考をフル回転させる。ベッドの隙間。高校生。手で掴めるもの。導かれる結論は一つ。
(まさかエロ本……!?)
咄嗟に恐田から顔を逸らす。思春期の男子高校生なら持っていて当然の『ソレ』を、しかし恐田から差し出されることに俺は抵抗を覚えた。一言で言うなら『解釈違い』だ。
(嫌だ!! 見たくないッ!! 恐田が女子に鼻の下を伸ばすわけがないんだッ!!)
まるでアイドルに純潔を求める厄介オタクの如き心情になりつつ、俺は薄目で差し出されたものを見遣る。恐田の清廉を願う俺と、恐田の性的嗜好を知りたいと願う俺が同居していた。
恐田の差し出した雑誌には露出の多い女性が表紙を飾っていた。鼓動が高鳴ってゆく。タイトルは――
【動けるカラダのつくりかた】
「恐田ァッ!!」
拳を床に叩きつける。確かに恐田の引き締まった身体を羨ましいと思ったことはあるが、弄ばれたような気がして悔しかった。
俺が喜んでいると思ったのか、「あげるよ」と雑誌を手渡された。無下にするのも悪いのでバッグに仕舞っておく。これを読む度に先ほどの屈辱を思い出すのだろうか。
恐田が俺の隣に腰を下ろし、コンビニの袋をテーブルの上に置く。中から湯気が立ち上り、食欲をそそるおでんの匂いが溢れてきた。
「熱々だな! 美味そう!」
腰を浮かし、袋の中を覗き込む。丸い容器に熱々のおでんと出汁がひたひたに入っている。
「……フリ?」
恐田が容器を開き、割り箸で具材を掴み取る。こんにゃくだ。煌めく出汁を纏い、ぷるぷると存在感をアピールしている。見ているだけで涎が出てくる。
(……いや待て。今不穏なワードが聞こえたぞ?)
恐田がこんにゃくを俺の口元へと近付けてくる。湯気の白さで熱さがわかる。
「待て! 食べたいのは山々だけど、こんな熱々のこんにゃく食べたら火傷しちま――」
恐田が俺の頬に熱々のこんにゃくをくっつけた。
「フリじゃねぇからァ!!」
誰が往年のギャグを真似したいと思うか。
テーブルで頬を冷やす。こんにゃくは後で美味しく頂いた。
***
「好きなんだな、おでん」
俺が笑いかけると、恐田は歯型のついたはんぺんを見つめた。
「別に好きなわけじゃない」
「嘘つけ。弁当に入れるって相当だぞ?」
恐田が目を丸くする。何故知っているのかと言いたそうな顔だ。
「見てればわかるよ。週に何度か食べてるよな?」
「毎日食べてる」
「大好きじゃねぇか」
人はそれを大好物と呼ぶ。
「……昔は好きだった」
恐田ははんぺんを呑み込み、箸を置いた。交代とばかりに今度は俺が箸を取る。ちくわぶが美味そうだ。
「父親とコンビニに行くと、よく買ってくれたんだ。『何が食べたい?』って訊かれて、たまごと、こんにゃくと、はんぺんと……結局ほとんど頼んで、だけど父親は笑って買ってくれた。後で母親から怒られるんだけど、車の中で父親と二人でおでんを食べるのが好きだった」
(好きだった、か……)
「まるで今は好きじゃないみたいな言い方だな。毎日食べてるくせに」
「最初は好きでも、毎日食べれば飽きてくる。……だけど、今も懲りずに食べてる。おかしいよな。でも俺は……あの時の味が忘れられないんだ」
父親と二人で食べたおでんの味。技術の進歩に伴い、当時よりも今のほうが美味しいかもしれないが、『思い出の味』には遠く及ばない。
「今はもう父親と一緒に食べないのか? 何なら母親と三人でよ」
「二人とも忙しいから。八時にならないと誰も帰って来ない。帰って来たところで誰も喋らないけど」
「八時か……」
俺は時刻を確認しようと部屋を見渡す。しかし、目当てのものが見つからない。そこでようやく、俺は違和感の正体に気付いた。
「時計、無いんだな」
恐田宅に入ってからというもの、俺は一度も時計に遭遇していない。洗面所にも、リビングにも、廊下にも、この部屋の中にも時間を知らせるものは一つとして存在しない。
「全部捨てた。針の音を聞いてると、不安になるから」
小学生の頃、誰もいない自宅に帰って来ると、どうしようもない不安に襲われた。普段は何とも思わない時計の針も恐ろしく感じられるほどに。だから、恐田の気持ちはわかる。恐田はきっと――
「ずっと一人でいると、寂しいよな」
恐田と目が合う。まるで生まれて初めて孤独に気付いた顔をしている。
いや、逆か。恐田の表情が徐々に綻んでゆく。
「鬼越と話していると寂しくない。……胸の辺りが、ぽかぽかする」
「そうか」
面と向かってそう言われると、下手な相槌しか打てない。照れ臭くなりテレビを眺める。夕方のニュースで『質屋密着二十四時』を特集しているが、内容が全く入ってこない。
「鬼越、そろそろ帰るか?」
「うーん、そうだなぁ」
バッグからスマホを取り出す。時刻は午後七時過ぎ。母親から【遅くなるの?】とメッセージが届いている。
当初の目的は達成した。恐田宅に長居する理由はないが、俺の足は一向に動こうとしない。代わりに右手が母親への返事を打ってゆく。
【遅くなる。夕飯いらない。事後報告ごめん】
ポケットにスマホを仕舞い、俺はテレビへと近付いた。テレビ台の中にはゲーム機が仕舞われている。
「親が帰ってくるまでまだ時間あるだろ? だったら、ゲームでもやろうぜ?」
「え……?」
恐田がきょとんとする。躊躇しているのだろうか。
俺は構わずゲーム機を取り出す。コントローラを一つ見つけた。もう一つは――
「コントローラ、一つしかないけど?」
「一人っ子め!!」
渾身の誘い文句を打ち砕かれ、俺は両拳を床へと叩きつけた。
「いや、まだだ!」
俺はコントローラを恐田へと差し出した。
「一つのコントローラで二人プレイする方法……一つだけあるだろ?」