◇
ウミネコと別れて自分の席に戻ったところで、舞台の明かりがちょうど灯った。危ない、ギリギリ間に合った。2部が始まる。
指揮者が舞台袖から中心へ歩いて現れた後、続くように背の高いひょろりとした、けれども遠目から見てもひどく綺麗な顔をした男が後をついて現れた。舞台の真ん中で指揮者と共にゆっくりと頭を下げたスーツ姿のそれは、普段とは違ってどきりと心臓がなる。いつもノーセットのだらしない長髪が今日はきちんとオールバックにセットされていて別人のようだ。整えればどこまでも美しい男。到底敵わない。
舞台真ん中に設置されたグランドピアノに腰を下ろす姿を横目に、今日貰ったパンフレットを見やる。
─────「シューマン ピアノ協奏曲イ単調 第1楽章」
横に並ぶ名前─────「piano by Mirei Utsumi」
指揮者が腕を振り上げた瞬間息をのむ音が聞こえて、瞬間、弦楽器の和音に続いてピアノが鳴った。そこから指先が痺れるような感覚がして、おれは舞台から目を離すことが出来なかった。正しくは、鍵盤に指先を下ろしたウツミの背中から。
─────それはまるで落雷のような衝撃。
繊細でありながら大胆で、泣いているようで笑っている、ひどく冷たいようであまりに熱い、矛盾と正反対を繰り返すような激情。
音が、揺るぎなく強く鮮明に突き刺さってくる。例えるなら雷雨の中佇む自身の愚かさと儚さ。雨が降る、頬に雫があたる、まつ毛から水滴が落ちる、濡れた服がベトベトになって肌に吸い付いてくる、耳を澄ませば遠くで雷がなっている。その光の粒は段々とこちらへ近づいてきて、思わず身体が震えて動くことができない。穏やかな光を見せたと思えば切ない鳴き声を連れてきて、花のような可憐さを纏ったかと思えば大きな熱でこちらを包み込んでくる。あまりに大きな衝撃、免れない激動、震えあがる落雷。─────ああどうしようか、この感情に名前をつけるのならたったひとつしかない。
涙が頬を伝っているのがわかった。一度溢れたそれは止まることを知らずにぼろぼろと流れ落ちていく。それでも目が離せない。離せるわけがない。
涙が出た。止まらなかった。初めて見る舞台上のウツミのピアノがあまりに綺麗で、どうようもなくいとおしい。音楽室で聴くそれとはまた別格で、手が届かない歯痒さがもどかしい。目頭が熱くて胸の奥がひどく疼く。自身に音楽の知識がないことをこんなに悔やんだことはない。
─────ああ、おれ、ウツミのことがすきだ。諦められない。諦めたくない。何度消そうとしても消えることがない。これを恋と呼んでいいのなら、どうしようもなく、お前のことが好きだよ。堪らなく好きだ。ウツミのことも、ウツミが奏でるピアノのことも。おれの感情を揺さぶるのはきっともうこの先おまえだけだよ。こんなにも欲しいと思うのはウツミのことだけだよ。
ウミネコが言った言葉が頭の中で再生される。『性別とか一旦置いといてさ、欲しいなら欲しいでいーんじゃね?』と。答えはこんなところに簡単に落ちていて、おれは今まで何を悩んでいたのだろうと落胆する。なんだ、そうか、そうだった。簡単なことだった。
おれがウツミを好きだということ、それだけでいい。こんなにもいとおしい感情を、どうして今まで蓋をしていたのだろう。そしてどうしてウツミの感情に耳を傾けてやらなかったんだろう。
やがて終わりを迎えた演奏後、指揮者と共に頭を下げたウツミへ観客から今日いちばんの盛大な拍手が鳴って、スタンディングオベーションまで巻き起こる始末だった。おれはその間ずっとウツミを見つめていて、舞台から去る直前、一瞬だけ目が合った。
その時ウツミが全てわかったような顔で笑ったものだから、ああもうこいつには一生敵わないんだろうと腹を括った。いくらなんでもカッコよすぎるだろ、こんな想いの伝え方、あってたまるか。
ウミネコと別れて自分の席に戻ったところで、舞台の明かりがちょうど灯った。危ない、ギリギリ間に合った。2部が始まる。
指揮者が舞台袖から中心へ歩いて現れた後、続くように背の高いひょろりとした、けれども遠目から見てもひどく綺麗な顔をした男が後をついて現れた。舞台の真ん中で指揮者と共にゆっくりと頭を下げたスーツ姿のそれは、普段とは違ってどきりと心臓がなる。いつもノーセットのだらしない長髪が今日はきちんとオールバックにセットされていて別人のようだ。整えればどこまでも美しい男。到底敵わない。
舞台真ん中に設置されたグランドピアノに腰を下ろす姿を横目に、今日貰ったパンフレットを見やる。
─────「シューマン ピアノ協奏曲イ単調 第1楽章」
横に並ぶ名前─────「piano by Mirei Utsumi」
指揮者が腕を振り上げた瞬間息をのむ音が聞こえて、瞬間、弦楽器の和音に続いてピアノが鳴った。そこから指先が痺れるような感覚がして、おれは舞台から目を離すことが出来なかった。正しくは、鍵盤に指先を下ろしたウツミの背中から。
─────それはまるで落雷のような衝撃。
繊細でありながら大胆で、泣いているようで笑っている、ひどく冷たいようであまりに熱い、矛盾と正反対を繰り返すような激情。
音が、揺るぎなく強く鮮明に突き刺さってくる。例えるなら雷雨の中佇む自身の愚かさと儚さ。雨が降る、頬に雫があたる、まつ毛から水滴が落ちる、濡れた服がベトベトになって肌に吸い付いてくる、耳を澄ませば遠くで雷がなっている。その光の粒は段々とこちらへ近づいてきて、思わず身体が震えて動くことができない。穏やかな光を見せたと思えば切ない鳴き声を連れてきて、花のような可憐さを纏ったかと思えば大きな熱でこちらを包み込んでくる。あまりに大きな衝撃、免れない激動、震えあがる落雷。─────ああどうしようか、この感情に名前をつけるのならたったひとつしかない。
涙が頬を伝っているのがわかった。一度溢れたそれは止まることを知らずにぼろぼろと流れ落ちていく。それでも目が離せない。離せるわけがない。
涙が出た。止まらなかった。初めて見る舞台上のウツミのピアノがあまりに綺麗で、どうようもなくいとおしい。音楽室で聴くそれとはまた別格で、手が届かない歯痒さがもどかしい。目頭が熱くて胸の奥がひどく疼く。自身に音楽の知識がないことをこんなに悔やんだことはない。
─────ああ、おれ、ウツミのことがすきだ。諦められない。諦めたくない。何度消そうとしても消えることがない。これを恋と呼んでいいのなら、どうしようもなく、お前のことが好きだよ。堪らなく好きだ。ウツミのことも、ウツミが奏でるピアノのことも。おれの感情を揺さぶるのはきっともうこの先おまえだけだよ。こんなにも欲しいと思うのはウツミのことだけだよ。
ウミネコが言った言葉が頭の中で再生される。『性別とか一旦置いといてさ、欲しいなら欲しいでいーんじゃね?』と。答えはこんなところに簡単に落ちていて、おれは今まで何を悩んでいたのだろうと落胆する。なんだ、そうか、そうだった。簡単なことだった。
おれがウツミを好きだということ、それだけでいい。こんなにもいとおしい感情を、どうして今まで蓋をしていたのだろう。そしてどうしてウツミの感情に耳を傾けてやらなかったんだろう。
やがて終わりを迎えた演奏後、指揮者と共に頭を下げたウツミへ観客から今日いちばんの盛大な拍手が鳴って、スタンディングオベーションまで巻き起こる始末だった。おれはその間ずっとウツミを見つめていて、舞台から去る直前、一瞬だけ目が合った。
その時ウツミが全てわかったような顔で笑ったものだから、ああもうこいつには一生敵わないんだろうと腹を括った。いくらなんでもカッコよすぎるだろ、こんな想いの伝え方、あってたまるか。