カジュアルな服を身にまとい、頭に軽くワックスをつける。髪の毛をセットするなんていつぶりだろう。
鏡の前で自分の髪をネチネチしながらそんなことを思っているとインターホンが鳴る。どうやら久遠が迎えに来てくれたらしい。小走りで玄関まで行くと、ドアを開ける。
「おっ、来た来た。おはよう」
「おはよ」
彼女と会うのも久しい。グレーのトップスに白いロングスカート。久遠の大人らしく引き締まったファッションにももう慣れた。
「…………行こっか」
「うん」
栞がこの世を去ってちょうど一年。会話の内容に困りながらも歩き出す。見頃の桜は風が吹けば小雨を降らせる。見慣れた街も、今日だけは馴染みが悪い。
「蓮は栞の小説書いてるの?」
「そうだよ。人は二回死ぬって、俺にはまだ分からないけど、彼女のお願いだから」
俺は大学を卒業すると、三年間だけ会社に勤めてから退社した。今は小説家という仮面を被ったフリーターをしている。
近頃は栞の名を世界に轟かせるため、一人で奮闘している。本は時代を超えて愛され続ける。最愛の人を死なせないための、俺が最後にできること。だから、ペンネームは綾波 栞。
「まだ栞のこと引きずってたりする?」
痛い言葉に一瞬足が止まる。一年経った今でも時々夢に出てくるぐらいに、彼女は俺を離してくれない。けれど。
「未練も後悔もないよ。引きずってもない」
俺はワックスで僅かに硬くなった前髪をいじる。栞なら「いい加減に前を向いてください」なんて言うだろうから。
「知ってた? 蓮ってさ、嘘つくとき前髪触るんだよ」
「えっ? そんなことないって」
「何年の付き合いだと思ってるの。それ子供の頃からの癖だから」
知らなかった。今までついた嘘も久遠の前じゃ全てバレていたのだろうか。心の中まで見透かされていると少し恥ずかしくなる。
「そう言えば、久遠って次から出馬だっけ」
気恥ずかしさを紛らわすように久遠に訊く。
「うん、今回のお父さんの任期が終わったら立候補する予定」
「そっか、頑張って」
久遠は父親の秘書をしていて、区長になるため自己研鑽に励んでいる。この街が好きと言っていたから、夢のために頑張っているんだろう。
「頑張るよ。私が区長目指す理由当ててみて」
「えー……確か、この街が好きだから。みたいな」
随分と昔、観覧車の中で彼女がそう言ってたのを思い出す。
「当たらずとも遠からずって感じかな」
「答えは?」
「自分で思い出してくださーい」
んな、不親切なクイズってどうなの。なんてことを思っていたら、花屋に着いた。栞への供花を買うため。
「お久しぶりです。仏花で宜しかったですか?」
「はい、お願いします」
楠木さんが奥の方から落ち着いた色の花を持ってきてくれる。栞の病気のことを話したり空斗くんに会いに来たりしていたこともあって、彼女とはそれなりに仲良くなっていた。
代金を払って、店を出ようとすると楠木さんに呼び止められる。
「これ、私から栞さんにお願いしてもいいでしょうか?」
彼女が差し出してきたのは一度だけ見たことのある花。名前は確か……。
「スターチス、雪村さんの誕生花で仏花にも使えるお花なんですよ」
小さく紫の花びらを広げて、甘い香りを仄かに匂わせる。久遠と初めてここに来た時に紹介されたものだったはず。
「覚えてますよ。春に咲く強い花でしたよね」
「正解です。花言葉は『変わらぬ心』や『永久不変』などですね。今も栞さんを想い続ける雪村くんにピッタリでしょ?」
「はい……ありがとうございます」
本当にピッタリじゃないか。お辞儀する楠木さんにお礼を言いつつお墓に向かう。この花の言う通り、何も無理して変わらなくていい。前だけ向いてちゃ、咲き誇る花を踏んでしまう。
お墓に着くと綺麗に洗い流す。お供物を置き、線香を立てて蝋燭に火をつける。もともと新しいこともあって、思ったよりもすぐに終わった。
「見なかったことにするから抱きついてもいいよ?」
「そこまでしないから」
一仕事終えた俺たちは小さく笑う。
「墓なのに儚いのは嫌だし」
「寒い寒い。ドヤ顔やめて。冬は終わったんだよ?」
凍えるふりをしている久遠を横目に、雪村家と彫られた墓にそっと触れる。数珠とかはよく分からないけれど、俺の手首にはクリスマスに栞から貰ったブレスレットがされてある。
「へーっ、栞もやるじゃん」
「どうしたの?」
「ブレスレットは永遠を意味するプレゼントなんだよ。女の子って結構そう言うの気にするの」
永遠を意味するブレスレットに、永久不変を意味するスターチス。もう会えないけど、心のどこかで繋がっている気がして嬉しい。
「もう女の子って言える歳じゃ……」
「今から栞に会いたかったりする?」
「ごめん、ごめん、不謹慎だから」
俺は久遠を宥めてから目を閉じる。墓から栞の温かみなんて感じないけれど、なぜか心は落ち着く。
栞に出会えて、一緒に歩めて良かった。そう思える。作中ではあえて使っていない言葉。愛してるでも大好きでもない、ありふれた言葉。そんな言葉を、久遠にも聞こえない小さな声で呟いた。
『栞、––––––––––––』
見上げた空はどこまでも遠い。
鏡の前で自分の髪をネチネチしながらそんなことを思っているとインターホンが鳴る。どうやら久遠が迎えに来てくれたらしい。小走りで玄関まで行くと、ドアを開ける。
「おっ、来た来た。おはよう」
「おはよ」
彼女と会うのも久しい。グレーのトップスに白いロングスカート。久遠の大人らしく引き締まったファッションにももう慣れた。
「…………行こっか」
「うん」
栞がこの世を去ってちょうど一年。会話の内容に困りながらも歩き出す。見頃の桜は風が吹けば小雨を降らせる。見慣れた街も、今日だけは馴染みが悪い。
「蓮は栞の小説書いてるの?」
「そうだよ。人は二回死ぬって、俺にはまだ分からないけど、彼女のお願いだから」
俺は大学を卒業すると、三年間だけ会社に勤めてから退社した。今は小説家という仮面を被ったフリーターをしている。
近頃は栞の名を世界に轟かせるため、一人で奮闘している。本は時代を超えて愛され続ける。最愛の人を死なせないための、俺が最後にできること。だから、ペンネームは綾波 栞。
「まだ栞のこと引きずってたりする?」
痛い言葉に一瞬足が止まる。一年経った今でも時々夢に出てくるぐらいに、彼女は俺を離してくれない。けれど。
「未練も後悔もないよ。引きずってもない」
俺はワックスで僅かに硬くなった前髪をいじる。栞なら「いい加減に前を向いてください」なんて言うだろうから。
「知ってた? 蓮ってさ、嘘つくとき前髪触るんだよ」
「えっ? そんなことないって」
「何年の付き合いだと思ってるの。それ子供の頃からの癖だから」
知らなかった。今までついた嘘も久遠の前じゃ全てバレていたのだろうか。心の中まで見透かされていると少し恥ずかしくなる。
「そう言えば、久遠って次から出馬だっけ」
気恥ずかしさを紛らわすように久遠に訊く。
「うん、今回のお父さんの任期が終わったら立候補する予定」
「そっか、頑張って」
久遠は父親の秘書をしていて、区長になるため自己研鑽に励んでいる。この街が好きと言っていたから、夢のために頑張っているんだろう。
「頑張るよ。私が区長目指す理由当ててみて」
「えー……確か、この街が好きだから。みたいな」
随分と昔、観覧車の中で彼女がそう言ってたのを思い出す。
「当たらずとも遠からずって感じかな」
「答えは?」
「自分で思い出してくださーい」
んな、不親切なクイズってどうなの。なんてことを思っていたら、花屋に着いた。栞への供花を買うため。
「お久しぶりです。仏花で宜しかったですか?」
「はい、お願いします」
楠木さんが奥の方から落ち着いた色の花を持ってきてくれる。栞の病気のことを話したり空斗くんに会いに来たりしていたこともあって、彼女とはそれなりに仲良くなっていた。
代金を払って、店を出ようとすると楠木さんに呼び止められる。
「これ、私から栞さんにお願いしてもいいでしょうか?」
彼女が差し出してきたのは一度だけ見たことのある花。名前は確か……。
「スターチス、雪村さんの誕生花で仏花にも使えるお花なんですよ」
小さく紫の花びらを広げて、甘い香りを仄かに匂わせる。久遠と初めてここに来た時に紹介されたものだったはず。
「覚えてますよ。春に咲く強い花でしたよね」
「正解です。花言葉は『変わらぬ心』や『永久不変』などですね。今も栞さんを想い続ける雪村くんにピッタリでしょ?」
「はい……ありがとうございます」
本当にピッタリじゃないか。お辞儀する楠木さんにお礼を言いつつお墓に向かう。この花の言う通り、何も無理して変わらなくていい。前だけ向いてちゃ、咲き誇る花を踏んでしまう。
お墓に着くと綺麗に洗い流す。お供物を置き、線香を立てて蝋燭に火をつける。もともと新しいこともあって、思ったよりもすぐに終わった。
「見なかったことにするから抱きついてもいいよ?」
「そこまでしないから」
一仕事終えた俺たちは小さく笑う。
「墓なのに儚いのは嫌だし」
「寒い寒い。ドヤ顔やめて。冬は終わったんだよ?」
凍えるふりをしている久遠を横目に、雪村家と彫られた墓にそっと触れる。数珠とかはよく分からないけれど、俺の手首にはクリスマスに栞から貰ったブレスレットがされてある。
「へーっ、栞もやるじゃん」
「どうしたの?」
「ブレスレットは永遠を意味するプレゼントなんだよ。女の子って結構そう言うの気にするの」
永遠を意味するブレスレットに、永久不変を意味するスターチス。もう会えないけど、心のどこかで繋がっている気がして嬉しい。
「もう女の子って言える歳じゃ……」
「今から栞に会いたかったりする?」
「ごめん、ごめん、不謹慎だから」
俺は久遠を宥めてから目を閉じる。墓から栞の温かみなんて感じないけれど、なぜか心は落ち着く。
栞に出会えて、一緒に歩めて良かった。そう思える。作中ではあえて使っていない言葉。愛してるでも大好きでもない、ありふれた言葉。そんな言葉を、久遠にも聞こえない小さな声で呟いた。
『栞、––––––––––––』
見上げた空はどこまでも遠い。