約束の日、俺は地下鉄のホームで綾波さんを待っていた。もう昼頃だが休日ということもあり、人も少なくない。

 そんな中、こちらに向かって歩いてくる女性が一人。視線がふっと彼女に吸い寄せられる。ベージュのブラウスに白色のスキニー。大人びていて、落ち着いた華やかさを持ち合わせた彼女は無論綾波さん。

「雪村くん、こんにちは」

「こんにちは。綾波さんってファッションセンスいいんだね」

「そうですか? ありがとうございます」

 えへへ、と少し頬を染めながら頭を掻く。守りたいこの笑顔。俺は彼女の半歩先を歩いていく。

「昼ごはんってもう食べたんですか?」

「俺は。父さんは食べてないと思うよ」

「ちょっと申し訳ないかも」

 少し声のトーンが落ちたので、「父さんは昼ごはん食べないんだ」と前髪をいじりながら、適当な嘘をついて誤魔化した。

「だいぶ緊張してきました。そうだ、葵さんの触れちゃいけないところってあります?」

「顔と男の急所かな」

「物理的な方じゃないよ!」

 綾波さんのツッコミを受けつつ地上に上がれば、日差しがこれ見よがしに存在をアピールしてくる。夏休みももう近い。

 ここから俺の家は徒歩十分ほど。父さんがどう出るかは俺にも分からない。

「礼儀にはちょっと厳しいから挨拶と敬語はした方がいいかも。あと高校時代のことは聞かないで。理由は分からないけどちょっと落ち込むから」

「分かりました、気をつけときます。葵さんと仲いいんですか?」

「どうだろ、普通じゃないかな」

 可もなく不可もなく。特段仲が良いわけじゃないけれど、もう二人で生活を始めて十年は経つ。(おの)ずと互いの距離も定まってくるもの。

「普通か……」

「普通が一番じゃない? 母さんがいないって言われたらそれまでだけど」

 足音が止まり、振り返れば綾波さんは本を読んでいる時のような沈んだ表情をしている。気付かぬうちに地雷を踏んでしまったのかもしれない。綾波さんのことをあまり知らないこともあって不確かな罪悪感が生まれる。

 なんとか機嫌を取り戻そうとしているうちに、気づけば家に着いていた。俺は扉を開けて綾波さんを先に家に入れてやる。父さんはもう準備ができていたのか玄関で待っていた。

「はっ、初めまして! 綾波 栞といいます。この度は、えーっと、よろしくお願いします!」

「初めまして。雪村 葵です。こちらこそよろしく。そんなにかしこまらなくて大丈夫だよ」

 父さんが聞いたことのない優しい声で綾波さんを宥める。もうすでに面白い。綾波さんも憧れの人に会えた嬉しさで先ほどの暗い表情は吹き飛んでいた。

 父さんがリビングに先導して、俺たちもあとに続く。席に着くや否や、綾波さんはあたりを見回している。

「父さんはコーヒーか何かいる?」

「先にお客様に入れてやれ」

 先に質問に答えてくれ。なんて心の中で反抗期を拗らせながら綾波さんの方を見る。

「綾波さんは何がいい?」

「お冷をお願いします」

 俺は頷くと滅多に使われることのない来客用のコップに水を入れ、氷を二、三個突っ込む。それと同時にコーヒーも淹れておく。背中の向こうではすでに綾波さんの質問攻めが始まっていた。

「早速ですけど質問いいですか?」

「遠慮なくして大丈夫だよ」

「どうして小説家になろうと思ったんですか?」

「子供の頃、母親が夜に本の読み聞かせをしてくれていまして、その中に心打たれた作品があったんですよ。それで、自分もこんな作品を書きたいなって思ったからですかね」

 父さんのコーヒーを用意しながら背中で二人の会話を聞く。綾波さんは今まで以上にカチコチだし、父さんも父さんで丁寧すぎる。自然と笑みが溢れる。

「どうぞ」

 そっとコースターの上にお冷やを置く。続いて父さんにもコーヒーを渡した。

 二人とも向かい合って座っているせいで俺の座る場所が無い。俺も父さんも一人好きなので客人は来ないし、コップや箸など最低限のものはあるが椅子なんてあるはずがなかった。

「じゃあ、俺は部屋で本読んでるから」

「えっ?」

 困惑した目で綾波さんが俺を見る。ここにいて欲しいと言わんばかりの瞳。その可愛い瞳をしまって欲しい。いや、目を瞑っても可愛いんだけど。

「こう言う時に場を納めるべきなのはお前だぞ」

「分かったよ」

「それより! 葵さんってペンネームの由来って何ですか?」

 この人、それよりって言いましたよ。俺は驚きつつもお皿にクッキーを盛り付ける。気配りとして食べやすいクッキーをチョイスしておいた。お菓子を出し終え、早速手持ち無沙汰になる。本、読みたいんだけど。

 気まずくなるんじゃ、という不安は必要なくて、父さんと話す綾波さんは嬉しさを隠しきれていない。父さんもそれは分かってるようで嫌な顔せず答えてくれていた。

「すみません、お手洗い借りても良いですか?」

「リビング出て左だよ」

 綾波さんがトイレに向かうと急な沈黙が部屋に訪れる。あまり喋る方ではない二人なので無理もない。このまま綾波さんが帰ってくるまで沈黙が続くのかと思ったが、父さんが口を開いた。

「蓮、女の子なら先に言ってくれ。結構びっくりしたんだからな」

「ごめん、言ってなかった?」

「まあ、いい子で安心した」

「お眼鏡にかなったようでなによりだよ」

 父さんもファンとの交流が少ない分、こういった機会が珍しく、機嫌が良さげだ。

「蓮も色々気が回せるようになったし、一安心だな」

 一安心というのは父さんも母さんとの別居に多少なりとも責任を感じての発言だろう。そこまで気にしなくても良いのに。

 正直なところ俺の母さんはテンションが高く、四六時中一緒にいると疲れる。

「おかげさまでコーヒーの淹れ方だけは目に見えて速くなったよ」

 遠回しにフォローを入れると同時に、父さんの携帯電話が鳴った。相手が珍しい人なのか焦った様子でスマホを耳にあてる。

「はい…………ん? 大丈夫? ……分かった、安静にしてろよ。すぐ行くから…………車で十五分ぐらい…………分かった」

 混乱しているのか腕時計と家の時計を交互に見ながら早口で応答している。明らかにおかしい。

「何かあったの?」

「母さんが怪我したらしい。ギックリ腰だから大丈夫だと思うけど、念のため病院に行ってくる。三時間もしないうちに帰れると思うから続きは栞ちゃんと相談して決めてくれ」

「分かった、事故には気をつけて」

 父さんは急足で家から飛び出して行った。俺の父方のお爺ちゃんは俺が中学に入る前に他界しており、お婆ちゃんに何かあったときは父さんが向かうことになっている。

 父さんと入れ替わりで綾波さんがお手洗いから帰ってきた。

「あれ? 葵さんは?」

「ごめん、急用ができたって。三時間ぐらいで帰ってくるらしいけどどうする?」

「うーん、だいたい聞きたいこと聞けたし満足かな」

 ふふっ、と口角を上げて笑う。

「そっか、じゃあ駅まで送るよ」

「もう帰った方がいいですか?」

 俺は、少し物足りなさを感じる彼女の目から逸らして時計を見た。まだ彼女が来てから三十分ほどしか経っていない。帰すには少し早いかも。それに、もうちょっと一緒にいても悪くない。

「少しぐらいならいいよ。でも、暇じゃない?」

 ペットも居なければテレビも無い。リビングも最低下のものしかなく、可愛らしいものなんて家の中に一つも無い。

「雪村くんの部屋、見てみたいです」

 顔を紅潮させて、綾波さんは首を傾げた。俺の家にめちゃくちゃ可愛い子が一人いるじゃないか。

 恥ずかしげにチラチラと俺の顔色を伺う。ドキッとしないこともないけれど、単純に興味のあるものがないんだろう。

「いいよ。本しかないけど」

「やっぱりそうなんですね。あんまり期待してないので気軽に見せてください」

「見せたくなくなるなぁ」

 軽く笑い合いながら俺の部屋まで連れて行く。読書で時間も潰せるので妙案だ。

「この部屋だよ」

 そう言いながら俺は自室のドアを開ける。左右の壁にはスライド式の本棚。奥には勉強机とベッド。他にあるものといえば、申し訳程度のクッションだけ。あれっ? 俺の部屋ってもうちょい何かあった気がするんだけど。

「いっぱいすごく多いですね! これ全部読んだことあるんですか?」

「うん、この部屋のは全部読んだかな」

 数は大体千冊ぐらいだろうか。一日に一冊と考えれば確かに少々多いのかもしれない。

「凄いねー、これとか読んでもいいですか?」

「どうぞ」

 俺も適当に目に入った本を手に取る。綾波さんがベッドにダイブしたので、俺はクッションに腰を埋めた。

 チクタクと時計の音。六畳の小さな部屋で、美女と二人きりで好きな本を読む。いつもの部屋でいつもと同じことをしているだけなのに心が(おど)る。

 時折り聞こえる彼女の吐息と、ベッドの上でパタパタと足を動かす音が余計にムズムズさせる。

「ふぅー、この本面白いですね」

「もう読み終わったの?」

「まさか、まだ半分です」

 俺も左手の方が少し分厚くなってきた程度。読む速さは変わらないみたい。良い時間だと思い、時計に目をやると、二つの針は一つになって下を向いていた。

「もうそろそろ帰ったら?」

「そうさせてもらおうかな。この本貰っていいですか?」

「いや、あげないよ?」

 どうして平然と奪おうとするのか。「冗談、冗談、貸してください」と頭を下げられると貸さないわけにもいかない。と言うか貸すことは嫌じゃない。

 綾波さんはヘアピンを栞代わりにページに挟み、丁寧に本をカバンにしまう。ヘアピンってそんな使い方もあったんだ。落ち着いた仕草が上品で美しい。玄関で帰る支度をしていると鍵が開いた。

「おお、栞ちゃん、遅くなってごめんね。また次の機会でいいかな?」

「はいっ! 今日は本当にありがとうございました。この日のことは忘れません」

 ニコニコと可愛い笑みを浮かべる綾波さんに、父さんも笑みが溢れる。

「それは良かった。蓮、駅まで送っていってやれ。あと今日は玲さんとご飯行くことになったから寄り道すんなよ」

「了解」

 短く返事し、玄関のドアを開ける。外はすでに紫色に染まっていた。まだジメッとした七月の風が俺たちを包み込んでくる。早く梅雨よ終われ。

「家族でご飯か……いいな」

 天を仰ぐ彼女。呟いた言葉は誰に言うでもなく、何処か彼方に向かって呟いた。

「外食行ったりしないの?」

 俺の問いに、少し間をおいて答える。

「私、親に捨てられたんです」

 足を止めてこちらを向く。冷たい瞳が空気を凍てつかせる。夏の暑さと薄寒さが相まって、冷や汗が背筋をつたる。

 なんと言っていいのか分からない俺に、彼女は寂しい顔をして笑った。

「子供の頃からずっと私一人でした。昔は擁護施設で暮らしてましたけど、今は一人暮らしです。だから、外食なんてしたことなくて」

 綾波さんは眉を下げて唇を噛む。それなのに、強がってるみたいに口角だけはあげて笑顔を崩さない。

 昼に感じた沈んだ表情も、以前に家族事情を話した時の羨む声も、全ては彼女の孤独の嘆き。彼女の汚い笑顔が心を殴る。

「ごめん、悪いこと聞いて……」

 普通の男の子なら、このあとのディナーに誘えるのだろうか。できる男子なら、頭を撫でて泣きたいだけ泣かせてやるのだろうか。

 そんなこと考えたって、所詮は俺の妄想。掠れた声を出すので精一杯だった。

「気にしないでください。雪村くんは何も悪くありませんから」

「それでも、ごめん」

 独りよがりの謝罪も空気に散る。大人な彼女に、なんと声をかけるのが正解なのか。

「もう、どうとも思ってないんです。ずっとそうでしたから。でも、やっぱり親は嫌いです。捨てた親と同じ苗字なんて、皮肉ですよね。是非、栞って呼んでください」

 そう言って、草臥(くたび)れたように笑う。無理に明るく振る舞う彼女に胸が痛む。人に踏み込みすぎる怖さを初めて思い知った。

 駅に着いた頃には、不慣れな空気に慣れていて、言葉にならない気持ち悪さで反吐が出そう。

「送ってくれてありがとうございます。それに、色々してくれて」

「ああ…………うん」

「さよう……なら」

 去り行く彼女の背中は丸まっていて、踏ん張る二本の足は俺より遥かに細い。彼女は何を思っているのだろう。

 俺は何も出来ない。

 ……いや、違うだろ。俺は何をしてやれる? 何をしてやりたい? 俺が何も成し得ないなんて今に始まったことか?

 まだ綾波さんは声の届く距離にいる。覚悟決めろ。大丈夫、今更恥の一つぐらいポエムに比べちゃ屁でもない。

「あのっ! (しおり)っ……!」

 口数の少ない俺が出せる最大の声量で彼女の名を呼んだ。彼女はそれに足を止める。

 いくらなんでも唐突すぎる。急に下呼びだし、テンパリ過ぎて敬称つけ忘れてるし……締まらない。

 けれど、子供を捨てるやつの苗字なんか使わなくていい。それだけは伝えたかった。

「どうしたんですか?」

 ゆっくりと振り返る。メガネが街灯の光を反射し、栞の目は見えない。ただ、可愛げのある鼻声だけが涙を伝える。

「メール、交換しましょうよ」

「はいっ!」

 彼女はこちらに走ってくる。きっと、一人の寂しさだってあったはず。スマホを重ね合っただけなのに、気持ちも共有できた気がした。

「その……何かあれば、力になるから」

「ふふっ、じゃあ、これからも栞って呼んでくださいね」

 笑顔の後、もう一度彼女は身体を翻す。ヘアピンが無くなり自由になった髪は、夕空に溶けるように踊る。そんな彼女の名は、綾波 栞。



 帰り道に父さんと合流してディナーに向かった。

「お婆ちゃん大丈夫だった?」

「ああ、二日も入院したら大丈夫らしい。あんたはさっさと玲ちゃんとご飯食べてきなって追い払われたよ」

 それで急遽(きゅうきょ)集まることになったのか。なんて車に揺られながら考える。いつもなら、家族集まっての夕ご飯は週末に一度だけ。

「母さん、蓮にこの前の女の子の件は大丈夫だったのか心配してたぞ。あれだけ悩んでたから自分のことかと思ったけど、女の子のことだったのか。隅に置けなくなったな」

「昔の話じゃん……忘れさせてよ」

 半年前、久遠の件だ。思い出したくもないので思考をシャットダウンする。栞も今頃電車の中で同じように窓の外をながめているのだろうか。

 そんなことを思っていると店に着いた。少しお高めのフランス料理店。暗めの蛍光としっとりしているジャズがムードを作り出す。さっき決まった割には豪華な店で驚いていると後ろから声がかけられる。

「蓮、久しぶりね」

「会うたびに言ってない?」

 俺は丸テーブルを囲うように用意された椅子に座る。純白のランチョンマットは高級店の証。

「そうだよ。玲さん、一ヶ月に四回は言ってる」

「ふふっ、細かいことは気にしなくて良いの」

 お淑やかに笑いながら椅子に腰掛ける。紅のドレスに身を包む母さんも、急に決まったディナーの割には用意周到だ。

「昼ごはん食べてないから腹減ってるんだよ。早く食べよう」

「昼ごはんはしっかり食べてくださいよ」

「今日は蓮の来客があってね」

 母さんに指摘されて言い逃れしながら席に着く。

「蓮の? 珍しいわね。久遠ちゃんかしら? まだ仲良くしてるのね。良かったわ」

「それが違うんだよ玲さん。蓮が新しい女の子にも手を出したんだ」

「手を出したってやめてよ。久遠にも出してないし」

 母さんは栞のこと知らないんだった。必要ないことを話すのに関して父さんの右に出るものはいない。もちろん左にもいない。言い方に含みを持たせるのも悪癖の一つ。

「そうなの? 恋愛的な目で見てないって、そう言うのね」

 シャンパンを少量口に運んでこちらをみる。僅かに背筋が伸びた。

 そりゃ可愛いって思ったことはあるし、見惚れたこともある。けれど、恋愛であるかは分からなかった。

「うん、ただの友達」

 母さんのうざったらしい視線から逃れるように手で前髪を伸ばす。

「駅前で『あのっ……栞っ!』って言ってたのに?」

 ポロっと父さんが問題発言をこぼし、ミネラルウォーターを吹き出しそうになる。

「ちょっ!? なんで知って……」

 さては父さん聞いてやがったな。いつもより優しい口調で言う父さんは本当にいやらしい。

「葵さんはそこら辺のデリカシーがないからね、嫌なら私のとこに来てくれても良いのよ?」

「いらないお世話だから」

 ちょっぴり特殊な家族団欒に頬も緩む。ただ、栞はこういった楽しみも知らないのだと思うと、少し悲しくなる。それこそいらないお世話だろうけど。

 流し込むように飲んだ水すら、後味が悪く感じられた。