俺が家に帰ると、父さんと向かい合って座る制服姿のままの夏樹と、その隣りに見知らぬ男女の姿が見えた。

 年の頃は五十くらいだろうか。ウェーブがかった長髪を無造作に束ね、顎髭を生やしたワイルドな雰囲気の男性。そしてその隣りには、カッチリとしたスーツを着込んだショートカットの女性。父さんは俺に気づくと、こちらへ手招きした。

「央、お前もちょっとこっちで、一緒に話聞きなさい」

 何事かと思い、言われるがまま父さんの隣の椅子に座ると、男は笑顔で俺に名刺を差し出した。
株式会社FDD代表取締役、草加部吾一(くさかべごいち)、と記載されていた。続いて隣の女性にも名刺と、FDDの企業情報の記載された会社案内を渡された。主に海外のアパレルやスポーツブランドと正規代理店契約を結んで販売している会社で、資料をめくると誰もが耳にした事のあるブランドのロゴが並んでいる。その中のhe’e nalu(ヘエ・ナル)は有名なサーフブランドだ。秘書の三井という女性による概ねの説明がされた後、男は本題に入った。

「結論から申しますと、FDDは夏樹君とスポンサー契約を結びたいと考えています」


 ────え・・?


「ただし条件があって、来年中にプロトライアルに合格しプロライセンスを取得して貰いたい。その為にご家族にも協力をお願いしたいのです。学業の方が疎かになる事もあるでしょうから」


 俺は思わず夏樹の方を見た。あいつは俺の動揺など関係ないと言った風に、平然とした顔をしていたけれど。


 夏樹・・?

 そんな大事な事を、俺に一言の相談も無く・・?

 いつだ。一体いつからこの男とそんな話を────?



「・・どうしてうちの息子にお声掛け頂いたんでしょう。息子はまだ高校に上がったばかりですし、プロのトライアルは勿論、アマチュアの大会すら出場経験はありませんし・・」

 父さんの質問に、男は悪びれない笑顔で答えた。


「そりゃもちろん、ビジュアルですよ?」

 
 な・・


「彼にはhe’e nalu(ヘエ・ナル)の広告塔としてファッションモデルもこなして貰いたいんです。メディアを食いつかせるには魅力的な肩書きが必要ですからね。『モデルとしても活躍する、イケメンすぎる現役高校生プロサーファー』。いかにもウケそうな内容でしょ? だからプロライセンスの取得を必須条件として上げているんです。ただのイケメンより、プロサーファーって肩書を抱き合わせた方が圧倒的にメディアの需要が増える」

「でもそれじゃ・・サーフィンっていうよりタレントをやれって事じゃないですか・・!」


 俺は思わず声をあげてしまった。だけど草加部さんは・・

「そうでもないよ。プロライセンス持ってるってだけで注目されるのなんか高校生の間だけだし、僕としてはなんとかトッププロまでのし上がって貰いたいと思ってる。彼に本当に見込みがあるのなら、海外にも行かせてあげたいと思ってるしね」

「海外・・?」

「そう。日本の海は整備され過ぎてて、海外のような大波なんて来ないでしょう。本気で上を目指すなら早い段階から海外で経験積まないとね」

「そ、それはそう・・ですけど・・」

「だけどそこまで面倒見てくれるスポンサーなんて日本には無いよ。大概は道具の無償支給くらいでね。日本じゃサーフィンはマイナースポーツ、サーフギアの売れ行きなんかたかが知れてる。スポンサーってのは広告目的である以上、リターンが見込めないものにはどの企業も金は払えないんだよ。だから僕は彼にアパレルの方を売らせて金を引っ張ってこようとしてるんですよ。he’e naluはサーフブランドとは言え、日本での売上の八割はアパレルだからね」

「・・・・」

 何も言い返せずに口をつぐむと、俺の代わりに口を開いたのは父さんだった。

「夏樹。お前はどうしたい? お前の決めた事なら、父さん応援するから」

 そして夏樹はこう答えた。俺の方なんか少しも見ずに────。


「もちろん、やるよ。そうじゃなかったら草加部さんを家まで連れて来ないし。
最初から決めてるんだ。始まりがどうであれ、絶対トッププロになってみせる」



 子供の頃と変わらない、揺るぎない目────。

 どうしてそんなに変わらないでいられるんだよ。努力すれば必ず報われるなんて、夢ってやつはそんなに甘いものじゃない。特にスポーツの世界の勝者はただ一人。それ以外は敗者となる、圧倒的に夢敗れる者が多い厳しい世界・・。


 なのにどうしてそんなに強くいられるんだよ。


 怖いとか思わないのか。違う道が正解なのかもって迷ったりしないのかよ。お前はいつだってそうやって自分の選んだ道を迷わず歩いて行ってしまう。本当は俺が手を引いてやる必要なんてない。いつだってそれを必死で追いかけていたのは・・本当は俺の方で。



「なら決まりですね。これはスポンサー契約の雛形なので、先に目を通しておいて下さい。彼には来年四月のプロトライアルに挑戦して貰いますから、ご家族のお二人にも是非ご協力を」


 草加部さんは笑顔で握手を求めてきたけど・・俺はそれに、笑顔で返すことなど出来なくて・・。





◆◇◆◇◆◇


「夏樹!」


 彼等が去った後、俺は自室へと向かうあいつを呼び止めた。あいつは足を止めて振り向いたけど・・

 呼び止めて────何を話せばいいんだろう。

 『頑張れ』とか。『応援してる』とか・・?


 胸中は全然そんな綺麗な感情じゃなくて。夏樹に夢を叶えて欲しいなんて言ってた癖に・・なんなんだよ俺は。

 いい加減に夏樹に依存するのはやめようって決めたんだろう? プロになるって夢も早々に降りたんだろう? なのにいざとなったらこんなに動揺するとか、全然覚悟なんか出来てなかったってこと────?



「あ・・あのさ・・」

「これ。一応渡しとく」


 あいつが俺に差し出したのは一枚の紙。

 日本サーフィン連盟の、プロトライアルについての資料。



「俺は央と芽留が居なくてもプロになるつもりだから」


 そして夏樹はこう言った。



「渡してはおくけど、央は央で好きに決めなよ。俺のことはもう気にしなくていいからさ」



 それは俺にとって、決定的な『離別』の言葉────。