栞の病気を知り、共に歩むと決めて早くも一ヶ月が経った。残り半年と思えば思うほど短く感じる。最近はスマホの日付を見るだけで胸が痛む。怖くて怖くて仕方ない。
残された時間、俺と栞はやりたいことノートに従っていろいろなところを回った。昨日はクレープ屋に、一昨日は映画館に。今日は久遠にも病気のことを話すらしい。
一ヶ月経っても、今だに彼女がいなくなる事実を受け入れられていない。だから、俺なりに栞の病気について調べてみた。
特発性肺線維症とは、全国患者約一万五千人の指定難病。原因が不明故に、死亡率は肺がんの次に高い。
恐ろしいのはここからで、この病気は予後不良、つまり改善の余地が見られないことを表す。さらに、呼吸不全で死亡することが多いため対処が困難で平均生存期間は三年から五年ほど。
栞は先天的かつ慢性型であったため、まだ身体が耐えられていると言っていた。一万人に一人と言われる病気。なぜ栞が苦しい思いをしなければならないのか。考えただけで世界が憎くなる。
憎んだってどうにもならないし、悲しんだってどうにもならないんだろうけど、やっぱり怖いし悔しい。着々と近づく終わりのときが心を蝕む。
俺が図書室に着くと、既に二人は面と向かって座っていた。
「お待たせ」
「全然待ってないよ。今日部活休みだし、って言うか二人から話って予想できないんだけど……」
「とりあえず、栞の話を聞いてあげて」
そう促して、栞の隣に座る。彼女の話を聞いたとき、久遠はどうな反応をするのだろう。俺に話してくれた時のことを思い出してか、栞の手が小さく震える。なんにもできないけど、せめてこれぐらいは。俺は彼女の手を握る。
「私……あともう少しで死んじゃうんです」
はっきりとした声色。ただ、滲むように胸を突き刺す内容が静寂を生み出す。誰が話し始めるか。これほどまでに乱れた静黙は知らない。
先に重い口を開いたのは久遠。下唇を噛んでから濁った声を出す。
「嘘……じゃないよね。じゃあ、さ、蓮はどうするの?」
それは栞にも訊かれた質問だった。
「俺はそれでも一緒にいたい」
彼女に手を添えていて正解だった。それだけで小さな勇気が湧いてくる。俺の答えに、久遠は少し驚いたような顔をして、首を振ってから冷静に返す。
「そんなこと知りたいんじゃないよ。栞ちゃんが蓮をどうするかが聞きたいの。もしかして、蓮と一緒に居たいからって縛るわけじゃないよね? 栞ちゃんは蓮が苦しむって分かってる?」
久遠の言葉に栞は声を詰まらせる。そんな訊き方ないだろ。「分かってる」なんて言えるはずない。
「久遠、俺は自分で選んだつもりだからさ。その決断を栞のせいにするのはやめてほしい」
割って入ると、彼女はもう一度唇を噛んで俺を睨む。
「蓮だって何も分かってないでしょ。傷つくのは蓮なんだよ? どうして無理に関係続けるの? 今だって辛いはずじゃん。栞ちゃんが大切なのは分かってる。でも、もっと大切なものってあるでしょ?」
俺を睨んでいた目は、共感を求める視線に変わる。「分かるでしょ?」と心に訴えかけてくる。確かにそうかもしれない。今だって苦しいし、傷つくのも俺だと思う。けど、俺は「それでも」と口を開いた。
「それでも俺は栞といたい。久遠が言いたいことも理解できるよ。絶対に傷つくし、きっと引きずる。でも、それは離れたってそうなるから。なら、最後まで一緒にいてやりたい」
焦茶色の瞳を貫くように見続ける。逸らさない。逸らせない。けれど、俺の答えに納得がいかなかったのか、久遠は少し涙目になって手を握る。
「どうして……。私は蓮が傷つくために二人へアドバイスしてたわけじゃない! 二人が上手くいくならって、蓮が幸せならそれでいいって、本当にそう思って…………。手伝った意味も……無くなっちゃうじゃん」
言葉尻が弱くなる。久遠の言葉を咀嚼しながら、怒りが湧くのを感じた。意味が無くなるとか、そんな、俺たちのキスとかデートとかが無意味みたいに言うなよ。
久遠のアドバイスがあったのは間違いないけど、他人に進んできた距離を無意味だなんて決められたくない。
「意味無くなるってなんだよ。久遠のおかげで上手くいったのは認めるよ。けどさ、栞が死んじゃうからって、全部無駄ってのは違うだろ」
栞との日々にどんな意味があったのかは分からない。でも、誰にも意味が無かったなんて言わせない。認めさせない。認めない。
俺は毒を吐いて、久遠を睨む。彼女の怯えた表情が良心を痛めるけど、視線が緩むことはなかった。
「無駄になってるもん……。蓮が傷ついて、しんどい思いする理由なんて無い」
そう言って、久遠は栞に視線を移す。
「栞ちゃん、蓮と一緒にいるのは間違ってるよ。好きなら苦しませるべきじゃない」
「だから、栞のせいにするなって!」
悲しむ栞の顔を見て、つい声を荒らげてしまう。凍てついた空気が肌を刺す。もう、話し合いなんて無理だ。
「理由なんて、好きってだけで十分だろ。行こう、栞。もういいよ」
栞の命が長くないことは伝えた。席を立って、彼女の手を引く。
「待って! まだ話、終わってない……」
「話? 俺たちがしてきたことを無意味なんて言う奴が関わってくんなよ。邪魔だ」
ぐしゃりと心臓の潰れる音がする。築いてきたものが壊れる音がする。それでも、握った手を守りたかった。あの日々の意味を無くしたくはなかった。
「違っ……、私は…………」
そんな彼女の声を張り切って、図書室の扉を閉める。こんなことしたかったわけじゃない。でも、でも。
どんどん早歩きになって、彼女を引く力が強くなる。久遠に言われてどんどん実感が湧いてくる。薄々感じていた恐怖。栞がいなくなれば何が残るのか。今からすることに意味はあるのか。その恐ろしさを振り切るように廊下を駆けた。
栞が俺の手を放す。強引にあの場を離れたから怒らせてしまったのだろうか。怖くなって足を止める。
「私、戻っていいですか? 久遠ちゃんともう少し話したいです」
「そっか……ごめん」
「謝らないでください。図書室から出たのって私のためじゃないですか。傷つけられるのはいいんです。蓮くんを傷つけている以上、自分だけ守ってもらうなんて烏滸がましいですから」
また、彼女は諦めたように笑う。嫌だ。その笑顔が針みたいに心臓をつついてくる。
「蓮くんは先に帰っててください。私はまだ久遠ちゃんの質問に答えていないんです」
俺の返事も聞かず、身を翻して歩いてゆく。俺はどうすればいいのだろう。このまま何も知らずに帰るのか? 馬鹿げてる。また、逃げた自分の弱さを呪いたくなる。
まだ久遠を許せていない。俺は栞の後を追った。ただ、二人の会話を聞きたかった。栞が図書室に入ったのを見計らって、俺も扉に張り付く。盗み聞きの罪悪感よりも、久遠への怒りと、俺への嫌悪が勝る。
「どうして戻ってきたの? 蓮は?」
「帰りました。私は……話があったので」
「そうなんだ。ごめんね。傷つけるつもりは無かったの。ちょっと、自分のことしか考えられなかった」
中からは小さい嘆き声が聞こえてくる。なぜそうも簡単に謝れるんだ。彼女のそんな人間性にすら嫉妬する自分に嫌気が差す。
「蓮くんは気づいてないですけど、私はちゃんと分かってますよ。『自分のことしか』なんて言わないでください。久遠ちゃんはずっと、蓮くんのことを一番に考えてたじゃないですか」
栞の言葉に心臓が息の仕方を忘れる。信じがたい物言いに耳を疑う。ただ、点と点が繋がるように、パズルのピースははまっていく。
栞が死ぬと知った時、すぐに「蓮はどうするの?」と俺の名前を出した。それからも俺が苦しむ理由だとか、俺を傷つけないでとか、そんなことばかりだったじゃないか。
久遠が言っていた大切なことって、俺自身のことなのかもしれない。ずっと彼女は俺のことを心配していたんだ。それなのに……俺はどうして彼女を傷つけているんだ。
「結局、怒らせちゃったんだけどね。蓮は栞ちゃんが一番大事で、私が大切にしてる蓮は傷付く覚悟があった。私は邪魔な子。……蓮はどうするの?」
「蓮くんは私の隣にいさせます。傷つけるってわかってるけど……それでも隣にいたいんです」
痛い、いたい。
心臓が痛い。
隣にいたい。
服の上から胸を握る。今すぐにでもドアを開けて抱きしめたい。久遠に謝りたい。
「そっか……。栞ちゃんにはとことん敵わないな。本当にごめんね。今日の喧嘩も私のせいだから気にしないで」
「んんっ、どうして全部背負おうとしてるんですか。今から蓮くんのとこ行きますよ」
「無理だよ。二人のこと否定しちゃった。そんな私に関わる理由なんか無い」
沈んだ声が耳に響く。この中で、俺だけがちっぽけな子供のまま。勝手に否定された気になって、話も聞かずに逃げ出して。弱音ばっかで行動しない意気地無し。
「何言ってるんですか。理由なんて、好きってだけで十分です」
急に扉が開けられて俺は二歩下がる。栞と目があって、久遠とも視線を交わす。
「どうして蓮くんがここにいるんですか?」
「ごめん……盗み聞きしてた。その……全部聞いた。久遠、ごめん。何も分かってなかった。俺が悪い」
最近、謝ってばっかりだ。自分の酷さに呆れるほどに、謝罪ばかり。知らなかった。久遠が俺をそこまで心配してくれていること。知っていた。久遠が考えもなしに人を傷つける人間じゃないってこと。
「許してほしい。邪魔なんて言ったことも、話も聞かずに見限ったことも……」
「いいよ、それに私もごめん。蓮が幸せならそれでよかったから、フラれたのを納得するために手伝ってた……本当に応援してたの」
偽りのない言葉が、泣きそうな声で流れる。
「でも、傷つくんだったら、アドバイスした意味とかないんじゃないかなって思っちゃって……。蓮が苦しむのも、私がフラれたのも許せなくなって……、自分勝手だよね」
どんな想いで彼女が今まで俺の背中を押していてくれたのか。そんなことも考えずに、きっと言ってはいけないことを言ってしまった。
久遠に栞が駆け寄って、今度はちゃんと腹を割って話した。俺は怒りに任せて久遠を突き放した幼稚なとこを。久遠は俺のことを思って栞を傷つけてしまったことを。
それが終わると、久遠にも病気の詳細を話した。謝ってすぐ元通り……なんて簡単なぶつかり合いじゃなかった。こんがらがって、絡まり合った感情が余計に拗れて、話し合ってようやく解け始めただけ。
それでも、初めのように三人が同じ机を囲んでる。
「二人は人っていつ死ぬと思いますか?」
初めて栞にあった日にも訊かれた質問。おそらく、あの日彼女が言いたがっていた言葉はこの病気のことなんだと思う。もしあの時から知っていたら、どんな道を辿ったのか。
「私は……死んじゃったときだと思う」
久遠が答えて、俺も頷く。けれど、俺は栞がなんと言うか知っている。
「人は二度死ぬんです。一度目は身体が死んでしまったとき。二度目は自分を覚えてくれる人がいなくなったとき。だから、二人には私のことを覚えていてほしいんです。酷いことを言ってるんだと思うけど、お願い」
「当たり前だよ。ずっと覚えとく。一瞬も忘れない。約束する」
久遠が栞に抱きついて、栞も驚きながら腕を背中に回す。俺だって忘れられない。二度目の死とか関係なく。
栞を覚えていたら、彼女は救われるのだろうか。それが本当に幸せなんだろうか。忘れられないのと同じぐらい、ずっと隣にはいられない。
やっぱり、俺は彼女の死を受け入れられる気がしない。愛する人が死んでいいなんて思えるはずがない。抱きつく二人を見ながら、また一層堕ちていく。
栞との別れはどうなってしまうのだろう。
最近、上手く笑えない。
残された時間、俺と栞はやりたいことノートに従っていろいろなところを回った。昨日はクレープ屋に、一昨日は映画館に。今日は久遠にも病気のことを話すらしい。
一ヶ月経っても、今だに彼女がいなくなる事実を受け入れられていない。だから、俺なりに栞の病気について調べてみた。
特発性肺線維症とは、全国患者約一万五千人の指定難病。原因が不明故に、死亡率は肺がんの次に高い。
恐ろしいのはここからで、この病気は予後不良、つまり改善の余地が見られないことを表す。さらに、呼吸不全で死亡することが多いため対処が困難で平均生存期間は三年から五年ほど。
栞は先天的かつ慢性型であったため、まだ身体が耐えられていると言っていた。一万人に一人と言われる病気。なぜ栞が苦しい思いをしなければならないのか。考えただけで世界が憎くなる。
憎んだってどうにもならないし、悲しんだってどうにもならないんだろうけど、やっぱり怖いし悔しい。着々と近づく終わりのときが心を蝕む。
俺が図書室に着くと、既に二人は面と向かって座っていた。
「お待たせ」
「全然待ってないよ。今日部活休みだし、って言うか二人から話って予想できないんだけど……」
「とりあえず、栞の話を聞いてあげて」
そう促して、栞の隣に座る。彼女の話を聞いたとき、久遠はどうな反応をするのだろう。俺に話してくれた時のことを思い出してか、栞の手が小さく震える。なんにもできないけど、せめてこれぐらいは。俺は彼女の手を握る。
「私……あともう少しで死んじゃうんです」
はっきりとした声色。ただ、滲むように胸を突き刺す内容が静寂を生み出す。誰が話し始めるか。これほどまでに乱れた静黙は知らない。
先に重い口を開いたのは久遠。下唇を噛んでから濁った声を出す。
「嘘……じゃないよね。じゃあ、さ、蓮はどうするの?」
それは栞にも訊かれた質問だった。
「俺はそれでも一緒にいたい」
彼女に手を添えていて正解だった。それだけで小さな勇気が湧いてくる。俺の答えに、久遠は少し驚いたような顔をして、首を振ってから冷静に返す。
「そんなこと知りたいんじゃないよ。栞ちゃんが蓮をどうするかが聞きたいの。もしかして、蓮と一緒に居たいからって縛るわけじゃないよね? 栞ちゃんは蓮が苦しむって分かってる?」
久遠の言葉に栞は声を詰まらせる。そんな訊き方ないだろ。「分かってる」なんて言えるはずない。
「久遠、俺は自分で選んだつもりだからさ。その決断を栞のせいにするのはやめてほしい」
割って入ると、彼女はもう一度唇を噛んで俺を睨む。
「蓮だって何も分かってないでしょ。傷つくのは蓮なんだよ? どうして無理に関係続けるの? 今だって辛いはずじゃん。栞ちゃんが大切なのは分かってる。でも、もっと大切なものってあるでしょ?」
俺を睨んでいた目は、共感を求める視線に変わる。「分かるでしょ?」と心に訴えかけてくる。確かにそうかもしれない。今だって苦しいし、傷つくのも俺だと思う。けど、俺は「それでも」と口を開いた。
「それでも俺は栞といたい。久遠が言いたいことも理解できるよ。絶対に傷つくし、きっと引きずる。でも、それは離れたってそうなるから。なら、最後まで一緒にいてやりたい」
焦茶色の瞳を貫くように見続ける。逸らさない。逸らせない。けれど、俺の答えに納得がいかなかったのか、久遠は少し涙目になって手を握る。
「どうして……。私は蓮が傷つくために二人へアドバイスしてたわけじゃない! 二人が上手くいくならって、蓮が幸せならそれでいいって、本当にそう思って…………。手伝った意味も……無くなっちゃうじゃん」
言葉尻が弱くなる。久遠の言葉を咀嚼しながら、怒りが湧くのを感じた。意味が無くなるとか、そんな、俺たちのキスとかデートとかが無意味みたいに言うなよ。
久遠のアドバイスがあったのは間違いないけど、他人に進んできた距離を無意味だなんて決められたくない。
「意味無くなるってなんだよ。久遠のおかげで上手くいったのは認めるよ。けどさ、栞が死んじゃうからって、全部無駄ってのは違うだろ」
栞との日々にどんな意味があったのかは分からない。でも、誰にも意味が無かったなんて言わせない。認めさせない。認めない。
俺は毒を吐いて、久遠を睨む。彼女の怯えた表情が良心を痛めるけど、視線が緩むことはなかった。
「無駄になってるもん……。蓮が傷ついて、しんどい思いする理由なんて無い」
そう言って、久遠は栞に視線を移す。
「栞ちゃん、蓮と一緒にいるのは間違ってるよ。好きなら苦しませるべきじゃない」
「だから、栞のせいにするなって!」
悲しむ栞の顔を見て、つい声を荒らげてしまう。凍てついた空気が肌を刺す。もう、話し合いなんて無理だ。
「理由なんて、好きってだけで十分だろ。行こう、栞。もういいよ」
栞の命が長くないことは伝えた。席を立って、彼女の手を引く。
「待って! まだ話、終わってない……」
「話? 俺たちがしてきたことを無意味なんて言う奴が関わってくんなよ。邪魔だ」
ぐしゃりと心臓の潰れる音がする。築いてきたものが壊れる音がする。それでも、握った手を守りたかった。あの日々の意味を無くしたくはなかった。
「違っ……、私は…………」
そんな彼女の声を張り切って、図書室の扉を閉める。こんなことしたかったわけじゃない。でも、でも。
どんどん早歩きになって、彼女を引く力が強くなる。久遠に言われてどんどん実感が湧いてくる。薄々感じていた恐怖。栞がいなくなれば何が残るのか。今からすることに意味はあるのか。その恐ろしさを振り切るように廊下を駆けた。
栞が俺の手を放す。強引にあの場を離れたから怒らせてしまったのだろうか。怖くなって足を止める。
「私、戻っていいですか? 久遠ちゃんともう少し話したいです」
「そっか……ごめん」
「謝らないでください。図書室から出たのって私のためじゃないですか。傷つけられるのはいいんです。蓮くんを傷つけている以上、自分だけ守ってもらうなんて烏滸がましいですから」
また、彼女は諦めたように笑う。嫌だ。その笑顔が針みたいに心臓をつついてくる。
「蓮くんは先に帰っててください。私はまだ久遠ちゃんの質問に答えていないんです」
俺の返事も聞かず、身を翻して歩いてゆく。俺はどうすればいいのだろう。このまま何も知らずに帰るのか? 馬鹿げてる。また、逃げた自分の弱さを呪いたくなる。
まだ久遠を許せていない。俺は栞の後を追った。ただ、二人の会話を聞きたかった。栞が図書室に入ったのを見計らって、俺も扉に張り付く。盗み聞きの罪悪感よりも、久遠への怒りと、俺への嫌悪が勝る。
「どうして戻ってきたの? 蓮は?」
「帰りました。私は……話があったので」
「そうなんだ。ごめんね。傷つけるつもりは無かったの。ちょっと、自分のことしか考えられなかった」
中からは小さい嘆き声が聞こえてくる。なぜそうも簡単に謝れるんだ。彼女のそんな人間性にすら嫉妬する自分に嫌気が差す。
「蓮くんは気づいてないですけど、私はちゃんと分かってますよ。『自分のことしか』なんて言わないでください。久遠ちゃんはずっと、蓮くんのことを一番に考えてたじゃないですか」
栞の言葉に心臓が息の仕方を忘れる。信じがたい物言いに耳を疑う。ただ、点と点が繋がるように、パズルのピースははまっていく。
栞が死ぬと知った時、すぐに「蓮はどうするの?」と俺の名前を出した。それからも俺が苦しむ理由だとか、俺を傷つけないでとか、そんなことばかりだったじゃないか。
久遠が言っていた大切なことって、俺自身のことなのかもしれない。ずっと彼女は俺のことを心配していたんだ。それなのに……俺はどうして彼女を傷つけているんだ。
「結局、怒らせちゃったんだけどね。蓮は栞ちゃんが一番大事で、私が大切にしてる蓮は傷付く覚悟があった。私は邪魔な子。……蓮はどうするの?」
「蓮くんは私の隣にいさせます。傷つけるってわかってるけど……それでも隣にいたいんです」
痛い、いたい。
心臓が痛い。
隣にいたい。
服の上から胸を握る。今すぐにでもドアを開けて抱きしめたい。久遠に謝りたい。
「そっか……。栞ちゃんにはとことん敵わないな。本当にごめんね。今日の喧嘩も私のせいだから気にしないで」
「んんっ、どうして全部背負おうとしてるんですか。今から蓮くんのとこ行きますよ」
「無理だよ。二人のこと否定しちゃった。そんな私に関わる理由なんか無い」
沈んだ声が耳に響く。この中で、俺だけがちっぽけな子供のまま。勝手に否定された気になって、話も聞かずに逃げ出して。弱音ばっかで行動しない意気地無し。
「何言ってるんですか。理由なんて、好きってだけで十分です」
急に扉が開けられて俺は二歩下がる。栞と目があって、久遠とも視線を交わす。
「どうして蓮くんがここにいるんですか?」
「ごめん……盗み聞きしてた。その……全部聞いた。久遠、ごめん。何も分かってなかった。俺が悪い」
最近、謝ってばっかりだ。自分の酷さに呆れるほどに、謝罪ばかり。知らなかった。久遠が俺をそこまで心配してくれていること。知っていた。久遠が考えもなしに人を傷つける人間じゃないってこと。
「許してほしい。邪魔なんて言ったことも、話も聞かずに見限ったことも……」
「いいよ、それに私もごめん。蓮が幸せならそれでよかったから、フラれたのを納得するために手伝ってた……本当に応援してたの」
偽りのない言葉が、泣きそうな声で流れる。
「でも、傷つくんだったら、アドバイスした意味とかないんじゃないかなって思っちゃって……。蓮が苦しむのも、私がフラれたのも許せなくなって……、自分勝手だよね」
どんな想いで彼女が今まで俺の背中を押していてくれたのか。そんなことも考えずに、きっと言ってはいけないことを言ってしまった。
久遠に栞が駆け寄って、今度はちゃんと腹を割って話した。俺は怒りに任せて久遠を突き放した幼稚なとこを。久遠は俺のことを思って栞を傷つけてしまったことを。
それが終わると、久遠にも病気の詳細を話した。謝ってすぐ元通り……なんて簡単なぶつかり合いじゃなかった。こんがらがって、絡まり合った感情が余計に拗れて、話し合ってようやく解け始めただけ。
それでも、初めのように三人が同じ机を囲んでる。
「二人は人っていつ死ぬと思いますか?」
初めて栞にあった日にも訊かれた質問。おそらく、あの日彼女が言いたがっていた言葉はこの病気のことなんだと思う。もしあの時から知っていたら、どんな道を辿ったのか。
「私は……死んじゃったときだと思う」
久遠が答えて、俺も頷く。けれど、俺は栞がなんと言うか知っている。
「人は二度死ぬんです。一度目は身体が死んでしまったとき。二度目は自分を覚えてくれる人がいなくなったとき。だから、二人には私のことを覚えていてほしいんです。酷いことを言ってるんだと思うけど、お願い」
「当たり前だよ。ずっと覚えとく。一瞬も忘れない。約束する」
久遠が栞に抱きついて、栞も驚きながら腕を背中に回す。俺だって忘れられない。二度目の死とか関係なく。
栞を覚えていたら、彼女は救われるのだろうか。それが本当に幸せなんだろうか。忘れられないのと同じぐらい、ずっと隣にはいられない。
やっぱり、俺は彼女の死を受け入れられる気がしない。愛する人が死んでいいなんて思えるはずがない。抱きつく二人を見ながら、また一層堕ちていく。
栞との別れはどうなってしまうのだろう。
最近、上手く笑えない。