鬼越(おにごえ)恐田(おそれだ)は荷が重かったか」

 職員室で担任の村岡先生からそんなことを言われ、俺は屈辱に拳を震わせた。

「……いえ、次こそは首根っこをひっ捕らえてみせます」
「そこまで深刻にならなくてもいいんだが」

 村岡先生がマグカップに口をつける。職員室内に入ると身が引き締まるような気がするのは、充満したコーヒーの香りも影響しているのだろう。村岡先生から漂うタバコの匂いがそれを助長する。

「しかし、わからんな。嫌いな科目ならともかく、自習の時間に限ってサボるというのは。しかも、最近は自習以外でもサボるようになったらしいじゃないか」
「あの、いえ……それは、きっと僕が悪いので」

 村岡先生が眉根を寄せる。
 初めてカーチェイスならぬ恐田チェイスをしてからというもの、恐田は頻繁に授業をサボるようになった。体育も数学も見境ない。教師から「恐田君は?」と聞かれて初めて気がつくのだ。
 恐田は屋上への階段や空き教室など、自教室にほど近い場所でスマホをいじっていたり、漫画を読んだりしている。移動教室なら教室までの動線に潜んでいるのだ。
 また、マイルールなのか、授業中の教室とトイレには決して隠れない。そんなところに潜んでいては決して見つけられないと考えているのかもしれない。
 そう、恐田は俺が見つけられる範疇(はんちゅう)に身を潜めている。そして、俺に見つかるなり、得意のパルクールを駆使して逃げ出すのだ。一階も二階も恐田の前では平地も同然。階段を飛び越え、窓を飛び越え、ショートカットを多用する。探しに来るのがクラス委員の俺だとわかっているのだろう。誘導されているように感じられて忌々しい。
 原因はわかっている。俺が恐田にもっと凄いパルクールを見せてほしいと懇願したからだろう。社交辞令を本気にされ、困惑するばかりだ。

「立ち入っては()かんが、程々にな。毎度毎度呼び戻しに行ったんじゃあ、鬼越の勉強にも支障が出るだろう」
「いえ、僕は予習しているので大丈夫です」

 タチが悪いのはそこだ。俺が授業に参加できず予習復習を余儀なくされているのに対し、恐田は途中からでも授業に追いついているのだ。自宅で予習しているかもしれないが、先生から名指しされても淡々と答えられると(しゃく)に障る。

「そうか。なら、無理に引き留めんが……。ああこれ、運んでおいてくれるか?」

 村岡先生は俺に返却用のノートの束を手渡した。うずたかく積み上げられたノートはざっと八十冊はある。1冊5mm×80冊=40cm……腕にドシンと来る。

「はい、わかりました。……一組の分ですか?」
「プラス二組の分。ついでにお願いな」

 わかりました、と俺は笑みを浮かべる。優秀なクラス委員なら悪態を()かない。
 先生はマグカップに口をつけ、一言。

「追いかける側は大変だな」


 ***


(俺はそう思わないけど)

 ノートを運ぶ道すがら、俺は村岡先生の台詞を反芻(はんすう)していた。追いかけるよりも、追いかけられるほうが精神的にキツい。いつ鬼が来るかわからないのだ。気が気ではない。
 だが、恐田は自ら逃げ惑うネズミ役を買って出ている。鬼役たる俺が舐められているのか。それとも恐田が生来より逃げることに喜びを見出しているのか。いずれにしろ――

「自分からネズミになるなんて、正気じゃない」

 不意に隣から腕が伸びる。視線を向けると、万年仏頂面の強面男が肩を並べていた。

「恐田?」

 恐田は俺が運んでいたノートを半分ほど肩代わりした。腕への負荷が減り、肩が軽くなる。

「手伝ってくれるのか?」

 恐田はこくんと(うなず)いた。
 タチが悪いところその二。普段の恐田は非常に素直なのだ。人を外見で判断してはならないというのはそのとおりで、こと恐田に関しては外見の情報と中身の情報がマッチしていない。硬派な人間と思いきや、素直で悪戯心(いたずらごころ)をもった少年のような男なのだ。
 鬼ごっこなんて小学校以来やっていない。楽しみ方を忘れてしまったからだろう。だが、恐田は自ら進んで鬼ごっこなんて子供の遊びに興じている。そして、俺も渋々ながらもそれに乗っている。

(子供っぽい……とも、ちょっと違うよな)

 恐田を横目に見る。退屈そうな顔だ。だが、俺から逃げている時には、この顔が熱を帯びる。心底鬼ごっこを楽しんで証拠だ。

「サンキュー」

 教卓にノートの束を置き、俺は恐田に手を差し出す。しかし、恐田は微動だにしない。嫌な予感がする。
 恐田からノートを回収しようと手を伸ばすが、その手は空を掴んだ。恐田が――逃げ出した。

「恐田ァ!! 待てッ!! そっちは二組のだからッ!! 人様の物だからッ!!」

 怒号を発するが、恐田は構わず教室から消えた。クラスメートは事情を察したのだろう、俺に同情の眼差しを向け、「鬼さんガンバ」など悠長なことを抜かしている。
 教室を飛び出し、左右を見渡す。居た。二組の方だ。

(もしかして二組にノートを届けに……?)

 恐田が二組を通過し、俺の方へと人差し指をくいっと折り曲げる。

「恐田ァ!! やっていいことと悪いことがあるぞッ!!」

 俺に迷惑をかけるなら構わない。一組に迷惑をかけるのも、まあ許そう。連帯責任だ。
 だが、他のクラスに迷惑をかけるのはいけない。俺たちだけでなく、担任の村岡先生の迷惑にもなる。
 恐田は一直線に廊下を駆け抜ける。道行く生徒が道を空け、いつものことかと笑っている。すっかり学校の名物になってしまった。悪目立ちしたくないのだが、仕方がない。今だけは目立つ分だけ、俺の名クラス委員ぶりが際立つというものだ。
 行き止まりへと追い詰められた恐田は、こちらを振り返った。
 俺は肩で息をし、恐田へとじりじりと詰め寄る。

「恐田、観念しろ。さあ、そいつをこっちに渡すんだ」

 恐田はノートと俺とを交互に見遣り、次の瞬間――ノートを俺の頭上へと投げ出した。

「はあッ!?」

 四十冊のノートの束が宙を舞う。重なり合ったそれは俺の頭上で頂点に達し、綺麗な放物線を描いて落下してゆく。
 咄嗟(とっさ)にノートを見上げる俺。その隙をついて、恐田は俺の股下をスライディングで通り抜けた。そして、落ちてきたノートを全てキャッチする。
 何が何だかわからず茫然(ぼうぜん)とする。数秒後、我に返った頃には、既に黒い人影は階段へと消えていた。

「サーカスかッ!!」

 階段に差し掛かる。階下へ向かう足音が聞こえる。ここは三階。どうやら恐田は二階に向かったようだ。

(そう何度も同じ手を食うかって!)

 パルクールを駆使して移動する以上、まともにやっていては絶対に恐田に追いつけない。だが、俺だって成長している。かつて手すりに座って滑ることしかできなかったが、今は手すりの上に立って、滑り降りることができるのだ。

「おっおっおっ……おあああアアアアアアッ!?」

 着地のことを考えていなかった。踊り場では隣の手すりに飛び移り事無きを得たが、二階に辿り着いた俺は滑り降りた勢いを殺すことができず、着地してそのまま正面の消火栓へと激突した。
 
「いぎッ!!」
 
 大事は無かったものの、衝撃を吸収しようと消火栓についた手の真横に非常ベルのボタンがあった。全身から嫌な汗が噴き出してゆく。
 
「セ……セーフ」
 
 危うく全校生徒を屋外へ避難させるところだった。
 二階には一年生の教室が並んでいる。以前、昼休み中の教室に乱入してからというもの、俺と恐田は一年生から『鬼ごっこするほど仲が良い二人組』という印象を持たれるようになった。こうしてキョロキョロしているだけで、見知らぬ後輩から「恐田先輩ならそこに入りましたよ」と親切に教えられるほどだ。
 誠に遺憾だが、非常に助かるのもまた事実。複雑な心境と共に俺は空き教室へと足を踏み入れた。
 空き教室には他の教室と同様に机が整然と並んでいる。清掃が行き届いているのだろう、(ほこり)っぽくもない。
 ベランダで白い人影が振り返る。恐田だ。
 俺の姿を認めるなり、恐田は口元をニヤリと歪ませた。どうやらご満悦のようだ。
 両膝に手をつき、俺は呼吸を落ち着ける。余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)な恐田とは対照的に、俺は疲労困憊(ひろうこんぱい)だ。

「あのな恐田、逃げるのはいい。俺に迷惑をかけるのも、まあ許そう。だけど、それは二組のノートだ。乱暴に扱っちゃいけない。ノートが無くなったら、それまでの勉強がパーだ。それが良くないってことくらい、あんたにもわかるだろう?」

 恐田は俺をじっと凝視した。やがて窓を飛び越え、室内に戻ってきた。決して目を合わせないように俺の隣を通り過ぎる。
 
「……ごめん。丁重に扱ったつもり……だった」

 それだけ言って、恐田は教室から立ち去った。

(少し言い過ぎたか? ……いやでも、こんなのは常識だ。知らない恐田がおかしいだけ)

 俺は間違っていないと自身に言い聞かせる。しかし、最後に見た恐田の顔が頭に焼きついて離れない。
 恐田はひどく悲しそうだった。まるで飼い主に捨てられ、雨の中で凍える子犬のように。
 思い出すだけで胸がキュッと締めつけられる。
 だが、今の俺には恐田と和解するよりも先にやるべきことがあった。
 
「……いや、ノートは?」


 ***


 階段へ向かう際、恐田は確かにノートを抱えていた。しかし、俺が教室に入った時点で恐田は何も手にしていなかった。手ぶらでベランダに立っていた。
 つまり、恐田は階段からこの教室までの動線上にノートを隠したということだ。
 ノート1冊5mm程度。それが40冊なので単純計算で5mm×40冊=20cm。机には入らないサイズだが、分散すれば入れられる。
 俺は空き教室内の机を(くま)なく探した。収穫はゼロ。机の中にはゴミ一つ入っていない。
 ならば、と俺は教室内の棚、教卓、本棚に至るまで隅々探した。だが、ノートは一冊たりとも見つからない。

(廊下に隠したってことか? だけど、廊下に隠せる場所なんて……)

 空き教室は階段を降りて右手側、トイレを越えた先にある。
 念のためトイレに入る。個室内まで調べてみるが、成果は――無し。

(さすがの恐田でもトイレには隠さないか)

 トイレを出て正面の水道も調べてみる。いや、調べるところがない。ノート全てを水に流してしまうというのはどうだろう。いや、あの短時間で実行するのは無理がある。
 ならば、他の教室内に隠したのだろうか。隣の教室を(のぞ)き込む。もうそろそろ授業が始まるため、一年生が徐々に席に着き始めている。
 ふと一人の女子生徒と目があった。先ほど恐田の居場所を教えてくれた子だ。ひょいひょいと手招きし、恐田が来ていないか()いてみる。
 
「いえ、今日はまだ来てないです」

『今日は』『まだ』……不穏なワードのオンパレードだが、今回の件に関して言えばシロだろう。恐田は他の教室にノートを隠していない。
 ありがとう、と礼を告げ、俺は空き教室へと戻ってきた。ベランダに入り、地上を(のぞ)き込む。緑の広がる中庭にノートと思しき人工物は見当たらない。隣のベランダも確認してみるが、ネズミ色のコンクリートが広がるばかりだ。

(廊下の窓から外に投げ捨てた……は、ないか)

 念のため確認してみたが、案の定地上にノートは散らばっていなかった。俺が空き教室内を探しているうちに回収できるかもしれないが、頭上からノートが降り注いでくれば多少の騒ぎになるだろう。今のところ校内は(俺以外)平和そのものなので、その線は無さそうだ。

(わからない。だいたい、アイツは何でノートを隠したんだ?)

 椅子(いす)に腰かけ、天井を仰ぎ見る。恐田が俺を挑発する理由はわかる。俺が恐田の凄いところ、つまりパルクールを見せてほしいと要求したからだ。ノートを持ち去ったのも、俺に『鬼ごっこ』を仕掛ける理由付けなのだろう。
 ならば、何故恐田はノートを隠したのか。俺を出し抜くだけなら、三階でやってのけたようにノートを投げて自分でキャッチすればいい。もう一度同じことをされても、俺はきっと対応できない。

「隠す理由がない……なら、隠したわけじゃない(・・・・・・・・・)?」

 恐田の言葉を振り返る。
 
『……ごめん。丁重に扱ったつもり……だった』

 俺は席を立ち、教室を出た。

(そうならそうと最初から言えって)