翌日、俺は授業が終わるといつものように図書室に向かった。栞が来る日は『今日、行くねっ』とメールが送られてくるので、彼女が図書室に来るのは分かっていた。

 俺は今日、告白する。そう思えば、だるい学校でさえ少しむず痒い。好きって気持ちは、こんなにも霧のようなんだと感じる。掴めなくて、はっきりとは見えないのに、確かにそこに存在していて、どんどん大きくなっていく。

 久遠もこんな気持ちだったのだろうか。勇気を出し、振られ、理想が理想でしかなくなって。

 図書室に着くと同時に「フラれたくないなぁ……」とダサい本音が胃の底から這い上がってくる。よく確信もないのに告白なんて出来るものだ。なんて悪態をついていると、久遠から電話がかかってきた。

『もしもし、どう?』

「ちょっとヤバい。吐きそう」

『そんなに?』

 ケラケラと電話の奥から笑い声が聞こえてくる。

『でも、そんなことだろうと思ったので私が勇気づけてあげようかと』

「頼んでいいかな」

 今から好きな女性に告白するって奴が、他の女の子に勇気づけてもらうってどうかとは思うが、本当にそれどころじゃないのだ。

『あのね、栞ちゃんは絶対蓮の告白を断ったりしないよ。考えてみて? 栞ちゃんに蓮以外の選択肢ないでしょ?』

「根拠が最低すぎる」

 クラスが違うので学校で栞を見る機会は無いが、男っ気のある方ではない。どちらかと言えば無い方に分類されるはず。ともすれば、久遠の言っていることは一理ある気がしないでもない。それが都合のいい妄想でないことを願う。

『蓮は大丈夫だから。きっと、蓮と栞ちゃんは上手くいく……』

 スマホから漏れ出る声は沈んでいて、彼女も割り切れていないんだと俺に伝えるよう。それなのに、こうやって励ましてくれている。

「そっか。ありがとう」

『へへっ、今ならまだ間に合うよ?』

「本当に、ありがとう……」

『話、聞けし』

 久遠の声に小さく笑うと、反響みたいに笑い声が返ってくる。気づけば、先ほどの不安も少しはどこかへ消えている。

『私もう部活だから行くね。最後一言、んんっ……』

 そう言って彼女は喉を鳴らす。

『頑張って!』

「うん、久遠も足痛めないようにね」

 電話を切ると、久遠の声の代わりに野球部の掛け声が聞こえてくる。微かに響くユーフォニアムの音色も合わされば、放課後色に染まり始める。

 読書に耽らなければ、この部屋はこんなにも青春の匂いがする。結局俺はこの部屋が好きだった。想いを告げるのが今日でなくても、きっと場所はここだったと思う。

 入り口に背を向けて、いつも栞がいる空白の椅子に目をやった。どうして、彼女はいないのに、こんなにもドキドキするのだろう。恋する男子はこうも弱くなるのか。

 変にポエミーなことを考えていると、図書室の扉が開く。

「こんにちは、今日は本読んでないんですね。故障しました?」

「機械みたいに言わないでくれる?」

「いえいえ、雪村くんが読書してないのは十分に奇怪ですので」

「誰が上手いこと言えと」

 悔しくも笑っていると、栞はいつもの席につく。

「もう時期冬休みですね。どこ行きます?」

「特に何処か行く予定はないかな。どこか行くの?」

「そうじゃなくて、一緒にどこ行こうか聞いたんですけど……」

 頬を赤らめるせいでこっちまで恥ずかしくなってくる。目を逸らす彼女の仕草に胸が痛くなる。

「ごめん、勘違いしてた……」

 生まれる沈黙の居心地が悪い。海で彼女を好きと自覚してから、何度も告白のチャンスはあった。けれど、勇気も自信もなかった。

 それは言ってしまえば逃げで、おそらくずっと逃げたままだったと思う。俺がそんな人間なのは俺が一番知っている。

 でも、そんな俺を好きと言ってくれる女の子がいたから。踏み出す勇気と足りない自身を補ってくれる人がいたから。

 だから、俺は。

「上手く言えるか分かんないんだけど、聞いてほしいことがある」

「いいですよ。どうしたんですか?」

 眼鏡の奥から覗かせる瞳を俺もじっと見つめる。言え、言うんだ。自分の言葉で、好きの形を決める。使い古された言葉なんて要らない。仮初の言葉なんて必要ない。

 破裂しそうな鼓動のまま、俺は伝えたい想いを吐き出した。

「俺はずっと栞と一緒にいたい。栞がいるところに俺もいたい。それを許してほしい。俺と、付き合ってくれ」

 好きとか、そんな曖昧な言葉で濁したくない。俺が欲しいのは返事でもパートナーでもない。

 栞が見る景色を見てみたい。彼女に近づいて、進んだ距離を笑いたい。足跡を辿りたいわけじゃない。共に足跡を作りたい。

 窓の外に空があるように、夜になれば星が輝くように、ページをめくれば物語が続くように、俺も栞の隣にいたい。

 俺が欲しいのは見えない形。それがたぶん、俺の好き。

 栞は下唇を噛んで、何かを堪えたような顔をする。そんな一瞬の表情すら、俺の不安を煽る。

「…………私なんかでいいんですか?」

「栞がいい。栞じゃなきゃ嫌だ」

 「ふふっ」っと上品に笑う彼女がいい。
 思ったことをすぐ口にする彼女がいい。
 時々ちょっぴり甘えてくる彼女がいい。
 迷子を一番に助けにゆける彼女がいい。
 大人びてるのに子供っぽい彼女がいい。
 可愛くて、俺を惚れさせた彼女がいい。

「……お願いします。私の隣にいてください」

 栞の瞳には小さな雫が輝いていて、鼻頭が少し赤い。俺だって綺麗な顔じゃないと思う。けど、そんな互いの顔を見合って、言葉も交わさず見つめ合う。

 俺の想いが報われたって感覚が徐々に湧き上がってくる。失敗を恐れて不安になった分だけ、成功したという喜びは膨れ上がる。声に出したいぐらいに溢れた気持ちが、また君への想いを強くする。

 この小っ恥ずかしい空気もぎこちない笑顔も愛おしい。告白の結果に浸って、そのまま恋に溺れても構わないほどに優越感がある。

 今から、これから、確実に俺たちの関係性は変わっていく。それはきっと、いい意味で。それが楽しみだけど、少し不安。

 泣かせないなんて言えないし、悲しませないなんて言えない。でも、泣いた数の何倍も、隣にいてよかったと思わせたい。隣にいてよかったと思いたい。

「これから、よろしく」

「こちらこそ」

 彼女の返事は無くならない。ずっと、俺の心の中に。笑う彼女はどこまでも美しい。柄にもなく、机の下でガッツポーズをする程に。

 冷たい音色のチャイムがなっても、俺たちの熱は冷めなかった。

「帰ろっか」

「ですね」

 互いにチラチラと見つめ合って、目が合うたびにわざとらしく笑う。照れてる顔を見るのが嬉しくて、見られるのが恥ずかしい。そんな感じでイチャイチャしながら学校を抜ける。

 木枯らしが二人の間を吹き抜けて、ブルッと身を震わせる。会話の糸口は先ほどの風に飛ばされて見つからない。

 何気ない会話はないかと探していると、不意に左手が握られる。俺は思わず栞の方を向いた。

「ふふっ、寒かったでしょ?」

「なっ、不意打ちはずるいって……」

 前屈みで俺の顔を覗き込む栞。やっぱり、彼女には敵わないのかも。ただ、やられっぱなしも性に合わない。俺は繋ぎ方を強引に変える。すると、俺と同じように彼女も目を丸くする。

「恋人繋ぎ、栞とやってみたかったんだ」

「すぐ反撃してくるのやめた方がいいと思います。大人気ないですよ」

 むーっ、と頬を膨らませるから、つい指で押してみたくなる。

「気になったんですけど、私のどこを好きになったんですか?」

 純粋な疑問をぶつけられて、改めて考える。確かに、好きと感じたから告白までしたわけだけど、栞のどこが好きなのか答えを出したことはなかった。

「うーん……俺を知りたいって思ってくれるところかな。昔から一人だったし、一人でいいと思ってたから、そんなこと言われたの初めてで嬉しかった」

 他人と距離を作ったのは自分で、あらゆる人を突き放していたのも自分。ただ、そんな俺を知りたいと言ってくれた時、気持ちが昂ったのを覚えている。今思えば、そこから始まっていたのかもしれない。

「案外シャイなんですね」

「そうかも。次は栞の番だよ」

「私、実はかなり前から気になってたんですよ。下の名前を呼んで、涙目の私に笑いかけてくれた時、少しときめいちゃったんです」

「そんな前から……」

 気づかなかった。というか、自意識過剰だと思ってそんなこと考えもしていなかった。実際、家に上げられたり、手を重ねてきたり、頭を預けてきたりと思わせぶりな仕草はあった。そうやって意識されられていたのかもしれない。

「好きなところ、ですか。泣きそうな私に優しくしてくれるところ、泣いてる私に胸を貸してくれるところ、落ち込んでる私を気遣ってくれるところ」

 淡々と挙げていく褒め言葉になんだかむず痒くなってくる。そんな俺をよそに、栞は一息吸うと声を出す。

「そんな、蓮くんが大好きですっ」

 下の名前を呼ばれて息が詰まる。どうしてこんなにも心臓が窮屈なんだろう。

「何か言いたげですね……いいじゃないですか。私たち付き合ってるんですよ?」

「はいはい、いいよ」

 俺たちは駅に着くと手を離し、チラチラと視線を交わしながら不自然に笑う。ニヤニヤが止まらないのはきっと彼女のせい。

 手を振って栞と別れると、その手に視線を移す。柔らかくて、小さくて、スベスベで。ちょっと手汗で濡れてたのは勇気を出してくれた証。

 浮かれた身体で帰宅すると、ベッドに身体を沈める。昨日、今日と変わったことが多すぎた。久遠に『ありがとう、上手くいった』とメールを送り、枕に顔を沈める。

 幾度となく頭をよぎる例のノート。俺はまだ、彼女に踏み込む勇気がない。でも、栞が寄りかかってきたそのときは支えてやりたい。

 俺は寝返りを打ち、左手を伸ばして電球に掲げる。明日からがすごく楽しみだ。

 もう冷め切った左手を見ながら、彼女の温もりを思い返すのだった。