屋上に繋がる扉の前で、恐田は退屈そうにスマホを眺めていた。耳にワイヤレスイヤホンをつけているせいか、俺が来たことに気付いていない様子だ。
無防備な恐田にブレザーを放り投げる。頭からブレザーを被せられた恐田は、まるで猫のように手足をばたつかせた。やっとのことでブレザーから顔を覗かせ、目を白黒させる。
「忘れ物、だろ?」
俺を見るなり、恐田は腰を浮かした。逃げるつもりなのだろう。
立ち上がらせまいと、俺は恐田の胡坐の上に座り込んだ。読んで文字のとおり、懐に潜り込んだというわけだ。
「逃がすかって。朝の授業全部サボりやがって。早弁してきたんだから、少しくらい話に付き合え」
観念したのだろう、恐田は大人しくなった。跳躍力は人並み外れているが、腕力に関しては人並みのようだ。
「まず謝っとく。悪かったな、ノートを乱暴に扱ったなんて決めつけちまって」
肩越しに見上げると、恐田は唇を真一文字に引き結んだ。
「俺は最初、恐田がノートを隠したんだと思っていた。教室まで追い詰めた時、あんたはノートを持っていなかったからな。だけど、もう一つ、あんたから無くなったものがあった」
恐田が握り締めたものを指差す。
「そのブレザーだ。あんたは階段を降りる時、確かにブレザーを着てノートを抱えていた。だけど、教室に追い詰めた時には手ぶらで、しかもワイシャツ姿だった。つまり、どこかにブレザーとノートをどこかに置いてきたってことだ」
三階の階段を降りる際、俺は恐田と思しき黒い人影を見かけた。そして、空き教室のベランダでは白い人影を見かけた。そう、恐田はノートだけでなくブレザーも手放していたのだ。
「ノートだけなら隠したと考えるのが妥当。だけど、ブレザーもとなると話は変わる。自分のブレザーを隠す理由なんてない。追いかけられている最中なら、もっとない。なら、何故隠したのか? ……そう、隠したわけじゃない。あんたは答えを教えてくれていたんだ」
『……ごめん。丁重に扱ったつもり……だった』
「丁重に扱ったつもりだとあんたは言った。そうだ、あんたはノートを汚さないようにブレザーに包んで保管していたんだ。逃げている途中で落としたりするとマズいから」
背後から息を呑む気配が伝わってくる。背中からじかに伝わる鼓動が徐々に加速してゆく。やはり素直な男だ。これでは認めたも同然ではないか。
俺は自分が笑っていることに気付いた。人を追い詰める感覚に酔いしれているのかもしれない。さながら意趣返しのようだ。
「保管場所を見つけるのには苦労したぜ。階段から教室まで隈なく探したのに見つからなかったからな。一年の教室にまで探しに行っちまったよ。だけど、一か所だけ見落としていた。いや、見えていたんだけど探すに探せなかったんだ」
俺はニヤリとほくそ笑み、恐田に寄りかかる。
「女子トイレだ。あんたは俺が入れないとわかっていて、女子トイレにノートを保管したんだ」
「……え?」
恐田が動揺している。隙を逃すまいと俺は畳みかける。
「あんたも大胆なことするなぁ。さすがに俺も女子トイレまで探せなかったから、一年の女子に探してきてもらったよ。そうしたら、用具入れの中でこれを見つけた」
恐田のブレザーを掴む。ほんのりと石鹸の香りが漂ってくる。
「はじめからあんたはノートを返すつもりだった。だから、俺と別れた後、ノートの回収に向かったんだ」
二組の友人から聞いた話を思い返す。
『数学のノートならさっき返されたよ』
その証言が示す事実は一つ。恐田は俺と別れた後、ノートを回収し、二組へと返却したのだ。もしかすると、俺に叱られたため、すぐに返しに行ったのかもしれない。
「余程焦っていたんだろうな。ブレザーに包んだまま回収すれば良かったのに、わざわざノートだけ回収してブレザーを忘れるなんて。まあ、焦る気持ちもわからないではないけど。女子トイレなんて長時間居たくないしな」
どうだ、と恐田を振り返る。
恐田は――顔を真っ青にしていた。
「ちちち……違う! お、俺は……女子トイレになんて、入ってない……!」
「へえ?」
俺は意地悪く目を細める。
「じゃあ何で女子トイレにこれがあったんだ? 恐田のブレザーなんだろ? 生徒手帳、入ってるぜ?」
俺はブレザーの内ポケットから生徒手帳を取り出す。裏表紙に恐田の顔写真が載せられ、『二年一組 恐田陸』と印字されている。
「そ、そんなはずない……! これは……罠だ!」
「罠って」
忍者じゃあるまいし。
「だって、俺が仕舞ったのは、女子トイレじゃなくて……」
「消火栓の中?」
恐田がきょとんとする。
してやったり。俺は腹を抱えて大笑いした。
「ははっ! あんたもそんな顔するんだな! 一芝居打った甲斐があったぜ!」
事情を呑み込めず、恐田が目を白黒させている。
俺は膝の上から立ち上がった。階段の手すりに腕をのせ、階段と階段の隙間を覗き込む。
恐田が逃げる心配はないだろう。むしろ、事情を聞くまで恐田が俺を逃がさないはずだ。
「消火栓の中ってホースが入っているんだな。初めて見たけど結構面白かったよ」
校内の消火栓は箱型となっており、内部にホースやノズル、開閉弁といった消火設備が格納されている。非常ベルの下の扉を開けば、誰でも消火設備を利用できるというわけだ。
「二階の階段を降りたところある消火栓。その中にあんたはノートを入れたんだ。……ブレザーに包んで、な」
当初、階段から空き教室までの動線上に物を保管できる空間はないと考えていた。だが、一か所だけ見逃していた。
階段を降りた際に俺が激突した消火栓。あの中にノートは保管されていたのだ。実際、消火栓の中には折りたたまれたホースの他に恐田のブレザーが入っていた。
恐田が口をパクパクさせ、「な……で……」とうわごとのように繰り返している。
「何でって?」
恐田の額を人差し指でつつく。
「仕返し。やられてばっかじゃ癪だからな」
「じゃ、じゃあ、女子トイレで見つけたっていうのは……?」
「嘘。引っかかるなんて、あんた馬鹿だな」
俺がニヤリと笑うと、恐田は勢いよく立ち上がった。身を翻し、階段を駆け下りてゆく。
(さすがに怒ったか?)
元凶は恐田だが、このままで関係性を悪化させるのも忍びない。俺はクラス委員だ。クラスメートとは常に良好な関係を築きたい。
手すりに飛び乗り、急加速で滑り降りる。ブレザーを抱えているせいか、一段飛ばしで降りている恐田に追いついた。あとは着地するだけ――
「うおおぁあああアアアアあぁあああッ!!」
同じ過ちを繰り返すなんて、俺はなんて愚かなのだろう。先ほど着地に失敗して、消火栓に激突したばかりではないか。
俺の悲鳴に反応し、恐田が振り返る。手すりから墜落した俺は、そのまま恐田に覆いかぶさる形で不時着した。
恐田がクッション代わりになってくれたおかげか、俺は無傷で済んだ。身体を起こし、恐田の顔を覗き込む。
「悪い……頭、打ってないか?」
呻き声を上げているものの、恐田の意識はハッキリしている。どうやら大事ないようだ。
安心しつつも、俺は頭を下げた。
「恐田、さっきは悪い。さすがに冗談が過ぎた。ごめん」
恐田からの返事はない。逆鱗に触れてしまったのだろうか。
恐る恐る面を上げると、恐田は名状しがたい表情で俺を凝視していた。
(怒ってる……わけじゃない、のか?)
顔が赤く、目元が熱っぽい。身体越しにドッドッドッと恐田の鼓動が伝わってくる。もしかすると、平気そうにしているだけでどこか身体を打ったのかもしれない。
とすれば、やはり頭部が心配だ。恐田の頭へと手を伸ばす。
「恐田、大丈夫か――」
恐田は俺の身体ごと手をはねのけた。尻もちを着いたまま徐々に俺から距離を取ってゆく。まるで宇宙人と相対したかのような反応だ。
どうした、と俺が尋ねる間もなく、恐田は脱兎の如く逃げ去った。おい、と声をかけることもできなかった。
「やっぱり、怒ってるのか……?」
一人その場に取り残された俺は、恐田のブレザーが落ちていることに気がついた。
(また忘れたのか……)
ブレザーを拾い上げ、目の前の消火栓を見つめる。うちの学校には各階の階段前に消火栓が設置されている。この消火栓も俺が開けたものと同じ造りだろう。
(仕方ない、渡しに行くか。怪我とか無いか気になるし)
ふと俺は気になって非常栓の扉を開いた。非常栓の内側にはホースが折り畳まれており、ノート四十冊程度なら入れられそうな空間がある。
(……やっぱり、おかしいよな)
はじめの嘘推理では、女子トイレにノートが保管されているとしていたが、実際には消火栓の中にノートが保管されていた。そうなると話は変わってくる。
俺は自分のブレザーで恐田のブレザーを包み、消火栓の内部に入れた。
(わざわざブレザーを解いて、中身だけ取り出すのはかえって面倒だ)
女子トイレ内のノートを回収するのなら、焦りのあまりブレザーを置き忘れることもあるだろう。だが、消火栓内のノートを回収するのなら焦る必要などない。ブレザーごと一旦消火栓の外に出せばいいのだ。廊下に置き忘れることはあったとしても、消火栓内に置き忘れることはあり得ない。
つまり、恐田は――
「わざとブレザーを置き忘れた……?」
きっと恐田はブレザーが発見されることを予期していたのだ。そして、発見者が自分のもとまでブレザーを届けてくれることを確信していた。そう、ブレザーは鬼を釣るためのエサだったのだ。
エサに釣られた愚かな鬼は、再びエサを前にして独りごちる。
「恐田は、俺の気を引こうとしているのか……?」