ウツミのせいで約束の時間より少し遅れて玄関口に着くと、マフラーに顔を埋めた石川さんが下駄箱にもたれかかっていた。


「ごめん、ちょっと遅れた」
「ううん、大丈夫、そんなに待ってないよ」


嘘だ。赤くなった鼻先を見て罪悪感が募る。ロングの黒髪はひんやりと艶やかで、彼女の白い肌は12月という季節にぴったりだなと思う。健気だな、どうしておれなんかを待ってくれるんだろう。


「鼻赤くなってるよ、待たせたでしょ、ごめんね」


ポケットに入れていたカイロを石川さんの頬に当ててやる。すると一瞬驚いた顔をして、それからゆっくりとそのカイロを受け取った。


「相変わらず人たらしだね」
「え? なにが?」
「こーいうの、誰にでもしないほうがいいよ。イッチーのいいとこでもあり悪いとこ!」
「あー、そう? そっか、ごめん」
「ううん、謝らせたいわけじゃないんだけど! ありがとう、貰う」


あげたカイロを頬に当てる石川さんがじっと上目遣いでおれを見つめる。かわいらしいよな。健気だし、優しいし、申し分ないのにな。

この子はきっと知らない。人たらしなんて言われるおれが、本当に好きな人には、触れるのが怖くてカイロのひとつも手渡せないこと。誰に対しても優しくいられるのに、ウツミの前ではそうではないこと。


「寒いし行こっか?」
「うん、でも、もうちょっと、話さない?」
「……石川さんは意外と素直だよね」
「だって、駅まですぐでしょ」
「うんまあ、そうだけど」


男子寮は学校から数メートル先だけれど、女子寮は防犯も兼ねて2駅先の治安のいい街だ。石川さんには、告白された日から時々こうやって『一緒に帰らない?』と誘われている。おれはそれを時々オーケーして、駅まで送ってあげたりする。そんなの本当は優しさじゃないのに、あまりに嬉しそうな顔をするから罪悪感がまた募る。


「ごめん我儘言って。イッチーに断れなかったから前進したのかって思っちゃった」
「んー、でもおれも石川さんの勢いには結構負けてるとこあるから……」
「え、じゃあ押せば可能性あるってこと?!」
「うわあ、答えにくい質問するなあ、一応おれ最初に断ったと思うんだけど……」
「だって、イッチー優しいんだもん。そんなんだから、わたしに漬け込まれるんだよー」


うん、本当、その通りだな。優しいわけではないけど、わざとつけ込まれてる。
上履きからスニーカーに履き替えて横に並ぶ。校舎にはもうあまり人は残っていない。テスト週間だからだ。
外に出ると、吐いた息が白く染まった。テストが終われば冬休み。今年ももう終わる。


「あ、ピアノの音、する」


ふと。玄関口を出たところで、石川さんがマフラーから顔をあげて空を仰いだ。さすがピアニスト、耳がいい。おれもつられて上を向いて耳すませると、確かに聞こえる。聞き馴染みのあるピアノの音が。

ウツミが音楽室でピアノを弾いている。その音が、ぎゅっとおれの心臓を掴んで離さない。なんだよ、ピアノ、冬は寒いからあんまり弾きたくないって言ってたくせに、ひとりで弾くなよ。


「聞いたことある、これ」
「チャイコフスキーのロマンス、だね」
「ああ、そんな名前だったな」
「恋の曲だよ」
「え?」
「好きな人を思って作った曲なの、片思いの曲」
「片思い……」
「まあ、クラシックは聴いた側がどう捉えるかでも変わってくるけどね」


石川さんの声が冷たい空気に溶ける。

チャイコフスキーのロマンス。ウツミがわざわざおれにイヤホンを片方渡して『イチに聴いてほしい』と言ってきたことを思い出した。恋の曲だったのか。全然知らなかった。

でも、だとしたら? 急に怖くなる。もし、ウツミが本当におれの気持ちに応えようとしてくれてるなら? おれたちの関係はこれからどうなるんだろう。ウツミがおれのことを好きになってくれるだなんて想像もしたことがなくて、むしろそんなのダメだと思う気持ちの方が強くて。


「ねえ、イッチーの好きな人って、ピアニストでしょ」
「え」
「私の手を褒めてくれたとき、本当は違う誰かのこと考えてたでしょ」
「え、っと、」
「ごまかさなくていーよ、わかりやすいんだもん、もっと上手く隠してくれたらいーのに、イッチーのばか」


拗ねたように笑う石川さんを見下ろすと、一気に現実に戻ったような気になる。こういう子を好きになれたら1番良かったのに。簡単なはずだったのにな。


「……ごめんね、石川さん」
「んーん、大体、こうやって一緒に帰ってもらってるのも全部わたしの我儘だし、イッチーは何も悪くないよ」
「そんなこと、」
「つけ込む隙があるならって思ってたけど、全然ダメだった。イッチー、全然靡かないんだもん」
「う、それは本当ごめん」
「ううん、いいよ、そういうところもいいなって思うし」
「石川さんは強いな……」
「うん。だから、幸せになってよね、叶わないなんて言わないでよ。イッチーも片思い頑張ってね」


マフラーから出した顔を寒さで赤くしてそう笑う。女の子って強いな。おれはこんな風に真正面からウツミにぶつかることは到底できない。

だけど、今、すごく、ウツミのピアノが聴きたいと思った。なんだか泣きそうだ。