「え? 今更ぁ?」
クラスメートの目黒が目を丸くした。恐田がノートを隠していた件について伝えた時のことだ。
「いやどう見ても、鬼越の気を引こうとしてただろ。なに、気付いてなかったの?」
恐田を一瞥する。手足が長く、ジャージ姿も様になっている。グラウンドの隅で準備運動をしていても存在感がある男だ。
「……見当もつかなかった」
「マジか。え、じゃあ逆に今まで何で恐田の悪戯に付き合ってたんだ?」
「悪戯……だったのか」
恐田の所業を思い返してみる。授業をサボったり、探しに来た俺から逃げ出したり、隣のクラスのノートを持ち去ったり……。
確かに悪戯だ。俺の気を引こうとしているように思えなくもない。
目黒が俺の肩に腕を回し、恐田を横目に耳打ちする。
「でも、恐田も大人しくなったよなぁ。最近、真面目に授業出てるし。何だ、鬼ごっこには飽きたか?
「飽きるも何も、好きでやってるわけじゃねぇから。恐田が勝手に授業をサボって、勝手に俺から逃げてるだけ」
「ほう? それじゃあ、恐田が飽きたのか」
目黒の言うとおり、ここ最近恐田は授業をサボらない。おかげで俺も恐田を追いかける必要が無くなり、時間的余裕も生まれた。
きっかけはノートの一件だろう。俺に怒られたと思い、反省したのかもしれない。良い傾向だ。
だが、俺には一つ気がかりなことがあった。
「飽きたっつうか、アイツ――」
ピーッ、と笛の音が鳴り響く。体育の袋沢先生がサッカーボールを片手に笛を咥えている。
「よーし、今から二人組を作れー。パス練するぞー」
体育は二クラス合同で男女別に行われる。一組の男子は26人。二組の男子は25人。合わせて51人。つまり二人組だと一人余る計算だ。余った人物には先生とペアを組むという地獄が待っているせいか、誰もが早々にペアを組み始めている。
目黒が俺の肩に腕をのせる。
「鬼越、一緒にやろうぜ」
ああ、と目黒に返事をしつつ、俺は恐田の姿を探した。やはりまだペアが出来ていない。
(恐田なら先生とペアでも平気そうだけど……)
俺が大きく手を振ると、恐田はこちらを向いた。
「恐田ー! 三人でやろうぜー?」
恐田は俺の誘いに乗って、こちらにやって来る――と思いきや、踵を返してグラウンドから逃げ出した。
恐田の逃走に気付いた袋沢先生が思い切り笛を吹く。
「おい恐田! どこに行く! トイレか!? トイレなら先生に一声かけてから行け! 恐田! 恐田ァァァ!!」
先生がチラリと俺を見る。『お前のせいで恐田が逃げたんだから責任を取れ』と顔に書いてある。
「目黒、一緒にやろうぜ!」
他のクラスメートが目黒をペアに加えようと提案している。
「オーケー」
目黒が快諾した。
俺は居場所を失い、孤立した。悔しさをバネに変え、恐田の後を猛追する。
「恐田ァ!! 俺のこと避けてんじゃねェェェ!!」
***
「避けられてる? 何で?」
スポーツドリンクを飲みながら目黒が目を丸くする。俺はジャージを脱ぎつつ、玉のように噴き出した汗をタオルで拭ってゆく。
「知るか。ノートの件で俺に怒られたのを根に持っているのかもしれねぇけど」
だとしても、あの避け具合は尋常ではない。体育の授業に逃げ出した恐田は野を越え、山を越え、フェンスを越え、最終的にプールサイドまで逃げおおせていた。これまでの経験則で言えば、恐田は自分の中でゴールを設定しており、俺がその場所に辿り着くと大人しく掴まる。
だが、今回は違った。袋沢先生へと事情を説明し、わざわざプールの鍵を借りてきたというのに、プールサイドへ入った途端、恐田は軽々と鉄条網を飛び越え、俺の前から立ち去ったのだ。怒りのあまりプールに鍵を叩きつけ、探す羽目になった。
ワイシャツに袖を通し、横目に恐田を見る。鍵を返却し、俺が教室に戻ってくる頃には、既に恐田は制服姿で着席していた。こちらを一瞥してきたが、それ以上は何のリアクションもない。
「恐田って怒ることがあるんだな」
目黒が心底意外そうに言う。
「そう言えば目黒は去年、恐田と同じ七組だったな。恐田と喋ったことあるのか?」
「何度かね。話しかければ応じるけど、自分から話しかけてくることはなかったな。良くも悪くも空気を読めないところがあるんだよな、アイツ」
「悪口だろ、それ」
違う違う、と目黒は声を潜める。
「アイツ、見た目が厳ついだろ? おまけに表情がねぇから怖がられることが多くてさ」
それはわかる。俺はクラス委員だから率先して話しかけているが、中学時代であれば決して関わろうとしなかっただろう。
「だけど実際は真面目で優しくて、女子が荷物を運んでたりすると何も言わず手伝ったりするんだよ」
それもわかる。俺もノートを運んでいたら、頼まずとも手伝ってくれた。
「そういうのって、女子好きだろ? ヤンキーが捨て猫拾うムーブを見て『素敵……!』ってなる感じの。ギャップてヤツ?」
その例えはよくわからない。何故捨て猫を拾う=優しいになるのか。
「今年のバレンタインも女子からチョコ貰っててさ。まあ、顔も悪いわけじゃねぇし、モテてたわけよ。鬼越にとっては残念かもしれないけど」
どういう意味だ。俺は恐田が女子にモテようと妬んだりしない。他人の色恋沙汰に首を突っ込んでも藪蛇になるだけだ。
「でも、それが気に食わないヤツがいるわけで……。内容は伏せるけど、まあ子供じみた嫌がらせをするわけよ」
「……イジメか?」
目黒が曖昧に頷く。一年経って、恐田の優しい人となりがわかったところで陰湿な嫌がらせをするというのは、根性が腐っているとしか言いようがない。自然と拳に力が入る。
「傍から見てもやり過ぎだって思うこともしてたんだけど、言うに言えなくてさ。もうすぐクラス替えもあるし、クラスが変われば収まるだろうって。だけど、恐田は怖いもの知らずっつうか……嫌がらせしてきたヤツに話しかけるようになったんだよ。『美術室行こう』とか『昼飯食べよう』とか」
「はあッ!? 何だそれッ!?」
思わず大きな声が出てしまい、周囲の視線が俺に集まる。俺は口元を押さえ、目黒に顔を近付ける。
「……特殊な仕返し、ってワケじゃないんだよな?」
「恐田に悪意なんてなかった。見てればわかる。あれは純粋に相手と仲良くなろうとしていた。恐田には……嫌われてる自覚がなかった。むしろ、好かれてると思ったんだろうよ」
「好かれてる……!? 嫌がらせ受けてるのにか……!?」
「そこが恐田の空気を読めないところだ。ちょっかい出されてるのを『好かれてる』って勘違いしてたんだよ。……それ以来、嫌がらせはピタリと止んだ。だけど、他のクラスメートも恐田から距離を取るようになった。わかるだろy? みんな恐田のことを不気味がったんだ」
悪意を好意と勘違いするということは、その逆も考えられる。つまり、好意を悪意と捉えられる可能性もあるということだ。
良い関係性を築けていたと思っていたのに、実は嫌われていた。そんなことがあれば、きっと俺は立ち直れないだろう。
恐ろしいことに、今の俺と恐田の関係はそれに近しい。
(恐田は俺の気を引こうとしているのかと思っていたけど、違うのか? 実は俺のことを煙たがって……?)
思案顔になる俺を見て、目黒が「まあ」と続ける。
「鬼越が恐田に嫌われてるとは思わないけどな。むしろ……」
そこまで口にして目黒は口を閉ざした。口元に悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「むしろ、何だよ?」
「いや、何でもない。気になるなら本人に直接訊いてみろ」
「訊けたら苦労しない。近付くだけで逃げるんだぞ?」
有言実行。恐田の席へと近付いてみる。恐田は俺の姿を認めるなり窓を越え、ベランダ経由で隣の教室へと逃亡した。
ほらな、と目黒を振り返る。目黒は肩を竦めていた。
「コミュニケーションの鍵は相手をよく知ることから。会話できないなら観察してみたらどうだ?」
「観察、か」
恐田が大人しく観察されてくれるとは思えないが、クラス委員としてもクラスメートの動向を把握しておく責務がある。
俺は「よし」と思い立ち、行動に移すことにした。
■プランA~昼飯一緒に食おうぜ作戦~
「恐田、一緒に弁当食べようぜ?」
昼休み、屋上前の階段で弁当を食べている恐田を直撃する。
今日のおかずはおでん、から揚げ、ふりかけごはん……ザ・男子高校生の弁当だ。
「……ごめん。俺、ダイエット中だから」
「どの口が言ってんだよ」
茶色弁当じゃねぇか。
次の瞬間、恐田は箸と弁当を手にしながら階段を飛び降りた。想定済みとばかりに俺も踵を返し、手すりの上を滑り降りてゆく。着地は既にマスターした。廊下に降り立ち、弁当箱片手に恐田を追跡する。
両手が塞がって本気で走れないのだろう。俺は早々に恐田を行き止まりに追い詰めた。
「さあ、一緒に、食べるんだッ!!」
前回のような失敗は繰り返さない。脚を広げ過ぎないように、歩幅を狭めて恐田との距離を詰めてゆく。
恐田は、しかし躊躇なく俺の方へと向かってきた。強行突破か。面白い。俺は両腕を広げた。
すると、恐田は大きく跳躍し壁を蹴ると、俺の手が届かない中空を舞い、背後へと回った。
「何ィッ!?」
振り返る頃には、既に階段へと姿を消していた。こうなってはもう追いつくまい。
(畜生! 次の作戦だ!)
■プランB~俺の似顔絵描いてもらうぜ作戦~
「それでは二人組を作って、相手の似顔絵を描いてください」
美術の樋口先生の指示に従い、クラスメートがペアを作ってゆく。選択科目である美術の受講生は24名。余りが出ないなら、ペアを作らずにいれば――
「まだペアができていない人は……鬼越君と恐田君ね。それでは二人でペアを組んでください」
予想的中。恐田とペアを組むには、ペアを作らずにいればいいのだ。
俺がキャンバスを持ってゆくと、恐田は俺に背を向けた。
「お互いに正面から向き合い、よく観察して描きましょう」
樋口先生に両肩を掴まれ、恐田がギギギギと俺に向き合わされる。剛健な樋口先生の前では恐田も逃げられない。
キャンバス越しに恐田と向き合う。上目遣いでチラチラとこちらを窺うばかりで、一向に顔を見せようとしない。
「恥ずかしがらずに相手の顔をよく見て、特徴を捉えましょう」
樋口先生が恐田の顔を持ち上げる。強い。
改めて恐田の顔を観察してみると、バランスの取れた顔つきをしていることがわかる。面長の顔。細長い目。すっとした鼻筋。薄い唇。全体的にすっきりとした顔立ちをしているが、一つ一つのパーツがくっきりとしており、力強い印象を持たせている。『イケメン』というよりも『男前』という印象だ。
(なるほど、確かにこれなら女子にモテる。男から見てもカッコいい)
意識すると、途端に恥ずかしくなってきた。男同士で見つめ合っていると、どうしても顔がニヤけてしまう。
照れ隠しに笑ってみせる。すると、恐田の顔がみるみるうちに赤くなっていった。怒らせてしまったのだろうか。樋口先生、どうか俺の羞恥心が収まるまで、恐田の顔を掴むその手を放さないでください。
「それでは順番に描いた絵を見せてください」
ペアごとに樋口先生へと似顔絵を見せてゆく。『目元がよく描けています』とか『しゅっとした鼻筋がグッドです』とか、樋口先生の指導方針は基本的に褒めるスタンスだ。聞いているだけで心地好い。
「次は鬼越君と恐田君のペア、見せてください」
俺と恐田がキャンバスを向けると、樋口先生は表情を強張らせた。
「恐田君は……よく模写できていますね。今度は鬼越君の顔を描いてみましょう」
恐田のキャンバスに俺の顔は描かれていなかった。キャンバスの背面がでかでかと描かれており、俺の頭頂部がちょこっとだけはみ出している。恐田の座高があれば、キャンバス越しにも俺の顔を見られたはずなのに、わざわざ俺の姿を隠すとは。先生の言うとおり、絵自体はとても上手いが釈然としない。
「鬼越君は……はい、そうですね。はいはい、よく観察できていると思います。それでは次」
(腫れ物ですか、俺の絵はッ……!?)
恐田を見ると、一瞬だけ目が合った。今までに見たことがない冷ややかな視線を向けられている。恐田との距離が開いたような気がした。
(畜生! 次の作戦だ!)
■プランC~自宅特定するぜ作戦~
今日一日恐田を観察してみて気付いたことが二つある。一つ目、物理的に距離を縮めると逃げ出すということ。二つ目、声をかければちゃんと返事するということ。
(わかったぜ。恐田の攻略法が!)
放課後、七時間目が終わるなり、俺は勢いよく席を立った。
「恐田ァ!! 一緒に帰ろうぜェ!!」
誰もが俺に注目する中、恐田は俯き加減に呟く。
「……ごめん、逆方向だから」
「マジレス!!」
恐田が当然のように窓ガラスから飛び降りる。ベランダ伝いに中庭へと降りているが、最早見慣れた光景なのか、誰も意にも留めない。俺が大声を発したことにもノータッチだ。階下では不慣れな一年生がキャーキャー悲鳴とも歓声ともつかない声を上げている。
俺の住んでいる場所が把握されているとは思わなかった。いや、出身中学がわかれば大体推測できるか。
ともあれ、プランCは失敗――なわけがあるか!
「こうなったら、とことん追いかけてやる!」
目的変わってないか、と呆れる目黒を黙殺する。
観察するだけでは限度がある。他人をより深く理解するには、同じ行動を取ることがベストだろう。
***
恐田が靴を脱げば、遅れて俺も靴を脱ぐ。昇降口を抜ければ、遅れて俺も昇降口を抜ける。今のところ気付かれている気配はない。
一年生の二人組がこちらを見て、ひそひそと何事か話している。クラス委員らしからぬ行動だろうか。いや、クラスメートと円滑なコミュニケーションを取るために必要不可欠なことなのだ、と自身に言い聞かせ、二人組にニコリと微笑みかける。俺は怪しい人間じゃありませんよ。
最寄り駅で恐田が改札口を抜ける。遅れて俺も改札口を抜け、同じ電車へと乗り込んだ。別車両ということもあり、バレていない様子だ。仮にバレたとしても、電車という閉鎖空間で逃げ切ることは不可能だろう。
(今なら恐田を捕まえられるんじゃないか?)
俺は浮かしかけた腰を、しかしすぐに落ち着けた。定時前の電車は学生の姿が多いものの、比較的空いている。今追いかければ、目的地に到着するまで恐田は電車内を駆け回るだろう。さすがにそれは制服に袖を通している一学生として、許容できない行為だ。
二駅目で恐田が電車を降りた。俺も追いかけ、外に出る。初めて降りる駅だ。土地勘がないため、恐田を見失わないようにしよう。
恐田から一定距離を保ちつつ、姿を見失わないように尾行する。幸い、仕事終わりのサラリーマンや他の学生の姿が散見され、尾行自体は目立っていない。子供から指を差されているが、ニコリと微笑みかければ問題ないだろう。
(よしよし、順調順調――)
と思ったのも束の間、恐田は近くの公園を通りかかると、肩に掛けたバッグをリュックのように背負い直し、唐突に走り出した。俺も慌てて公園の階段を駆け上がる。
公園に踏み込むと、恐田は等間隔に並んだ棒状の柵の上をぴょんぴょんぴょんと軽やかに跳ねてゆき、近くの木へと飛び移った。そして、木の幹を蹴り、捻りを加えた前方宙返りを繰り出すと、木製ベンチの上へと着地した。あっという間に恐田の姿が米粒サイズになる。
しばらく俺は恐田に見惚れていた。園内を飛び回る恐田はさながら鳥のようで、自由そのものだ。その姿に俺は羨望によく似た憧れを抱き、自身の不自由さに辟易した。
(――っと、マズい! 置いてかれちまうッ!)
他人を深く知るには同じ行動を取るべし。俺は恐田と同じようにバッグを背負い直し、柵の上に飛び乗った。
乗ってみてわかるが、柵の上面は足の半分もなく不安定だ。着地と同時にバランスを崩してしまうため、地面に落下しないように次の柵へと飛び乗るしかない。
「おわっ!! よっ! ほっ! はっ!」
柵は越えられたが、問題は次のステップだ。
俺は木の幹へと勢いよくジャンプした。
「うぐっ!!」
恐田が木の幹へ飛び移った際、まるで足の裏に吸盤があるように思えたのに、実際に自分がやってみると、コンマ一秒も留まれなかった。傍から見れば、俺は木に飛び蹴りしている怪しい少年だろう。怪しいついでに前転をやろう。捻り込みの前方宙返りなど俺にはできない。
「ママー! あの人何やってるのー?」
「こら、人に指を差しちゃいけません! 危ないでしょ!」
危険人物扱いされてもやむなし。だが、俺はクラス委員だ。親子連れにニコリと微笑みかけておこう。親子連れは足早に立ち去って行った。
(恐田は……あそこか!)
公園の中央には輪っかを模したモニュメントが鎮座していた。その周りには足場があり、それを取り囲む形で水面が広がっている。モニュメントまでの距離は5m以上あるだろう。
(まさか……!)
恐田は水場の縁に足を掛けると、勢いそのままにモニュメントまで跳躍した。
(マジかよッ!)
恐田はモニュメントの縁に足を掛けると、今度は捻りを加えた前方宙返りで対岸へと渡った。
他人を深く知るには――以下省略。
(やってやるよ!!)
俺は助走をつけ水場の縁に足を掛けると、走り幅跳びの要領で大きくジャンプした。
(届くッ!!)
足がモニュメントの縁に掛かった。行ける、と思ったのも束の間、俺の世界は反転した。
バシャン、と盛大に水飛沫が上がる。水場に尻もちを着いてしまった。
(やっちまった……)
白いカーペットにコーヒーをぶちまけたような気分だ。水深がくるぶしほどだったので被害はボトムスだけで済んだ。しかし、ボトムスが肌に貼りついて気持ち悪い。パンツの中までぐっしょりだ。
「ママー! あの人――」
「きっと暑かったのね。さあ、帰りましょう」
二人分の足音が遠ざかってゆく。さすがの俺もニコリとできず、恥ずかしさのあまり顔を俯かせた。顔から火が出る思いとはこのことだ。
水面に夕日が反射する。俺は今どんな顔をしているのだろうか。水面をどれだけ覗こうが、逆光のせいで自分の顔すらも判別できない。
すると不意に水面が陰り、俺の顔が映り込んだ。ひどく情けない表情をしている。今にも泣き出しそうだ。
面を上げる。眼前には夕日を背にした黒い影が佇んでいる。それは今日、一時間近く観察した人物に他ならない。
「恐田……」
恐田がじっと俺を見下ろしている。何も言わず、表情一つ変えず、じっと観察するように、ずっと――
「せめて何か言ってくれ……」
「……ごめん」
憐れむくらいならタオルの一枚でも貸してくれ。
俺の気持ちを汲み取ったのか、恐田は躊躇いがちに人差し指をくいくいっと折り曲げた。
「うちに来る?」