父さんの助けもあり、両親から手術の承諾を受けた俺は次の日から病院をいくつも渡り歩いた。

 高難度な手術でも受けられる大病院は近くに二十箇所ほどあるのだけど、一つ回るのにも時間がかかる。そうなると、栞を連れ回して負担をかけるわけにはいかず、基本的に単独行動。

 患者がいないのに手術したいという時点でマイナススタートなのに、ドナーは二十歳以下ときたものだ。まともに相手してくれる病院なんて無かった。

 母さんは渋々了承してくれただけだし、父さんは仕事がある。久遠も高校最後の大会だからと張り切っていて、助力をお願いするのも簡単じゃなかった。

 そうやって一人で抱えていく中、栞は日をおうごとに衰弱していった。咳の頻度は今までの比にならないし、最近は食欲も無いらしい。

 その現状が余計に足や頭を急かす。焦っても上手くいくはずがなく、病院をまとめた地図に斜線が増えていくだけ。もう残り一ヶ月しかないんだぞ。しかも、手術を受けられるのは栞が結婚できる七月下旬から。それまでに栞の身体に限界がきたって不思議じゃない。

 神経をすり減らしながら、やつれた身体を動かす。

「お願いします。検査だけでも……」

「何度も言いましたが、患者がいないことには検査のしようがありません。それに、ドナーが二十歳を超えていない以上、こちらでは対応できかねます」

 冷たい言葉と共に頭を下げられる。これは謝罪じゃなく、出ていけという合図。栞を連れてきたら診断はしてくれるのだろうけど、それ以上の何かを得られる確証はない。リスクが怖くて、また一人で身を削る。

「分かりました……ありがとうございます」

 無理なお願いだなんて分かってる。明らかにいろんなものが足りない。俺の年齢にしろ、保護者にしろ。そもそも本人がいない。でも、無理させちゃ駄目なんだよ。安静にさせておくべきだ。

 俺の前では無理してるけど、それでも分かるぐらい疲れ切ってる。遠出なんて馬鹿だ。舌打ちをしながら自動ドアに映る自分の顔を睨む。

 地図にメモしてある病院はあと四箇所。県外へ出ればいくつか増えるだろうけど、余裕がないのは明白だった。

 バスに乗り込んで、今行った病院に斜線を引く。次の目的地は栞の通院している病院。

「行きたくないな…………」

 静かに漏れた本音がまた一段と心を弱らせる。俺はこの病院で取り乱して怒りに身を任せてしまった。掘り返すのすら嫌になる。

 けれど、栞の情報がある分、手術を受けられる可能性は高い。深呼吸を挟んで心を入れ替える。断られるのと心が痛むけど、自分可愛さで逃げてしまえるほど余裕があるわけじゃない。それに、それぐらい覚悟してる。

 病院に着くと、栞を担当してくれていた先生のもとに連れられた。

「君、栞ちゃんの彼氏だよね。どうしたの?」

 前回のせいで睨むような視線が飛んでくる。吸う息が重い。吐く息が浅い。けど、怯んでちゃいられない。

「彼女を助けたいんです。話を聞いてくれませんか?」

「そうか、聞かせてもらうよ」

 俺は先生に懇願まがいの考えを話す。表情は芳しくなくて、眉を顰める。

「正直……なんとも言えないね。ドナーが十八歳な訳だし、肺移植はトップレベルで難しい。他の病院じゃまともに取り合ってもらえないだろう」

 何度も聞いた言葉がここでも繰り返される。渋る声は俺の喉仏を撫でるよう。気持ち悪さを必死に抑える。

 生体ドナーに関する法律は無いのだが、決まりはある。その中で邪魔をしているのが、『二十歳未満ならびに自己決定力に疑いがある場合にはドナーになることはできない』というもの。

「はい、そうですね……」

 声には嗚咽が混じって、重々しい空気が喉を塞ぐ。

「ただ、不可能なわけじゃない。これを読んでほしい」

 カタカタとパソコンで検索をかけると、大量の文章の中から一つの文にアンダーラインを引く。

『十八歳から十九歳については、以下の条件が満たされていれば、親族間の臓器提供が認められる場合がある』

 言葉にできない感情が湧き上がってきて、俺の欲していた言葉が画面上に映し出される。

 『以下の条件』にも特段難しいものは無かった。簡単にまとめると、ドナーが精神科医から判断能力を認められていること、説明の上で書類に合意していること、特定の委員会に報告して承認をもらうこと。

 これなら、ギリギリだけど間に合う。地獄を抜けた。これなら……まだ、栞と一緒にいられる。

「すぐにでも君の検査をさせてもらっていいかな?」

「もちろんです。お願いします」

 涙を必死に堪えながら、血圧や体重などの検査を受けた。先生曰く、特に問題ないらしい。細かい専門的な話も聞かせてもらって、心強い味方ができた。

 病院を出たら雲は赤らんでいて、夕日は街を燃やしながら沈んでいる。待ちに待った朗報だ。久しぶりに栞の顔も見ておきたい。

 栞のアパートに着くと、小走りで部屋に向かい、インターホンを押す。道が開けたからか、疲れなんて全て吹き飛んだ。

 しかし、数分待っても物音すらしなかった。彼女が一人でどこか行くとは考えずらい。メールを送っても返事がこないのに怖くなって、念の為にもらっていた合鍵を使う。

 玄関には栞が使っているスニーカー。外出はしていない。嫌な憶測を振り払うように土足で部屋を上がってリビングを見渡す。刹那、心臓が凍る。そこには、フローリングに横たわる栞の姿が。

 嘘…………だろ……。

 足がもつれ、息もおぼつかないまま駆け寄る。彼女はすーっ、すーっ、と寝息のような音を立てながらうずくまっている。

「栞! 栞! 大丈夫!?」

 肩を揺さぶりながら病院に電話をかける。栞は全身から汗をかいていて、身体から湯気が出そうなほど熱い。大丈夫、大丈夫、冷静になれ。

 住所と症状を手短に説明して電話を切る。胸骨圧迫も人工呼吸も覚えたし、なんなら練習だってしてきた。AEDも買ったし、常備もしてる。ここ二ヶ月の努力を舐めるな。

 今回は息があるので、回復体位と呼ばれる体制にする。首を後屈させ、気道を確保する。栞の膝を曲げ、上の腕を首元まで持っていく。もう一度息を確認すると、僅かながら落ち着いたように思える。

 数分後、救急車が駆けつけると、先ほどまでいた病院に蜻蛉返りする。父さんと久遠にはメールで伝えて、病院のソファーに座り込む。

 できることが無くなると、急に不安が襲ってくる。もう大丈夫って安心しきっていた。まだ、手術できるって決まっただけで、栞の症状は何一つとして解決していないのに。

 あと一ヶ月あると油断していた。その怠慢と驕りがこんな結果を招いてしまった。もっと気をつけていれば、もっと気にかけていれば、こんなことにはならなかった。

 手の震えが治らない。臓器が全部出てきそうだ。深呼吸したって、なんの気休めにもならなかった。

 何かあったときのため、メールを送ってはいるけれど、それでも一日に二度か三度。昼過ぎに送ったメールには返信が来ているが、そこから倒れていたら五時間はあのままだったことになる。

 頼む。死なないでくれ。今までの努力無駄になるとかどうだっていい。ただ、栞ともう会えないなんて考えたくない。まだ話したい。まだ笑いたい。まだ隣にいたい。何やってんだよ俺。

「蓮! 栞ちゃん大丈夫なの?」

「……なんとも言えない」

 久遠が通路の角から顔を出す。ジャージ姿なのを見るに、学校帰りにそのまま来てくれたのだろう。彼女は俺の隣に座る。

「……生きてるんだよね?」

「多分……」

 嫌だ。栞の死が目の前にあるのが怖い。もし、このまま目を覚まさなかったら手術なんてできない。そんなの……嫌だよ。

 誰か、誰でもいい。神でも仏でも閻魔でもいい。誰か栞を助けてくれ。結局、俺にできるのはそんな神頼みだけ。

「ダサ…………」

 自分で出した声。愚かな声。栞を救うって決めた奴が、どうして倒れるまでほったらかしにしてるんだよ。

「ほんっとうにダサいっ!」

 急な声に跳ね上がる。声量は大きくないが、あたりが静かなこともあって頭に強く残る。

「栞ちゃんの手術できる病院見つけたんでしょ? 蓮の肺、栞ちゃんにあげるんでしょ? そこまでやった蓮がカッコよくないわけない!」

 真っ直ぐ俺を見る瞳が、誰を思っているのか伝えてくれる。

「どうして蓮はそう悲観しちゃうの? 自分を否定しないでよ。蓮は間違ってない。仕方ないことだってあるよ」

「それでも、俺が……俺がもっと頑張ってれば……」

 涙交じりの声で後悔を嘆く。仕方ないじゃ済まないんだ。どうしたって栞は倒れたかもしれないけど、だからいいやで終わらないんだ。

「違う! 蓮はすごく頑張ってるでしょ。全然寝てないの見たら分かるもん。隈できてるよ」

 久遠の手は俺の頭まで伸びて、ゆっくりと抱き寄せられる。優しさと温かさが本物で有無を言わさない。そんなんだ、そうなんだよ。俺、もうこれ以上頑張れないんだ。

 崩れそうな心を壊れそうな身体で守って、気づけばボロボロで、でも休む時間なんて無くて……。

「私の好きな蓮を、蓮が否定しないで。栞ちゃんはきっと大丈夫。今は休んでいいんだよ、お疲れさま」

 頭を撫でられて、ゆっくりと涙を流す。まだ怖い。だけど、不安は和らいでいく。手の震えは治っていて、しがみつくように啜り泣いた。

 空っぽになるまで泣いたら、久遠は笑ってくれた。

「栞ちゃんが起きたら、『待ってたよ』って言ってあげて。それでいいの」

「そっか……」

「私も…………できることはするからさ」

 へへっと草臥れた顔で小さく笑う。

「ありがとう」

「いいってことよ。また泣きたくなったらいつでもウェルカムだからね」

 久遠は冗談混じりに腕を広げる。こういった所でネタを入れてくるのが、彼女なりの優しさ。

「うん、一日に七回だけにしとくよ」

「食事の頻度!?」

「ご飯食べすぎでしょ」

 二人でクスクスと笑い合う。俺は何から何まで誰かに支えられているなとしみじみ感じる。

 もう夜が目前なこともあって、久遠を送ったあとに帰宅した。日を跨いだ頃、栞から「もう大丈夫です」とメールが来て、念の為手術まで入院する旨を話してくれた。

 俺としては一安心。深く息をつくと、意識はベッドに沈み込んだ。久々に、夢が見られる気がする。