◇
「内海くん、最近よくここ来てるね」
いつものように放課後、誰もいない音楽室でピアノを弾いていた時のこと。ピアノを弾いているとつい没頭しすぎてしまうところがあるようで、後ろから近づいてきていた姿に全く気がつかなかった。驚いたように振り向くと、にこりと笑った滝先生が立っていた。
「滝先生、いつからそこに」
「少し前から? 集中してるみたいだから声かけずに聞いてた」
「そうですか……」
「驚いたな、時々ここでピアノ弾いてる奴がいるのは気づいてたけど、内海だったのか。しかも上手いね、習ってるの?」
滝先生。30代手前の若手音楽教師。長髪を後ろで結って、いつも黒縁の眼鏡をかけている。そのアンニュイな雰囲気からか、密かに女子に人気があることは知っている。選択授業で、週に1度だけ先生の音楽を受講しているから、俺のことも知っているとは思うけど。まさか声をかけられると思っていなかった。だって入学してから1年半と少し、一度も放課後の音楽室に現れたことはなかったし。
まあ、確かに最近ここへ来る頻度がいやに上がっている。イチと付き合い初めてからだ。言葉に出すのが難しい感情を考えると苦しくなって、こうやってピアノを弾きにきている。無心になれるから。
「いや、習ってないです。小6の時に辞めました。それからは独学だし、ずっと趣味です」
「へえ、こんなに弾けるのに勿体ないなー」
「そうですか」
「淡泊な返事だなー。最近意思が出てきたなーと思って見に来たのに」
「意思?」
滝先生が近くの椅子に腰掛ける。俺はグランドピアノ前に座ったまま滝先生に向き合う。週1で授業は受けているけど、滝先生とちゃんと話すのは初めて。
「ピアノの音って意外と響くからね。職員室にいても聞こえるよ、時々誰か昼とか放課後弾いてるなーって思ってたんだよ」
「はあ」
「でもなんかなー、上手いには上手いんだけど、こう、ずーっと意思がないなーって思っててさ」
「意思……って何ですか」
「なんていうのかね、こうありたい、こう弾きたい、みたいなのがないの。内海のピアノってちょっと機械的でさ、感情表現がないっていうか」
「俺的には、ピアノでしか感情表現できないと思ってたんですけど」
「はは、それは内海に感情が薄すぎるのかもなー」
なんか、何言われてるのかよくわかんない。俺は自分のことになるととことん疎い。それは自覚してる。
「でも最近意思が出てきたって」
「うんそうそう、なんかこう、情熱的な? 感情的な? そんな感じの意思が見え始めたなーって気になってさ、今日ついに見に来たってわけ」
「情熱……感情的……」
「何か欲しいモンでも出来た?」
滝先生が、カチッとライターを鳴らした。流石に音楽室で煙草は吸えないんだろう、ライターの火をつける動作が癖になっているのか、カチッとまた鳴らす。
欲しいもの。
「いや、わかんないです」
「ふーん、気づいてないのか」
「……自分のことが一番よくわかんないんですよね、何がいいとかこれが欲しいとか、そういうのずっとなくて」
イチは俺のことを器用だと言ったけれど、そんなことはない。あらゆることが平均より少し上を歩いているような人生で、だけどそれだけだ。特段何かが出来るわけでもない。
自分のことを考えることが、昔からひどく苦手だ。欲しいと思うものがない。やりたいと思うことがない。何かを好きだと思う感情がよくわからない。食べ物や衣服を選ぶときもそうだ。何かに手を伸ばしたり選択するということがとても苦痛で億劫だ。
「じゃあ何で内海は最近よくピアノ弾いてんの」
「それは、趣味だから? 無心になれるし」
「無心になりたいってことは、考えたくないことがあんのね」
「……そういうわけじゃ……」
「それなんじゃない、内海の感情が動かされる原因。まあそれがいいのか悪いのかセンセーにはわかんないけど、淡泊な内海のピアノに色が出てきたってことは、少なからず心が動いてるってことだと思うけどね」
ああ、嫌だな。こうやって、内側を刺激されること。ひどく苦手だ、自分の感情に向き合うことが。
滝先生の言葉に何も言い返せないでいると、先生は笑った。「若いっていいなー」なんて。滝先生って結構だらしない見た目をしているくせに愛嬌がある。それからきっと音楽のことが凄く好きなんだろう、俺のピアノを聴いただけでそこまで分析できるくらいだし。俺はこんな風に、他人のことなら結構敏感ににわかるのにな。
「内海、来月頭にあるクラシックコンサート出てみない? ピアノ協奏曲」
「え、コンサート?」
「そ。知り合いがピアノ奏者探しててさ、丁度いいかなーって。アマチュアバンドだけど結構上手いよ。内海の刺激にもなるだろうし」
「いや、俺人前で弾くのはちょっと……」
「そんなに弾きたそうな顔して何言ってんだよ」
滝先生が馬鹿にしたように笑う。弾きたそうな顔って、何それ。俺そんな顔してる? とことん、自分のことがわからない。けれど、指先が疼いているのだけは、感覚的にわかった。イチの、『綺麗な指だ』と言った声を思い出したからだ。
「1ヶ月練習付き合ってやるから、挑戦してみたら? センセーこう見えてもピアノ上手いよ」
滝先生の得意気な顔に少しだけむかついて、それからゆっくり頷いた。イチがこんな自分を好きだと言ってくれて、ピアノを好きでいていいと思えた。人前で弾けなかった自分のことを、少しだけ変えてみたいと思った。
「……滝センセーより俺のが上手いよ」
「お、生意気言うね、上等じゃん」
「内海くん、最近よくここ来てるね」
いつものように放課後、誰もいない音楽室でピアノを弾いていた時のこと。ピアノを弾いているとつい没頭しすぎてしまうところがあるようで、後ろから近づいてきていた姿に全く気がつかなかった。驚いたように振り向くと、にこりと笑った滝先生が立っていた。
「滝先生、いつからそこに」
「少し前から? 集中してるみたいだから声かけずに聞いてた」
「そうですか……」
「驚いたな、時々ここでピアノ弾いてる奴がいるのは気づいてたけど、内海だったのか。しかも上手いね、習ってるの?」
滝先生。30代手前の若手音楽教師。長髪を後ろで結って、いつも黒縁の眼鏡をかけている。そのアンニュイな雰囲気からか、密かに女子に人気があることは知っている。選択授業で、週に1度だけ先生の音楽を受講しているから、俺のことも知っているとは思うけど。まさか声をかけられると思っていなかった。だって入学してから1年半と少し、一度も放課後の音楽室に現れたことはなかったし。
まあ、確かに最近ここへ来る頻度がいやに上がっている。イチと付き合い初めてからだ。言葉に出すのが難しい感情を考えると苦しくなって、こうやってピアノを弾きにきている。無心になれるから。
「いや、習ってないです。小6の時に辞めました。それからは独学だし、ずっと趣味です」
「へえ、こんなに弾けるのに勿体ないなー」
「そうですか」
「淡泊な返事だなー。最近意思が出てきたなーと思って見に来たのに」
「意思?」
滝先生が近くの椅子に腰掛ける。俺はグランドピアノ前に座ったまま滝先生に向き合う。週1で授業は受けているけど、滝先生とちゃんと話すのは初めて。
「ピアノの音って意外と響くからね。職員室にいても聞こえるよ、時々誰か昼とか放課後弾いてるなーって思ってたんだよ」
「はあ」
「でもなんかなー、上手いには上手いんだけど、こう、ずーっと意思がないなーって思っててさ」
「意思……って何ですか」
「なんていうのかね、こうありたい、こう弾きたい、みたいなのがないの。内海のピアノってちょっと機械的でさ、感情表現がないっていうか」
「俺的には、ピアノでしか感情表現できないと思ってたんですけど」
「はは、それは内海に感情が薄すぎるのかもなー」
なんか、何言われてるのかよくわかんない。俺は自分のことになるととことん疎い。それは自覚してる。
「でも最近意思が出てきたって」
「うんそうそう、なんかこう、情熱的な? 感情的な? そんな感じの意思が見え始めたなーって気になってさ、今日ついに見に来たってわけ」
「情熱……感情的……」
「何か欲しいモンでも出来た?」
滝先生が、カチッとライターを鳴らした。流石に音楽室で煙草は吸えないんだろう、ライターの火をつける動作が癖になっているのか、カチッとまた鳴らす。
欲しいもの。
「いや、わかんないです」
「ふーん、気づいてないのか」
「……自分のことが一番よくわかんないんですよね、何がいいとかこれが欲しいとか、そういうのずっとなくて」
イチは俺のことを器用だと言ったけれど、そんなことはない。あらゆることが平均より少し上を歩いているような人生で、だけどそれだけだ。特段何かが出来るわけでもない。
自分のことを考えることが、昔からひどく苦手だ。欲しいと思うものがない。やりたいと思うことがない。何かを好きだと思う感情がよくわからない。食べ物や衣服を選ぶときもそうだ。何かに手を伸ばしたり選択するということがとても苦痛で億劫だ。
「じゃあ何で内海は最近よくピアノ弾いてんの」
「それは、趣味だから? 無心になれるし」
「無心になりたいってことは、考えたくないことがあんのね」
「……そういうわけじゃ……」
「それなんじゃない、内海の感情が動かされる原因。まあそれがいいのか悪いのかセンセーにはわかんないけど、淡泊な内海のピアノに色が出てきたってことは、少なからず心が動いてるってことだと思うけどね」
ああ、嫌だな。こうやって、内側を刺激されること。ひどく苦手だ、自分の感情に向き合うことが。
滝先生の言葉に何も言い返せないでいると、先生は笑った。「若いっていいなー」なんて。滝先生って結構だらしない見た目をしているくせに愛嬌がある。それからきっと音楽のことが凄く好きなんだろう、俺のピアノを聴いただけでそこまで分析できるくらいだし。俺はこんな風に、他人のことなら結構敏感ににわかるのにな。
「内海、来月頭にあるクラシックコンサート出てみない? ピアノ協奏曲」
「え、コンサート?」
「そ。知り合いがピアノ奏者探しててさ、丁度いいかなーって。アマチュアバンドだけど結構上手いよ。内海の刺激にもなるだろうし」
「いや、俺人前で弾くのはちょっと……」
「そんなに弾きたそうな顔して何言ってんだよ」
滝先生が馬鹿にしたように笑う。弾きたそうな顔って、何それ。俺そんな顔してる? とことん、自分のことがわからない。けれど、指先が疼いているのだけは、感覚的にわかった。イチの、『綺麗な指だ』と言った声を思い出したからだ。
「1ヶ月練習付き合ってやるから、挑戦してみたら? センセーこう見えてもピアノ上手いよ」
滝先生の得意気な顔に少しだけむかついて、それからゆっくり頷いた。イチがこんな自分を好きだと言ってくれて、ピアノを好きでいていいと思えた。人前で弾けなかった自分のことを、少しだけ変えてみたいと思った。
「……滝センセーより俺のが上手いよ」
「お、生意気言うね、上等じゃん」