栞が入院して半月ほど経った。生気が吸い取られているかのように元気を無くしていく彼女。最近はメールも冷たく感じる。ふとした瞬間、弱っていく栞を思い出すのが辛かった。

 これでも受験生だし、手術終わりの負担を減らすために勉強をしていると一件のメールが届く。

『りんごが食べたいです』

 可愛いらしいお願いにペンを置かずにはいられない。もともと誰に対しても敬語だから文で見たら冷たくなるのはしょうがないのだけれど、やはり少し寂しく感じる。

 自転車をかっ飛ばして美味しそうなりんごを買うと、病院に向かう。本来、差し入れとして果物は御法度だが、それでも食べさせてやりたかった。

 病室に入ると、窓の外を見つめる栞の横顔が悲しげで、つい言葉を失ってしまう。

「もう来てくれたんですね。ずっと外を眺めて待ってたんですけど、見逃しちゃったみたいです」

「地味でごめんね。今度は派手なダンス踊りながら入ってくるよ」

「そのまま入院させられますね」

 笑う彼女に、買ってきたりんごを見せる。このままかぶりつかせるわけにはいかないので、椅子に座って皮を剥く。ワイルドな彼女を見てみたさも少しあるけれど。

「急にお願いしちゃってすみません。最近食欲沸かなくて……あっ、うさぎの形に切ってください」

 これまた可愛らしいお願いだ。

「任せといて」

 なんてかっこつけても、耳が生えただけのうさぎだし誰でもできるんだけど。りんごに命を宿しながら栞の話を聞く。

「ちょっと弱音吐かせてください。最近、身体が死ぬ準備をしてる気がするんです」

 冷たい声が聞こえ、一瞬だけ手が止まる。

「本を読んでも笑えないし、何を食べても味がしないんです。どうしてなんですかね」

「疲れてるんでしょ。はい、とりあえずこれ食べて元気出そ」

 いい感じにカットできたうさぎに爪楊枝を刺して栞に差し出す。

「名前なんていうんですか?」

「名前……? んー、うさりんにするよ」

「うさりんですね。分かりました……。うさりん…………食べにくくなったじゃないですか」

「だよね。そんな気がした」

 うさりんは栞の手から離れて、皿に戻ってくる。今度は名無しのうさぎを栞に差し出す。これなら食べられるだろう。

「これはりんごマン三世です」

「どうして名前つけちゃうの」

 と、りんごマン三世は脱兎の如くスピードで栞の胃の中に吸い込まれていった。

「りんごマン三世は食べられるんだ」

 ふふっ、と笑ってもどこかぎこちない。なんとかしてあげたいけれど、体調のことなら俺にできることなんてほとんどない。悔しくなって、八重歯を下唇に押し付ける。

「食べさせてくれないですか?」

「いいよ」

 うさりんに再び爪楊枝を突き刺して栞の口元に運ぶ。シャコッっとりんごの水々しいの音が響いた。下半身だけになったうさりんを見ながら、栞は「美味しいっ」と満面の笑みを浮かべる。

「本当はりんごとか持ってきちゃいけないんだけどね」

「ごめんなさい。知ってたんですけど……どうしても食べたくなっちゃって」

 近頃多くなった沈んだ顔。さっきも、何を食べても味がしないと言ってたし分からなくもない。人工的に調節された温度の部屋で、人工的に調整された食事をする。生活に色を感じなくなるのもおかしくはないだろう。

「一人だとずっとやることなくて……不安でっ、ごめんなさい……看護師さんもお医者さんも厳しくて。お願いします……蓮くんだけは、優しくしてください」

「当たり前だよ。なんでも言って」

 入院して少し経ってから、栞はよく謝るようになった。責任を感じやすい方ではあったけど、ここまで顕著に出たのは少し危うくも感じる。

「手……握ってくれませんか?」

「いいよ」

「ふふっ、蓮くんの手って温かい」

 彼女の言葉を聞いた途端、急に恐怖に包まれた。俺の手が温かいんじゃない。栞の手が冷たすぎるんだ……。無意識に握る手が強くなる。俺は今、上手く笑えているだろうか。

 握った手のひらに、涙が落ちる。

「ふふっ……っ、駄目だっ……すみません。蓮くんの前では笑おうって、思ってたんですけど……あれ? おかしいなっ、どうして泣いちゃうんだろ。今は幸せなのに、一人じゃ、ないのに……」

 栞は笑って、泣いた。笑いながら泣いた。泣きながら、笑ってる。

 手を握ってるだけじゃ足りなくて、俺は栞を抱きしめる。こんなに細くなかった、こんなに軽くなかった。生きられるからって、彼女の病気が治るわけじゃない。苦しみが無くなるわけじゃない。

 もう、いいじゃんか。これ以上栞を苦しませないでくれよ。嘆く力で彼女を引き寄せる。

「泣いていいよ。俺の前でぐらい、我慢しなくていい。無理しなくていいんだよ。全部聞かせて。力になるから」

 すると、栞は小さな声で雨のようにポツポツと話し始める。

「一人じゃ笑えなくて……それに、泣くこともできないんです……。でも、蓮くんが来るってだけで嬉しくなって、抜け殻の私に命をくれる。だから、孤独が怖い、蓮くん……今は隣にいて……」

「いるよ……。ずっといる。帰ってからもメールする。もう、一人にはしないから」

 二回も逃げた俺が言うには信頼の置けない言葉だけど、俺だって栞と出会っていろんなことを学んだ。

 怒りじゃどうにもならないこと、逃げたら傷つけること、相手にも守りたいものがあること、自分はまだ無力なこと、それでもできることがあること。

 見てくれる人がいること、支えてくれる人がいること、待ってくれる人がいること、愛してくれる人がいること。

 愛する人がいること。

 栞が教えてくれたんだ。一年前じゃ考えられないほど、俺は自分を嫌いになって、好きになれた。だから、一人にはしない。

 もともと落ち着いて話していたのもあって、次第に彼女の涙は止まっていく。

「手術が終わったら一緒にいろんなことしようよ。何がいい?」

 少しでも楽しみを増やして、彼女の生きる力にしたい。それぐらいしかできないから。

「夏祭りとか文化祭とか回りましょう。船にも乗ってみたいし、海外もに行ってみたいです。今年のバレンタインは渡せませんでしたから、手作りチョコプレゼントしたいな」

「ぜひお願い」

「久遠ちゃんがバスケ続けるなら応援も行きたいです。お泊まり会をしてみてもいいかもしれません。空斗くんに会いに行くのもいいですね。夜のコンビニで集合したり、朝早くに散歩するのも素敵です」

「最高じゃん」

「漫画喫茶に行きましょう。こうやって向かい合って本読んでたねって見つめ合うんです。初詣に行って、今年もよろしくお願いしますってお辞儀し合うんです」

 一年じゃ全然足りなくて、一生かけても溢れるぐらいの幸せを夢に見る。俺だってまだまだやりたいことばっかりだ。

「俺は、可愛い彼女さんだねって言われたい。自慢の彼女なんですって言いたい。虫に驚いて慌てるのを見てみたいし、俺も一緒に慌ててスリッパとか振り回したい。相合傘だってまだしてない。結婚式も開こうよ。あとは……水着姿とか見てみたいな」

「私泳げないですよ?」

「家の中で着てくれたらいいよ」

「下心隠す気もないですね」

 笑い声が重なり合う。今言ったのだってほんの一握り。したいことなんて星の数ほどある。

 回転寿司で高い寿司を取ろうか迷ってる栞とかすごく見てみたい。一緒に晩御飯の食材とか買いに行って「こっちの方が安いよ」とか言ってみたい。

 「あの青信号渡ります?」なんて早歩きしながら言ってほしい。大きなぬいぐるみを買って「どこに置くんですか」って叱られたい。

 そんな日常に溢れる栞を見ながら、幸せな日々を過ごしたい。

 病院に斜陽が入り込むまで話し合う。りんごは食べ切って、お腹も心もいっぱい。

「やりたいことも多いけど、できたことだってたくさんあります。蓮くんと出会えて、葵さんと話せて、恋愛もして、いろんなところをデートして。今までに負けないぐらい、これからも楽しみたいです」

「うん、すごく楽しみだね。そうだ、俺と出会う前の栞ってどんな感じだったの?」

 やりたいことノートに書かれてあった、「思い出を振り返る」って項目。おそらく、俺に尋ねる機会をくれているだと思う。

「そう……ですね、もともと内気な性格でしたよ。昔の話、聞いてくれますか?」

「聞くよ……いや、聞かせて」

 真剣な眼差しに答えるように彼女を見つめる。話したぐらいで楽になる問題じゃないかもしれないけど、少しでも軽くできるように頷く。

「生まれて小学生ぐらいまでは普通の女の子だったと思います。でも、高学年に上がったぐらいで病気だって分かって、親から捨てられて……そこから中学校卒業まで児童養護施設で暮らしました。自分一人で塞ぎ込んでて、友達もいなかったですね」

 淡々と話す彼女に俺は相槌も打つことができない。そこに俺がいてやれればと思ったけれど、いたところで何かできたわけじゃない。苦い顔をする俺を見て、栞は小さく笑う。

「もう蓮くんとの出会いですね。ここからの方が長く感じます。この前、自分の人生を振り返って笑えたら素敵って言ったじゃないですか? 私、今死んでも幸せですよ」

 鼻頭が熱くなってしまう。間違いなく、これまでだって幸せだった。彼女もそう感じていたことがひどく嬉しい。栞が歩んできた道を否定しないから、俺が否定できる。どちらかが大切にしているんだから、それでいい。

「今じゃなくてもまだ死ねる。なんてったって、人は二回も死ぬんだから」

「それもそうですね」

 やっぱり栞は呆れたように、俺の返答を分かっていたかのように笑う。

 面会時間終了はもう間も無く。紫を広げ始める空が時計の針を急かして、地平線の向こうに太陽を沈める。

「そろそろ帰るよ」

 つい、彼女の顔を見てしまった。

「ふふっ、気にしなくて大丈夫です。でもメールしてくださいね」

「うん、明日も来るよ。じゃ、また夜に」

「はい、連絡待ってます」

 病室を出ると、アルコールの匂いが鼻を刺す。引き返したいぐらいには既に寂しい。夏だってのに、やけに冷えるのは隣に彼女がいないから。

 家に着いてすぐに来た『待ちきれませんでした』というメールに「へへっ」っと情けない声が漏れる。

 フリック入力が少し早くなったのは、間違いなく彼女のせい。