――まるで真っ白なキャンバスを、空色の絵の具で塗りつぶしたみたいな空だ。
 チームメイトたちのかけ声を耳に流しながら、見上げた空にふとそんなことを思う。

 小学三年の時に地元のリトルリーグに入ってからと言うもの、俺の放課後はいつもこの走り込みから始まる。グラウンド10周というハードなトレーニングメニューを課すのは、強豪として名を連ねている、うちの野球部を率いている柳原監督だ。一時期は現役のプロ野球選手として活躍していたこともあり、その指導は本格的である。

 監督は地域の野球少年たちの世話を一手に引き受けていて、ここの他にも小学生のリトルリーグチームと、中学の野球部の臨時コーチも兼任している。つまり、監督とは俺が小学校の頃からの付き合いってことだ。今俺は高校二年だから、もう八年だ。その間基本的に毎日、基礎を大事にする監督の指示で、学校へ来る前の早朝と、授業が終わってからの部活前の時間にするランニングを欠かしたことはない。
 それだけの長い年月同じように走って来たのに、途中で空に気を取られたのは、その日が初めてだった。

 元々、季節の変化を愉しんだりなんて、お上品な感性は持ち合わせていない。自分の性格は、自分が一番良く分かっている。秋と言えば、芸術じゃなくて食欲だし、枯葉が落ちるのが寂しいなんて言う奴は、よっぽど変わった奴なんだと思っていた。
 だから今日、俺が空の綺麗さに目を奪われたのは、本当にただの気まぐれとしか言いようがなかった。
 普段から、そういったことを感じている人には、当たり前の空だったのかもしれない。けれど、改まって空の美しさに心動かされた経験の無かった俺は、その景色に妙に感動してしまった。
 いつまでも眺めていたい――そんな風に思ったのも、初めてだ。
 季節は秋の始め。運動で火照った体には、夕暮れ前の少しばかり冷えた風が心地よい。
 視線は空に向けたまま、空を追いかけるみたく無意識に足を動かしていたら、うっかり指示された以上に走ってしまっていたらしい。

高坂(こうさか)! いつまで走ってんだ! 次の集合かかってんぞ!」

 とっくに走りを終えていた先輩から、焦れた怒声が飛んでくる。
 
「うーっす! すんませーん」
 慌てて返事をして、走る足を止める。
 それでも、空を見上げるのは、やめられなかった。
 だって、凄く凄く綺麗だ。
 目を凝らせば薄っすらと見える白雲が、真っ青に晴れた空にシルクのベールを被せたように輝いている。
 何故だかどうしても、今見ていないと、勿体ない気がした。
 意味なくテンションが上がって、足元近くに転がっていたボールを拾い上げると、やり場のない感動をこめて力いっぱいに頭上に投げた。

 空を目がけて高く昇って行くボールの軌道を目で追っていると、視界の端に靡くカーテンが見えた。
 ひらひらと動くものには自然と目が行く。
 何気なくカーテンから窓へと目線を動かして行くと、そこに佇む人影に気付いた。
 白いカーテンの影に隠れて、彼はひっそりと外の様子を伺っている。
 まるで警戒心の強い猫みたいな仕草だ。
 
 「九条(くじょう)先輩……?」
 
 カーテンが揺れる、校舎の三階のグラウンド側の窓は、生徒会室の窓だ。
 無駄に視力の良い俺は、かなりの距離があるというのに、それが誰だかはっきりと分かってしまった。
 見上げた空の先で見つけた九条先輩は、何かを追いかけるように窓から少し身を乗り出していた。
 その目線はまっすぐ空に向いている。

 (――ああ、先輩も空見てんのか……)
 
 そう気づいてしまったら、たまらない気持ちになった。
 周囲からは部活連中の、威勢の良い掛け声が聞こえている。キャッチしたり、ノックしたり、皆忙しそうに動き回っている。
 野球部だけの話じゃない。美術部は木陰でスケッチをしているし、園芸部は花の植え替えをしている。
 学校内からは、吹奏楽部の楽器の音がしているし、どこかで喧嘩でもあったんだろうか、言い争う声などもしている。
 とにかく放課後は、皆自分のことで精一杯、忙しい時間だ。
 そんな喧騒の中で、俺と、九条先輩だけが、あの空を知っている。

 わかっている、そんなのは幻想だ。
 この学校に居る数百人の生徒たちの中には、空を見上げたやつもいただろうし、それがこの街、この世界って広がっていけば、もっともっと増える。それでも俺は、今俺に見えているこの景色だけがすべてだった。
 先輩は今、何をしていたんだろう。
 何をする手を休めて、あの空を見に来たのだろう。
 何にしても、今すべきことの一番に、この空を眺めることを選んでくれたことが嬉しい。
 だって俺も、それが一番大事だと思ったから。
 
 「こうさかー、お前何ボサっとしてんだよ。もう終わりだってよ」

 背後から突然クラスメイト兼、チームメイトの吉井(よしい)に声をかけられ、ビクリと肩が跳ねる。
「は? マジで?」
 信じられない言葉に、俺は周囲を見回した。
 ぼんやりと遠くへいっていた意識が、大急ぎで戻って来る。
 もう部活が終わる時間だなんて信じられない。
 体感だと2、3分ってとこだ。
 だけど、吉井の両手には使い終わったグローブが重ねられていて、部活が終わったことを見せつけている。

「お前今日、ぼーっとしてどした? さっき先輩の呼びかけにも反応してなかったし。調子でも悪いのか?」
「そうじゃねぇけど……監督怒ってた?」
「あー、まあな。でも今日は用事あるから早く帰るってよ。明日お前、こってり絞られるぞ」
 吉井に肩を肩で小突かれて、俺は苦笑いを浮かべる。
 確かに、明日は憂鬱な日になりそうだ。ご愁傷様、と手を合わせた吉井は去り際、思い出したように振り返る。
「それ、お前が拾っとけよ」
 面倒そうに指で示された場所を見ると、俺がさっき気まぐれに空へと放ったボールが転がっていた。
 そう言えば、いつの間にボールが落ちたのか記憶が無い。すぐに九条先輩に気を取られてしまって、それっきり時間の経過さえ曖昧だ。
「わりぃ。今行く」
 急いで駆け寄って、ボールを拾う。見上げた窓には、もう先輩の姿は無かった。
 あと少しで空は一面夕焼けになる。それも、先輩は足を止めて見るだろうか――。
 何故だかとても、気になった。