「あれ、イッチー?」


ガコン、と自販機からペットボトルが落ちたのと、聞き馴染みのあるその声がしたのはほぼ同時だった。振り向くと驚いたように笑うウミネコが手を振りながら駆け寄ってくる。20分間の休憩になって飲み物を買いに外に出たところで、まさかウミネコに会うとは思っていなかった。


「ウミネコ、偶然」
「偶然っていうか、イッチーも聞きにきたんじゃないの? ウツミのピアノ」
「え、ウミネコも誘われて来たの?」
「そりゃそーよ? クラシックとかオレの柄じゃないでしょ! 意外とハマっちゃいそーだけどー!」


わはは、と笑うウミネコがいつも通りで安堵する。そういえばあの日からウミネコとも殆ど顔を合わせていなかった。勝手に気まずくて避けていたのはおれの方か。

2部開始までにまだ時間があるからと会場外のベンチに横並びで座る。ウミネコはおれの後でメロンソーダを買っていた。こんな寒いのにそんなもの飲むのか。ウミネコらしいと言えばらしいけど。


「てかなんかイッチーひさしぶり? 冬休み全然連絡くれないんだもんなー」
「あー実家帰ってたんだよ、今日も実家から来たし」
「ああそうなん? 通りで寮で見かけないと思った」
「ウミネコは帰ってないの?」
「大晦日と元旦だけかなー、ウチ兄弟多いから帰ると騒がしいって鬱陶しがられるんだよねー、寮のが気楽よ?」
「ふーん、そういうもんなんだ」
「ちょっとイッチー、ぜーんぜんオレにキョーミない! オレ悲しい!」


変わらず接してくれるウミネコは、いろんなことに気づいていて気づかないふりをしてくれているのかもしれない。だってあんなの、目の前で見ておいて、何もありませんでしたって方がどうかしてる。


「ウミネコさ、ありがとな、何も言わないでくれて」
「え? 何が?」
「いや、だから、ウツミとのこと」
「あー……」


ウミネコがわかりやすくきょろきょろと辺りを見渡して、知り合いらしき人がいないことを確認してから「アーッ! やっとこの話できるー」と項垂れた。やっぱりわざと何でもないフリをしていてくれたらしい。


「オレ隠し事とか苦手だから、ずーっとソワソワしててさ、でもオレが突っ込んでいい話でもないだろうしって思って黙ってたんだけど」
「うん、ありがと。流石におれもウミネコが何も気づかないバカだとは思ってないから」
「なんか褒められてるのか貶されてるのかわかんねーけどー。ウツミとは仲良くやってんの? その、付き合ってんでしょ?」


もう遠慮しなくていいと思ったのか、ウミネコがズバッと率直なことを言うので、飲んでいたココアを思わず吹き出しそうになってしまった。


「いや、ごめん、付き合ってない」
「え?! はあ?!」
「てか、そうだな、なんて言うのが正解かわかんないけど。……おれの片思いなんだよ、ずっと。ウツミはそれに応えようとしてくれただけで、別におれのことが好きなわけじゃない」
「ええっと? あんまわかんないけど、つまり、イッチーはウツミのことを恋愛対象として好きで、ウツミはそれを知ってるってコト?」
「うんまあ、そんな感じ」


初めてこんなこと、ウツミ以外の人に話した。意外とすんなり言えるものなんだな。相手がウミネコだからかもしれないけど。


「なーんかよくわかんないけど、ウツミは何て言ってんの? フラれたわけじゃないっしょ?」
「いや、ほぼフラれたみたいなもんだよ。『イチのこと好きかどうか確かめる』って言って、ウツミの中では付き合ってることになったみたいだけど、おれは承諾してないし」
「はあ? ドユコト? それがなんでフラれたことになんのよ?」
「ウツミはさ、自分の感情に疎いとこあるだろ?」
「あー、まあそれはわかるけど〜」
「あいつ人のこと好きになったことないし、おれに元々心開いてるから、なんか勘違いしてんだよ。友情としての好意を、恋愛としての好意になるんじゃないかって試そうとしてるだけ。おれとウツミの好きっていうベクトルは全然違う」


あーなんか、話していて急に思考がスッキリしてきた。やっぱり人に話すって大事だな。言葉にするとやけにシンプルだ。ウツミの好意はおれの好意とは違う。ただそれだけのこと。

ウミネコは数秒考えたような顔をして、それから珍しく真剣な顔をして「うーん」と声を発した。


「なーんか、イッチー勘違いしてそうだけど」
「勘違い?」
「イッチーさあ、ウツミの話ちゃんと聞いたことある?」
「ウツミの話ならいつも聞いてるけど」
「いや、そーいうことじゃなくてさあ、なんて言うのかなー。イッチーっていい奴だけど、ちょっと達観しすぎっていうか、相手に寄り添えてないっていうか」
「なんだよそれ、貶してる?」
「貶してるわけじゃねーけどー。まあウツミもウツミで自分のことにはとことん疎いし、どこまで気づいてるかわかんねーけどさー」


なんだよ。珍しくウミネコが全く笑わず、丁寧に言葉を紡ごうとするからそわそわする。何、おれ、何か間違ってる? だとしたら何? 


「あんなに他人に一線引いてるウツミがイッチーに異常に懐いてる理由、ちゃんと聞いたことあんの?」
「いや、だからそれは、隣の席だし、おれ割と誰とでも仲良くなれるタイプだし」
「それにしてもでしょ。明らかウツミにとってイッチーって特別じゃん。てかそもそも、イッチーの好きっていうのに応えようとしてくれてんじゃないの。なんでイッチーはそれずっと否定すんのよ」
「否定っていうか……あり得ないだろ、男同士だぞ? それにおれは、ウツミにそういう、マイノリティ側にきて欲しいわけじゃないし、」
「だからさー、それってイッチーの気持ちでしょ? そもそもウツミってそういう周りの目とか気にするタイプじゃないっしょ。オレの前でも嫉妬ダダ漏れだったじゃん」
「嫉妬……」
「つうか、今日のピアノだって、イッチーの為なんじゃねーの。あいつ冬休みもガッコー行って練習してたよ。イッチーが聴きにくるからって言ってたし」
「いやいや、そんなわけないって、第一冬休み中も一回も連絡なかったし」
「あーもう、ああ言えばこう言う! イッチー真面目すぎなんだって、別になんだっていいじゃん、ウツミのことが好きならどんな形であれ手に入れればよくない? うだうだしてる意味がオレにはわかんねーッ」


いやいや、こっちだってわかんないんだって。そもそも、ウツミもウミネコも、なんで男同士だってこと気にしねーの。そこがいちばん重要だろ。おれはずっとそれに後ろめたさを感じてんだよ。マイノリティである自分のことも、そこへウツミを引き込んでしまうかもしれないことも、全部、不安で仕方ないよ。なんでそんな普通でいられんの。


「ウミネコとかウツミは楽観的すぎるんだよ、おれはそんな簡単に考えられない」
「まあイッチーが気にしてることもわかるけどさあ」


んーっとウミネコが首をぐるりと回す。それからおれの顔をぐいっと両手で掴んで顔を突き合わせた。いきなりのことで驚いたけど、ウミネコの真剣な顔を見て何も言えなくなってしまった。


「性別とか一旦置いといてさ、欲しいなら欲しいでいーんじゃね? ていうか、ウツミはウツミなりにイッチーに向き合おうとしてるってオレには見えるけど。今日のピアノもその一環でしょ。イッチー、それちゃんと分かった上で会場戻れよ?」


ウミネコの手が顔から離れる。おれはそれに何の言葉も返せない。時計を見ればもう2部が始まる時刻だった。

ウミネコが先に立ち上がって振り返る。「早く戻れよ、聞き逃したら勿体ねーだろー」と、いつもの笑顔で白い歯を見せていた。