帰り道、すれ違った派手な赤いランボルギーニ。そこに母さんが乗っていたと夏樹が振り返ったのを、俺は見間違いだろと軽く流した。


 だけどその日、母さんは帰って来なかった。


 俺の積み上げて来た日常は、たった一つの波で崩れてしまう、まるで砂で造った城の様に脆く。


 俺も夏樹ももう中三だったし、母が消えたとて大体のことは自分で出来る。明確に変わったのは食卓に上る料理の品数が減った事くらい。内心の不安など口に出さなければ、日々は不思議なほどに普通に流れて行った。



「父さん・・俺って、どうしたらいい?」



 その言葉は結局、切り出せぬまま────。






◆◇◆◇◆◇


「お帰り。あんたいつもこんな遅くまでバイトしてんの?」

 家に帰ると、ソファに座る姉の姿があった。姉の(なぎさ)は今都内の出版社で働いており、通勤の関係で一人暮らしをしているが、こうしてちょいちょい店や俺達の様子を見に帰って来る。

「まー・・人少ないから出てくれって頼まれるし」

「だからってあんまり無理しちゃダメよ。そんなに稼ぐ必要なんか無いでしょ。あんたが家の生活費の足しにってお金渡して来たって、父さん落ち込んでたわよ」

 姉に睨みを効かされて、俺は内心動揺した。

「べ、別に思ってたより稼げたからってだけで・・親孝行な息子さんだろーが。姉ちゃんだって金入れてんだろ?」

「私は社会人だからよ。あんたはまだ高校生でしょ。ガキが生意気に気を回すような事じゃないのよ。ちゃんと家の手伝いだってやってるんだし、それで十分なの」

「・・だからって夏休み中ずっと休みますって訳にいかねーだろ。いくらバイトだからって、向こうだってシフトの関係とかあるし・・」

「・・そ。ま、それは確かにそうだけど、無理して身体壊さない様に気をつけなさい。あんたは昔からちょっと空気読みすぎる癖があるから・・。それにそういやあんた、付き合ってるらしいじゃない。春日陽葵ちゃんと」

 またしてもぎくっとした。こいつは痛いとこばっかり的確に突いてきやがって。

「大丈夫だって、陽葵には余計なこと何も話したりしてないから。普通に仲良くなったんだよ。同クラだし」

「ふーん・・。それならまぁ、いいけど・・。絶対に彼女の事は周りに話したらダメよ。守秘義務ってやつがあるの」

 
 姉はそう言ったけど、伺う様な目を向けてきた。明らかに疑ってるな。




 ────春日陽葵が『ひまわり』というペンネームで作家活動をしている事を俺が知ったのは、入学間もない四月の事。


「見てよ央。このひまわりって作家さん、あんたと同じ東浪見(とらみ)高校の一年だって」


 彼女が活動している小説投稿サイトは、姉の勤める出版社が運営している。そのサイト上で開催された優秀作品に選評と景品をプレゼントするという学生作家向けのイベントで、彼女の作品が選出されたのだ。職業欄に書かれた『東浪見高校』の文字を見つけて、姉は思わず俺に話してしまったのだろう。少し興味を引かれた俺は、姉の開いたPCの画面を盗み見た。景品を送付する関係なのだろう、作家本人の本名と住所、職業欄などの埋められたデータの中で、俺は『春日陽葵』の文字を確認した。

(かすが・・ひまり。女の子か。そんな子居たっけな・・)


「この作家さん、文章が綺麗で読みやすくて、もともと推してた子なの。まぁ、まだちょっと話の内容の重みというか、経験不足なのかなって感じはあるけど、それはこれから年を重ねれば自然と解消されるものだと思うしね。今の時代って年とか関係なく発信できるツールがあるって凄い強みだよね。世界が広いっていうか。あんたも何でもいいから、新しい事にでも挑戦してみたら?」


 姉が俺にそんな事を言ったのは、多分俺が────色々見失っていた事に、何となく気がついていたからなのだろう。

 今まで当然そこにあると思っていたものが、突然崩れて指の中をすり抜けて行った。また同じものを積み上げるべきなのか・・

 だけどそもそも、同じものなんか作れないんじゃないか────?


 何も分からなくなって、俺は今も呆然と立ち尽くしている。そんな本音から目を背けて、ただ何となく日々を過ごしている。





「春日陽葵さん」

 答案用紙の返却時に教師が口にした名前に、俺はハッとして顔を上げた。それはあの時姉が、作家活動をしていると話していた女の子の名前・・。

(い、居た・・。しかも同じクラス!?)


 特に手を加えてなさそうな、肩くらいの黒髪ストレート。芽留達と違って制服のスカート丈も長めで着崩したりとかしてない。なんつーか地味な印象の女の子。

 全然気が付かなかったし・・。こんな子居たっけ? 今まで話した事無いよな多分。とりあえず話しかけとくか。


「春日さん」

 席に座って窓の外を眺めていた彼女に声をかけると、彼女はこちらを振り向いた。・・まるで信じられない異形のものでも見た、という表情で・・。


(・・ん?)


 なんか快く受け入れられてはいないような・・。まぁいいか。気を取り直して話を振ってみると、彼女は俺から目を逸らして下を向いた。

「春日さんてさ、どこ中なの? この辺の学校?」

「・・遠いので、言っても分からないと思います」

「へぇ。家どの辺なの?」

「・・電車で一時間くらいかかるので」

「えぇ? なんでうちの学校選んだの?」


 その質問をした時、下を向いていてよく見えないながらも彼女の顔が、強張った様な気がした。

 あれ? これなんか、聞いちゃダメなやつ────・・


「アレ?央〜、どこ行った〜?」


 後ろで聞こえた芽留の声に俺は振り返った。すると芽留の方も俺を見つけて、こっちに手を振った。

「いた〜! ね、今日みんなでマック行かん〜?」

「あー、いいよ。じゃあ春日さんも・・」


 振り返ると、春日陽葵の姿は既にそこから消えていた。

(あれ? 消えた??)


「何してんの? わざわざ人の席座って」

「いや、今ここに春日さんが・・」

「あー・・春日さんて、いっつもそんな感じだよね。なんか暗くて、存在消してるっていうか」


 芽留と一緒に寄ってきた紗奈が、あまりいい感じではない顔でそう溢した。それから俺は春日陽葵の事が何となく気になって注目するようになったのだけど。

 紗奈の言った通り、春日陽葵はいつも一人で過ごしていた。休み時間は一人でボーっと外を眺めている事が多く、昼になるとひっそりと姿を消す。まるで誰かに話しかけられることを避けているみたいな・・。


(なんでだろ。友達とか欲しくないんかな?)


 その時頭に浮かんだのは、かつての記憶。



 幼い頃の夏樹────口数少なく、見た目が女の子の様に可愛らしかったあいつは、小さい頃はいじめられっ子で。友達もあまり居ないあいつを、俺はなんとなく心配で気に掛けていた。ある日俺の友達が家に遊びに来たとき、俺は夏樹にこう声をかけた。

「今から友達とゲームやるけど・・お前もやる?」

 だけどあいつはキッパリとこう言った。

「海行くからいい」

「お前さぁ・・そんなだから友達できねーんだよ。ちょっとは自分からさぁ・・」

「別にいいよ。ゲームとか興味ないし。サーフィンの方が楽しいから」


 その時の何かを悟った様な揺るぎない眼────子供心に俺は、カッコいいなって思ったんだ。


「サーフィンて・・そんなに楽しいの?」

「うん。央も今度やってみる?」


 それが、俺がサーフィンを始めたきっかけ。あいつに着いて海へ行ったら芽留も居て、そこから俺達は三人で海に入る様になった。


 夏樹には子供の頃からサーフィンていう揺るぎない一本柱みたいのがあって・・俺と違って欲しくもないものに、やたらと手を出さないんだ。そういう強さみたいなものがあいつにはあって。

 本当に大事なものだけ────ちゃんと離さないように。だから信用できる。俺はきっとあいつの数少ない、大事なものの一つなんだと。



 春日陽葵と夏樹は、なんだか似ている。