◇
「イチ、カラオケ行く前に音楽室寄らない?」
なんて提案があったのは帰りのホームルームが終わった16時半。カラオケの予約は18時からだっていうのに、気合いの入ったウミネコ率いるE組の野郎軍団は先に教室を出て行った。ちょうど時間も余っているし、ていうか時間が余っていなくても、ウツミの誘いを断る選択肢なんてない。
「そいえば、久しぶりじゃん、ウツミがピアノ弾くの」
「冬は指が寒いからあんまり弾きたくないんだよ、今日は特別」
「ふーん」
特別、ね。簡単に言いやがって。
放課後の音楽室に人気はなかった。うちの高校に吹奏楽部とか軽音部とかそういうものがないからだ。
ウツミがおれを好いてくれているのはわかってる。それがもちろん、恋愛感情、とか、そんなものじゃないってことも。でも、好かれていることに対して悪い気はもちろんしない。めんどくさがりで怠惰なウツミは人間関係の構築も同様で、自分から友人をつくろうという気がさらさらない。それこそ2年も隣の席でいるおれだとか、うるさくて人懐っこいのになぜか憎めないウミネコとか、そういう絡まざるを得ない人間しか寄せ付けない。おれはそれを思う存分利用して、いつだって隣を占領している。
友達のフリをして、自分ってずるいなって、いつも思うけど。
「何がいい? 時間あるから、リクエスト聞いてあげる」
「流石だなあ、ウツミせんせ」
「ないならテキトーに弾くけど」
「いいよ、ウツミの気分で弾いてよ」
「はは、りょーかい」
ぽろん、ウツミが長くて綺麗な指先をグランドピアノの看板におろした瞬間、まるで突然水滴が落ちて跳ね返った時のように、空気が変わる音がした。
そしてたっぷりと水を含んでいくように、豊潤な音色で奏でられるピアノの音を聴きながら、おれはまた、ずるずるとウツミに落ちていく。こんなの、どうしたって、敵わない。
そうだ、この、鍵盤に置いたあの細くて長い指先を、きれいだと思った。
すべてはそこから始まって、気がついたらもう、後戻りなんてできなくなってしまった。ウツミのその綺麗な指先も、肩まで伸びたサラサラの長髪も、睫毛の長い二重の瞳も、あまりにも綺麗な横顔の骨格も。ぜんぶ、惹かれるには、充分すぎる理由だった。
こんなに気怠い性格をしているくせに、意外と身長は179センチもあって、173しかないおれのことをいつも見下ろしてくる。線が細くてひょろっとしていて、いつも少し大きめのカッターシャツとカーディガンを羽織っているところはかわいらしい。かっこいい、と、かわいい、を融合させたウツミのことは、誰がどう見たって、やっぱり一般人よりいろんなことが頭ひとつ抜けている。それでいて、こんな風に時々、あまりに繊細なピアノを弾いてみせる。
おれは音楽とか全くわからないけれど、ウツミが奏でるこのピアノの音が、どうしようもなくいとおしい。夕暮れの海に光が差して反射した時のような煌めきと、朝露が葉を撫でるような寂しさを同時に連れてきて、おれはいつだってウツミのピアノに魅了されてしまう。
だから、べつに、変なことじゃない。男のおれがこいつに惹かれるのも、無理はないってこと。
「……なんて曲?」
「ドビュッシーのアラベスク第1番。有名なやつ」
「うん、聞いたことある」
「そ」
「でも、やっぱり、ウツミのピアノがいちばん、いいよ」
「はは、語彙力」
「うるせ、せっかく褒めてるのに」
「うん、ありがとね、イチ」
あー最悪だ、ウツミのピアノがすごいんだって、めちゃくちゃ上手いんだって、ただそれだけ伝えたいだけなのに。ウツミのことを褒めるのは、苦手だ。なんだか自分の気持ちまで見透かされてしまいそうで。
「今日はB組の女の子たちだっけ」
「そーそ、合計13人だって、クラス会かよ」
「いいじゃん、大人数の方が、紛れるし」
「おまえは一般人に紛れられてないの! 自覚しろ!」
「はは、イチだって、だけどね」
ピアノに丁寧に蓋をして、えんじ色のマフラーを巻きながらウツミがおれの横に来てそう腰を曲げた。背が高いからって、時々こんなふうに腰を折っておれの顔を覗き込んでくる。
ばか、やめろよ。誰にでもすんなよ、そんなこと。
「……いい子いるといいな」
「いるかもよ、運命の出会いってやつ」
「ウツミはそう言いながらどうせ隅で寝てるだろ」
「バレなきゃいいじゃん」
「だからバレてんだって、みんなお前目当てなんだから」
そんなことないのになー、とウツミが音楽室を出る。おれもそれに着いていく。もうずっと前から、いつも横にいるくせに、ウツミに触れることができない。
「イチが好きになるのってどんな子なんだろ」
「なんだよ突然」
「いや? そういえば聞いたことなかったなと思ってさ。イチの好きなタイプ」
珍しいな、ウツミがウミネコのいない時に恋バナするなんて。好きなタイプ、なんて、そんなの、おまえのぜんぶだよ。今目の前にいるのが、そうだよ。
「……指が綺麗な子」
「ふうん?」
ほらね、おれ、余白を埋めるのが上手なんだ。
「イチ、カラオケ行く前に音楽室寄らない?」
なんて提案があったのは帰りのホームルームが終わった16時半。カラオケの予約は18時からだっていうのに、気合いの入ったウミネコ率いるE組の野郎軍団は先に教室を出て行った。ちょうど時間も余っているし、ていうか時間が余っていなくても、ウツミの誘いを断る選択肢なんてない。
「そいえば、久しぶりじゃん、ウツミがピアノ弾くの」
「冬は指が寒いからあんまり弾きたくないんだよ、今日は特別」
「ふーん」
特別、ね。簡単に言いやがって。
放課後の音楽室に人気はなかった。うちの高校に吹奏楽部とか軽音部とかそういうものがないからだ。
ウツミがおれを好いてくれているのはわかってる。それがもちろん、恋愛感情、とか、そんなものじゃないってことも。でも、好かれていることに対して悪い気はもちろんしない。めんどくさがりで怠惰なウツミは人間関係の構築も同様で、自分から友人をつくろうという気がさらさらない。それこそ2年も隣の席でいるおれだとか、うるさくて人懐っこいのになぜか憎めないウミネコとか、そういう絡まざるを得ない人間しか寄せ付けない。おれはそれを思う存分利用して、いつだって隣を占領している。
友達のフリをして、自分ってずるいなって、いつも思うけど。
「何がいい? 時間あるから、リクエスト聞いてあげる」
「流石だなあ、ウツミせんせ」
「ないならテキトーに弾くけど」
「いいよ、ウツミの気分で弾いてよ」
「はは、りょーかい」
ぽろん、ウツミが長くて綺麗な指先をグランドピアノの看板におろした瞬間、まるで突然水滴が落ちて跳ね返った時のように、空気が変わる音がした。
そしてたっぷりと水を含んでいくように、豊潤な音色で奏でられるピアノの音を聴きながら、おれはまた、ずるずるとウツミに落ちていく。こんなの、どうしたって、敵わない。
そうだ、この、鍵盤に置いたあの細くて長い指先を、きれいだと思った。
すべてはそこから始まって、気がついたらもう、後戻りなんてできなくなってしまった。ウツミのその綺麗な指先も、肩まで伸びたサラサラの長髪も、睫毛の長い二重の瞳も、あまりにも綺麗な横顔の骨格も。ぜんぶ、惹かれるには、充分すぎる理由だった。
こんなに気怠い性格をしているくせに、意外と身長は179センチもあって、173しかないおれのことをいつも見下ろしてくる。線が細くてひょろっとしていて、いつも少し大きめのカッターシャツとカーディガンを羽織っているところはかわいらしい。かっこいい、と、かわいい、を融合させたウツミのことは、誰がどう見たって、やっぱり一般人よりいろんなことが頭ひとつ抜けている。それでいて、こんな風に時々、あまりに繊細なピアノを弾いてみせる。
おれは音楽とか全くわからないけれど、ウツミが奏でるこのピアノの音が、どうしようもなくいとおしい。夕暮れの海に光が差して反射した時のような煌めきと、朝露が葉を撫でるような寂しさを同時に連れてきて、おれはいつだってウツミのピアノに魅了されてしまう。
だから、べつに、変なことじゃない。男のおれがこいつに惹かれるのも、無理はないってこと。
「……なんて曲?」
「ドビュッシーのアラベスク第1番。有名なやつ」
「うん、聞いたことある」
「そ」
「でも、やっぱり、ウツミのピアノがいちばん、いいよ」
「はは、語彙力」
「うるせ、せっかく褒めてるのに」
「うん、ありがとね、イチ」
あー最悪だ、ウツミのピアノがすごいんだって、めちゃくちゃ上手いんだって、ただそれだけ伝えたいだけなのに。ウツミのことを褒めるのは、苦手だ。なんだか自分の気持ちまで見透かされてしまいそうで。
「今日はB組の女の子たちだっけ」
「そーそ、合計13人だって、クラス会かよ」
「いいじゃん、大人数の方が、紛れるし」
「おまえは一般人に紛れられてないの! 自覚しろ!」
「はは、イチだって、だけどね」
ピアノに丁寧に蓋をして、えんじ色のマフラーを巻きながらウツミがおれの横に来てそう腰を曲げた。背が高いからって、時々こんなふうに腰を折っておれの顔を覗き込んでくる。
ばか、やめろよ。誰にでもすんなよ、そんなこと。
「……いい子いるといいな」
「いるかもよ、運命の出会いってやつ」
「ウツミはそう言いながらどうせ隅で寝てるだろ」
「バレなきゃいいじゃん」
「だからバレてんだって、みんなお前目当てなんだから」
そんなことないのになー、とウツミが音楽室を出る。おれもそれに着いていく。もうずっと前から、いつも横にいるくせに、ウツミに触れることができない。
「イチが好きになるのってどんな子なんだろ」
「なんだよ突然」
「いや? そういえば聞いたことなかったなと思ってさ。イチの好きなタイプ」
珍しいな、ウツミがウミネコのいない時に恋バナするなんて。好きなタイプ、なんて、そんなの、おまえのぜんぶだよ。今目の前にいるのが、そうだよ。
「……指が綺麗な子」
「ふうん?」
ほらね、おれ、余白を埋めるのが上手なんだ。