クリスマス前日、俺は分厚いロングコートのポケットに手を突っ込みながら、栞が来るのを待っていた。

 凍えるほどの街は緑と赤が彩っていて、向こうに見えるクリスマスツリーが生き生きと輝いている。

 街中に溢れかえるカップルを眺めながらソワソワしていると「蓮くんっ!」と俺の呼ぶ声がする。

「おはようございます。今日も寒いですね」

「雪でも降ってくれないと、怒りの行き()場がないってね」

「今日も寒いですね」

「さっきと意味違うじゃん」

 寒さで小さく震える栞。ピンクと白のモコモコしたボアジャケットに身を包みながら、分厚い手袋で身体中を覆っている。なんかこう全体的に丸っこくて可愛い。

「水族館、行きましょう」

 ニコッ、っと口角を上げる栞に俺は頬を染める。耳まで赤くなってるのは寒さのせい。

「別にいいんだけど、遊園地とかならクリスマス仕様楽しめたんじゃない?」

「そうですけど、あまり気にしてないんです。蓮くんは気にしてたり?」

「いや、そこまで。室内だから暖かいし水族館が正解かもね」

 前々から決めていたことだし、栞がいいなら特に言うことはない。ただ、クリスマスとデートを結びつけてしまうのは仕方がないと思う。

 プレゼントを用意してきた俺としては、多少のクリスマス要素はあった方が渡しやすいのだけど。いや、それも言い訳か。

「水族館初めてで、ワクワクしてます」

「俺も子供の頃に一回行ったぐらいかな。なにか見たい魚とかいるの?」

 小学生に上がったぐらいの頃だったはず。記憶には薄いけど、まだ両親が同居していた時の話。父さんの小説のワンシーンにもなっていた気がする。

「ジュゴンですかね。んんっ、蓮くんは見てみたいのありますか?」

「無難だけどイルカショーとかかな」

 唯一記憶に残っているので是非もう一度見てみたい。

「いいですね。行きましょう、行きましょう」

 スキップ気味に歩く彼女。俺より半歩前に出て髪を靡かせ、振り返る。

「蓮くんさっきからずっとポケットに手を入れてますよね。こっちの手袋貸しますよ」

 そう言って栞は右の手袋を差し出してきた。

「いや、これで大丈夫。温かいし、二人とも片手だけとか変でしょ」

「いいからつけてください」

 栞に押し負け、右手に手袋をする。と、ポケットに入っていた左手がそっと外に引っこ抜かれた。

「これで両方温かいし、変な目でも見られないですよね」

「いや、変な目では見られるんじゃないかな」

 それに、嫉妬の視線もおまけで付いてくる気がする。恥ずかしさと嬉しさが俺たちのように手を繋いでいるのを感じながら水族館に着いた。

 手を離し手袋を返すと、入場チケットを買ってから中に入る。青くて暗い光が水槽を灯し、幻想的な雰囲気の中、どちらからか再び手を握った。

 入り口には早速熱帯魚が数多く泳いでいて、栞は俺の手を引いて近づいて行く。

「熱帯魚って可愛いですよね。グッピーとか名前がすでに可愛いじゃないですか」

「確かにグッピーはどこかのゆるキャラみたいな名前してるよね」

 可愛いのに人気が出ない地方のゆるキャラにいそうな名前。

「熱帯魚って一言で言っても色んな種類がいて、コイの仲間とか、ナマズの仲間とか、メダカの仲間とか、古代魚の仲間までいるらしいよ」

「そうなんですか!? 全く知りませんでした。でも言われてみれば統一感感じませんね」

 魚の説明欄を読みながらも、しっかりと相槌を返してくれる。初めての水族館に興味津々でよかった。

 熱帯魚ゾーンが終わると、小さい水槽がいくつも並んでいるゾーンに着いた。その中にはクラゲやウツボが入っていて、どれも面白そうだ。

「このクラゲピンクですよっ! んんっ、ハナガサクラゲだって。綺麗ですね」

 可愛く咳払いしながら水中に浮かぶクラゲを指さす。名の通り、花色の笠からは何本もの足が生えていて、漂う姿は花火に見えるし風鈴に見える。

「クラゲって脳が無いらしいよ。だから透明で綺麗なんだって」

「脳が無いってどうやって動いているんですか?」

「確か、全身が神経になってて、反射的に行動しているんだって」

 そう思えば、ボンヤリとした形も、比喩し難い動きにも納得がいく。

「だからクラゲってすぐ刺してくるんですかね?」

「そうかも」

 クラゲを一通り堪能すると、ウナギたちに見向きもせず水中トンネルに向かった。

「ウナギとかは見なくていいの?」

「ちょっと怖くないですか? 目が細いですし、蓮くんみたいじゃないですか」

「親近感湧くでしょ?」

「それ蓮くんだけだから」

 笑い笑われながら角を曲がると、二人同時に息を呑んだ。トンネルの水槽には数多の魚が悠々と泳いでいる。

 熱帯魚のような一匹の派手さはないものの、多くの小魚が群をなして光を散らし、エイが雄大に空を飛ぶ景色は壮絶としか言いようがない。

「凄い……」

「うん、なんかもう……凄いね」

 進めば進むほど自分が水中にいるのではないかと錯覚させられる程。息も忘れるような世界に俺たちの会話はなく、ただ繋がれた手だけが互いを感じさせる。

 右を見れば岩陰から顔を覗かせる名の知らない魚。上を見れば初めてみるエイの裏側。左を見れば愛おしい人の目を輝かせる横顔。

 やっぱり俺は間違ってなかった。こういう景色を二人で、彼女のそばで見たかったのだ。

 トンネルを抜けると、互いに目を合わせる。言葉も出ないとはまさにこのこと。

「エイの裏側ってあんな感じなんですね。ニンマリ笑顔でした」

「俺も初めて見た。あっ、向こうがジュゴンらしいよ」

「ジュゴンとペンギンは絶対に見ておかないとですから」

 ペンギンの可愛さは分かるけど、ジュゴンってそこまで可愛いかな……。なんて疑問に思っていると、ジュゴンと対面する。

 顔の中心にまん丸の鼻が二つ。離れた垂れ目はぬいぐるみのようで、ふわっとしたわがままボディも想像以上に可愛い。口角を下げながら海藻を頬張る姿にどこか幼さすら感じる。

「見てください蓮くん」

 栞の声に視線をやると、彼女は目を細めながら口をへの字にしている。見るからにジュゴンの真似だろう。

「くくっ、似てるよ。体型とか」

「そこじゃないっ! しかも私、太ってないですから!」

 腹をつついてくるが、それでも笑ってしまう。そんな俺に、栞は手の力を少し強くして微笑する。

「悪かったよ。冗談、冗談」

「本当にもう…………」

 いつものように頬を膨らませて優しく睨む。その仕草がチグハグでまた笑いそうになる。

「んんっ、ジュゴンに免じて許してあげます」

「ありがとう。そう言えば、ジュゴンって絶滅危惧種らしいね」

「さっきから思ってたんですけど、蓮くんって魚が好きなんですか?」

「どうして?」

 栞の質問の意味を薄々感じながらも、バレたくないので一度はぐらかしてみる。

「熱帯魚のときもクラゲのときも豆知識持ってたじゃないですか。だから、魚のこと好きなのかなーって思いまして」

「たまたまだよ。魚に興味無いし」

「本当ですかー? 実は昨日、覚えてきてくれたんでしょ?」

 図星を突かれ、目を逸らしてしまう。これじゃあ答え合わせと同じじゃないか。恥ずかしくなって顔を隠すように前髪を触る。

「やっぱり、可愛いとこあるじゃないですか」

 ニコッと笑いながら、照れる俺の頬につんつんと指を当ててくる。

「知ってた? 水族館に混泳してる小魚たちってサメとかエイとかに食べられることもあるんだって。だから、さっきのトンネルの所でももしかしたら……」

「聞きたくなかった! 揶揄ったからって酷いです!」

 今度はトントンと俺の肩を優しく叩いてくる。駄々をこねる小学生みたいな仕草。ただ、そうは見えないほど大人びていて笑みが溢れる。

 今日は少し揶揄いすぎたか。ここらで一度、感謝を伝えておくのも悪くない。

「やっぱり、栞といると楽しいや」

「なっ…………またそうやって揶揄う。あーもう、さっさとペンギン見ますよ、ウツボくん」

「誰だよ、ウツボくん」

 そそくさとペンギンを見に行く栞に後から着いて行く。因みにウツボは海のギャングと言われてはいるが、性格は臆病らしい。見た目だけ怖いとかどこの雪村くんだよ。

 寒い中、一度屋上に出ると正面に大きなガラス張りの柵が見えた。ガラスの檻の内側では、いろんなサイズのペンギンが水に飛び込んだり、嘴で体を掻いたりしている。

「超可愛いですよ! こんなのいいんですか!?」

「いいんですかって何……」

 今日一番で興奮している栞。ここにいるのはコウテイペンギンで、ペンギンと言われれば真っ先に思い浮かぶスタンダードな種類。

 黒い体に白い腹、首筋の黄色いラインまで見れば、俺よりファッションセンスがあると言っても過言ではない。

「あのふわふわの子、子供じゃないですか?」

「そうだろうね。もこもこしてて可愛い」

 顔はまだ白く、グレーの羽毛が体全体を覆っている。丸っこい上に小さくて、一生懸命親に付いて行く姿は見ものだ。

「私ももこもこなんですけどどうですか?」

「可愛いよ。柵乗り越えて混ざってきたらより可愛い」

「ヤバい人じゃん」

 なんて会話をしていると、飼育員が高台に登っているのが見えた。ペンギンたちは餌だと分かるや否や、その下に集まってくる。

「ほら栞、ご飯の時間だよ」

「行かないですよ。でもお腹空きましたね。おっと、こんな所に食べ頃のウツボが」

 「にひっ」と悪い笑みを浮かべながら、こちらを見る。食べごろのウツボ言うな。

「意味不明寸劇やめて」

「ふふっ。ってあれっ? もう餌やり終わってるじゃないですか!」

 目を大きくして両手をガラスに貼り付ける。分かりやすくがっかりしてる。

「俺はちゃんと見てたよ」

「ズルです。もっと私に優しくしてください」

「俺、悪くないでしょ。ほら、下から泳いでるペンギン見れるらしいから見に行こ」

 宥めながら階段を降りると、水槽が見えるようになっていた。先程の水中トンネルと似ている。地上ではヨチヨチと歩いていた動物が、今やスイスイと水中を飛び回っている。同じ動物だとは思えない。

「こんなに泳ぐの早いんですね。私、泳げないのでちょっぴり羨ましいです」

「そうなんだ」

 数ヶ月前に運動は壊滅的みたいなことを聞いたけど、その才能を水中でも遺憾無く発揮しているみたいだ。

「こうやって飛んでるの見ると、鳥に見えますよね」

「見えるも何も、ペンギンは鳥でしょ」

「んんっ……流石の豆知識ですね」

 軽く咳をして、それを誤魔化すように笑う。少し体調が優れないのかもしれない。後でさりげなく聞いてみよう。

「いや、一般常識では?」

「いいや、徹夜の賜物ですよ」

「はいはい。もうそろそろイルカショーだけどどうしよっか。休憩する?」

「確か次が最後のイルカショーですよ。休憩なんてしてる暇ないです」

 ショーは他にもアシカショーやカワウソのお散歩タイムなんかもあるので、スケジュール的にはこれが最後らしい。栞がいいのなら構わないのだけど、ほんの少し、無理しているように見える。

 早歩きで室内に戻ったかと思うと、急に大きなため息を吐いてしゃがみ込む。靴紐を結び直しているだけらしいけど、それでもちょっと疲れてそう。

「やっぱりちょっと休憩しない?」

 俺はあからさまに鎌をかける。

「大丈夫ですよ。私は全然…………」

 栞はしまったとばかりに俺の顔を見た。俺は栞のためになんて一言も言っていない。ただ、自分が気遣われていると分かるぐらいには無理してるってこと。

「無理しないで。別にイルカショーとかそれほど見たいわけじゃないから」

 強制的に空いたベンチに座らせる。だんまりを決め込む栞に、自販機で買った水を渡して隣に座った。

「ごめんなさい……最近ちょっと調子悪くて……」

「謝ることじゃないでしょ。体調不良なんだからしょうがないよ。謝るなら無理した方を謝ってほしい」

「無理したっていいじゃないですか。蓮くんが私のためにしてくれるみたいに、私だって蓮くんがしたいことやりたいんです」

 悲しさと怒りが混ざった声で冷たく伝える。栞が言ってるのは正論だ。俺がしてるのも独りよがりの自己満足って分かってる。

 けれど、それが栞の無理を許す理由にはならないし、栞が無理していい理由にもならない。

「その考えは嬉しいけど、それで俺が不快になってちゃ本末転倒だよ。それに、そんなので悪化してたら世話ないでしょ」

「分かってます……。蓮くんが私のことを思ってるのは分かってるんです。それでも、私は蓮くんと思い出作りしたいから」

 泣きそうな声に喉がつっかえる。夕日を見た時も思い出にこだわっていた気がする。

「そんなに急がなくてもいいよ。制限時間なんてないんだし、またここに来たときに見ればいいし」

「そう……ですよね。また……」

 何か言いたげに俯く彼女。今日の明るい振る舞いも、体調不良を誤魔化すためだったのかもしれない。

「落ち着いたらお土産でも見に行こっか。それなら体力もそんなに使わないでしょ」

 水で濡れたり、リアクションをしなくていい分、体力は使わなくて済むだろう。目玉の魚は粗方見切ったし、そのまま帰る流れにももっていけそう。

「いいんですか?」

「うん。そっちの方が断然いいよ」

 十分ほど休憩したら、ショップに向かう。いろんな魚が焼印されたクッキーや、ペンギンのぬいぐるみ、チンアナゴのボールペンなんかが並べられている。その色鮮やかな景色に、体力の回復した栞は欲望の赴くまま商品を物色している。

「これ、お揃いにしません?」

 栞が持ってきたのはピンクと青の大きなイルカのぬいぐるみ。二つくっつけることでハート型になるらしい。値段に派手さも相まって、嫌だという感情が出てしまう。

「そんなに嫌そうな顔しなくてもいいじゃないですか」

「ごめん……その、ちょっと派手すぎて。他のキーホルダーならいいから」

「蓮くんはお揃いって好きじゃないですか?」

 少しムスーっと頬を膨らませながら、イルカたちを棚に戻す。

「嫌いってより、恥ずかしいんだよ。柄じゃないでしょ?」

「そうは思わないですけど……それなら結構です。いつかお揃いの刺青で許してあげます」

「許してないよね?」

「許してないです」

 結局、お揃いで何かを買うことは無く、栞に子ペンギンのキーホルダーを買ってあげただけとなった。

 水族館から出ると肌を突き刺すような空気が吹き抜ける。太陽はとっくに沈んで、代わりにイルミネーションが活躍の場だとはしゃいでいる。

 クリスマスプレゼントを渡すなら今か。そう思ってカバンに手を入れようとした時だった。

「あの……これ、クリスマスプレゼントです。使ってくれると嬉しいんですけど……」

 そう言って差し出されたのは透明なビニールにマスキングテープで包装されたブレスレット。いいじゃないか、カッコいい。

「手首に巻くやつだよね。どうしてブレスレット?」

「いくつか理由はありますけど……私色に染まってほしくて。お洒落に無縁な蓮くんだから、私の証が残るでしょ?」

 それを言うなら、もうとっくに染まっている気がするけれど。丁寧に俺の腕にブレスレットを着けてくれる。色づいた腕で今度は俺からプレゼントを渡す。

「俺からも……さっきのキーホルダーはノーカンってことで、これあげる」

 俺が渡したのは少しお高めのリップ。

「ありがとうございますっ。どうしてリップなんですか?」

「久遠のアドバイスだよ」

 久遠曰く、メイク初心者はリップの消費が一番激しいらしい。オススメのメーカーまで教えてもらって負んぶに抱っこだ。

「んんっ、流石は寺内さんですね。蓮くん、私はブレスレット着けてあげましたよ」

 栞は有無を言わさず、目を閉じて口を突き出す。キスしてしまいたいぐらいには無防備で可愛い。

 俺はリップの蓋を開け、左手で頬を支えながら優しく薄ピンクの唇をなぞる。ずっと心臓はバクバクだ。

「いいよ。目開けてっ……むっ––––––––!」

 声を掛けたと同時に俺の後頭部が栞に抱き寄せられ、唇が触れ合う。キスと理解するまで時間は必要無かった。そして、身体が反応するのもほんの刹那。

 顔は間違いなく赤い。ここだけ夏みたいに熱い。ここからどうなるのかが怖い。一瞬の驚きと、数年分の喜びが綾を成す。

 柔らかい唇が離れて、栞と見つめ合う。彼女の顔は照れと喜びで熱っていて、見惚れる俺も同じような顔をしているんだろう。

「次は蓮くんからしてくれると嬉しいです」

 そんな勇気、あるもんか。ただ、もう一度、いや何回だってしたくなったのは嘘じゃない。だから、いつものようにこう返す。

「期待しないでね……」

「それ聞いて期待しない方が難しいですから」

 その後は栞を家まで送って、別れの挨拶を交わした。ぽつりと流れる孤独の音は、鈴の音で掻き消される。

 どうしてこんなにも恋しいのだろう。日に日に彼女が好きになっていく。俺からキスなんて出来るのか。

 冷たい聖夜に包まれて、俺はいつもより濃い唇にそっと触れる。