「酷い目に遭ったぜ」
黒く塗りつぶされた窓ガラスに、額を擦る俺の姿が映り込む。夕飯時を過ぎた電車内は閑散としており、遮るものがほとんどない。
俺の隣で目黒が申し訳なさそうに笑う。
「悪かったな。うちの弟は肩が強いみたいで困ったもんだぜ」
「思ってもないこと言うなよ、兄バカ」
「最近反抗期が来て困ってんだって。力が強くってさ、毎日家の中で大暴れ。俗に言う台風一家ってヤツ?」
「意味がちげぇよ」
それを言うなら『台風一過』だ。
目黒が抑えた声でけらけら笑う。いつのもことだが、辛いことさえも笑顔で語る男だ。一緒にいて疲れない。
不意に目黒のポケットが震えた。スマホのバイブだろう。目黒がポケットからスマホを取り出す。
「恐田はもう家に着いてる頃か。アイツはすげーな。最後まで息切らしてなかったし。なぁ?」
そうだな、と目黒の手元を横目に覗く。スマホのロック画面に【20:28】と時刻が表示されていた。そして、壁紙には鼻を摘まんで仰向けになっている俺の写真が使われている。
「おい、その写真なんだよ」
状況からして、顔面でボールをキャッチして鼻血を出した時の写真だろうが、撮られた記憶がない。さてはコイツ――!
スマホの画面をこちらへと向け、目黒が二ッと口の端を上げる。
「幸運のお守り」
「皮肉か」
「人の不幸を糧にするタイプのお守り」
「呪いじゃねぇか」
人の不幸は蜜の味ということか。
「そんなもん、お焚き上げちまえ」
「悪い、もう恐田に送っちまった」
「何ッ!?」
目黒のスマホを奪い取る。メッセージアプリを立ち上げると、恐田相手に俺の写真を大量送信していた。今日のものだけでなく、これまでのものも含まれている。
「恐田が気になってるみたいだったから、あるだけ全部送ったんだ」
「……おい、俺の知らねぇ写真がたくさんあるんだけど」
去年の文化祭で俺がお化け屋敷から飛び出してきた時の写真だ。お化けよりも恐ろしい表情をしている。当時の俺も撮られたことに気付いてなさそうだ。
目黒がハハハと笑ってスマホを取り返そうとする。その手を弾き、俺はシャーっと威嚇する。
「他に変な画像はねぇだろうな?」
画面をスクロールしてゆくと、目黒と恐田のやり取りが目に入った。送信画像を削除しつつ、メッセージを追ってゆく。
■目黒 20:10
【今日は大活躍だったな!】
【また一緒に遊ぼうぜ!】
■恐田 20:19
【ありがとう】
【目黒は鬼越と仲良いんだな。いつ知り合ったんだ?】
■目黒 20:21
【クラスは二年から】
【一年の時も同じクラス委員だったからよく一緒につるんでたよ】
【部活ない日は一緒に帰るし】
【なぁ】
【恐田は鬼越のことどう思ってる?】
(唐突過ぎる)
もう少し自然な流れで訊けないものか。こうあからさまに怪しい質問なら、さすがの恐田も空気を読んで答えを濁すはず――
■恐田 20:21
【好き】
【大好き】
(濁せ。ドロッドロに)
しかも即答。食い気味に返信している姿が目に浮かぶ。
■目黒 20:25
【どこがそんなに好きなんだ?】
【アイツ、優等生ぶってるただのアホだぞ?】
(張っ倒すぞ)
目黒を横目で睨みつける。目黒は俺が盗撮写真を見つけたと思ったのか、肩を竦めて苦笑している。
スマホに注意を戻すと、恐田からの大量の返信が目に飛び込んできた。
■恐田 20:26
【恐田の好きなところは】
【優しいところ】
【頼もしいところ】
【誰にでも親切にするところ】
【正義感が強いところ】
【美味しそうにご飯を食べるところ】
【素直に謝るところ】
(やめろッ! 溶けるッ! 溶けちまうッ!!)
身体が火照ってきた。すぐにでもスマホを手放したい気持ちとは裏腹に、身体が恐田の返信を求めてしまう。
■恐田 20:27
【それと】
【ちょっと捻くれてるところ】
【良く見せようとして背伸びしてるところ】
【少しおっちょこちょいなところ】
【先生に従順なところ】
(ん? 悪口?)
身体が冷えてきた。悪寒すら走りそうだ。
■恐田 20:28
【顔も好き】
【匂いも好き】
【体温も好き】
【オーラも好き】
(もはや信者)
恋は盲目と言うが、これでは恐田に俺への好意があることは明白だ。
スマホを握る手がじんわりと汗ばんでゆく。
(クソ、これじゃあ恐田が俺のこと好きだってバレバレじゃねぇか。いや、だけど、これなら恐田の一方的な好意ってことで誤魔化せ――)
そう考えていた矢先、恐田から新着のメッセージが届いた。
■恐田 20:30
【俺を見捨てないところ】
俺は息を呑んだ。恐田の真っ直ぐな気持ちに当てられ、恥ずかしさすら覚えた。
(恐田はこんなに真剣なのに、俺は何で誤魔化そうとしてるんだよ)
隣の目黒へとスマホを手渡す。
「返す」
おう、と目黒がスマホを受け取る。
「変な写真はあったか?」
「わからないから全部消した」
「だよな。でも、恐田なら全部保存してると思うぞ?」
「だろうな。それはいい。アイツの勝手だから」
素っ気ない態度を怒っていると捉えたのか、目黒はしばらく沈黙した。
一定間隔で揺れる車内は心地好い。沈黙を丁度良い雑音で満たしてくれる。
目黒は向かいの窓ガラス越しに俺と目を合わせ、「なぁ鬼越」と切り出した。
「この間まで恐田に避けられてるっつってたけど、今度はお前が恐田を避けてんのか?」
目黒はいつになく神妙な面持ちをしていた。
俺は指を絡め、じっと足元を注視する。
「避けてねぇけど。そう見えた?」
「見えたっつうか、避けてるだろ? 何だ、俺が余計なこと言ったからか?」
「だから避けてねぇって。つうか何だよ、余計なことって?」
「恐田と付き合ってるって言ったこと」
「バカッ!」
俺は慌てて周りを見渡す。幸い、誰も俺たちの会話を聞いていないようだ。皆、スマホで自分の時間を堪能している。
「名前だけじゃ性別なんてわかんねーよ」
目黒が何てことないように言う。
やはり目黒は確信している。
「あ、ああ……そりゃそうか」
俺は手の震えを隠すように腕を組んだ。言い訳を考えるが頭が真っ白で何も思いつかない。ただただ、次に目黒から放たれる言葉への恐怖が頭を支配する。
やがて目黒は背をもたれ、揺れる吊り革を眺めた。
「……お前の言うとおりだったな。色恋沙汰に首突っ込んでも藪蛇だ」
言葉の意味を理解できず、俺は目黒の横顔を眺めた。目黒は、しかし俺の目を見ないように続けた。
「お前が恐田と何かあるんだろうって、みんな気付いてるよ。少なくともクラスの奴らは」
「は……?」
そんなはずない。俺は完璧なクラス委員を演じていたし、恐田と必要以上に接していない。第一、俺と恐田が付き合っていると知っているなら、もっと態度がよそよそしくなるはずだ。
目黒は俺の疑念を感じ取ったのか、少しだけ声を柔らかくした。
「気付いた上で態度が変わらないんだよ」
「そんな、こと……」
「そんなもんだよ。お前って自意識過剰だよなぁ。お前が思ってるほど、誰も他人の性的嗜好に興味ねーぞ? 特に男は単純だからさ。てか、そんなの気にしてるヤツ、気持ち悪過ぎだろ」
「……でも仮に、仮にだぞ? 俺が……恐田と付き合ってたら、それこそ気持ち悪いだろ。……嫌いになるだろ、フツー」
目黒が窓越しに俺を見遣る。ニヤリと笑う口元からは、普段の悪戯っぽさが感じられない。
「心配するな。恐田と付き合わなってなくても、お前は十分気持ち悪いよ」
ふざけんな、と目黒の肩を叩く。目黒がけらけらと笑う。釣られて俺も笑う。
目黒はこういう奴だ。気を遣わないし、遣わせない。
だけど、と目黒は言う。
「お前は自分で思ってるよりも、みんなから愛されてるよ」
ふと振り向いた俺に向けて、目黒がニヤリとピースする。
「少なくとも二人いるしな」
俺は口の震えを隠すように目黒から顔を逸らした。口を開けば、嗚咽が零れてしまいそうだった。
どれだけ目黒が俺に寄り添ってくれたとしても、どれだけ恐田が俺へと好意を示してくれたとしても、きっと俺が恐田との関係性を明言することはないだろう。誰か一人にでも嫌われる可能性があるのなら、俺は自分のことだろうと口にしない。
何故なら俺はクラス委員だから。
クラス委員となったのは、誰からも好かれる『理想の自分』を作り上げるためだ。その対象には自分自身も入っている。俺はもう、自分自身を嫌いになりたくないのだ。
自分の気持ちに正直になり、それを周囲に露呈するというのは、自ら理想像を壊すことに他ならない。理想が崩れれば、俺はまた自分を愛せなくなる。
いつか俺も恐田のように俺を愛せるようになるのだろうか。恐田を愛するように、俺自身をも愛することができるのだろうか。
そこで俺は、はたと気付いた。
(俺……ちゃんと恐田のこと、好きだったんだな)
自分の気持ちに改めて気付き、俺は――心底安堵した。
「じゃ」
改札口を出ると、目黒は俺に背を向けて手を振った。
「なぁ目黒」
「ん?」
目黒が振り返る。俺の手の震えに気付いたのか、「言わなくていいけど」と苦笑している。
いや、違う。俺は無理をしているわけではない。目黒にずっと訊きたかったことがあるのだ。
先日、目黒は俺に向かってこう訊いた。
『お前、恐田と付き合ってんだろ?』
「俺と恐田が、その……付き合ってるって訊いてきただろ? 別に俺と恐田はそういうアレじゃねぇけど……でも、何でそう思ったんだ? そんなベタベタしてたか? 恐田が俺に懐いてるのはクラス委員としてアイツとよく絡んでたからだし」
「いや? だってお前、恐田のことずっと目で追いかけてるじゃん?」
「俺が……恐田を……?」
俺は目を丸くし、すぐさま手を大きく振った。
「いやいや! 俺は恐田から見られてると思って、見返してただけだぜ!?」
「逆だろ。恐田がお前からの視線を感じて、見つめ返してたんだろうが」
茫然とする俺を見て、目黒が戸惑いをあらわにする。
「まさか無意識? 今日だって、恐田が先輩と喋ってる時とか、ずっっっっっっとアイツのこと見てたぞ?」
「嘘だろ……!」
俺はその場に蹲った。自分でもどんな顔をしているかわかるだけに、誰にも見られたくない。
頭上から目黒の大笑いが降り注ぐ。
「はは! 鬼越ってそういうところあるよな!」
「どういう意味だよ……!」
「好きなものを目で追っちまうところとか、小学生相手に本気になるところとか、しっかりしてるように見えて、実は子供っぽいよな。イイ意味で純粋っつうかさ」
「ぜってぇ褒めてねぇだろ」
「褒めてるって。何つうかさ、恐田を見つめてる時のお前の顔さ――」
「あーあー!! 言うなッ!! 聞きたくないッ!!」
声を張り上げる俺に、しかし降り注いだものは熱のこもった目黒の声だった。
「凄く――誇らしげだった。恐田が褒められて嬉しいんだなって。それでいて憧れてんだなって伝わってくる顔で……そんな顔見たら、言わずにはいられねぇだろ?」
面を上げると、目黒の背中が飛び込んだ。墨のような夜空をじっと眺めている。
「お前ら、お似合いだよ」
「……サンキュ」
胸のモヤモヤが晴れるような心地だった。普段なら気付きもしない一番星が、俺の目に焼き付いて離れない。
恐田を褒められれば嬉しいだなんて当たり前だ。俺にとって、恐田は憧れのヒーローなのだから。
「ああ、だけど」
目黒がこちらを振り返り、苦笑する。
「アレだけはやめたほうがいいぞ? 何つうか……見ているこっちが恥ずかしい」
「『アレ』?」
***
「あれ?」
恐田が俺の目の前に唐揚げを突きつけながら、首を捻る。
「お腹空いてないのか?」
昼休みになると、俺は決まって恐田と目黒とで弁当を食べる。今日は先週末の助っ人の件で話が盛り上がっていた。
だが、恐田から箸で唐揚げを突きつけられた時、俺の視線は自然と目黒へと向いた。目黒が忠告していた『アレ』が発動したのだ。
「……なぁ恐田、そういうのは友達同士じゃあまりやらないらしいぞ?」
「そういうのって?」
「食べ物をあーんって食べさせるやつだ」
恐田はキョトンとした。
「知ってるけど?」
「は?」
「でも、俺たち友達じゃ――」
「うぉおおおッ!! 美味そうッ!!」
俺は目の前に迫った唐揚げへと勢い良くかぶりついた。ジューシーな肉汁が口の中に広がり、身体が白米を欲し始める。恐田家の冷凍食品は味付けが濃い目だから弁当によく合う。
ごくんと呑み込むと、隣で目黒がゲラゲラと笑っていた。
「……おい恐田、あんたは『コレ』がどういう意味か知っていてやってたのか?」
「意味?」
「これが……その……何だ、恋人とか、夫婦がやる営みだってことをだな」
「営みって……」と目黒が噴き出す。ギロリと睨みつけていると、恐田が静かに答えた。
「わかるだろ、フツー」
恐田に常識を説かれるのが一番腹立つ。普段は俺よりも非常識なくせに。
「逆に鬼越は何だと思ってやっていたんだ?」
「おかずくれるんだ、やったー……みたいな?」
今度は恐田まで噴き出した。いやに熱くなってきた。
「それじゃあ、俺にあーんってしてくれたのは?」
「おかずのお返しあげるー……みたいな? ……ク、クラス委員なんだから当然だろ!?」
「出たよ、クラス委員への謎意識」
横槍を入れてくる目黒を「うるせぇ!」と一蹴する。
正直のところ、目黒が茶化してくれて助かった。もし恐田と二人きりなら、俺は羞恥のあまり蒸発していたことだろう。
俺は恥ずかしさを誤魔化すように口にご飯をかき込み、弁当を平らげた。
「ご馳走様! ちょっくらバスケしてくる!」
席を立つ俺の後ろを恐田が追いかけてくる。
「鬼越」
「あんたもやるか、バスケ? 2on2ならもう一人必要だな。目黒を誘って――」
俺の台詞を遮って、恐田が俺の手を引っ張った。ゴツゴツした指の感触に胸の辺りがぞわぞわっとなる。
「な、何だ!?」
「鬼越に見せたいものがある」
連れられた先は南校舎四階へ続く西口階段だった。教室が並ぶ北校舎と違って、昼休みの南校舎は人の気配は無く、静まり返っている。
恐田は踊り場から手すりに飛び乗ったかと思うと、するりと滑り降り、途中で手すりから飛び跳ねた。身体を一回転させ、三階の廊下へと着地する。
おお、と感嘆の声が漏れる。
「これって、俺の技……の、改良版か!」
「名付けて『鬼越え』」
「それはやめてくれ」
顔から火が出てしまう。
恐田が人差し指をくいくいっと折り曲げ、俺にやってみろと言う。
俺は手すりに飛び乗り、するすると滑り降りる。途中でジャンプしてみるが、数ミリ浮いただけで、すぐさま手すりの上に着地した。その後は今までどおり、ぴょんと手すりの終わりで跳んでおしまい。
気を遣ったのか、恐田が拍手を送ってくる。やめてくれ。
「どう?」
「どうって……」
辱められて、惨めな気分だ。
だが、本当の気持ちはそれではない。俺は踊り場まで駆け上がる。
「もう一回やる」
手すりに飛び乗り、するすると滑り降りる。途中でほぼ浮いていないジャンプを挟み、廊下へと飛び降りる。ここまでは先ほどと同じ。
そこで、俺はよろけたフリをして、恐田の身体に倒れ込んだ。咄嗟に恐田が俺の身体を受け止め、抱き合う姿勢となる。
俺はそのまま恐田の胸に顔を埋めた。恐田の脈拍が感じられる。恐田の体温が直に伝わってくる。恐田の匂いに鼻孔がくすぐられる。俺は今、『恐田陸』という男を全身で感じている。
背中に恐田の腕が回る。指先が震えているのか、背中が少しこそばゆい。
「……やっぱりあんた、かっけぇよ。凄い技決めるし、思ったことをストレートに言うし、いつだって自由だ。……憧れる」
恐田の指先が背中にぐいっと食い込む。
「鬼越のほうが、カッコいい。誰とだって仲良くできるのに、俺のことをずっと見てくれる。越がいるから、俺は自由なんだ」
顔を上げると、恐田と目が合った。目元が熱っぽい。こうなった時の恐田は制止が利かない。
「恐田、俺……あんたことが、好きだ。だけど、人前でこうしたり、好きだって言うことは……できない。付き合ってるって知られるのが……怖いんだ。それでも……許してくれるか?」
お互いの顔が徐々に近付いゆく。さながら磁石か、引力か。俺たちは互いに互いを求め合っている。
「許すとか許さないとかじゃなくて」
鼻先が触れる。恐田の息が顔にかかってくる。呼吸が荒くなっていることがわかる。きっと俺も同じなのだろう。
「鬼越の嫌がることはしないよ。俺も恐田のことが……好きだから」
やがて俺の唇は――恐田の唇に触れた。重なった。身体が熱くなってゆくのがわかる。このままいつまでも触れていたい。
唇を離し、見つめ合う。恐田の表情から俺と同じ気持ちであることが伝わってくる。
「……鬼越、人前でこういうことできないって言ってたけど」
恐田は上気した顔で言う。
「目黒は人じゃないのか?」
バッと背後を振り返る。廊下には誰もいない。だが、東口の方向から階段を駆け下りる音が聞こえてくる。
「いたのか、目黒が……?」
恐田はこくんと頷いた。
顔から血の気が失せてゆく。
「何で、言わなかったんだ……!?」
「ごめん。鬼越も気付いてるのかと思って……」
「人前でこんなことできねぇって、言ったばかりだろ……!」
何だったら、伝えている最中だったはずだ。
「ごめん。鬼越にとって、目黒は人じゃないんだと思って……」
そんなわけがないだろう。俺は何だ、鬼畜だと思われているのか?
俺はへなへなとその場にへたり込んだ。
「……一巻の終わりだ。いくら目黒でも、こんなところ見られたら……俺はもう、生きられない」
「わかった」
それだけ言い残し、恐田は目黒(と思しき足音)が去って行った階段へと向かってゆく。
(……わかった? 何がだ?)
俺の疑念を汲み取ったのか、恐田が背中越しに言う。
「俺が目黒を――始末する」
(なんてこった!)
次の瞬間、恐田は廊下を駆け出した。こうしてはいられないと俺も即座に駆け出す。
「待てッ! 恐田ッ! 冗談だッ! 目黒がいても生きられるッ! 目黒だったら何を見られても大丈夫ッ! だからッ! 止まれェッ!!」
俺の願いは届かず、恐田は階段を飛び降り、渡り廊下を爆走してゆく。どうやら目黒は体育館へと逃げたようだ。連絡通路を走る姿が見下ろせる。
すると恐田は渡り廊下の柵を跳び越え、屋根伝いに連絡通路へとショートカットした。目黒が怯えている様子が見える。いや、面白がっているようにも見える。
鬼さんこちら、手の鳴る方へ。……完全に遊ばれている。
だが、恐田は本気だ。本気で鬼になろうとしている。俺は秘技『鬼越え(もどき)』で階段を滑り降り、体育館へと急行する。
奇しくも、初めて鬼越を追いかけた時と同じシチュエーションだ。俺は腹の底から声を振り絞り、最愛の名前を叫ぶ。
「恐田ァッ!! 待てェッ!!」
恐田陸は追われたい 了