(鷲尾……下の名前は……なんだっけ? てか、顔も出ないな……)
 唯一、覚えているのは席だ。
 席替えのたびに鷲尾の机も移動するのが奇妙な気分だった。除外するのは気が引けるし、かといって最後列の特等席を奪われるのも惜しい。ごく自然とそんなことを考えている自分がなんとも冷たく、あさましい人間に思えた。
「各務こそ、夏休みにまで不登校児のケアかよ。慈善事業もいいトコだ」
「慈善事業以下だよ。俺、鷲尾を本気で心配しているのかは、よく分からないし。プリントを届けるのも、たまたま通り道だから。取り立てて苦でもないってだけ」
 温和な声と内容が合っていない気がして手を止めた。隣の彼は、黒板の上に掲げられたクラス目標を見つめて何事かを呟いた。
「One for all,all for one」
「は?」
「うちのクラスの目標。笑えるよな」
 つられるように各務と同じ方向を眺めた。以心伝心……多数決で選ばれたクラス目標。書道有段者の達者な筆文字が教室を見下ろしている。
 だせえ目標。
 採決を取りながら、内心で毒づいた記憶がある。共に育った家族や、信頼を置く親友とでさえ心を通いあわせるのは至難の業だ。好きでもなければ尊敬するにも値しない学友相手にテレパシーなど通じるはずはない。鷲尾が送っていたのかもしれないテレパシーも、いまとなっては皆目見当もつかない。
 こいつとは、どうだろう?
 ふと、そんなことを思い、横目で探りを入れた。すっきりとした鼻梁、繊麗な頤、なだらかな喉仏……少女のように華やかな美貌は、高校一年生となったいまでも健在だ。中等部の頃と比べて随分と大人びたが、男臭さとはいまもって無縁である。ニキビ一つない、この滑らかな頬に髭など生えるのだろうか?
「なに?」
 視線に気づいた各務が怪訝な顔を向けた。色素の薄い瞳に吸いこまれる。うろたえた手元から数枚のプリントが放れて床へと舞い落ちた。
「俺さ、」
 場を繕うために咄嗟に口を開いていた。なんでもいい。部活のこととか、天気のこととか、夏休みの予定とか。
 いつの間にか汗ばんでいた手をぎゅっと握りしめる。
「俺、今日、誕生日なんだけど」
 白昼の教室は静寂に包まれ、エアコンの稼働する音だけが微かに耳に届く。全身が冷え切り、腕に鳥肌が立っている。調子にのって設定温度を下げ過ぎたせい……だけではない。
 石化した竜士の目前で、各務が勢いよく立ち上がった。
「ちょっと、待ってて」
「あ、おい――」
「すぐ戻るから。待ってて!」
 言い終えるか否かのうちに、各務は廊下に飛び出して行った。