修学旅行初日。俺は栞とのデートにワックワクしながら栞を待っていた。

 「修学旅行休む」と父さんに言うと、二つ返事で了承をもらった。高校時代にいい思い出がないのか、あまり口うるさくないのは年頃の男子としてはありがたい。

 「ちゃんとリードして下さい」と言われた割にデートプランは栞に任せっきり。おおよそ、自分がデートに誘ったとは思えないほどである。

 がしかし、変に張り切って空回りするよりかは賢い選択だろう。そういった経験がないのなら、無理に前を張るべきじゃない。と、奥から小走りで栞が向かってくる。

「すみません、お待たせしました」

「ううん、今来たところだから」

 なんてありがちな会話をしながら彼女を見ると、珍しい薄化粧に視線が止まった。普段より赤みがかった頬に、後ろまで編み込まれた三つ編み。なかなかに似合っている。

「化粧って久遠からのプレゼントの物?」

「そうです。使ったのは初めてじゃないですけど、人に見せるのは初めてで……どう、ですか?」

 褒め言葉を待っているのか、チラッとこちらの顔色を伺ってくる。メイクとか関係なしに可愛い人が、可愛くメイクして可愛くないわけがないでしょ。

「いいと思うよ。凄く……いいと思う」

「じゃあ、気合い入れて来た甲斐がありましたねっ」

 腰あたりでガッツポーズを作る彼女。ここまで明るい栞は久方ぶりだ。楽しみにしていたのは嘘じゃなかったらしい。

 口下手の褒め言葉でもそれなりにご満足されたようで、スキップ気味に歩いて行く。

「どこ行くの?」

「まずはカフェ行って、その後に海に行きます」

「ほぉー」

 ハトみたいな返事をしながら、うんうんと頷く。海か……いいじゃないか。この季節だから入ることは出来ないだろうけど、潮風に吹かれるのも悪くない。

「寺内さんは修学旅行どこ行ったんですか?」

「海外だって。ただでさえボケてるのに時差ボケになったらやっていけるのかな」

「本人が聞いたら絶対怒りますよ」

 それは間違いないと思う。そして何かしらの反撃をしてくるところまでは絶対だろう。頬を膨らませる久遠を想像して一人で声を殺して笑う。

 気づけば目的地に着いていたようで、小さなカフェが目に入る。扉を開けると、カランカランと乾いたベルの音が鳴る。スタンダードな落ち着いたカフェだ。

「何食べます?」

「コーヒーばっかりだね……。苦手なんだけど」

「すいません、あんまり好きじゃないの知りませんでした……」

「あっ、いや、気にしないで。他にもスイーツとかあるし、子供舌の俺が悪い」

 デートコースを考えてもらったのにも関わらず、愚痴を言う始末。やらかしてしまって胸がざわめく。こういうところが俺のダメなところなんだろう。

 執事のような店員さんがスタスタと注文を受けにきてくれる。

「いちごパフェ一つお願いします」

「俺は…………コーヒー一つ」

「種類は何になさいますか?」

 種類とかあるんですね。分かんないです。父さんのコーヒーを淹れることはあっても、飲む方は好きじゃないのもあって詳しくはない。どのブランドがどうこうとか言ってた気がする。

「えー、ブランドで」

「プッッッ」

 栞が声を殺して笑う。漏れ出る笑いの理由が分からず店員さんに視線をやると、ゴホンと咳払いをした後「ブレンドですね」と訂正して帰って行った。

「ブランドっ……ブランドって……あー、ダメだ、お腹痛い。しかもコーヒー嫌いなのにですか? 自信満々に『ブランドで』って、何個ギャグ重ねがけするんですか」

「別に笑わせるつもりは無かったんだけど」

 栞は流れてるジャズをかき消すかのように身を捩りながら笑う。微量の怒りと大量の恥ずかしさで俺の顔は人様に見せられたものじゃない。

 揚げ足を取られるのは好きではないけれど、一周回って俺も笑いたくなってくる。

「もういいでしょ……」

「そうですね、ごめんなさい。でも良かったです。修学旅行よりこっちの方が絶対楽しいと思います」

 それなら俺が恥を晒した意味もないではない。なんならそのために間違えたまである。ひとしきり笑った栞は真っ直ぐに俺の目を見る。

「雪村くんのこと、もっと教えて欲しいです。好きなもの、嫌いなもの、得意なこと、苦手なこと。一緒にいるのに知らなくて……ちょっと寂しかったです」

 先ほどのコーヒーの件だろうか。気にするなと遠回しに言うためにコーヒーを注文したのだけど、それでもやはり気に病むらしい。

 先ほど、俺に恥をかかせてくれた店員さんがパフェとコーヒーを置いてくれる。どうやらこれがブレンドコーヒーらしい。

 俺はコーヒーを一口飲んで、後味を吐き出すように話し始める。

「そんなに面白いものでもないけどね。読者が好きで一人が好きで、コミュニケーションが苦手で人混みが嫌い。大人ぶってて、子供舌の一般男子高校生」

「そういうのじゃなくて、寺内さんなら、もっと上手く出来たのかなって」

 確かに、俺と久遠は小学生の仲だし、互いのことも他の人に比べちゃよく知っている。けれど、それで悲観されるのは何故か少し嫌だった。

「久遠とは仲良いけど、小学校の頃は水泳やってたから放課後遊ぶとかも無かったし、中学からバスケ初めてもっと忙しくなったから言うほどだよ」

 注釈と言うべきか、矮小と言うべきか。否定したくなった気持ちが先走って出た言葉で栞の言葉を待つ。

「それでもです。雪村くんのこと、もっと知りたいんです」

 パフェをちょっとずつ頬張る栞を横目に、コーヒーシュガーを手に取る。

「面白い話じゃないけど聞く?」

 普通なら「デートなんだから面白い話しろよ」なんて言われそうだけど、栞はそんな顔を一切せず、真剣な眼差しを向けてくれる。

「俺は嫌いなものから逃げるタイプなんだと思う」

 重くなりそうな空気を感じながら、コーヒーを混ぜる。渋い匂いが鼻を刺して、沈んだ顔に顰めっ面が顔を出す。

「人が苦手なのは物心ついた時から。人見知りで恥ずかしがり屋で、気づけば孤立してた」

「分かりますよ。その気持ち」

 彼女はスプーンいっぱいの生クリームにかぶりつく。

「中学の時やってた陸上もそう。県大会優勝していい感じだったけど、最後の地方大会でボコボコにされて辞めた。それで栞と会えたんだから御の字かな」

 俺はあからさまにフォローを入れながら、甘々になったコーヒーを飲む。陸上を続けていたら、栞と知り合っても、デートするような仲にはなっていないと思う。そう考えれば人間万事塞翁が馬というのは、案外的を射ているのかも知れない。

 俺の不用意な発言で傷つけてしまったのもあり、少しでも気にしないようにと笑顔を作る。

「私も話した方がいいですか?」

 甘いものを食べて機嫌が治ったのか、思い詰めた様子は消え、俺にそう問う。けれど、その目は少し俯きがちで、悩んでいるよう。

 孤児だからというわけではないが、きっと過去に辛い出来事や紆余曲折があったはず。それを言おうか迷っているのかも。俺は彼女の意思を尊重するように答えた。

「言った方が楽になるなら聞くし、言いたくないなら言わなくていいよ。俺は今の栞を知ってる。それだけでいいでしょ?」

 正直なところ、知りたいという気持ちが無いわけではない。けれど、ノートの一件や親との関係は知りたくないなとも思ってしまう。

「……いいんですかね? それだと、雪村くんは今の私しか知らないじゃないですか」

 話の腰を折るなと言いたげに声を沈める。だが、話を聞いたからといってその人を知った気になるのは傲慢だと思う。なら、その何倍も一緒に過ごした時間の方が大切。

「確かに俺は十年前の栞を知らない。でもさ、一緒にいれば《《今》》って増えてくでしょ? 今日の栞を明日の俺は知ってる。そうやって増やしていけばいいんだよ」

「そう……ですね。ごくごく稀にかっこいいこと言うんですから」

 どうしてちょっと棘があるの? 首を傾げて呆れるように笑う彼女。そんな笑顔を向けられたら多少の言葉も許してしまいそうになる。

 俺のことを話して、コーヒーを飲んで。それなりに時間が経ったので、これにて店を出ようと思ったが、まだ栞はパフェを食べていた。パフェって案外量多いもんね。

「その…………『あーん』してくれません?」

「嫌ですけど」

「リードして下さいよ」

 それを言われると堪える。着々と溜まっているであろうマイナスポイントを消すためなら致し方なしか。

「分かった。早く終わらせよう」

 スプーンを手にとって、いちごパフェを掬う。ほんのりと甘い香りが余計に現実味を感じさせる。

 栞も耳まで赤くして口を鯉のように開けている。目を瞑って生クリームを待ち侘びる様子はもうヤバい。

 語彙力を失いながらも、小声で「あーん」といって小さい口にそっとスプーンを入れる。ハムっと咥えて美味しそうに頬張った。

「ふふっ、美味しかった。ありがとうございます」

 今だに手が少し震えている。少し俺には早かったみたい。恥ずかしさに耐えて勇気を振り絞ったからか、すごく顔が赤い自信がある。もう二度としないでおこう。

「もう一回、お願いします」

「御意」

 俺は再びスプーンを手に取る。唇についた生クリームをペロっと舌なめずりして拭う仕草がやけに絵になる。

 その後、照れながら食べさせてあげ、完食すると店を後にした。まだまだおやつの時間を過ぎたばかり。ここからが本番と言わんばかりに栞は前を歩いてゆく。

「じゃあ、バス停行きましょう。夕日見るの楽しみなんです」

「いいね。向こうでも遊べるし」

 正直、星も夕日も写真と変わらないんじゃないかと思うタイプ。けれど、それを見てはしゃぐ彼女は隣にいないと見ることはできない。

 静かに心躍らせながら栞について行く。けれど、裏道の近くを通った時だった。

「お母さんっ……! お母さんどこにいるのぉっ? ううっ……お母さん!」

 幼い子の母を呼ぶ声。栞はピタッと足を止める。やろうとしてることは、聞かずとも分かった。俺の方を振り返ることもせず、一方通行かのように子供の元に足を動かす。

 彼女の優しさも彼女の強さも、やっぱり俺は知っている。

「大丈夫ですか? 私たちが一緒にお母さん探してあげますよ」

「うぅ……っ、本当?」

「はい、だから泣かないで」

 目をウルウルと輝かせて見上げる男の子を、栞は宥める声で諭す。パッとみた感じ小学生より少し幼いぐらいだろうか。半袖半パンで、焼けた肌は子供ですと言わんばかり。

「お名前は?」

「僕、空斗(そらと)です。その……お母さんと逸れちゃって……」

「私たちが来たから大丈夫ですよ。私は綾波 栞です」

 空斗くんが俺に視線を移す。

「俺は雪村 蓮。よろしく」

 手短に挨拶を済ませて、彼から事情聴取をする。どうやらお母さんと買い物に来ていて、気づいたら一人ぼっちだったらしい。

 駅の近くということもあり人が多いため簡単に解決する問題じゃなさそうだ。ここは交番にでも届けるのが一番手っ取り早い。

「俺は交番に行くのが良いと思うんだけど……どう?」

「警察……? 僕、怖いことされるの? 嫌だ!」

 栞が返事をする前に空斗くんが駄々をこねる。お母さんに会いたいならそれが最善なのに、どうやら子供というのは聞き分けが悪いらしい。

「雪村くん、ちょっとは嫌そうな顔隠してください。警察連れて行きますよ」

「俺が連れてかれるのかよ」

 この際、迷い子ごと警察に放り投げたいのだけど、栞の前なので辞めておく。

「ひひーっ、犯罪者、犯罪者」

 空斗くんが俺を指差して笑う。子供だし、本当に思っているわけでもなさそうなので笑って応える。と、同じように栞も俺に指さしてくる。

「ふふっ、犯罪者さん、犯罪者さん」

「その指へし折っていいかな?」

「ごめんじゃん!」

 空斗くんが一連の流れを見て「あははーっ」と声を上げる。もう落ち込んでは無さそうだ。

「お姉ちゃん、どこから探すの?」

「そうですね……買い物しにきたんだったらショッピングモールを見てみましょうか」

 子供にも律儀に敬語なんだな、なんて思いながら彼女達について行く。側から見れば、二人は姉弟のよう。パッチリとした目と長いまつ毛。童顔だからか少し似ている。

 けれど、もっと空斗くんに似ている人を知っている気がする。と言っても俺が知ってる子供なんて一人もいないので気のせいだろうけど。

 ショッピングモールに着くと、キョロキョロと三人で辺りを見回しながら歩く。

「お母さんってどんな服着てたか覚えてる?」

「白い服だったかな……? あんまり覚えてないや。えーっとね、凄い美人なんだよ。あとね、あとね、花のいい匂いがするの!」

 身振り手振りで大袈裟に表す空斗くん。これだけでお母さんがとても好かれていることが分かる。

 俺も彼女も家庭は少し複雑。天真爛漫な空斗くんを見て、僅かながら羨ましく思ってしまう。

「そっか、じゃあ白い服の人を重点的に探そう」

「では私は花の匂いがする人を重点的に探します」

「栞は犬か何かかな?」

 ショッピングモールを闊歩していると、喉が渇いてくる。秋になると乾燥した空気が鬱陶しい。

「空斗くん、喉乾いてない?」

「ちょっとだけ」

「了解、ちょっと待ってて」

 俺は近くの自販機まで、怒られないスピードで走る。泣き叫んでいたのだから乾いていて当然だ。あのぐらいの子ならジュースの方がウケは良いかな。

 二人のもとに戻ると既に空斗くんがキラキラとした目をこちらに向けている。この歳の子だと親は厳しくなりがちだし、ジュースを貰えるのが相当嬉しいのだろう。

「オレンジジュースかメロンソーダか選んでいいよ」

「メロンソーダ!」

 元気に答えるので、メロンソーダを差し出すと「ありがとっ!」と元気いっぱいで帰ってくる。

 なぜ子供の笑顔はこうも元気が出るのだろうか。あまり子供は好きじゃなかったけど、今日だけで随分意見が変わった気がする。

「はい、栞はオレンジジュースね」

「えっ? いいんですか?」

 キョトンとしている栞に下投げでオレンジジュースを渡す。

「俺はコーヒー買ったからね」

「ブランドコーヒーですか?」

「オレンジジュース返して」

 じゃれあいながら再び歩みを進める。それでも、広大なショッピングモールの中から一人の人間を探し当てるのは困難を極めた。

 白い服の人以外のまともな情報が無い中でできることなんて、せいぜい周囲を睨みつけるぐらい。

 ジュースを買ってあげたことで好感度が上がったのか、空斗くんは栞だけでなく俺とも手を繋いでくれた。

「こうしてると親子みたいですね」

「お姉ちゃんがお母さんでお兄ちゃんがお父さん!」

「複雑な家庭だ」

 反射的にツッコミを入れると、栞がムーッと睨んでくる。

「空斗くんの教育に悪いですよ」

「揃って俺に犯罪者とか言ってた人が何言ってるの」

「それはそれ、これはこれ、おにぎりはシャケです」

「おにぎりは梅干しだから」

 空斗くんの頭の上で会話する。一人ひとりの距離はあるけど、栞と手を繋いでいるみたいでむず痒い。

「喧嘩しちゃダメだよっ! お姉ちゃん達は結婚するの!」

「結婚って……空斗くん、私たちはまだ結婚できないよ」

「そっかー。でも付き合ってるんでしょ?」

 空斗くんの一言に俺と栞は目を合わせて固まる。顔が熱い。普通に付き合ってないって答えたらいいだけなのに、そういう仲に見えたって事実だけで嬉しいような恥ずかしいような。

 彼女も同じなのか、鏡のように俺と同じく顔を染めている。

「そ、そう見える?」

「うん! ラブラブ!」

「そうかな……、そうですよね……。それより、空斗くんは好きな女の子いるんですか? お姉ちゃんに教えてください」

 耳まで薔薇色に染め上げた彼女は、露骨に話を逸らす。ここは乗っからせて貰うとしよう。

「空斗くんモテそうだもんね。ここだけの話どうなの?」

 すかさず加勢に入ると、空斗くんは腹黒い大人達の策に流されて話し始める。

「えっとねぇ…………いるぅ……」

 空斗くんは体をクネクネと動かしながら悶える。三人とも、顔を赤くして真昼間から恋バナをするのは奇怪と言わざるおえない。

 結局有耶無耶になったけど、栞は俺との関係をどう思っているのだろうか。今日も一応はデートなんだし、恋愛的な目で見られていても……。いやいや、ただの友達だって。外から見てラブラブっていうのは、年頃の異性が二人で歩いていたらそう見えるもの。

 変に脈打つ心臓に言い聞かせながら、母親探しを続行する。

「早く見つけないとですね。そうじゃないと私が空斗くんのお母さんになっちゃいます」

 訳のわからないことを言う栞を最後に、いよいよ本腰を入れて探し始めた。けれど、子供用の場所や人が多い所、広場や服屋など色々見回るもなかなか成果をあげられなかった。

 結局、二時間もしないうちに疲れ始め、迷子センターに吸い込まれていった。初めから来るべきはここなのだけれど。

 そこでアナウンスをしてもらい、空斗くんの対応をしてくれた。これで俺たちはお役御免。一件落着だ。

「じゃ、いい子にしてるんだよ」

「お兄ちゃん、もう行っちゃうの?」

「そうですよ。最後まで見届けて上げましょう」

 確かに、ここで帰るのも後味が悪いか。空斗くんのクルリとした目に背中を押され、とりあえず近くの椅子に腰掛けた。

「お姉ちゃんたちって高校生?」

「そうですよ」

「もう大人だね。将来の夢とかあるの?」

 二人の会話を聞きながら、時計の針をじっと見つめる。俺としては栞が行きたいと言っていた夕日を一緒に見たいと思う。けれど、時間はもう五時半を過ぎている。日が暮れるのももう時期のはず。俺の願望を置いていく様に、時計の針は時間を進める。

「将来ですか……私はどうでしょう。でも、今が一番幸せだって、そう言える気がします」

「栞って夢ないんだね。将来見据えてるタイプだと思ってた」

 二人の会話に割って入ると「そうですか?」と意外そうに反応される。

「ほら、栞って未来の話とか好きでしょ? だから将来のこととか考えてるのかなと」

 数ヶ月前から誕生日交換会の約束をしたり、まだ決まっても無い父さんとの面会に妄想を膨らませたり。俺は少なからずそういった印象を持っていた。

「そう……ですかね? 私はこう見えて今が一番大切だと思ってますよ」

「えー、将来が大切だよぉ。だってお母さんも先生も将来のためにしっかり勉強しろってうるさいもん」

 空斗くんのカウンターに栞は苦い顔をする。それが面白くてつい失笑してしまう。

「俺もどちらかと言えば将来派かなー。なんて言いつつ大学とか全然決めてないけど」

「えっ? 雪村くんも今の方が大切だと思うタイプだと……」

 栞の言う通り、今このデートにおいては間違いなく大切にしてると言っていい。けれど、やはり長い人生においてはその限りではないと思う。

「どうして?」

「いえ……気づいてないなら……いいんですけど。なんかちょっとショックです」

 嘘……何やらかしたっていうんだ。心当たりが全く無い。本に生きる俺にとっちゃ時間軸なんて些細な問題と言いたいのだろうか。いや、わけ分かんないな。

「ええ…………」

 俺の困惑した声を掻き消すように、迷子センターのドアが勢いよく開いた。

「空斗っ! 大丈夫っ!?」

 そこには、白いコートを手に持った二十代中頃の女性が肩で息をしていた。

「お母さんっ!」

 親子の感動の再会。涙目になっている空斗くんも見どころだが、空斗くんの母親に目が行った。

「お二人が空斗を届けてくれたんですか? 本当にありがとうございます。感謝してもしきれません。あっ、この前お店に来てくれた人ですよね」

 深々とお辞儀をした彼女は、俺の顔を見て手を打つ。そう、空斗くんの母親は、以前久遠と誕生日プレゼントを買った日に助言をもらった店員さんだったのだ。

 誰かに似ているとは思っていたが、それは分からないわけだ。一度見ただけで名前も覚えていないのだから。

「お久しぶりです。あの日はありがとうございました」

「えっ、知り合いですか!? あの雪村くんに?」

 馬鹿にしてるでしょ。知り合いは少ないし否定はできないけれど、それでも酷くないだろうか。

「一応知り合いだよ。花屋の店員さんなんだ」

「雪村くんって花屋行くんですか? 似合わないって言葉はこの時のために作られたんですね」

「罵倒のバリエーションだけは多いね」

「初めまして……でいいんですかね? 楠木っていいます。そちらの方は月下美人の子ですか?」

 空斗くんの母親は住んだ声色で俺に尋ねる。確か、栞の誕生花が月下美人という花だから、そう覚えられているのだろう。

「ですね」

「私が美人ですか? ふふっ、照れちゃいます」

 そういう意味じゃないんだけど、自惚れに近い表情を浮かべている彼女にそれを言うのは野暮ってもんだ。

「お母さん、お母さん。お兄ちゃんにジュース買ってもらったんだよ」

「そう、良かったわね。あの……これ、少ないかもですけど……」

 そう言って差し出す楠木さんの手には津田梅子が一枚差し出されてあった。

「いえいえ、当然のことをしたまでですし、俺も楽しかったので大丈夫ですよ」

 ここは社交辞令に準え断りを入れておく。何もしていないとは言わないが、お礼を貰いたかったわけでもない。

「当然と言うならお礼をするのも当然でしょう。受け取ってください」

 彼女に言い負かされ、渋々五千円を受け取る。その後、もう一度深くお辞儀をすると、手を振る空斗くんを連れて、帰って行った。

 俺たちもそれに続きショッピングモールを後にする。

「良かったですね」

「うん」

 まだ僅かに青い空を見ながら相槌を打つ。

「もうバス無くなっちゃったみたいです。でも、今から行っても間に合わなかったかもですし、残念ですけど諦めましょう」

「そっか……」

 もの惜しそうに西の空を見つめる栞が酷く脳に焼きつく。自分に言い聞かせるように「今度の機会に」なんて、諦めたように笑う。彼女のその笑顔、あまり好きじゃない。

「もしさ、まだ夕日が見れるって言ったらどうする?」

 空斗くんの母親からお金を貰った時から考えていた。なにも、バスが無くなったからって夕日が消えたわけじゃない。

「どういうことですか?」

「タクシー代、貰ったからね」

 変に格好つけながら、人差し指と中指に五千円を挟んでそう言った。俺たちのデート、終わらせるにはまだ惜しい。

 タクシーに揺られること小一時間、俺たちの高校から少し離れた海辺は風通りがよく、潮風が心地いい。

「ここで大丈夫ですかね。料金は七千円です」

「じゃあこれで…………」

 俺は丁度払い、タクシーを降りる。全然足りないじゃねーか。予期せぬ二千円の出費に驚きつつ急足で海に向かう。

「すいません、千円払います」

「これぐらいいいって。それより早くしないと沈んじゃうよ」

 既に赤い太陽は浅瀬に足をつけている。茜色に染まった空と、それを反射する海がグラデーションを描く。そんな、ただ海に陽が沈むだけの景色に、俺は息を呑む。

「あそこに座りましょう」

 栞は防波堤を指差しながら、こちらを向く。笑顔で応じて一緒に座ると、肩が触れ合って、ふいに手が重なった。

「ふふっ、照れてますね?」

「夕日のせいだよ。俺は知らない」

 重なった手を離して弁解する。けれど、コンクリートの塀は冷たすぎて、すぐに手の温もりが恋しくなる。

 彼女の手を握る勇気も覚悟もない俺は、栞の手を見つめることしかできない。

「綺麗ですね」

「うん」

 俺たちの見る景色に、言葉は必要なくて。それでも、互いの存在は必要で。そんな確証のない思いが寄せては返す。

「連れてきてくれて、ありがとうございます」

「いいってことよ」

 ゆっくりと沈んでいく夕日を見ながら、少ない口数を許すように肩を寄せる。隣を見るのが照れ臭くて、明るい夕日を目に焼き付ける。ただ、すんっと鼻を啜る音に目をやれば、彼女の瞳から細い涙が伝っていた。

「ちょっと、胸貸してくださいっ……」

 絶景に感極まったのか、夕日に何か思ったのか、栞が静かに俺の服にしがみついた。その子猫の様な怯えた様子が保護欲を掻き立てる。

 そっと、左手で背中を支え、もう片方の手で後頭部を優しく撫でてやる。どうして涙を流しているのかは分からないけれど、聞かなくていい。知らなくていい。きっと、それは今じゃない。

 時々、鼻を啜ったり、服を強く握ったりして、身を委ねた。ヒクヒクとした小さな揺れを左手に感じながら、俺は背中をさすり続ける。そうして数分、彼女は泣いた。

 もう夕日が半分は顔を隠した頃、彼女は俺に笑ってみせる。

「私、泣いてばっかりですね」

「泣くぐらい誰だってするよ。俺には告げ口する友達がいないんだから泣き得だ」

「聞いたことない言葉出てきました」

 そう言って小さく笑う。俺の軽口で笑えるなら無問題。ほんの数分、静かに泣いた彼女の気持ちも理由もその先も、何一つ分からない。それが少し怖くて、でも彼女の笑顔はそんな不安を吹き飛ばすぐらいに眩しくて。

 最後に笑えたならそれでいいかと楽観的に息を吐く。

「雪村くんって、意外と優しいですよね」

「そうかな?」

 謙虚でも遠慮でもなくて、本当にそう思う。今日も栞がいなければ空斗くんを助けていたとは言い切れない。

「名前を呼んでくれた日も、この前の雨の日も、今日も、雪村くんに泣かされてるんです」

「おかしいな、今は俺が優しいって話してたと思うんだけど」

「ふふっ、そういうところですよ」

 栞はぴょんっと防波堤から降りると、裸足になって砂浜を歩いてゆく。彼女の影は悠々と伸び、シルエットを浮かび上がらせた。

「ほら! 雪村くんも来てくださいっ!」

 吹っ切れた様子の栞に先程までの面影はない。掘り返して欲しくないだろうし、心の中に閉まっておこう。なんて考えながら俺も靴を脱ぐ。

「すごく冷たいですよ!」

「もうそろそろ冬だからね」

 波打つ海水が俺のくるぶしから下を急激に冷やす。どこまでも続く水平線、紫色へ染まり始める空、白い歯を見せて笑う彼女の姿。こんなの見惚れないなんて無理な話。

 栞と目が合いそうになって視線を逸らす。

「どこ見てるんですかー」

 ピシャッって音が冷水と共に飛んでくる。

「しょっぱ……急に水掛けって小学何年生?」

「私は猫派でーす」

 訳の分からないことを言いながら、栞はまだ湿気った俺の前髪を上げる。レンズ越しに目が合って、逸らしたくなるのを必死に堪える。そんな俺に、栞は自分の眼鏡を掛けさせた。

「もっと、見てください」

 初めて見る眼鏡を外した栞。前髪とフレームで隠れていた眉毛は大人らしくて、キリッとした目も魅力的。

 長年読書で培った語彙力を持ってしても、言葉だけでこの麗しさを表すなんて不可能だ。

「くっ……ふふっ……丸眼鏡似合いませんね。返してください。私のです」

「もう滅茶苦茶だ……」

 勝手に掛けられて、勝手に悪口言われた挙句、勝手に奪われたんだけど。水遊びに満足したのか、栞は元いた場所に戻っていく。

 脳裏では「見てください」と訴える彼女が浮かんでは消える。

 俺は間違いなく彼女を見ている。けれど、そんな俺でも少し前の涙の理由が分からない。掛けられた海水が乾いて、少し硬くなった前髪を触りながら栞のもとに戻った。

 湿った足の上から強引に靴下を履いて、もう一度海を眺める。もう夕日は溺れていて、最後の足掻きか、オレンジの空を魅せている。

「明日はどうします?」

「明日?」

 栞の言葉を無意識におうむ返しする。

「皆さんは何日も修学旅行に行くんですよ? もう一日ぐらい一緒にデートしましょうよ」

「いいけど……」

 それは喜ばしい限りだが、やはりデートという聞き馴染みのないワードが小っ恥ずかしい。

「明日は雪村くんがデートプランを作ってもらいますね」

「嘘でしょ? 無理だって。今日のハードルを超えられる気がしないし。もう一回言うよ、無理だって」

「じゃあ私は三回言っちゃいます。できます、できます、できます」

「そんな気合いでどうにかなる問題じゃないから」

 安直な考えをする彼女にまた笑顔が溢れる。本当に、どんな思考回路してるのか見てみたい。

 リードしろと言われた割に、俺はここにタクシーで連れてきただけだし、栞に満足のいく修学旅行の代わりを楽しんでほしいとも思う。けれど、俺の気持ちと可能かどうかは別なのだ。

「デートに誘った人が相手にスケジュール丸投げなんて、貴方、本当に葵さんの息子ですか?」

「父さんは関係ないでしょ」

「貴方、本当に葵さんの息子ですか?」

「ゴリ押すのやめて、分かったから。考えてみるけど期待しないでね」

 強引に押し切られたが、考えてみれば俺が作ったコースで栞の笑顔を見られるということ。夢みたいじゃないか。見方を変えれば少し楽しみになってきた。

「出ました。『期待しないでね』とか言いながら毎回合格点取ってくるんだから期待しちゃうんです」

「そんなに言ってる?」

 実は俺の行動原理はワンパターンなんじゃないだろうか。久遠にも俺が嘘をついたときの癖を見破られているし、怖くなってくる。

「そうですね。大吉ぐらいです」

「低いじゃん。期待しないでね」

「やったー! 大吉引きました!」

 微笑して、はしゃぐ栞からスマホに視線を移す。まあそろそろ帰っていい頃合いか。

「そろそろ帰ろっか」

「いえ、その……もう少し、一緒に居させてください」

「いいよ」

 そんなに可愛くお願いされると、まだいいかなんて思ってしまう。そして、気づけばどんな会話が始まるのか楽しみにしている。割と俺も乙女なのかもしれない。いやいや、流石に違う。

「そう言えば、雪村くんってモテるんですか?」

 予想していなかった話題に体が強張る。そんな直接聞く質問じゃない気がする。

「どうして?」

 はぐらかす質問も練度が低い。

「いえ、少し気になっただけです」

 顔を赤くする栞から目を逸らし、質問の答えを考える。昼に恋バナをしたばかりなのにスパンが短い。そんな高頻度でするものではないはずなんだけど。

「モテてはないんじゃないかな。一回だけ告白されたことはあるけど、それだけだよ。付き合ってもないし」

「寺内さんですか?」

「まさか、中学の頃の後輩だよ。名前は忘れたけど」

「酷すぎて笑えないんですけど」

 嬉しそうにしていた栞の顔が引き攣ったので、これ以上は要らないことを言わないでおく。

 でも、恋愛に疎いというのは本当のことで、人ひとりに好かれたぐらいでモテるなんて驕るほど自分に自信があるわけでもない。

「それぐらいだよ。失恋したことも、告白したこともない」

 「栞は?」と続けようとして、やっぱりやめた。聞いてしまえば、答えによっては何かが変わってしまう気がして。

「そうなんですね、参考になります。じゃあ、最後に私たちがここに来た証を作って帰りましょう」

 矢継ぎ早に立ち上がると、近くにあったペットボトルぐらいの長さの枝を二本手に取った。その一本を俺に手渡すと、その場にしゃがみ込む。

「何するの?」

「とりあえず屈んでください」

 俺が腰を下ろすと同時に、栞は不恰好な半円を砂浜に描いた。クエスチョンマークの上部分みたいだけど、何かはよく分からない。どこがどうなって俺たちが来た証になると言うのだろう。

「どうすればいいかな?」

「雪村くんってばこれで分からない鈍感くんなんですか?」

「どうしてそんなに棘あるの……。主人公の素質がある人は揃って鈍感なんだ。許してよ」

「主人公にしては個性も人脈も無いですけどね」

「はいはい」

 いつもの皮肉にはいつもの返しをしつつ、もう一度砂浜の曲線を見る。栞が「こうですよ、こう」なんて言いながら上へなぞっていくが、二つの意味で疑問符が濃くなっていくだけ。

「ごめん、ギブアップ」

「本当っ、しょうがないですねー」

 どこか嬉しそうにしながら、木の枝を持った俺の右手を、左手でそっと握る。そして、栞はそのままその線を鏡文字の様に左右入れ替えて繋げる。すると、綺麗なハートマークが砂浜に浮かび上がった。

 手を重ねながら笑う彼女を見て、ふと想う。

––––俺は多分、彼女が……。

 名前を付けたくないこの気持ちが膨らんでいく。知りたくなかった。自覚してしまったら、きっと歯止めが効かなくなる。理解してしまったら、きっと今までのようにはいられなくなる。

 顔が赤くなって、触れ合った手が熱くなって、この瞬間が甘くなって。

「照れてます? 顔赤いですよ」

 ふふっ、と笑う彼女を直視も出来ない。

「全然、分からなかったよ」

 できるだけ平然を装うけれど、今の俺はずいんぶと締まらない顔をしていると思う。

 こんな感情、俺は知らない。言葉一つで足りるほどの想いじゃないとも思うし、それぐらいが自分の器に合っている気もする。

 何も変わっていないのに、世界の色が変わって見えて、鼻をつんざく潮の匂いがやけに甘く感じられる。

 隣を歩くだけでドキドキするし、今の今までどうして平気だったのかが分からないほど緊張する。ぎこちない会話もグダグダで、頭の整理が追いつかない。

「帰りましょうか」

「うん」

 バス停までの距離を歩く間、センチメンタルな気分にあてられる。やっぱり、さっき栞に恋愛経験があるのか聞いておけばよかった。

 こうなってしまったら聞けたもんじゃない。過去の俺はどうにも気が利かない。小さく吐いたため息も答えは教えてくれないし。

「では、また明日。連絡待ってますね」

「うん、またね」

 デートコースとかそれどころじゃないのに、明日を迎えられるかどうかも怪しいほど胸の中はチグハグなのに。その何倍も次の日が楽しみで、そこまで含めて雁字搦めで。

 隣に風が吹き抜けていく感覚を久しく思いながら、夜空を仰ぐ。

「俺ってこんなに可愛かったかな」

 呟いて、気持ち悪さで嘲笑する。俺が可愛いなら彼女はどうなるんだって話。重くなったり軽くなったりする足を弾ませながら、明日を最高のデートにすべく久遠に電話をかけた。

『もしもし、蓮から電話なんて珍しいね。どうしたの?』

「あー、ごめん。今ちょっと大丈夫?」

『自由時間だから全然問題ないよ』

「そっか。ありがと、明日栞とデッ……遊ぶことになったんだけどオススメの場所とかない?」

『えっ!? 栞ちゃんだけずるい!』

 勝手にスピーカーになったのかと思うほど急に声量が上がる。質問に答えないのはいつものこと。拳一つ分スマホから耳を遠ざけて会話を再開する。

「久遠も修学旅行行ってるじゃん。それで、いいところ教えてくれない?」

『教えてあげるけど約束がありますっ! 修学旅行帰ったら私と遊ぼ!』

 溌剌とした声が飛んできて、思わず頬が緩む。小学生の頃と変わらないテンションで遊びに誘ってくるのがどこか懐かしい。

「了解、栞にも言っとくよ」

『いやっ……そうじゃなくて、久しぶりに二人で……なんて』

 打って変わって籠る声に言葉が詰まる。それでも、瞬時に吐き出しその場を凌ぐ。

「…………そうだね。二人でどこか行こっか」

『うん……女の子は占いとか好きだよ。あと……蓮と栞ちゃんだし漫画喫茶とか?』

「ありがとう、助かった。おやすみ」

『うん、おやすみ』

 電話を切って、腕を下ろす。早く終わらせたいと思ってしまった理由が分かってしまう。そんな俺がひどく嫌で、変に安心しているのを感じながら、右手の甲をそっと撫でた。

 今もまだ、今日と明日に思いを馳せる。