「二人とも久しぶりです。入ってください」

 ボロいアパートの三階、俺と久遠は栞の家にお呼ばれしていた。正しくは俺たちがプレゼントを渡しに来たわけだけど。

「お邪魔しまーす! 和室のいい匂いするねー!」

 体いっぱいに空気を吸い込む久遠を横目に俺は靴を脱いで玄関を上がる。

「蓮、上がってくんだ。私部活あるから渡すだけになっちゃう。栞ちゃんごめんね」

 久遠はいつも通り俺の目をマジマジと見つめながら、プレゼント片手にそう言う。確かにプレゼント渡すだけなら上がらなくてもいいか。

「いえいえ、わざわざありがとうございます。私も用意してるんでちょっと待っててください」

 栞はトタトタと足音を鳴らしながら奥の部屋へ入って行く。久遠の誕生日プレゼントを持ってくるんだろう。

 いつの間にかこの二人も連絡先を交換していたみたい。やり取りもそれなりに多いらしく、友達と言えるほどの関係にはなっていそう。

「何くれるのかな? やっぱり栞ちゃんはしっかり者だねー。誰かさんはもう十年の付き合いなのに渡してくれないし」

「パフェ奢ったんだけど……」

「知らないもーん」

 いやいや……悪びれる様子なくトッピングマシマシにしてたでしょ。その後も誕生日だからと気持ち悪い動物のガシャガシャ二回も回させてあげたのに。四百円だぞ、四百円。しかも一回で。

 心の中で悪態をついていると、栞が戻ってくる。右手にはラッピングされたプレゼントがフリルを揺らしていた。

「どうぞ。好みがあまり分からなかったので部活で使えるようなタオルにしました」

「めっちゃ可愛いね! 新しいの買わなくちゃって思ってたからすごく嬉しい」

 久遠は一度抱きしめたあと、丁寧にカバンに入れる。それと入れ替わりで栞への誕生日プレゼントを取り出した。

「私からはメイクセットですっ! 初心者用だからノーメイクの栞ちゃんでも簡単なはず。これでどんな男もイチコロだよっ」

 こちらも可愛らしい包装紙で包まれていて、店員さんにラッピングしてもらっただけの俺とは大違い。

 こんなのを友達の誕生日が来るごとに乗り越えるとか、女子高生マジ怖い。

「ありがとうございます。大切に使わせてもらいますね」

「うんうん! 来年はもっとしっかりお祝いするから覚悟しといてね」

「来年…………分かりました。覚悟しときます」

 一瞬、栞の顔が曇ったような気がして、胸騒ぎがする。けれど、普段通りを装う彼女に俺はそっと目を逸らした。

「俺からも……はい」

 彼女の表情を忘れるようにして、俺はカバンから軽くて薄い箱を取り出した。軽くて薄いが軽薄ってわけじゃない。ちゃんと考えた。

「なんです? これ」

「栞とブックカバー。使わなかったら机にでもしまっておいて」

 栞は和紙で夜空を写し出しているもので、ブックカバーは白色。黒猫が小さく描かれている可愛らしいものをチョイスしておいた。

「ありがとうございます! 絶対に使いますから」

「それは良かった」

「良くないよ。栞ちゃんだから栞って……安直すぎるでしょ。あと何回か(ひね)らないと」

 久遠が強めに指摘してくる。確かに安直だとは思うが、大喜利をしているわけじゃないんだし悪くないと思うのだけど。

 それに、花屋の店員さんも言っていたように、誕生日プレゼントは日常で思い出せるものを贈りたかった。

「じゃあ久遠の誕生日には面白いの渡そうか?」

 挑発気味に言うと、久遠は顔を赤く染める。

「くれるんなら……それでもいいかも……」

「物欲強すぎだから」

 俺がツッコむと、久遠は時計の方に目を逸らしてわざとらしく驚く。

「もうこんな時間!? ごめん、私部活あるから帰るね。バイバイ」

「じゃあ、俺も用は済んだし帰るよ」

 脱いだ靴に左足を突っ込むと、栞に服の裾を掴まれる。

「あの……この前貸してくれた本がもうちょっとで読み終わるので待っててくれないですか?」

 あの本か。眼鏡越しの上目遣いに俺の心はいとも容易く残ることを決意する。

「もうちょっとで終わるなら待っとくよ」

 俺の返事に久遠が声を出す。

「じゃあバイバイ、栞ちゃんプレゼントありがとっ!」

 久遠は勢いよく扉を閉めて、ドタドタと足音を響かせながら帰ってゆく。その音に二人揃って笑う。音だけだと足音が疑うほどだ。

「上がってください」

「お邪魔していいの?」

「もちろんです」

 リビングにつくと質素な部屋に、俺と同じ空気を覚えた。丸テーブルが一つにクッションが二つ。ぬいぐるみやアロマがあるわけではなく、趣味的なものは本棚だけだった。

 けれど、女子の部屋は女子の部屋。いい匂いはするし、緊張もする。キョロキョロと目を回していると声をかけられた。

「あんまり見ないでくださいね……恥ずかしいので」

「ごめん……」

 なにやってんだ。そりゃ恥ずかしいし、嫌だよね。ちょっぴり傷つきながら、自然に本棚に目をやった。ごめん、これは本好きのさが。

 頭の中で謝罪しながら書籍を見ると、最近の作品が多いことに気づく。恋愛小説や現代ドラマがほとんどでホラーやミステリーは数冊。

「その本、取ってもらってもいいですか?」

「うん」

 俺が貸した読みかけの本を手渡すと、栞は嬉しそうにブックカバーを付け始める。その景色に自然と頬が緩む。

 あと少しと言う割にはあの日から読み進めている様子はない。どうやらまだ時間はかかりそうだった。

 俺も適当に読んだことのない本を手に取る。いつもの通り、二人の間に会話は無く、各々の世界に入り込む。

 ふと彼女に目をやると、俺のプレゼントした栞を眺めながら笑みを溢していた。

「読まないの?」

「今いいところなんです」

 会話できてる? なんて、そんな頭に浮かんだ疑問を沈められないでいると、笑顔で説明し始める。

「物語の佳境を流し読みなんて勿体無いと思うんです…………」

 俺は長くなりそうな話から耳を塞ぎ、読書を再開する。彼女の熱演が終わると、さも聞いていたかのように牽制。これで完璧。

「––––ってことです」

「はいはい。確かにそんな感じするね」

「でしょ」

 もう一度、俺たちは本に読み(ふけ)る。気づけば七時になっていて、夕日も顔を(うず)めている。

 ぐぅ––––––––

 腹の虫の鳴き声で栞と顔を合わせる。顔を真っ赤にして、すぐに目を逸らす彼女はちょっと可愛すぎる。

「雪村くん、お腹鳴ってますよ」

「いや、二人で(なす)りつけてどうするの」

 ぐうの音も出ないのか、頬を膨らます。一挙手一投足がもう可愛い。ぐぅーの音は腹から出たわけだが。

「あとどれぐらいかかりそう?」

「十分ぐらい?」

「じゃあ待っとくよ」

 ここまで待って本を返してもらえずに帰るのは勿体無い。いや、栞の部屋を見れたから十分ではあるんだけど。

「ご飯食べて行きません?」

「えっ?」

 なんの前振りもない質問に素っ頓狂な声が漏れる。夕食をここで食べるということだろうか?

「もう七時ですし、一緒にご飯食べてから帰るのはどうかなって思いまして」

「そこまでお世話にはなれないよ」

「まだ何もしてないじゃないですか」

 至極真っ当なことを言われ、何も言い返せなくなる。

「でも遅くならない? 父さんに怒られるんだけど……」

「雪村家は厳しいんでしたね……あっ! 雪村くん作って下さいよ」

 栞の提案に待ったをかけようとするが、俺が作るという点意外に目を瞑れば問題がないことに気づく。

 俺だって伊達に父さんと二人暮らししてない。夕飯を作るぐらいお手のもの。人に自分の特技をアピールしたくなるのは仕方のないことだ。

「いいよ、そうしよう。冷蔵庫のもの勝手に使っていい?」

「大丈夫ですよ。あっ、タンスと間違えないでくださいね」

 どうして冷蔵庫の横にタンスがあるんですかね。冷蔵庫の中にはジャガイモにキャベツ、ひき肉しか入っていなかった。まともに作れるのはハンバーグくらいかな。

 ジャガイモを潰してひき肉と混ぜ合わせ、フライパンで焼くだけの簡単ハンバーグ。作るのに三十分も掛からなかった。焼き上がる間にキャベツを千切りして、皿に添えたら完成だ。

 栞も読み終わったらしく、ご飯をよそってテーブルに並べてくれた。それなりの完成度。俺も父さんと二人暮らしになってからは料理をしているので味には自信がある。

「すごく美味しそうです! 雪村くんって料理出来たんですね」

「手遊び程度だけどね」

「とりあえず手洗いしてきます」

 作り終わった後に手は洗っているので、箸を準備しておく。その時、机の上にあった黒いノートに目がいった。片付けておこうと手に取ると表紙には何も書かれていないことに気づく。

 本棚の下の方にはノートや教科書が置かれていたのを思い出し、戻しておこうと中を開いた。


『どうして? どうして私? 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。死にたい、死にたい。辛い、苦しい、気持ち悪い。嫌い、嫌い、怖い、恐い、痛い、痛い、痛い、しんどい。誰か、お願い、やだやだやだやだ』



 文字の大小も関係なく、ただ殴り書きされただけの字に言葉を失う。強い筆圧で縦横無尽に叩きつけられた文とも言えない言葉たち。

 それは見ているだけで気分が悪くなるほどの醜悪さを持っていた。時折り破かれていたり、鉛筆の芯で貫かれたりと、恐怖で吐き気すら催す。

「お待たせしました」

 彼女の言葉にそっとノートを元の場所に戻す。空気がヒリヒリしていて、やけに心臓の音がうるさい。

「何してたんですか?」

「……後片付けの準備かな」

「じゃあ雪村くんも手洗いしないとですね。タンスの中を見てたら足も洗ってくださいね」

「はいはい……」

 いつものように応じたけれど、いつもと変わらない彼女が怖くて仕方がなかった。冷たい水道の水が少し頭を冷やしてくれる。

あのノートは一体なんなのか。「死にたい」なんて普通書かない。部活のことであれほど悩んでいた久遠ですら、《《死》》と言葉が頭の中にあったとは思えない。

「雪村くん、ご飯冷めちゃいますよー」

「今行くー」

 嫌な思考にピリオドを打ち、振り切るように蛇口を捻った。リビングに戻ると栞は席に着いていて、待ちきれないといった様子。

「いただきまーす」

「いただきます」

 いつもの明るい声に続いて手を合わせる。笑顔でハンバーグを頬張る彼女が普段と違うように思えて、居心地が悪い。

 殴り書きされたあの悲痛に満ちた本音。頭にこびりついたそれをそっと夕食と飲み込んだ。

「ご馳走様でした」

「お粗末様でした」

 食事を終えると、別れの挨拶をかわす。

「また夏休み明けに会いましょう」

「うん、その日に今日の本返すよ。あと、誕生日おめでとう。言えてなかったから」

「ありがとうございます」

 首を傾げてにっこりと笑う。そんな栞を見ていて、また一瞬、あのノートが頭をよぎる。俺でも目を逸らしたい謎。彼女にとって、どれほど残酷なものなのか。


 こうして、《《綾波》》 栞にとって、最後の誕生日が終わりを告げた。