息が苦しい。腕が疲れた。もう限界かも────!


 どんなにもがいてもどんどん遠くなっていく岸。私は既に消波ブロックを積んだ堤防の、先端部分まで流れていた。


"ブロックの裏側まで流されちゃうと抜け出せなくなる可能性あるから"


 突如として目の前に突きつけられた『死』という恐怖。



 死んだらどうなるんだろう。

 もう何も感じなくなって、何も見えなくなって・・私というものはどうなってしまうのだろう。皆の人生は変わらずに巡っていくのに、私だけがそのレールから外されてしまう。


 ────怖い。嫌だよそんなの・・



 せっかく好きな人が出来たのに。

 女の子の友達も・・。またもう一度自信を取り戻して、自分らしく生きれるかも知れないなんて・・やっとそう思い始めたのに。

 
 小説も・・もっと書けば良かった。ナミさんどうしてるかな・・? 私の投稿を待ってくれているかもしれない、フォロワーさん達。

 私の書いた物語で、初めて漫画を読んだあの時の私の様にキラキラした気持ちになって貰いたいって思ってた。やっと伝えられそうなのに。恋をする気持ちも、誰かを大事に想う気持ちも、やっと分かってきた気がするのに。


 ああ、私────やっぱり小説を書くのが好きなんだな。どうして迷ってたんだろう。こんな風に終わるなら、もっと書けば良かった────・・




「ひまりサン!!」



 ハッとして声のした方を見た。

 そこに見知った顔を見つけて私がどれだけほっとしたのかは・・言葉では言い表せない。



「夏樹君!」



 夏樹君は既に消波ブロックの裏側にまで流されていた私の所へ、躊躇なく近寄ってきた。


「もっと流れのない沖に出ないと! ドルフィンスルーで一つ波をやり過ごせれば沖まで出られる」

「でも私、ドルフィンスルー出来なくて・・!」

 涙目になった私。だけど彼は驚くほど落ち着いていた。


「大丈夫、俺がついてる。こういう時は平常心」


 そして彼は私のボードの後ろを手で押した。


「波にぶつかる直前までパドルは絶対止めないで。勢いがないと波の中に潜れない」

 パドルの合間に私を押してくれる彼の手に助けられて、私は必死に沖を目指して水を掻く。前方に今まで見た事もない大きな波が、立ちはだかるのが見えた。失敗して波に撒かれれば、間違いなく進んだ分以上に戻されてしまうだろう。

「くぐり抜けようと思わなくていい。ただ深く海に潜る事だけ考えて。そうすれば波は勝手に俺達の頭上を通り抜けて行く。俺の合図に合わせて、思い切り潜って」

 
 低気圧に生み出された大きな波が、もうすぐ目の前まで迫ってくる。私の背丈程もあるだろうか。全てを飲み込まんとするこの圧倒的な水の壁に、隣に夏樹君がいなければ、突き進むことなど出来なかっただろう。


「3・2・1 ────・・行くよ」



 夏樹君の合図に合わせて、無我夢中でボードの先を海に沈めた。身体を使い足で水を蹴って、とにかく海底へ沈まんと全体重をかける。


 その時の光景を、私は多分一生忘れないだろう。


 下へ向かって闇を増す深い青。海上から差し込む美しい光が、ゆらゆらと揺れる海藻を照らしている。あまりにも穏やかな静寂の中を、白い波の線がスクリューの様に回転して泡を散らしながら、上を通っていくのが見えた。


 人の身体を何度も回転させてしまうほどの激しい波は本当に表面上の事で、すぐ下にはこれほどの静寂が広がっている。


 初めて成功したドルフィン・スルー。

 そうかこれは────海を泳ぐイルカの視点だ────・・
 




 
 夏樹君の先導で何とか大波を超えた私達は、そのまま更に沖へと進んだ。波の割れるラインを通過したらしく、その後やって来た波は、大きく身体を浮き上がらせるだけで、押し返そうとはしなかった。もう海岸線が良く見えないほど遠い。恐怖を感じるほど沖へと出たところで、やっと夏樹君は左方向へ進路を変えた。海岸と並行に進んで消波ブロックと十分に距離をとった所で、やっと夏樹君は海岸へ戻る方向へとボードの向きを変えた。


「もう大丈夫。海岸へ向けて漕いでりゃ、そのうち波に押されるか撒かれるか、どうにかして自然と戻れる」

「あの・・本当にありがとうございました。迷惑かけて本当にごめんなさい」


 本当に迷惑過ぎる私・・。暗い顔で頭を下げると、彼は真面目な顔でこんな苦言を述べた。


「ひまりサンはさ、迷惑をかけまいとしてるんだろうけど、そうやって壁作られる事がどれだけ相手を傷つけるのか、考えた事ないでしょ」


 え────・・


 決して声を荒げるわけではないけれど、それは確実に、私を叱る言葉だった。


 まただ。

 ちゃんとあの時夏樹君の好意に甘えれば良かったんだ。勝手に卑屈になって、私はまた気づかぬうちに、前に央君にしたのと同じことを・・



「ごめんなさい・・」


 
 夏樹君はそれ以上、私を責めるような事は何も言わなかった。



 死地を脱してどうにか海岸へと戻ってきた私。そこで私を待っていたのは、私達の様子を固唾を飲んで見守っていた芽留ちゃんと、起き抜けのままここへやって来たらしい、Tシャツに下スウェットの央君の姿があった。


「央君、芽留ちゃ・・」


 彼は私の方へ近寄ると、無言で軽く私の頬を打った。驚いて彼の目を見ると、彼は怒りの表情をあらわに私を見下ろしていた。



「勘弁してよ」



 そして彼は────服が濡れるのをもろともせず、私の身体を抱きしめた。




「心配すんだろぉ・・」




 央君────・・



 涙が溢れた。

 夏樹君・・貴方の言う通りだね。



「ごめんなさい」



 こんなのは相手を大事にしてるんでもなんでもなくて・・ただ自分が嫌われたくないだけなんだもの。きっと私のやり方は間違ってるんだね。


 私はもっとちゃんと彼と向き合わなきゃいけない。嫌われない為に我慢して気持ちを隠すんじゃなくて、もっと好きになってもらう為に自分を伝える努力をしなければならない。



 危機を通してまた一つ大事な事を学んだ私。だけどそのあと夏樹君が央君に向けて言った言葉が、汐見家の深刻な問題に繋がっているなんて・・この時の私には理解できていなかったわけで────。



「ありがとな夏樹。マジで助かった」

「・・頼って貰えないって嫌な気分だろ」

「え・・?」

「お前も俺達をそういう気分にさせてるんだぞ、央」