あれから何日の月日を無駄に過ごしたのだろう。栞や久遠からのメールも無視し、家族との食事も断り続けた。このままでいいなんて思ってない。でも、いつかくる栞の死が怖い。また、彼女を傷つけてしまいそうで怖い。彼女のあの表情が頭の奥深くにこびりついて離れない。
助けてやりたいのに、俺は無力で世界は無情。病気のヒロインは死ぬなんてフィクションでも現実でも変わらない。むしろ、ファンタジー要素が入ってきて助けられる可能性がある分、フィクションの方が幾分マシだろう。
もし俺が凄腕の医者であったなら、もし俺が臓器を操れる超能力者であったなら、何かを変えることはできたのだろうか。
そんな妄想をしてみたって、結局は俺、所詮は俺。役職がつくなら少年B。名前もなく、少年Aにすらなれない出来損ない。
妥当だろ。人にはもともと器があって、その大きさに見合ったものしか得られないのだ。陸上からも人間関係からも栞からも逃げたちっぽけな人間。人を救うなんてちゃんちゃらおかしい。
普通の人間なら、小説のように残された時間を大切にヒロインと愛を育むのだろう。けれど、俺はそれが耐えられない。
なぜ死ぬのに笑える。なぜもっと一緒にいたいと叫ばずにいられる。なぜ、虚無感が心を蝕まない。俺には無理だ、無理なんだ。今、彼女の隣で笑える気がしない。
栞の助かる道があるのなら、俺は閻魔にだって命を売ろう。でも、そうやって自分の決意に浸って、俺が俺を許しているだけ。そんな俺が許せない。
俺はただの高校生。ありふれた有象無象の一人。凡人にすらなれない凡愚。こうやって自傷を図れば、少しは楽になれる。
自分を貶す言葉はいくらでも湧いてくるのに、肝心の彼女を助ける方法なんて湧いてくるはずがなかった。でも、耳に蘇るのだ。「助けて」と縋る彼女の声が。
命を救うだなんて、俺ができる範囲のことじゃない。そもそもが八方塞がり。栞は臓器提供を断っている。万に一つ奇跡すら望めない。やっぱり、どう考えても不可能。
でも、けれど、しかし、だって。
栞は言った。諦めてないと。
俺は言った。諦めないでと。
俺が諦めてどうする。
「蓮、悪い。今日帰ってこれない。一応母さん呼んでるから何かあったら相談しとけよ。じゃ、誕生日おめでとう。祝ってやらなくてすまない」
ドアの向こうから父さんの声がする。そっか、今日って俺の誕生日か。ずいぶん時間がたった。
一ヶ月以上学校に行かなくても何も言ってこない父さん。それが楽でありがたかったけど、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだろう。
お婆ちゃんを呼ぶのは不器用な優しさ。久遠のときはお世話になった。けれど、今回に限ってはどうしようもないんだ。
天井を見上げても、答えは降ってこない。ただ、いつもより低く感じられて、息苦しいだけ。
気持ち悪い。
彼女のいない世界はどうなんだろう。栞のいない夕日は綺麗なのだろうか。栞のいない星空も輝いているのだろうか。
きっと、本を読むたび彼女が脳裏をよぎるんだ。きっと、帰り道に隣を見るたび思うんだ。きっと、何もないふとした瞬間泣きたくなるんだ。
栞のいない世界なんて空っぽ同然。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「ご飯できたわよー」
正午をとっくに過ぎた昼ご飯。お婆ちゃんの声に部屋から踏み出す。空気が冷たい。この世の全てが俺を馬鹿にしている気がする。
「久しぶりね、随分やつれたじゃない。はい、とりあえずお食べ。蓮ちゃんの好きな鮭の塩焼きだよ」
「うん……いただきます。腰はもう大丈夫なの?」
久しく声を出していなかったからか、張り付いた喉が剥がれる。
「いつの話してるのよ。お婆ちゃんまだまだ若いんだから」
背筋を伸ばして力瘤を作る姿につい笑みが溢れる。笑えないなんて思ってたけど、案外笑えるものだ。
そんなことを思いながら、遅すぎる昼食を頬張る。温かいご飯はいつぶりだろう。炊き立てのご飯が口に広がる。
美味しい…………。俺、何やってんだろ。
涙が溢れて頬を流れるのを感じた。それでも箸は止まらない。塩分が多すぎる塩焼きも、具沢山すぎる味噌汁も、和食に合わない牛乳も、全部が全部、優しさの味がする。
「話、聞かせてくれる?」
「うん……うん……聞いて、俺さ、何にもできない奴でさ、でもそれじゃだめで、助けなきゃいけない子がいて……」
口にいろんなものを入れながら、顔を涙やら鼻水やらで濡らし、泣き声とも喚き声とも似つかない声で話した。
震えて怯える栞を抱きしめてやれなかった。だけど、そんな俺でも助けてやりたかった。抱きしめてやりたかった。
話している間、お婆ちゃんは終始うんうんと頷くだけだった。それでも、話が終わるとゆっくりと口を開く。
「私ね、お爺ちゃんが死んじゃうってなったとき、一つだけもうちょっと長生きできるかも知れない方法があるって言われたの。臓器移植って言うんだけどね」
頷きながら鼻水を啜る。何度も考えて何度も願った。けれど、臓器移植は難しいし、なにより、彼女に臓器移植を受ける気はない。
彼女を説得したとしても、あと三ヶ月で今の栞と合致する肺が提供されることなんて無い。しかも、手術は体力勝負。昏睡状態になってからでは遅い。だから……。
「それが無理って話よね。でも、生体移植って知ってる?」
聞いたことのない単語に思考は止まる。
「生きている人の臓器を人に移す手術なんだって。あの人はやらなかったから詳しいことは知らないわ。でも、調べてみる価値はあるんじゃない?」
心臓が止まりそうになるのを感じながら、俺は残りのご飯を掻き込んだ。
「ご馳走様!」
生体移植だったか。すぐさま打ち込んでいくつかのサイトにアクセスする。本を読んで鍛えられた読解力で流れるように文を追う。
もし、これが可能なら、栞を助けられるかもしれない。俺は急いで栞に電話をかける。
「もしもし、俺。今どこ?」
『蓮……くん? 図書室にいるけど……どうしたの? 今まで何してたんですか?』
「ごめん、すぐそっち行く。待ってて」
相当困惑しているだろうけど、俺にも取り合う余裕が無い。俺は急いで図書室に向かった。二ヶ月もの間部屋から出ていないのに、足はもつれることなく前に進む。このときのために陸上をやっていたのではないかと思えるほどだ。
電車に飛び込み、スマホを開くと、生体移植について調べていく。浮かび上がる文字一つ一つに心臓が一喜一憂する。
駅に着くと、また全力疾走。なんて謝ろうとか、前口上はどうしようとか、考えなきゃいけないことはいくらでもあるのに、脳に酸素が回ってくれない。
それでも、止まることなく図書室についた。深呼吸を挟み、いつものように扉を開ける。そして一言。
「栞、俺と結婚しよう」
図書室にプロポーズが響き渡る。栞は驚きながらスマホを握っていた。
「けっ? 違っ…………どう……えっ?」
複雑な顔をしながら、困惑を隠せずに口をあわあわと動かす。そんな彼女に、俺は懐かしさで瞳が潤う。
「栞を助けられるかもしれない。だから、俺と結婚してほしい」
「何言ってるんですか? 結婚って……そうじゃなくて……もうずっと一人なんだって……怖かったのにっ……」
「ごめん。これはからは絶対一人にさせないから」
ゆっくりと近づいてくる栞へ、俺も歩みを進める。あの日、抱きしめてやらなかった彼女の身体を、壊れるぐらい強く、守るように優しく抱きしめた。
この数ヶ月、彼女にはひどく悲しい思いをさせてしまった。それを償うように頭を撫でる。この感覚が久しい。
「もう、絶対に離さない」
「私の台詞ですっ! もう二度と会えないまま終わるんじゃないかって、蓮くんを傷つけたんじゃないかって、不安だったんですよ?」
まだ、彼女は俺の胸で震えてる。俺は弱い。自信も覚悟も無しに彼女を励ますことなんてできなかった。けれど、道理も理屈もいらないぐらい愛していた。だから、雁字搦めの感情が行き場を失って、挙句逃げ出してしまった。
俺は栞の背中をさする。もう、二度と離れなくない。離れる俺になりたくない。
「今から説明するからさ、一旦座らない?」
「このまま説明してください。今は離れたくないです」
栞と同じことを思っていて、つい頬が綻ぶ。背中に回った腕が懐かしいので、抱き合ったまま説明することにした。
「生体移植って知ってる?」
「生きてる人から移植する手術ですよね。でも、私は親いないんでできないんです」
そう、生体移植は原則、親族から行われるもので、他者からの生体移植は調べた限りなかった。ならどうするか、結婚してしまえばいい。
「俺の肺あげる。だから、結婚しよ」
俺が繰り返すと、栞も意味を理解したらしい。けれど、やはり納得いかないのか小さく唸る。
「それでも無理ですよ……。血液型とかもありますし」
「覚えてないの? 俺はO型だよ」
O型は素晴らしいことにドナーに適しているらしく、拒絶反応が起こらないらしい。占いをした時に相性がよいなんて言われていたし、案外侮れない。
「それでも……理想論です」
「理想論だよ。まだ俺は栞と生き足りない。俺の我儘を聞いてほしい。もっと一緒にいよう」
彼女はもう十分なんて言っていたけど、俺は足りない。付き合って半年で満足なんてできない。強欲で傲慢な俺のお願い。
あれだけ悩んで傷つけたことを後悔したけど、それでも俺は足りない。彼女だって、まだ一緒にいたいって言ってくれた。満ち足りてるふりをして、理不尽を飲み込んだだけ。だから、俺は今までの時間を否定する。
結局久遠と同じように、俺は引きずって二人の日々を甘く見てる。だって、これから先の栞との未来に比べちゃ、この一年も可愛いもの。それぐらい、少し先が輝いて見える。
「蓮くんはそれでいいんですか? 肺が無くなるんですよ。今までの生活ができなくなることだってあるんですよ?」
「誕生日プレゼントだよ。気にしなくていい」
問題は残ってる。親への説得だっているし、病院と相談だってしなければいけない。それに、医療費だって必要だし、それまで栞の身体が耐えてくれる保証もない。
だから、時間が無い。
「お願い、俺と結婚してくれ」
栞が臓器提供の登録を辞めた理由は、その臓器で他の人が生きられるならその人を優先してほしいっていう優しさ。俺の臓器は今のところ他人に渡す予定はない。なら、この手を取ってくれるはず。
「お願い……します。私を助けてください」
この一年、何度も見てきた彼女の笑顔。でも、目の前の涙を流す彼女の姿が最も美しいと思った。
「期待しないでね」
笑いかけると、とうとう栞は泣き崩れる。
「もう助からないんだって思ってたからっ、生きるのはもういいやって…………でも、一緒にいる度に、まだ蓮くんといたいって思うようになって……。押し殺してたのに、溢れ出てきてっ。気づけば助けてって願ってた。蓮くんは、私のヒーローですねっ」
俺も屈んで、栞の顔を覗き込む。溢れる涙を拭こうともしないで、小さく嗚咽を漏らしながら泣いている。
ヒーローなんて、そんな大層なものになれるんだろうか。いや、ヒロインを助ける英雄に、ヒロインを守る主人公にならなくちゃいけない。
小一時間涙を流した栞。泣き止むと、二人で一緒に学校を歩く。俺にとっては二ヶ月ぶりの登校。
「ふふっ、『栞、俺と結婚しよう』ですって。かっこいいですね」
「人の一世一代のプロポーズを笑わないでくれるかな?」
「無理ですよ。一生、覚えておきます」
「早まったか……。もうちょっと考えた方がよかった」
焦りすぎて捻りも何もないプロポーズ。終わってからことの重大さに気づく。栞を助けるための一歩目はこんなにも大きいのか。それに、まだまだこれからも長い。
「あの……すごく言いにくいこと言っていいですか?」
「どうしたの?」
「生体移植って確か二十歳からなんですけど……」
「すーっ」
そうなのだ。電車で検索に引っかかった時、空中で溺れそうになった。生体ドナーの条件はいくつかある。六親等以内の血族か三親等以内の姻族であること、ドナーが提供を希望していること。そして最後にもう一つ、ドナーの年齢が満二十歳を超えていること。
「知ってた顔してますよね……。どうするんですか」
「栞があと二年生きるしかないね」
「無理ですよ! それもお願いしますよ」
「はいはい」
やらなくちゃいけないことは増えたのに、この前より気持ちはすごく楽。きっと、自分でもできることを見つけたから。ここまで、随分と時間がかかってしまった。
軽く咳をしながら笑う彼女。夜空を見に行った時より痩せ細って、目のクマも少し目立つし、顔色もあまりの良くない。そんな視線に気づいたのか説明してくれる。
「やつれてるのは蓮くんのせいですよ。どれだけ不安だったと思ってるんですか。メールも返さないし、家に行っても葵さんは『大丈夫』の一点張りですし……。怖かったんですよ?」
服の裾を摘んでくる。控えめな対抗が彼女らしい。
「家まで来てくれてたんだ。ごめんね」
「帰ってきてくれたからいいですけど……」
父さんや久遠にも連絡を入れておかないといけない。問題は山積み、期限は約三ヶ月、失敗は許されない。いくらなんでもハードモードがすぎるだろ。
「まずは親に報告だね……。早速明日でいい?」
「はい」
気づけば手を握っていた。いつも通り、上品に笑う彼女が愛おしい。
「あっ! 今日って誕生日ですよね。プレゼント用意してるので家まで来てください」
「用意してくれてたの?」
「もちろんです。やりたいことノートにも書きましたし。互いの誕生日を祝い合うって。でも……引かないでくださいね」
「何をプレゼントする気なの……」
貰えるってだけで喜ぶし、栞からってだけで嬉しい。けれど、彼女の引き攣った笑いが少し不安にさせる。そんなことを思いながらアパートに向かう。
今さらになって栞の元に戻ったところで、見放されている可能性だってあった。けれど、あたりまえのように隣にいてくれるのがとてもありがたくて、筆舌に尽くし難い。
栞の家に着くとプレゼントを手渡される。誕プレにしては少し大きくて重め。
「その……考えすぎてよく分からなくなっちゃって、それでも……どうぞ」
栞は照れ隠しさながらに目を逸らすので、不覚にも笑ってしまう。
「開けてもいい?」
「はい……。でも、自信なくて……」
俯く栞を横目に袋を開けると、袋の中には枕と枕カバーが入ってあった。
「枕……? えっ、枕?」
「いいじゃないですか! なんかもう分かんなくなっちゃったんですよ! 最後になると思ってたから一生使えるようなの贈りたいですし、でも指輪とか重いし……アクセサリーはクリスマスと同じだし……」
とうとう栞が爆発する。そこまで考えていてくれたのだと胸の奥が温かくなってくる。
「ははっ、大切に使わせてもらうよ」
「もう……笑わないでください。ロマンチックで長持ちしてよく使うものってなったら何もなかったんですから」
「枕のどこにロマンを感じたの……」
「ほら、夢に出てきてあげます的な?」
「無理あるでしょ」
いろんなプレゼントを考えて枕に落ち着いたと思うと感慨深い……というか単に面白い。
「最終決戦ではその枕と私の骨が残りました」
「骨で寝るのは流石に嫌だね」
「どうして用途が枕前提なんですか」
呆れたように笑ってくれる。骨は冗談だと思うけど、それほどの想いってことは間違いじゃないと思う。つい、また笑みが溢れてた。
「じゃあ、また明日」
「ふふっ、明日……ですね」
彼女に小さく手を振って、背を向ける。
隣にいる、側にいる、一緒にいる、共にいる、傍らにいる。言い方はいっぱいあるけど、全て同じ。好きの形は違わない。
小説で、「彼女は少し強いだけの普通の女の子」というフレーズをよく目にする。けれど、頼れる人もいなくて、たった一人で病気に立ち向かう彼女を普通だなんて思えない。
普通だなんて、思えない。
俺にとって、特別だから。
助けてやりたいのに、俺は無力で世界は無情。病気のヒロインは死ぬなんてフィクションでも現実でも変わらない。むしろ、ファンタジー要素が入ってきて助けられる可能性がある分、フィクションの方が幾分マシだろう。
もし俺が凄腕の医者であったなら、もし俺が臓器を操れる超能力者であったなら、何かを変えることはできたのだろうか。
そんな妄想をしてみたって、結局は俺、所詮は俺。役職がつくなら少年B。名前もなく、少年Aにすらなれない出来損ない。
妥当だろ。人にはもともと器があって、その大きさに見合ったものしか得られないのだ。陸上からも人間関係からも栞からも逃げたちっぽけな人間。人を救うなんてちゃんちゃらおかしい。
普通の人間なら、小説のように残された時間を大切にヒロインと愛を育むのだろう。けれど、俺はそれが耐えられない。
なぜ死ぬのに笑える。なぜもっと一緒にいたいと叫ばずにいられる。なぜ、虚無感が心を蝕まない。俺には無理だ、無理なんだ。今、彼女の隣で笑える気がしない。
栞の助かる道があるのなら、俺は閻魔にだって命を売ろう。でも、そうやって自分の決意に浸って、俺が俺を許しているだけ。そんな俺が許せない。
俺はただの高校生。ありふれた有象無象の一人。凡人にすらなれない凡愚。こうやって自傷を図れば、少しは楽になれる。
自分を貶す言葉はいくらでも湧いてくるのに、肝心の彼女を助ける方法なんて湧いてくるはずがなかった。でも、耳に蘇るのだ。「助けて」と縋る彼女の声が。
命を救うだなんて、俺ができる範囲のことじゃない。そもそもが八方塞がり。栞は臓器提供を断っている。万に一つ奇跡すら望めない。やっぱり、どう考えても不可能。
でも、けれど、しかし、だって。
栞は言った。諦めてないと。
俺は言った。諦めないでと。
俺が諦めてどうする。
「蓮、悪い。今日帰ってこれない。一応母さん呼んでるから何かあったら相談しとけよ。じゃ、誕生日おめでとう。祝ってやらなくてすまない」
ドアの向こうから父さんの声がする。そっか、今日って俺の誕生日か。ずいぶん時間がたった。
一ヶ月以上学校に行かなくても何も言ってこない父さん。それが楽でありがたかったけど、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだろう。
お婆ちゃんを呼ぶのは不器用な優しさ。久遠のときはお世話になった。けれど、今回に限ってはどうしようもないんだ。
天井を見上げても、答えは降ってこない。ただ、いつもより低く感じられて、息苦しいだけ。
気持ち悪い。
彼女のいない世界はどうなんだろう。栞のいない夕日は綺麗なのだろうか。栞のいない星空も輝いているのだろうか。
きっと、本を読むたび彼女が脳裏をよぎるんだ。きっと、帰り道に隣を見るたび思うんだ。きっと、何もないふとした瞬間泣きたくなるんだ。
栞のいない世界なんて空っぽ同然。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
「ご飯できたわよー」
正午をとっくに過ぎた昼ご飯。お婆ちゃんの声に部屋から踏み出す。空気が冷たい。この世の全てが俺を馬鹿にしている気がする。
「久しぶりね、随分やつれたじゃない。はい、とりあえずお食べ。蓮ちゃんの好きな鮭の塩焼きだよ」
「うん……いただきます。腰はもう大丈夫なの?」
久しく声を出していなかったからか、張り付いた喉が剥がれる。
「いつの話してるのよ。お婆ちゃんまだまだ若いんだから」
背筋を伸ばして力瘤を作る姿につい笑みが溢れる。笑えないなんて思ってたけど、案外笑えるものだ。
そんなことを思いながら、遅すぎる昼食を頬張る。温かいご飯はいつぶりだろう。炊き立てのご飯が口に広がる。
美味しい…………。俺、何やってんだろ。
涙が溢れて頬を流れるのを感じた。それでも箸は止まらない。塩分が多すぎる塩焼きも、具沢山すぎる味噌汁も、和食に合わない牛乳も、全部が全部、優しさの味がする。
「話、聞かせてくれる?」
「うん……うん……聞いて、俺さ、何にもできない奴でさ、でもそれじゃだめで、助けなきゃいけない子がいて……」
口にいろんなものを入れながら、顔を涙やら鼻水やらで濡らし、泣き声とも喚き声とも似つかない声で話した。
震えて怯える栞を抱きしめてやれなかった。だけど、そんな俺でも助けてやりたかった。抱きしめてやりたかった。
話している間、お婆ちゃんは終始うんうんと頷くだけだった。それでも、話が終わるとゆっくりと口を開く。
「私ね、お爺ちゃんが死んじゃうってなったとき、一つだけもうちょっと長生きできるかも知れない方法があるって言われたの。臓器移植って言うんだけどね」
頷きながら鼻水を啜る。何度も考えて何度も願った。けれど、臓器移植は難しいし、なにより、彼女に臓器移植を受ける気はない。
彼女を説得したとしても、あと三ヶ月で今の栞と合致する肺が提供されることなんて無い。しかも、手術は体力勝負。昏睡状態になってからでは遅い。だから……。
「それが無理って話よね。でも、生体移植って知ってる?」
聞いたことのない単語に思考は止まる。
「生きている人の臓器を人に移す手術なんだって。あの人はやらなかったから詳しいことは知らないわ。でも、調べてみる価値はあるんじゃない?」
心臓が止まりそうになるのを感じながら、俺は残りのご飯を掻き込んだ。
「ご馳走様!」
生体移植だったか。すぐさま打ち込んでいくつかのサイトにアクセスする。本を読んで鍛えられた読解力で流れるように文を追う。
もし、これが可能なら、栞を助けられるかもしれない。俺は急いで栞に電話をかける。
「もしもし、俺。今どこ?」
『蓮……くん? 図書室にいるけど……どうしたの? 今まで何してたんですか?』
「ごめん、すぐそっち行く。待ってて」
相当困惑しているだろうけど、俺にも取り合う余裕が無い。俺は急いで図書室に向かった。二ヶ月もの間部屋から出ていないのに、足はもつれることなく前に進む。このときのために陸上をやっていたのではないかと思えるほどだ。
電車に飛び込み、スマホを開くと、生体移植について調べていく。浮かび上がる文字一つ一つに心臓が一喜一憂する。
駅に着くと、また全力疾走。なんて謝ろうとか、前口上はどうしようとか、考えなきゃいけないことはいくらでもあるのに、脳に酸素が回ってくれない。
それでも、止まることなく図書室についた。深呼吸を挟み、いつものように扉を開ける。そして一言。
「栞、俺と結婚しよう」
図書室にプロポーズが響き渡る。栞は驚きながらスマホを握っていた。
「けっ? 違っ…………どう……えっ?」
複雑な顔をしながら、困惑を隠せずに口をあわあわと動かす。そんな彼女に、俺は懐かしさで瞳が潤う。
「栞を助けられるかもしれない。だから、俺と結婚してほしい」
「何言ってるんですか? 結婚って……そうじゃなくて……もうずっと一人なんだって……怖かったのにっ……」
「ごめん。これはからは絶対一人にさせないから」
ゆっくりと近づいてくる栞へ、俺も歩みを進める。あの日、抱きしめてやらなかった彼女の身体を、壊れるぐらい強く、守るように優しく抱きしめた。
この数ヶ月、彼女にはひどく悲しい思いをさせてしまった。それを償うように頭を撫でる。この感覚が久しい。
「もう、絶対に離さない」
「私の台詞ですっ! もう二度と会えないまま終わるんじゃないかって、蓮くんを傷つけたんじゃないかって、不安だったんですよ?」
まだ、彼女は俺の胸で震えてる。俺は弱い。自信も覚悟も無しに彼女を励ますことなんてできなかった。けれど、道理も理屈もいらないぐらい愛していた。だから、雁字搦めの感情が行き場を失って、挙句逃げ出してしまった。
俺は栞の背中をさする。もう、二度と離れなくない。離れる俺になりたくない。
「今から説明するからさ、一旦座らない?」
「このまま説明してください。今は離れたくないです」
栞と同じことを思っていて、つい頬が綻ぶ。背中に回った腕が懐かしいので、抱き合ったまま説明することにした。
「生体移植って知ってる?」
「生きてる人から移植する手術ですよね。でも、私は親いないんでできないんです」
そう、生体移植は原則、親族から行われるもので、他者からの生体移植は調べた限りなかった。ならどうするか、結婚してしまえばいい。
「俺の肺あげる。だから、結婚しよ」
俺が繰り返すと、栞も意味を理解したらしい。けれど、やはり納得いかないのか小さく唸る。
「それでも無理ですよ……。血液型とかもありますし」
「覚えてないの? 俺はO型だよ」
O型は素晴らしいことにドナーに適しているらしく、拒絶反応が起こらないらしい。占いをした時に相性がよいなんて言われていたし、案外侮れない。
「それでも……理想論です」
「理想論だよ。まだ俺は栞と生き足りない。俺の我儘を聞いてほしい。もっと一緒にいよう」
彼女はもう十分なんて言っていたけど、俺は足りない。付き合って半年で満足なんてできない。強欲で傲慢な俺のお願い。
あれだけ悩んで傷つけたことを後悔したけど、それでも俺は足りない。彼女だって、まだ一緒にいたいって言ってくれた。満ち足りてるふりをして、理不尽を飲み込んだだけ。だから、俺は今までの時間を否定する。
結局久遠と同じように、俺は引きずって二人の日々を甘く見てる。だって、これから先の栞との未来に比べちゃ、この一年も可愛いもの。それぐらい、少し先が輝いて見える。
「蓮くんはそれでいいんですか? 肺が無くなるんですよ。今までの生活ができなくなることだってあるんですよ?」
「誕生日プレゼントだよ。気にしなくていい」
問題は残ってる。親への説得だっているし、病院と相談だってしなければいけない。それに、医療費だって必要だし、それまで栞の身体が耐えてくれる保証もない。
だから、時間が無い。
「お願い、俺と結婚してくれ」
栞が臓器提供の登録を辞めた理由は、その臓器で他の人が生きられるならその人を優先してほしいっていう優しさ。俺の臓器は今のところ他人に渡す予定はない。なら、この手を取ってくれるはず。
「お願い……します。私を助けてください」
この一年、何度も見てきた彼女の笑顔。でも、目の前の涙を流す彼女の姿が最も美しいと思った。
「期待しないでね」
笑いかけると、とうとう栞は泣き崩れる。
「もう助からないんだって思ってたからっ、生きるのはもういいやって…………でも、一緒にいる度に、まだ蓮くんといたいって思うようになって……。押し殺してたのに、溢れ出てきてっ。気づけば助けてって願ってた。蓮くんは、私のヒーローですねっ」
俺も屈んで、栞の顔を覗き込む。溢れる涙を拭こうともしないで、小さく嗚咽を漏らしながら泣いている。
ヒーローなんて、そんな大層なものになれるんだろうか。いや、ヒロインを助ける英雄に、ヒロインを守る主人公にならなくちゃいけない。
小一時間涙を流した栞。泣き止むと、二人で一緒に学校を歩く。俺にとっては二ヶ月ぶりの登校。
「ふふっ、『栞、俺と結婚しよう』ですって。かっこいいですね」
「人の一世一代のプロポーズを笑わないでくれるかな?」
「無理ですよ。一生、覚えておきます」
「早まったか……。もうちょっと考えた方がよかった」
焦りすぎて捻りも何もないプロポーズ。終わってからことの重大さに気づく。栞を助けるための一歩目はこんなにも大きいのか。それに、まだまだこれからも長い。
「あの……すごく言いにくいこと言っていいですか?」
「どうしたの?」
「生体移植って確か二十歳からなんですけど……」
「すーっ」
そうなのだ。電車で検索に引っかかった時、空中で溺れそうになった。生体ドナーの条件はいくつかある。六親等以内の血族か三親等以内の姻族であること、ドナーが提供を希望していること。そして最後にもう一つ、ドナーの年齢が満二十歳を超えていること。
「知ってた顔してますよね……。どうするんですか」
「栞があと二年生きるしかないね」
「無理ですよ! それもお願いしますよ」
「はいはい」
やらなくちゃいけないことは増えたのに、この前より気持ちはすごく楽。きっと、自分でもできることを見つけたから。ここまで、随分と時間がかかってしまった。
軽く咳をしながら笑う彼女。夜空を見に行った時より痩せ細って、目のクマも少し目立つし、顔色もあまりの良くない。そんな視線に気づいたのか説明してくれる。
「やつれてるのは蓮くんのせいですよ。どれだけ不安だったと思ってるんですか。メールも返さないし、家に行っても葵さんは『大丈夫』の一点張りですし……。怖かったんですよ?」
服の裾を摘んでくる。控えめな対抗が彼女らしい。
「家まで来てくれてたんだ。ごめんね」
「帰ってきてくれたからいいですけど……」
父さんや久遠にも連絡を入れておかないといけない。問題は山積み、期限は約三ヶ月、失敗は許されない。いくらなんでもハードモードがすぎるだろ。
「まずは親に報告だね……。早速明日でいい?」
「はい」
気づけば手を握っていた。いつも通り、上品に笑う彼女が愛おしい。
「あっ! 今日って誕生日ですよね。プレゼント用意してるので家まで来てください」
「用意してくれてたの?」
「もちろんです。やりたいことノートにも書きましたし。互いの誕生日を祝い合うって。でも……引かないでくださいね」
「何をプレゼントする気なの……」
貰えるってだけで喜ぶし、栞からってだけで嬉しい。けれど、彼女の引き攣った笑いが少し不安にさせる。そんなことを思いながらアパートに向かう。
今さらになって栞の元に戻ったところで、見放されている可能性だってあった。けれど、あたりまえのように隣にいてくれるのがとてもありがたくて、筆舌に尽くし難い。
栞の家に着くとプレゼントを手渡される。誕プレにしては少し大きくて重め。
「その……考えすぎてよく分からなくなっちゃって、それでも……どうぞ」
栞は照れ隠しさながらに目を逸らすので、不覚にも笑ってしまう。
「開けてもいい?」
「はい……。でも、自信なくて……」
俯く栞を横目に袋を開けると、袋の中には枕と枕カバーが入ってあった。
「枕……? えっ、枕?」
「いいじゃないですか! なんかもう分かんなくなっちゃったんですよ! 最後になると思ってたから一生使えるようなの贈りたいですし、でも指輪とか重いし……アクセサリーはクリスマスと同じだし……」
とうとう栞が爆発する。そこまで考えていてくれたのだと胸の奥が温かくなってくる。
「ははっ、大切に使わせてもらうよ」
「もう……笑わないでください。ロマンチックで長持ちしてよく使うものってなったら何もなかったんですから」
「枕のどこにロマンを感じたの……」
「ほら、夢に出てきてあげます的な?」
「無理あるでしょ」
いろんなプレゼントを考えて枕に落ち着いたと思うと感慨深い……というか単に面白い。
「最終決戦ではその枕と私の骨が残りました」
「骨で寝るのは流石に嫌だね」
「どうして用途が枕前提なんですか」
呆れたように笑ってくれる。骨は冗談だと思うけど、それほどの想いってことは間違いじゃないと思う。つい、また笑みが溢れてた。
「じゃあ、また明日」
「ふふっ、明日……ですね」
彼女に小さく手を振って、背を向ける。
隣にいる、側にいる、一緒にいる、共にいる、傍らにいる。言い方はいっぱいあるけど、全て同じ。好きの形は違わない。
小説で、「彼女は少し強いだけの普通の女の子」というフレーズをよく目にする。けれど、頼れる人もいなくて、たった一人で病気に立ち向かう彼女を普通だなんて思えない。
普通だなんて、思えない。
俺にとって、特別だから。