◇
初めて舞台上に立った時、思わず緊張で足がすくんだ。
冬休みの間にバックのオーケストラバンドと同じ会場で何回か合わせたし、午前中にリハーサルだってしたのに、観客がいるステージからの光景は圧巻で、圧倒された。こんな景色があるなんて知らなかった。人前で弾いたことなんて殆どないのに、出来るの。こんなに大勢のオケ奏者をバックにつけて、俺はピアノを弾けるだろうか。
逃げたい。慣れないスーツや髪型も嫌だし、そもそもやっぱり向いてない。誰かにわかってもらいたいなんて思ってるわけじゃない。そうじゃないのに。
指揮者と一緒に頭を下げて、大きな拍手が会場を包んで、顔を上げた瞬間。客席後方、隅の席で、キャップを深く被ったイチの姿が目に入った。瞬間、急に湧き上がるような光が自身を包んだような気がした。
なんだよ、何そのキャップ、似合ってないけど。俺に来てるのがバレないようにかぶって来たのかな。チケット送ったメッセにも返事なかったし。だとしたらイチも相当子供じゃん。まあ、張り合ってる俺も俺だけどね。
緊張の糸がゆるりと解けていくのを感じた。弾ける。ていうか、弾かなきゃダメじゃん。だってイチに聴いて貰う為に、俺は今日まで練習してきたんでしょ。
グランドピアノ前に腰を下ろして、目線で指揮者とファーストバイオリンに合図を送る。舞台の灯りが一瞬暗くなって、指揮棒が宙を舞った瞬間、バックのオーケストラから息を吸う音が聞こえた。
─────「シューマン ピアノ協奏曲イ単調 第1楽章」
自分の感情に向き合うことが苦手だった。人前でピアノを弾けなかった。夜、ぐっすりと眠ることができなかった。自分から何かを欲しいと思ったことがなかった。他人に心を許したり、平均以上より先に手を伸ばしたり、自分のモノだけにしたいと思ったり、そんなことずっと、無縁の人生だった。
変わった、変わってしまった、イチ、きみのせいで。
ピアノを弾くことが好きだ。こんなに美しい光景があるだなんて知らなかった。自分の心がこんなに震える瞬間があるなんて思わなかった。観客のいる舞台上で奏でるピアノの音があまりにも嬉しそうで俺まで嬉しくなる。今日が一番、ピアノのことを好きだと思えた。好きでいていいんだと思えた。
ああ、なんだか泣きそうだ。
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あっという間の15分間が終わって、半ば意識もないまま立ち上がる。指揮者と共に頭を下げると、ひどく大きな拍手と歓声が降ってきた。鳴り止まないそれは俺が頭を下げている間も舞台から避ける間もずっと続いて、指先が疼くのがわかった。
もっと弾きたい。ピアノ、また、こうやって誰かに聴いて欲しい。
舞台から捌ける前に、一瞬だけイチを見ると、バカみたいにぼろぼろと涙を流す瞳と目が合った。俺はそれを見て思わず得意気に笑ってやる。また泣いてんの。なんで俺なんかのピアノで泣くの。変な奴だね。
だけど今日は俺の方も泣きそうで、これ以上はもうないかもしれないとさえ思った。
─────イチのことが好きだ。
こんなに自分を自分自身で受け入れたことはない。それは全部、紛れもなくイチのおかげだった。これ以上好きだと思う人に今後出会える気がしない。だって、初めて自分から欲しいと思った。喉から手が出るくらい、どうしようもなく、イチのことが欲しい。もうそれだけで十分だ。
初めて舞台上に立った時、思わず緊張で足がすくんだ。
冬休みの間にバックのオーケストラバンドと同じ会場で何回か合わせたし、午前中にリハーサルだってしたのに、観客がいるステージからの光景は圧巻で、圧倒された。こんな景色があるなんて知らなかった。人前で弾いたことなんて殆どないのに、出来るの。こんなに大勢のオケ奏者をバックにつけて、俺はピアノを弾けるだろうか。
逃げたい。慣れないスーツや髪型も嫌だし、そもそもやっぱり向いてない。誰かにわかってもらいたいなんて思ってるわけじゃない。そうじゃないのに。
指揮者と一緒に頭を下げて、大きな拍手が会場を包んで、顔を上げた瞬間。客席後方、隅の席で、キャップを深く被ったイチの姿が目に入った。瞬間、急に湧き上がるような光が自身を包んだような気がした。
なんだよ、何そのキャップ、似合ってないけど。俺に来てるのがバレないようにかぶって来たのかな。チケット送ったメッセにも返事なかったし。だとしたらイチも相当子供じゃん。まあ、張り合ってる俺も俺だけどね。
緊張の糸がゆるりと解けていくのを感じた。弾ける。ていうか、弾かなきゃダメじゃん。だってイチに聴いて貰う為に、俺は今日まで練習してきたんでしょ。
グランドピアノ前に腰を下ろして、目線で指揮者とファーストバイオリンに合図を送る。舞台の灯りが一瞬暗くなって、指揮棒が宙を舞った瞬間、バックのオーケストラから息を吸う音が聞こえた。
─────「シューマン ピアノ協奏曲イ単調 第1楽章」
自分の感情に向き合うことが苦手だった。人前でピアノを弾けなかった。夜、ぐっすりと眠ることができなかった。自分から何かを欲しいと思ったことがなかった。他人に心を許したり、平均以上より先に手を伸ばしたり、自分のモノだけにしたいと思ったり、そんなことずっと、無縁の人生だった。
変わった、変わってしまった、イチ、きみのせいで。
ピアノを弾くことが好きだ。こんなに美しい光景があるだなんて知らなかった。自分の心がこんなに震える瞬間があるなんて思わなかった。観客のいる舞台上で奏でるピアノの音があまりにも嬉しそうで俺まで嬉しくなる。今日が一番、ピアノのことを好きだと思えた。好きでいていいんだと思えた。
ああ、なんだか泣きそうだ。
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あっという間の15分間が終わって、半ば意識もないまま立ち上がる。指揮者と共に頭を下げると、ひどく大きな拍手と歓声が降ってきた。鳴り止まないそれは俺が頭を下げている間も舞台から避ける間もずっと続いて、指先が疼くのがわかった。
もっと弾きたい。ピアノ、また、こうやって誰かに聴いて欲しい。
舞台から捌ける前に、一瞬だけイチを見ると、バカみたいにぼろぼろと涙を流す瞳と目が合った。俺はそれを見て思わず得意気に笑ってやる。また泣いてんの。なんで俺なんかのピアノで泣くの。変な奴だね。
だけど今日は俺の方も泣きそうで、これ以上はもうないかもしれないとさえ思った。
─────イチのことが好きだ。
こんなに自分を自分自身で受け入れたことはない。それは全部、紛れもなくイチのおかげだった。これ以上好きだと思う人に今後出会える気がしない。だって、初めて自分から欲しいと思った。喉から手が出るくらい、どうしようもなく、イチのことが欲しい。もうそれだけで十分だ。