「綾波 栞さーん」

 アルコールの匂いがする病院の中、彼女の名前が呼ばれる。俺は栞が通っている病院に連れられていた。

 変わらず俺は栞との別れの準備が出来ていない。だから、彼女の苦しい現実を知るためにお願いした。

 慣れたように診察室に進む栞に胸が痛む。もう、ずっと前から俺の中はぐちゃぐちゃ。

 先生は少し小太りの中年男性で、黒縁眼鏡と白髪がよく似合う。

「そちらの方は?」

「私の彼氏です。今日は見学ですね」

 軽く会釈して丸椅子に腰を下ろした。先生の机の上には見たことない量の資料が置かれていて、風邪で診察されるときとは大違い。

「そうですか。ここ数日、酷い症状はありましたか?」

「いえ、咳が少しと……すぐに息が上がるぐらいです」

「分かりました……」

 俺が見る限り、最近は元気がない。咳や痰などもそうなのだけれど、体力が落ちているのか、活力があまり感じられない。

 近づいている終わりを予感させて、息がしにくい。

「症状は安定していますし、このまま安静にしていれば、秋を迎えられるかもしれません。無理はしないよう、お願いします」

「はい、ありがとうございます」

 栞は小さな声でお礼を言う。迎えられても秋まで。それに、命がもっても、身体が耐えられなくては意味がない。寝たきりの栞なんて見たくない。

 近況報告が終わったので、俺から質問させてもらう。もっと知らなくちゃいけない。栞のこと、病気のこと。

「すみません、原因って分からないんですか?」

「ええ。肺線維症はタバコや肥満が原因だと考えられてはいますが、傾向があるというだけで予測の域を出ない話です。考えられる理由としては、母親の妊娠中の喫煙ではないかと」

 栞を苦しめる諸悪の根源。やっぱり、俺が何かできるわけじゃないし、簡単に受け止められるようなことじゃない。「そうですか」と息を吐くように相槌を打つ。

「綾波さんも顕著に症状が悪化しているわけではないので、経過を見守りましょう」

 見守るってなんだよ。見殺しにするの間違いだろ。誰も病気には勝てない。そんな当たり前なことを今になって思い知らされる。

 行き場の無い怒りは俺の頭を這いずり回って、沸々と怒気が煮えたぎる。

「身体に癌が見つかったり、右の肺が完全停止したわけではありません。《《幸い》》、左の肺も通常通り動いていますし、今すぐにってことはないでしょう」

 先生の言葉を聞いた瞬間、何かがプツリと切れた。幸い? 何が? 肺が動いていることなんて当たり前だ。無意識に睨んでいて、それに気づいた先生は少しのけぞる。

「何が幸いなんですか。栞の病も、症状も、将来が無いことも…………なにも幸いなことなんてないでしょ!」

 突き刺す勢いで彼を睨み、声を張り上げる。立ち上がってもう一言ぶつけようとも思ったけれど、栞の冷たい手が俺の左手に添えられて声を抑える。

「蓮くん……」

 名前を呼ばれただけ。それだけで、彼女の言いたいことが分かった。目で、手で、微笑みで、彼女はやめてと訴えかけている。本当にその笑顔が嫌いだ。諦めて、全てを受け入れて、死を待つだけのその笑顔がひどく心を蝕んでくる。

 勝手にキレて、叫んで……馬鹿が。何のために来たんだよ。

「すみません、頭冷やしてきます」

 空気が悪いことに罪悪感を感じながら、逃げるように扉を閉めた。診察室の前のソファーに腰掛ける。吐いたため息は日に日に大きく、多くなっていく。

 どんどん自分が嫌いになっていく。自分じゃ何もできやしないくせに、人の揚げ足ばかり取って。自分に自信があったわけじゃないけれど、これほどまでに自分に落胆したことは無かった。

 ストレスが溜まっているんだと思う。何一つ上手くいかない。彼女を笑顔にすることも、自分が笑顔になることも、栞の病気を受け入れるのも。

 ただ隣にいるだけ。隣にいる理由なんて好きだけで十分? 無価値な自分を肯定するだけの馬鹿がほざいた妄言じゃないか。

 俺が俺を嫌いなように、栞からも嫌われたらどうしよう。嫌だ……。そんなの耐えられない。真っ直ぐな視線が恋しい。繋いだ手の温度が懐かしい。

 今日はこれから星空を観に行くことになっているのに、前途多難もいいところ。何かできること、俺みたいなやつでもできること。ふと、入り口に車椅子があったのを思い出す。

 少しでも栞のために何かしていないと壊れてしまいそうだった。部屋から出てくる栞に下手な笑顔で車椅子を見せる。

 栞もこれが先ほどの詫びと分かっているはずだ。それでも「ありがとう」と笑ってくれるのは優しさと情け。

 病院を出て電車に乗り、遠出をする。山の近くで降りると車椅子を押して坂を登って行く。

「さっきはありがとうございます」

「感謝されるようなことしてないよ。勝手に怒っただけで、褒められていいことじゃない」

「いえ、そうじゃないんです。私のために怒ってくれたのが嬉しい。私は……蓮くんのために何かできてますか?」

「できてるよ。感謝してる」

 栞に嬉しいと言ってもらえるだけで、こんなにも心が救われる。この前だって、栞がいなければ久遠と仲直りできなかった。何も返せていないのは俺の方。

「私も感謝してますよ。今なんて座ってるだけで進んでいきますから。無料タクシーです」

「突き落とすよ?」

 笑いながら舗装された山を登れば宿に着いていた。カラカラと車椅子が進む音と共にコンビニに入る。晩御飯の調達。プチ旅行に来てまで料理したくないし、その時間があれば栞と笑い合っていたい。

 アイスにお菓子にジュース。高校生らしいラインナップに笑いが溢れる。泊まりと言われた時は驚いたけれど、俺は栞の隣について行くだけ。栞の行きたいところでしたいことができればそれだけで嬉しかった。

 久遠も一緒なら楽しかったのだろうけど、今は栞を独り占めしたい気持ちもある。

「ここは私が払います」

 レジに並んでいると、財布を取り出す前に釘を刺される。

「いや、いいよ。気にしなくて」

「そうじゃなくて……ほら、使わないともったいないじゃないですか」

 また諦めたような笑顔。何も言えなくなるから嫌いだ。今日の宿代だって栞が出してくれたのに。

 夕食を買い終え、モヤモヤした気持ちを抱えながら、借りたコテージに入る。ログハウスみたいな宿は山の自然とマッチしていてなかなかにエモい。

 栞は車椅子から立ち上がると座っていた空間をそっと指差す。

「温めておきましたよ」

「温められても…………って言うか懐かし」

 いつの会話がすら覚えていないぐらい前。ボケてくる栞に、気づけば霧のような思いは晴れている。

「あの頃はまだ私のこと綾波さんって呼んでたんですね」

「綾波さんも俺のこと雪村くんって呼んでたよ」

「綾波さんに戻ってるじゃないですか、ウツボくん」

「ウツボくんもういいでしょ。いつのネタなの……」

 ツッコミを入れながら、冷蔵庫に色々詰めていく。過去を懐かしむのが死ぬ前の身辺整理みたいで少し辛い。今の会話を懐かしむ頃には、きっと栞はもういない。

「お腹すいちゃいました。先ご飯食べません?」

「そうだね」

 止まっていた手を再び動かして、カップラーメンを取り出す。今を楽しむのが先だ、と言い聞かせてお湯を沸かした。

 そのあとは二人でご飯を食べたり、テレビを見たりして時間を潰した。空はもう暗くなり始めている。

「お風呂先にもらっていいですか?」

「いいよ」

 彼女は風呂場のドアの手前で立ち止まる。

「…………一緒に入ります?」

「はいはい」

 ボケだとしてもドキッとするのは男の(さが)。早く行ってと手で追い払う。

「洗いっこしません?」

「幼稚園児か」

「私、蓮くんと結婚するっ!」

「幼稚園児だった」

 少しむすっとしている栞に打ち勝ち、一緒に入ることは避けれた。本音を言うのは野暮だろう。

 栞と入れ替わりで俺も風呂に入る。栞に打ち勝っても、今度は煩悩に打ち勝たなきゃいけないのか。変態じみた思考をシャワーで洗い流し、風呂から上がる。

 栞は浴衣だったけれど、どこかむず痒くて家から持ってきた寝巻きに着替える。お揃い……いつかしなきゃいけないのに、自意識が邪魔をしてできない。

 栞と何か一つ揃えることすらできない俺に、何ができると言うのだろう。

「もーっ、浴衣置いといたのに。いいですけどねっ、早く見ましょうよ」

 わざとらしく拗ねる栞が可愛らしい。ベランダは湯冷めしそうなほど寒かったけど、彼女の笑顔が暖かいのでどうでもいい。

 見上げると、想像以上の絶景が浮かんでいた。月は灯り、街は輝き、星は宙を広げ、雲が天を描く。写真なんかとはスケールが違う。

「綺麗ですね……」

「うん、いい景色」

 二人の目でいくつもの景色を見てきた。水中トンネルも夕日も夜空も、栞がいなきゃ見られなかった。離れたくない。俺は彼女の手を握る。冷たくて細い手を強く握る。

 夜風が寒くて、二人の距離が縮まる。目が合うと笑い合って、心から暖かくなっていく。

「私はこの病気のこと嫌いにならないんです」

 栞の声に目を丸くする。自分の身体を蝕む病気が嫌いになれないなんて、そんなのおかしい。誰よりも嫌って、誰よりも嘆いていいはずなんだ。

「私が本を読み始めたのには理由があるんです。小説って、自分以外の人生を生きれるじゃないですか。昔から長くは生きられないって分かってたから、いろんな人の人生を生きるために読み始めたんです」

 確かに、栞が読んでいた本はどちらかと言えば娯楽よりの本が多くて、現実離れしていないジャンルが多かった。それに、本を読んでいるときの彼女の目は少し曇っていた。そんな後ろ向きな背景があったのからなのかも。

 でも、それが病気を嫌いになれない理由にどう繋がるのか。

「病気じゃなかったら、私は本の世界に足を踏み入れなかったんです。だから、図書室に行くことも、葵さんの息子って理由で蓮くんに声をかけることもなかった」

 つまり、皮肉にも病気が俺たちを繋ぎ、出会わせたというのだ。

「病気でもいいんです。死んでも…………しかたないとも思います。蓮くんと出会えたから、そう思えた。蓮くんに会えてよかった」

 彼女の涙が胸を抉る。甘い言葉が鼓膜を溶かして、喉を焼いて、胸を締め付ける。

 そんな言い方しないで。俺と会ったから、死んでもいいと思えたなんて。俺はずっと死んでほしくない。まだまだ隣にいたいんだ。

 「一秒でも長く」なんて使い古された言葉を草臥(くたび)れるまで使いたいし、味がしなくなってもこの瞬間を噛みしめたい。

「俺は……栞と会えなくてもよかった。それで、栞が生きられるなら、それでも……」

「そんなこと言わないで。蓮くんといられるなら、未来なんて欲しくないよ」

 じゃあ、じゃあそんな顔するなよ。苦しそうな……諦めたような笑顔なんて、見せないでよ。

 残される俺が未来を望むなんて、死んでしまう君が未来を諦めるなんて、そんなの酷すぎる。俺が望む未来を、叶わなくとも望んでほしい。我儘だ。分かってる。でも。

「俺は……俺は栞の未来が欲しい」

「無理だよ……」

「無理じゃ––––」

「無理なの。ごめんね、諦めて。移植希望登録辞めたんです。もう十分なほど幸せをくれる人がいたから。私より助かるべき人がいるから」

 宥めるように、慰めるように、諭すように。違う、違うんだよ。栞に生きたいって思ってほしい。死んでいいなんて思ってほしくない。

 栞より助かるべき人間なんか知らない。栞が全てだ。栞が全部だ。

「簡単に諦めないでよ。まだ俺は満足してない。まだ栞がいてほしい。どうして勝手に諦めちゃうんだよ!」

 久遠の前では覚悟ができてるなんて言いながら、それでも一緒にいたいと願ってしまう。繋いだ手を振り解いて、肩で息をする。

 ただ、自分の感情が溢れてしまっただけ。けれど、顔を上げた先にあった栞の顔はそんな言い訳が通じないほどに、憎悪に満ちていた。

「簡単なわけない! 何も知らないくせに。私が何を諦めたって言うの!? 何も諦めてない。蓮くんと一緒に生きたの。誰にも生きるのを諦めたなんて言わせない」

 睨む栞に押されて、一歩後ずさる。やってしまった。最も愚かなことをしてしまった。彼女だけは、怒らせちゃいけないのに。

「それに、生きたいなんて言ったって病気は治らない! 私だってまだ隣にいたいに決まってる! でも、そんなこと言っても……どうにもならないんだよ。だから、せめて綺麗に死なせて」

 俺は下唇を強く噛む。何が生きたいと思ってほしいだ。そんなの、言われなくても思ってるだろ。先の無い道を歩くと決めた彼女の残り僅かな人生に、俺が霧をかけてどうする。

 彼女は諦めたんじゃない、受け入れたんじゃない。ただ、生きたんだ。

 初めて見る栞の怒り。俺はただ絶望していた。彼女だけは傷つけちゃいけなかった。誰に叫ぼうと、誰を睨もうと、栞だけは悲しませないって決めたはずなのに。

 嫌でも涙が溢れてくる。それに、息も苦しい。どうして俺が泣きそうになってるんだよ。泣きたいのは栞じゃないか。

「ごめん……傷つけるつもりは…………」

 なかったからなんだ。傷つけていいわけじゃない。どん底に堕ちた俺の顔を見て、栞も冷静になったのか、首を横に振る。

「私の方こそごめん……あんな言い方して、蓮くんが何にも思わないわけないですよね」

 それだけ言うと、彼女は背を向けて部屋に入って行く。伸ばした腕はすんでのところで掴めず、トイレに駆け込む栞を惜しむだけ。
一人の夜空は、こんなにも暗い。

 部屋に戻っても俺一人。栞が出てくるのを待ったって、自分への怒りは収まらない。

 栞に叫んで何がしたかったのだろう。いい加減にしろよ、と叱咤する。彼女の言う通り、俺があんなこと言ったって病気は治らない。未来は変わらない。

 彼女の優しさが鋭い刃になって俺を傷つける。他に必要としている人がいるから移植は受けないなんて、どうしてそんな考えができるんだ。どこまで彼女は優しいんだ。

 それに比べて俺は彼女の覚悟も全部踏み躙って、積み上げてきたものを軽く見て。これだけ後悔しているのに、俺はまだ栞の死を受け入れられない。

 失望、嫌悪、憎悪、激怒、落胆。全て俺のこと。出来損ないの凡人以下。本当に……俺って何もできないんだな。笑いすら溢れてきて可笑しくなる。

 彼女がどんな思いで移植の登録を辞めたのか。彼女が向けてくれる俺への想いすら否定してしまった。好きなのに、好きだけど、好きだから…………。ずっと間違え続ける。大間違いなんて言葉じゃ生ぬるい。

 正解なんて分からない。分かったとして、俺は答えを導くことができるだろうか。もし、栞の一切を受け入れることが正解だとするなら、正しい形で彼女を愛せるだろうか。

 俺は歪で間違いだらけの感情をぶつけることしかできない。

 天井を見上げて息を吐く。

 そうして少し経つと、トイレの扉が開いた。

「まだ起きてたんですね……」

「寝れないよ」

 俺みたいなやつは慰めることすら満足にできないんだ。何も持ち得ていない。慰めて安心させる優しさも、栞の死を受け入れる強さも。それが、今まで全てのことから逃げてきたつけ。

「ごめん。俺、何にもできないや。だから、好きにして。叫んでくれても殴ってくれてもいい。栞の本心が聞きたい。少しでも楽になれるなら、聞かせて」

 ずっとそうだった。隣にいることしかできなくて、泣いている彼女を見ていることしかできなかった。栞の涙を拭ってやれる力なんて、最初から持ち合わせていないんだ。

「……っ」

 栞が俺の胸に飛び込んでくる。一回りも二回りも小さい身体が肩に収まって、俺の服を握りしめる。

「まだっ……まだ離れたくない……。ずっと、ずっと一緒にいたい……」

 文脈なんて考えず、栞は自分の頭に浮かんだ感情を吐露する。生きたいんじゃない、隣にいたいんだと。

「ここは私の居場所なんだっ、誰にも渡せない。渡したくない……」

 しがみついて、熱い熱い息をする。

「蓮くんの声は私のだ。視線も、笑顔も、感情も……他の誰にもあげないで。怒るなら私のために怒って。その声で他の子を呼ばないで。私以外の隣を歩かないで……」

 痛いぐらいに近づく。このままいっそ、重なりたい。

「この先、蓮くんの隣は私じゃないのが辛い。お願い、私を助けて……」

 抱きしめて頭を撫でてやれば、彼女はどれほど楽になるだろう。いつもみたく「期待すんなよ」って笑いかければ、何か一つぐらい守れるだろう。でも、できない。俺はその程度の人間。

 二人で同じベッドに倒れ込む。俺の腕で泣いてる栞に「大丈夫だよ」って言ってやれる強さがあれば、きっとこうはなっちゃいない。

 彼女の啜り泣く声は、脳を震わせてこびりつく。触れる身体はこんなにも脆い。夢はまだ、夢のまま。


 次の日に栞と別れてから、俺は一方的に彼女を避けた。学校に行かず、メールも返さない。そうして時は流れ、冬は終わり、年度が変わっても距離を置く。

 そうして、余命宣告された日まで三ヶ月を切った––––––––。