紆余曲折あったものの、無事こうして手術当日を迎えることが出来た。手術の一連の流れを頭の中で思い描く。

 まず、俺の肺の片方を下半分だけ取り出す。次に、肺線維症によって硬くなった栞の肺を全摘出し、最後は俺の肺を移植。

 言葉にするのは簡単だけど、肺移植の難易度は他の臓器の移植に比べて高いらしい。人工機器を使い、一時的に呼吸を機械に任せるのだからその理由は明白。

 それでも現代の医学技術は凄まじいもので、肺移植の成功率は九割を上回っている。栞の特徴的な症状と体力を鑑みて、成功率は七割程度らしい。

 成功率がどうであれ、俺ができるのは願うことぐらい。胸騒ぎを抑えるように息を吐いた。

「大丈夫ですか? 怖い顔してますよ」

「これがデフォルトだけどね。栞は緊張してないの?」

「してます…………けど、したところでですから」

 栞はもう見慣れてしまった病衣を着ながら下手な笑顔を作る。そのぎこちない仕草が胸を少し温めてくれた。

「蓮は緊張してないの?」

「意外と平気だよ」

 俺は前髪をいじりながら、駆け寄ってくる久遠に答える。

「絶対に成功するから、大丈夫」

 俺は栞を安心させるように視線を向ける。そう、絶対に成功する。させる。その言葉が嬉しかったのか、久遠がニヤニヤと口角を上げる。

「栞ちゃんはエモいこと言うの禁止だよ。感謝を伝えるのも成功してからね」

「はい……そうさせてもらいます」

 栞にも助言を入れ、久遠は満足そうに笑う。その目尻が少し光っていたのには触れないでおこう。

 もうそろそろ俺の手術が始まる。始まってしまえば、終わるまで栞と会うことはできない。失敗したら二度と……。なら、やっぱり言いたいことは今言っておくべき。

「栞……あのさ––––––––」

 見つめると、彼女は首を振る。言わないでと口角を上げて眉を下げた。

「雪村 蓮さーん」

 とうとう、俺の名前が呼ばれてしまう。成功すると信じていても、怖いものは怖い。俺はそんな顔を見られたくなくて二人に背を向ける。

 踏み出す足はひどく重い。俺の弱さが最後の足枷。心配かけないよう、無理矢理に動かしていく。

「んんっ……蓮くんっ!」

 掠れた声が俺を振り向かせる。何を言われるのかと思ったけれど、彼女の顔を見てすぐに分かった。そうだよな、俺たちの別れる挨拶なんて、ずっと前から一つじゃないか。

「またね」

「うん、また」

 小さくつぶやいて、助手さんの後ろに付いて行く。心臓は驚くほど大きく鼓動を轟かせて、足は子鹿のように弱々しいながらも身体を支えている。

 全身麻酔のための部屋に入って、先生から最後の説明を受ける。

「彼氏くん、今日はよろしく頼むよ」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 今日の手術も栞を担当している医師が行ってくれる。

「その、まずは謝らせてほしい。私は初めて君にあった時、酷いことを言ってしまったね。本当にすまない」

 低い口調で先生は頭を下げる。あの日、悪かったのは俺のはず。勝手に揚げ足をとって、怒鳴って、逃げて。けれど、俺の中にあった僅かな正義を認められた気がしてどこか嬉しい。頭を上げて、眼鏡の位置を整えると言葉を続ける。

「十八歳が認められたとしても身体の負担は変わらない。多少甘く報告しようと思っていたんだけどね。君の肺が強くて助かったよ。そうじゃなければ上から許可が降りなかったかもしれない。署名も集めてくれたし、委員会はなんとか承諾してくれたよ」

 先生の言葉に肝を冷やす。陸上をやっていて本当に良かった。無駄なことなんて何一つないと、柄にもなくそんなことを思う。

 それにしても、署名ってなんだろう。情けないが、俺は情報収集と栞の介護で手一杯だった。そんなことできるはずがない。しかし、尋ねる前に最終確認が始まってしまい、訊くことは叶わなかった。

 あまり寝れていないこともあってか、麻酔をするとすぐに瞼が重くなり始める。そんな霧がかかった頭の中にはいろんなことが浮かんでは消える。

 手術代は国が出してくれるとか、後遺症とリハビリはキツくなるかもしれないとか。どうせなら栞のことが出てきてくれたらよかったのに。

 気の利かない脳に悪態をついていると、意識は次第に暗闇に落ちていく––––。



 目を開ければ手術は終わっていて、あっという間どころかあっと言う暇も無かった。五分も経てば身体は動くようになり、手すりを使いながら部屋に向かう。父さんも母さんも過剰なぐらい心配してくれたけど、手術が終わった感覚のほうがないぐらい。

 ふわふわのベッドに腰掛け、時計を見る。ここからが本番。もし失敗したら、なんて考えたくないけれど、考えないようにと思えば思うほど嫌な想像は膨らんでいく。

 もう会えないのは嫌だ。そんなの納得できない。ここまでして失敗して、できることはやったから仕方がないなんて考えられるほどできた大人じゃない。

 伝えたい言葉なんていくつもあったさ。大好きも愛してるも可愛いも言い足りない。もし、俺一人残されたらこの世の理不尽に耐えられるのだろうか。たぶん……無理。

 どうして病院ってこうも不安な気持ちになるのだろう。栞はずっと一人でこの感情と相対していたのか。

 俺は心の中で、大丈夫、大丈夫と呟く。この数ヶ月、幾度となく繰り返してきたけれど安心できた試しはない。それでも俺は唱え続ける。そうしないと、心臓が破裂しそう。

 いろんな感情に押しつぶされそうになっていると、病室のドアがノックされる。返事も待たずに入ってきたのは久遠だった。

「お疲れさま、どうだった?」

「しゅかれた」

 くそっ、まだ麻酔が抜けきってなくて呂律が回らない。

「ぷっ、しゅかれたって何? 顔真っ赤じゃん」

 久遠はお腹を抱えながら笑っている。緊張とかしないのだろうか。

「うるしゃい」

「ごめんね、うるしゃくしちゃって」

 あとでしばいてやろう。席に座るよう促してからもう一度久遠を見る。緊張しないなんて強いなんて思ったけれど、どうやら俺の見当違いだったみたい。ふぅー、と深呼吸する久遠の顔はやはり沈んでいる。

「気になったんだけどしゃ、署名って久遠がしてくれたの?」

 さっきの先生に説明された署名。俺の知らないところで署名活動が行われていたとして、それをしそうなのは久遠ぐらい。

 久遠は病院を知っているし、栞が倒れた日に「できることはするからさ」と答えていたのにも納得できる。

「あっ、バレちゃった? 蓮が頑張ってるの知ってたから、私に何ができるだろうって考えたの。私の自己満足だけど」

 不安で染まった顔を引き攣らせて笑う。久遠もまた、時間と労力を費やしてくれたんだ。その上で俺を支えて、胸を貸してくれた。部活も忙しかっただろうに、感謝してもしきれない。

「それでも、ありがとう。何人ぐらい集まったの?」

 行動してくれるだけでもありがたいし、その署名はある意味俺たちを応援してくれる人たちってことでもある訳だ。それが嬉しくて、訊きたくなった。

「最初は私一人だったから全然だったんだけど、お父さんにお願いしたの。協力してって」

 久遠の言葉が意味ありげで、目を向けて説明を求める。観覧車の中でも一度話に上がったが、久遠の父親は区長で厳しい人。何もなしに協力って訳じゃないと思う。

「おかげで六千人は集まったよ。代償も大きかったけどね」

 悪戯に笑う彼女。その代償を訊いてくれと目が語っている。けれど、先に出たのは感嘆の声。

「六千人……って、そんな大人数から。なんと言うか、感謝しかできないのがもどかしいよ」

「それは私のセリフ。栞ちゃんを助けてくれたのは蓮でしょ。ほら、何か言うことがあるんじゃない?」

「分かってるよ……代償って?」

 家族だからお金とかではないのだろうけど、それ相応のものを約束されたはず。

「大学決められちゃった。学部は違うけど蓮と同じとこ。一緒に頑張ろうね」

「うん、頑張ろ」

 俺は、久遠の突き出してきた腕に拳をぶつけて、ヤンキー漫画よろしく誓い合った。そうして、向かい合って笑う。

 けれど、それは恐怖が無くなったわけじゃない。会話で紛らわせて、少しでもネガティブな思考から逃げているだけ。そんな不安に気づいた俺へ、彼女は声をかけてくれる。

「大丈夫だよ。栞ちゃんは私に比べてここ薄いから。肺まですぐだよ」

 久遠は自分の胸を強調する。

「彼氏の前でなんてこと言うの……」

 口ではそんなこと言いながら、不覚にも笑ってしまう。久遠の間違った勇気とギャグセンス。少しでも俺を励まそうとしているのが伝わってくる。

「だけどね……どっちにしたって、女の子の身体に傷をつけるっていうのは簡単に飲み込めるものじゃないの。そこのフォローしてあげて。きっと、蓮からの方が喜ぶから」

 予想していなかった忠告に言葉が詰まる。女性だから分かち合える苦悩。そこまで考えていなかった。この手術は彼女に癒えない傷を与える。理由がどうであれ、嬉しいものではないはず。

「じゃ、私はこれで」

 久遠は席を立ってドアの取っ手に手を掛ける。今一人になるのは怖い。最後にこちらを見る彼女にそんな視線を送ってしまう。

「もう行くの?」

「……こんなこと言いたくないけどさ、仮に失敗したとして、栞ちゃんが手術してる間に私と話してただけだったら、蓮は悲しむでしょ。私はずっと、蓮に傷ついてほしくないだけだから」

 突き放す彼女の目は汚れていた。久遠だって不安なんだ。でも、俺を傷つけないために、そうやって言い放つ。そんな言葉はどんな言葉よりも重くて、胸に響く。

「あっ、言い忘れてた。栞ちゃんからの伝言! 『やりたいことノート見てください』だって。それってエッチなやつ?」

「違うから」

 どうしてこの状況で卑猥なノートを見るんだよ。久遠は伝言を残して去っていく。入れ替わりで静けさが戻ってきた。

 俺は辺りを見回して、枕元にあったノートを見つける。ほとんど新品の綺麗なノート。使われているのは最初の見開き一ページだけ。

 栞の病気を知った日に二人で考えた項目。星を見に行く、親に紹介する、栞を助ける。一つ一つに丸が付けられていて、なんだかセンチメンタルな気分になってくる。

 栞と出会った時は驚きと可愛い女の子だなって思いであたふたしていた。趣味が会うと分かってから、放課後は頻繁に図書室に集まって雑談していたのを覚えてる。

 好きだと自覚して、彼女に告白して。名前を呼ばれるようになったのはそこからか。本当に幸福な日々だった。病気だと知って絶望したのも、逃げたのも今となっては思い出。

 星の下で言い合いしたり、また逃げたり、戻ってきたり。栞を助けられると分かってからは、死に物狂いで身体を動かした。

 彼女と過ごした時間を思い出しながら、空白のページをめくっていく。すると、最後のページに大きく一言。

『信じてください』

 ふと、楠木さんの「貴方に、蓮という名は似合いません」という言葉が思い出される。今の俺は少しでも蓮って名前が似合う男になれているだろうか。

 それがどうであれ、弱気な栞が信じてくださいと言っているんだ。これを信じずして何を信じる。己の嫌な想像なんて信じるに値しない。

 不安はどこかに消えていた。いや、彼女が消してくれた。栞が帰ってきたとき、どんな言葉をかけてやろう。俺ができることなんて高が知れているけれど、最大限をしてやる。

 それから数十分後、勢いよく扉が開けられる。

「蓮っ! 栞ちゃんの手術、終わったらしい」

 父さんは息を切らしてそう告げる。麻酔はとっくに切れているはずなのに、駆け出した足はもつれてる。注意されても地面を蹴る足は止まらない。

 手術室から俺の部屋はそう遠くないのに、永遠に続くほど長く感じる。結果は分からない。父さんの様子を見る限り、手術中のランプが消えたのを見て走ってきたんだと思う。

 そこを曲がれば手術室。もう、何も考えられない。頭の中は彼女のことでいっぱい、いっぱい。そうして、角を曲がる。

「栞っ––––––––!」

 すぐさま手術室の扉を視界に入れる。そこにはいつものように眉を下げて笑う栞の姿があった。

 生きてるってだけで手術が成功したとは限らない。中断した可能性もある。でも、そんなこと関係なかった。俺は栞の身体にしがみついた。

「栞…………お疲れ……。また会えて……よかった……本当にっ、よかった」

 そんな言葉しか出てこない俺に、先生はゆっくりと告げる。

「手術は最高です。二人とも、お疲れさまでした」

 その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れ出てくる。まだ、栞の隣にいられる。まだ、栞と一緒に過ごせる。これからも、最愛の彼女と人生を歩んでゆける。

 嬉しさと嗚咽に歯止めがきかない。抱き合って、ゆっくりと膝から地面に崩れていく。胸に収まる栞も静かに泣いていた。

 用意している言葉はいろいろあったのに、栞を見た途端に全部吹き飛んで、言いたいことの代わりに涙やら鼻水やらが出てくる。

 栞を抱く力が強くなっていく。正直言うと怖かった。自分を見失いそうになるぐらい不安だった。もし栞がいなくなったらって嫌でも想像した。

 けれど、その全てを栞の温もりが否定する。心臓の音が身体に響いて、鼻水を啜る音が聞こえる。栞の身体が生きてるって叫んでる。

 互いの気持ちを確かめ合って、今度は二人で見つめ合う。

「人は二回死ぬって、そう言ったよね」

 初めて栞と会った日も、久遠と喧嘩した日も聞いた言葉。俺は今でもこの言葉に納得しているとは言えない。死ぬなんて言葉が入った格言に縛られる必要なんかないんだ。

「だったら、二回生まれたっていいんだよ。嫌いな苗字も無責任な親も辛い病気も全部捨てて、これから一緒に俺と生きよう」

 栞は俺の胸におでこを当てる。戸籍上で頼れる人はいなくて、お金は自分で稼がなくちゃいけなくて、それでも病に蝕まれて生きていく。そんな生き方、もうしなくていい。

 悲しませないなんて無理だと思う。辛いことだってあると思う。苦しい思いだってすると思う。でも、俺の隣には君がいて、君の隣には俺がいる。

「うぅっ……………」

 栞の二度目の産声が世界に響き渡った。



 それから数時間後、俺と栞は病院の中庭を散歩していた。体調を診たり、体力の回復を待ったりと忙しくしていたこともあって、やっと二人きりになれた。

「何も思い詰めずに蓮くんと話すの久しぶりな気がします」

「俺も」

 短く返事をして、ベンチを指さす。人が居てイチャイチャできないのが少し惜しい。病衣で駆け回る子供を見ながら並んで座った。

「蓮くんからもらいすぎてて、どう感謝したらいいか分かんない……」

「別に気にしなくていいよ。俺も結構もらってきた」

 栞と会っていろいろなことに気がついた。自分の弱さも、友達の大切さも、親のありがたみも。だから、お互い様。

「私の中に蓮くんがいる気がするの」

 栞はそう言って、そっと胸元に右手を添えるとこちらを向く。

「ここに手を当てると…………冷たいんです」

「馬鹿にしてるよね?」

「してるに決まってるじゃないですか」

「だよね、良かった。何も良くない。肺、返せ」

 懐かしい空気に笑い合いながら、手を重ねる。けれど、栞の視線は胸元に留まったまま。

「やっぱり手術の痕、気にしてる?」

「いえ……これのおかげで生きていられるんです。だから、何も言えない」

 その言葉には悔しさが混ざっていて、久遠の言っていたことは正しいんだなと思う。栞の肩を優しく叩いて、俺のネックラインを下げると胸元を見せた。

 お揃いのぬいぐるみもキーホルダーも断ってきた。ペアルックだってしたことない。栞の心の奥にあったはずの願望。皮肉にも叶ったのだから使わせてもらう。

「お揃いでしょ?」

「ふふっ……本当に馬鹿じゃないですか。もう……そんなこと言われたら嫌いになれないです」

 暗い顔がパァッと明るくなって、それを隠すように口を尖らせる。照れ隠しが可愛らしい。

「そう言えば『信じてください』ってあれ、すごく落ち着いた。でも悔いを残さず死ぬ的なやつも消しといて欲しかったな」

 やりたいことノートに死ぬと書いてあるのは怖すぎる。縁起も悪いし。けれど、栞は意図を分かっていないように首を傾げている。

「消さないですよ。後悔しながら死にたくないですし。それが今日だろうと、何年先だろうと。まだあのノート一ページしか使ってないんですよ? 二人で何ページも、いえ、何冊も積み重ねていくんです」

 栞の考えに息を呑む。そうか、栞は何年も先を見据えていたんだ。当たり前に続くと信じている彼女に胸を打たれて声が出ない。

「お見舞い来てくれた時に考えたのもあとで書きましょう。思いつくたび増やしていって、二人で減らしていくんです」

 すごくいい案だ。思い出を増やしていくだけなのにロマンチック。

「いいじゃん。きっと、楽しいよ」

 まだまだこれから忙しいけど、それでも今までよりはずっと楽。彼女が隣にいてくれればそう思える。

「久遠って俺たちのために署名集めてくれてたらしいよ」

「なんだか久遠ちゃんには敵いませんね……。あっ! 思い出しました、私が倒れている時に久遠ちゃんに泣きついたの本当ですか? 浮気ですよ。いや、私たち結婚してるんで不倫です!」

 重なっていた手のひらに爪が立てられる。

「待って、どうしてそのこと知ってるの……」

「蓮くんが手術受けている間にちょっとだけ話したんです。彼女が意識失ってるのに他の女に手を出すって何事ですか」

「……言い訳の余地もありません」

「ふふっ、ちょっとだけ意地悪しちゃいました。今回だけ許してあげます。泣くってことはそれだけ私を想ってくれていたわけですから。今日は初めて蓮くんが泣いてるとこ見れたので機嫌がいいんです」

 眼鏡をクイッと上げ、鼻を鳴らす。お婆ちゃんの前でも楠木さん名前でも泣いておきながら、栞の前で泣いたのは初めてか。

「蓮くんはこれから受験勉強ですよね。私も短期大学ですけど受けることにしました」

「そうなんだ。どこ?」

「看護系です。将来、臨床心理士になりたくて。私には蓮くんがいてくれたけど、ずっと一人で苦しい思いしている人がいるって考えたら、力になってあげたいんです」

 いかにも彼女らしい理由。栞はきっと俺なんかよりもずっとずっと多くの人を救っていく気がする。

「将来の夢、決まったんだ。全力で応援するよ」

「ありがとうございます。生きられるなんて思ってませんでした。将来とか夢とか考えるだけで虚しくなって……だから、こんな気持ち初めてです」

「じゃあ夢とか願いとか聞かせてよ。将来と夢は叶えるためにあるんだ」

 どこかの誰かから受け売りした言葉だけど、格好つけて言う。まだ将来の夢なんて分からない俺が宣うのも変だけど。

「ふふっ、そうですね。私は……ずっと蓮くんの隣にいたいです」

 笑顔が咲いて、目を逸らす。

「そんなの、願わなくても叶うよ。俺が絶対一緒にいるから」

「私だって独占欲強いので一生離しませんよ」

「知ってる」

 キスとかハグとかじゃなくて、肩を寄せ合い、手を重ね合っているだけで幸せだった。彼女の側にいることが、一番の幸せだった。


 ––––この日から九年と八ヶ月後、彼女は安らかに最後の眠りについた。