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思えばずっと、人前でピアノを弾くことが苦手だった。


元々人と関わることも苦手だったし、人から注目されることにも辟易していて、ピアノを弾くことは誰かに見せるものではなくあらゆることを忘れられるひとつの手段に過ぎなかったからだ。普段表に出さない感情表現はピアノを弾いている時だけ顕著に表現することが出来た。人前で弾くことを苦手になった理由の極め付けは、あまり関係の良くない母親から言われた『もっと男らしい趣味でも持ったら?』という反吐が出るような言葉。ピアノのことを全否定するような物言いに幻滅したことを今でも憶えている。

小6の時に離婚した父親が、幼い頃俺に教えたピアノのことが心底憎かったんだろう。母はいつも俺がピアノを弾いていると不機嫌になって口を聞いてくれなかった。夜眠ることが難しくなったのもちょうどこの時期だった気がする。

親の離婚で引っ越した先の家はアパートで、とてもピアノを置ける環境ではなかったし、おれはそれからひっそりと音楽室で気が向いた時だけピアノに触れた。それはいつも人がいない時や誰にも見られていない時。中学の時の習慣が身について、高校に入ってからも、無意識に人がいない時間帯を狙って音楽室に通っていた。別に隠していたわけじゃないのに、人前でピアノを弾くという選択しがなかったからだ。

だから、はじめてイチにピアノを聴かれた時、少々面食らった。


『おれさ、ずっと、ウツミのさ、指が綺麗だなって思ってたんだよ。だからなんか腑に落ちたし、すげーかっこよかったから、また見に来ていい?』


そんな風に言われるなんて思ってもみなかったし、ましてや泣いたことがバレないように目を赤くしているイチの顔を見て、言葉には到底表すことの出来ない安心感に包まれたことを覚えている。あの時のイチの瞳を、俺は未だに忘れることができない。なんで俺なんかのピアノで泣くの。変なやつだね。でも、そういうところ、嫌いじゃない。

むしろ、ありがとう。こんな俺の演奏で泣いてくれて。

思えばその時初めて、ピアノを弾いていてよかったと思えた。ピアノが好きな自分を認められたみたいで、素直に嬉しかった。