◇
「イチ、ベンキョーおしえて」
「え」
えって何。
放課後、帰りのホームルームが終わった直後。そそくさと帰り支度を始めた隣の席のイチをじとっと見つめると、あからさまに困惑した顔を見せる。今日1日、イチはずっとギクシャクしていた。まあ、昨日俺が変なこと言ったしそりゃそうか。
バタバタと人が帰っていく教室内で、俺は机に突っ伏しながら目線だけイチに送る。いつもならここで数分寝てしまうこともあるのだけど、今日はそうでもない。というか、昨日イチが一緒に寝てくれたから、夜ぐっすり眠れた。
「だめ?」
「ダメ、ではないけど」
「よかった、テスト近いし」
「あーうん、そうだな」
テストが近いというワードに、ほっとしたように胸を撫で下ろす。あからさまだなあ。俺が別の意味合いで誘っていたらもっと困った顔をするんだろう。それはちょっと、いや、大分癪だ。
:
.
放課後の教室、イチは窓際いちばん後ろの席。俺はその前の席を借りて、イチに向かい合う形をとった。勉強したかったのもあるけど、正直イチと話したかった方が本心に近い。
俺が苦手でイチが得意な物理の課題を開くと、イチは何も疑うことなく問題を解き始めた。わからないところがあれば聞いて、ということだろう。俺も勉強は苦手じゃないけど、イチの方が順位は上だ。特に理数系。
そういえば、こんなに近くでまじまじとイチの顔を見つめるのは初めてかもしれない。基本いつも隣からの横顔が多いしね。
真正面で、テキストに向かうイチを見る。改めて見ると、ひどく整った顔をしているな、と思う。イチが異性に好かれる理由の大半がこの造形美からきているような気もする。もちろん性格もいいけどね。
茶髪の癖毛は色白なイチによく似合ってる。丸っこい瞳には愛嬌があって、笑うと見える八重歯が特徴的。身長こそ平均的だけど顔が小さくて身体バランスがいい。特に制服の白いカッターシャツがよく似合ってる。俺はいつも少し大きめサイズをぶかっと着るけれど、イチはジャストサイズをきっちり着ているところも性格がよく表れているなと思う。変に着崩したりもしない。生真面目だよね、イチは。
「ウツミ」
「ん?」
「……見過ぎ」
「あ、バレてた?」
「そんだけ見てたらわかるっつーの」
机の上のテキストを見ていたイチが、一瞬視線だけこちらを向いて、それから照れくさそうにペンを持ったまま窓の外へと顔を向ける。少しだけ頬が赤い気がするのは夕日のせいだけじゃないと思う。
うわ、そうか。俺のことが好きだと、そんな顔するのか。
照れくさそうに顔を隠すイチに思わず頬がゆるむ。胸の辺りがむず痒い。なんだろこれ、今まで感じたことない。
いつも理性的で空気が読めてどこか大人びているイチが、俺の前でだけこんな風に頬を赤らめて視線を逸らすなんて、誰が想像できるだろう。いや、ていうか、見せたくないな、誰にも。こんなイチの顔を知っているのは自分だけでいい。
「……ここ、わかんないんだけど、」
「え? ああ、」
イチの真面目さを利用して課題へと話題をうつす。視線を窓に向けていたイチは案の定俺のテキストを覗き込んで問題を確認する。その表情はいつも通りに戻っていた。
「イチって何でなんでも出来るの?」
「なんでも出来るって、そんなことないだろ」
「出来るじゃん、勉強もスポーツも」
「人並みだよ」
「どこが。てかいつ勉強してんの。帰ってから?」
「おれはウツミみたいに授業中寝てないから。ちゃんと授業中勉強してんの」
「ふーん、要領いいタイプね」
「それはウツミだろ、いつも寝てるくせにそこそこの点数取ってんの知ってるから」
「それはイチがこーして教えてくれるからだよ、テストなんて山はって覚えてるとこアウトプットしてるだけだし」
「そういうのが要領いいっていうんだよ、俺は全部網羅しないと気が済まないタイプ」
ああ、そういう感じ? なるほどね。
確かにそれはイチっぽくもある。全部を網羅しないと、なんて思ったこともなかったな。テストの点数なんて平均点を超えてくれればいい。全部わかっていなくても主要点を理解しておけば問題ない。そういう俺とイチは結構正反対かもしれない。
「自分が要領いいなんて思ったことなかったや」
「ウツミは自分のことに対して疎いからなー、器用なんだよおまえは。俺はどっちかっていうと器用貧乏」
「そう? 全部テキトーなだけなんだけど」
「その低燃費さ分けて欲しい」
「イチは確かに生真面目かもね」
「……まあ、そうかも」
俺がわからないと言った問題の解答を、イチがすらすらと自分のノートに書いていく。つらつらと説明しているのを聞きながら、イチの指先を見ていた。
初めてピアノを弾いているところを見られたとき、俺の指を綺麗だと言っていた。それから、それが好きなタイプだとも。
「俺の指のこと褒めてくれてたけど、イチも手綺麗だよね」
「何いきなり、てかおれがこの問題説明してたの聞いてた?」
「ごめんごめん、聞いてたよ」
イチが呆れ顔で自分のテキストへと向かい直す。テスト2週間前だし、口実ではなく本当に勉強したかった気持ちもある。
「……ウツミの指が綺麗だなって思ったのがきっかけだったんだよ」
「え?」
今度こそ俺もちゃんと課題に向かおうとしたところで、思いがけずイチから言葉が落ちてきた。思わず顔をあげたけれど、イチは変わらず自分のテキストの課題を解いている。問題を解きながら話すなんて器用な奴。どこが器用貧乏なわけ。
「入学してすぐ、ウツミとは最初から隣の席だっただろ」
「ああうん、そうだね」
「なんていうかこう、ペンを持ってるとことか、髪を耳にかけるときとか、そーいう時に、なんでかウツミの指先が綺麗だなって思ってて」
「うん」
「……いや、なんかキモいよな、ごめん」
「キモくないから、続けてよ」
日が沈む。オレンジ色に染まる教室の中、空気が一気に熱を帯びたような気がする。イチは相変わらずこちらを見ない。
「……だから、初めてピアノ弾いてるのを見たとき、急におれの中でいろんな事が腑に落ちて」
「腑に落ちる、ね」
「元々綺麗だと思ってたのに、おまえがあんまり上手いピアノを弾くから、そんなの惹かれるなっていうほうが無理だった」
「……」
「引いた?」
「引くわけないでしょ、驚きはしたけど」
まさか、イチのほうからそんな風に気持ちを打ち明けてくるなんて思いもしなかった。さっき感じた胸の奥のむず痒さが戻ってくる。だから、なんなのこれ。心なしか自分の頬が赤くなっている気がして口元を思わず隠す。さっきまで見れていたイチの顔が上手く見れない。
「ごめん、変なこと言って」
「謝んないでって言ってんのに」
「うん、でも、ごめん。おれ、自分から人を好きになったのなんて初めてで、上手く言えなくてごめん。気まずいかもしれないけど、ウツミには普通に接して欲しい」
あ、はじめて、イチがちゃんと「好き」だと口にした。
謝らせたいわけじゃないのに、何も上手く言えない俺の方が大概なのに、本当にお人好しだね。
なんと言葉を紡ごうか考えあぐねたところで。ウ"ーウ"ーとイチのスマホが鳴った。タイミング。
「スマホ鳴ってるよ」
「ああ、うん」
「でなくていいの?」
「あー石川さんだし、いいよ」
ひゅ、と。喉元に突然隙間風が入ったような音が鳴った。正しくは鳴ったような気がした。
石川さん。昨日イチに告白して、今日の昼休みイチとふたりでいたB組女子の名前だ。連絡先を交換して、放課後電話が来る関係にまで発展していたなんて知らなかった。てか、電話がくるって何?
「……仲良くなったんだ?」
「んー、まあ、そんなとこ、かな」
「……」
歯切れの悪いイチの返答に急に体温が下がる心地がする。なにそれ、仲良くなったとか聞いてないけど。いや、まあそんなのはイチの勝手だけど、でも。
告白された相手で、自分は振った相手で、それでどうして何もなかったように仲良くできるわけ? 俺全然理解できない。
「見なよ、気になってんでしょ」
「え、ああ、うん」
電話が切れたのと同時に何件かメッセージ通知が入ったのは丸見えだった。イチはばつが悪そうにスマホを手に取る。そんな顔するなら連絡なんて取らなきゃいいのに、意味わかんない。
「ごめんウツミ、ちょっと用事出来たかも」
「え?」
「石川さんちょっと困ってるみたいでさ。物理はまた明日見るから、今から行っていい?」
は? なんで?
さぞ当たり前かのようにそう尋ねるイチの目に迷いがなくて困惑する。さっきまで俺のことが好きだって言っていたくせに、なんで突然最近知り合ったばかりの女子の元へ行こうとするわけ。それが何で許されると思うわけ。
沈黙は肯定だと思ったんだろう。立ち上がって身支度を始めたイチの姿にいても経ってもいられなくて、思わずその腕を強く掴んでしまった。
「俺のこと好きなんじゃないの」
あれ、俺、なんでこんなこと言ってんの。なんで俺こんな気持ちになってるんだろ。意味わかんない。
「イチ、ベンキョーおしえて」
「え」
えって何。
放課後、帰りのホームルームが終わった直後。そそくさと帰り支度を始めた隣の席のイチをじとっと見つめると、あからさまに困惑した顔を見せる。今日1日、イチはずっとギクシャクしていた。まあ、昨日俺が変なこと言ったしそりゃそうか。
バタバタと人が帰っていく教室内で、俺は机に突っ伏しながら目線だけイチに送る。いつもならここで数分寝てしまうこともあるのだけど、今日はそうでもない。というか、昨日イチが一緒に寝てくれたから、夜ぐっすり眠れた。
「だめ?」
「ダメ、ではないけど」
「よかった、テスト近いし」
「あーうん、そうだな」
テストが近いというワードに、ほっとしたように胸を撫で下ろす。あからさまだなあ。俺が別の意味合いで誘っていたらもっと困った顔をするんだろう。それはちょっと、いや、大分癪だ。
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放課後の教室、イチは窓際いちばん後ろの席。俺はその前の席を借りて、イチに向かい合う形をとった。勉強したかったのもあるけど、正直イチと話したかった方が本心に近い。
俺が苦手でイチが得意な物理の課題を開くと、イチは何も疑うことなく問題を解き始めた。わからないところがあれば聞いて、ということだろう。俺も勉強は苦手じゃないけど、イチの方が順位は上だ。特に理数系。
そういえば、こんなに近くでまじまじとイチの顔を見つめるのは初めてかもしれない。基本いつも隣からの横顔が多いしね。
真正面で、テキストに向かうイチを見る。改めて見ると、ひどく整った顔をしているな、と思う。イチが異性に好かれる理由の大半がこの造形美からきているような気もする。もちろん性格もいいけどね。
茶髪の癖毛は色白なイチによく似合ってる。丸っこい瞳には愛嬌があって、笑うと見える八重歯が特徴的。身長こそ平均的だけど顔が小さくて身体バランスがいい。特に制服の白いカッターシャツがよく似合ってる。俺はいつも少し大きめサイズをぶかっと着るけれど、イチはジャストサイズをきっちり着ているところも性格がよく表れているなと思う。変に着崩したりもしない。生真面目だよね、イチは。
「ウツミ」
「ん?」
「……見過ぎ」
「あ、バレてた?」
「そんだけ見てたらわかるっつーの」
机の上のテキストを見ていたイチが、一瞬視線だけこちらを向いて、それから照れくさそうにペンを持ったまま窓の外へと顔を向ける。少しだけ頬が赤い気がするのは夕日のせいだけじゃないと思う。
うわ、そうか。俺のことが好きだと、そんな顔するのか。
照れくさそうに顔を隠すイチに思わず頬がゆるむ。胸の辺りがむず痒い。なんだろこれ、今まで感じたことない。
いつも理性的で空気が読めてどこか大人びているイチが、俺の前でだけこんな風に頬を赤らめて視線を逸らすなんて、誰が想像できるだろう。いや、ていうか、見せたくないな、誰にも。こんなイチの顔を知っているのは自分だけでいい。
「……ここ、わかんないんだけど、」
「え? ああ、」
イチの真面目さを利用して課題へと話題をうつす。視線を窓に向けていたイチは案の定俺のテキストを覗き込んで問題を確認する。その表情はいつも通りに戻っていた。
「イチって何でなんでも出来るの?」
「なんでも出来るって、そんなことないだろ」
「出来るじゃん、勉強もスポーツも」
「人並みだよ」
「どこが。てかいつ勉強してんの。帰ってから?」
「おれはウツミみたいに授業中寝てないから。ちゃんと授業中勉強してんの」
「ふーん、要領いいタイプね」
「それはウツミだろ、いつも寝てるくせにそこそこの点数取ってんの知ってるから」
「それはイチがこーして教えてくれるからだよ、テストなんて山はって覚えてるとこアウトプットしてるだけだし」
「そういうのが要領いいっていうんだよ、俺は全部網羅しないと気が済まないタイプ」
ああ、そういう感じ? なるほどね。
確かにそれはイチっぽくもある。全部を網羅しないと、なんて思ったこともなかったな。テストの点数なんて平均点を超えてくれればいい。全部わかっていなくても主要点を理解しておけば問題ない。そういう俺とイチは結構正反対かもしれない。
「自分が要領いいなんて思ったことなかったや」
「ウツミは自分のことに対して疎いからなー、器用なんだよおまえは。俺はどっちかっていうと器用貧乏」
「そう? 全部テキトーなだけなんだけど」
「その低燃費さ分けて欲しい」
「イチは確かに生真面目かもね」
「……まあ、そうかも」
俺がわからないと言った問題の解答を、イチがすらすらと自分のノートに書いていく。つらつらと説明しているのを聞きながら、イチの指先を見ていた。
初めてピアノを弾いているところを見られたとき、俺の指を綺麗だと言っていた。それから、それが好きなタイプだとも。
「俺の指のこと褒めてくれてたけど、イチも手綺麗だよね」
「何いきなり、てかおれがこの問題説明してたの聞いてた?」
「ごめんごめん、聞いてたよ」
イチが呆れ顔で自分のテキストへと向かい直す。テスト2週間前だし、口実ではなく本当に勉強したかった気持ちもある。
「……ウツミの指が綺麗だなって思ったのがきっかけだったんだよ」
「え?」
今度こそ俺もちゃんと課題に向かおうとしたところで、思いがけずイチから言葉が落ちてきた。思わず顔をあげたけれど、イチは変わらず自分のテキストの課題を解いている。問題を解きながら話すなんて器用な奴。どこが器用貧乏なわけ。
「入学してすぐ、ウツミとは最初から隣の席だっただろ」
「ああうん、そうだね」
「なんていうかこう、ペンを持ってるとことか、髪を耳にかけるときとか、そーいう時に、なんでかウツミの指先が綺麗だなって思ってて」
「うん」
「……いや、なんかキモいよな、ごめん」
「キモくないから、続けてよ」
日が沈む。オレンジ色に染まる教室の中、空気が一気に熱を帯びたような気がする。イチは相変わらずこちらを見ない。
「……だから、初めてピアノ弾いてるのを見たとき、急におれの中でいろんな事が腑に落ちて」
「腑に落ちる、ね」
「元々綺麗だと思ってたのに、おまえがあんまり上手いピアノを弾くから、そんなの惹かれるなっていうほうが無理だった」
「……」
「引いた?」
「引くわけないでしょ、驚きはしたけど」
まさか、イチのほうからそんな風に気持ちを打ち明けてくるなんて思いもしなかった。さっき感じた胸の奥のむず痒さが戻ってくる。だから、なんなのこれ。心なしか自分の頬が赤くなっている気がして口元を思わず隠す。さっきまで見れていたイチの顔が上手く見れない。
「ごめん、変なこと言って」
「謝んないでって言ってんのに」
「うん、でも、ごめん。おれ、自分から人を好きになったのなんて初めてで、上手く言えなくてごめん。気まずいかもしれないけど、ウツミには普通に接して欲しい」
あ、はじめて、イチがちゃんと「好き」だと口にした。
謝らせたいわけじゃないのに、何も上手く言えない俺の方が大概なのに、本当にお人好しだね。
なんと言葉を紡ごうか考えあぐねたところで。ウ"ーウ"ーとイチのスマホが鳴った。タイミング。
「スマホ鳴ってるよ」
「ああ、うん」
「でなくていいの?」
「あー石川さんだし、いいよ」
ひゅ、と。喉元に突然隙間風が入ったような音が鳴った。正しくは鳴ったような気がした。
石川さん。昨日イチに告白して、今日の昼休みイチとふたりでいたB組女子の名前だ。連絡先を交換して、放課後電話が来る関係にまで発展していたなんて知らなかった。てか、電話がくるって何?
「……仲良くなったんだ?」
「んー、まあ、そんなとこ、かな」
「……」
歯切れの悪いイチの返答に急に体温が下がる心地がする。なにそれ、仲良くなったとか聞いてないけど。いや、まあそんなのはイチの勝手だけど、でも。
告白された相手で、自分は振った相手で、それでどうして何もなかったように仲良くできるわけ? 俺全然理解できない。
「見なよ、気になってんでしょ」
「え、ああ、うん」
電話が切れたのと同時に何件かメッセージ通知が入ったのは丸見えだった。イチはばつが悪そうにスマホを手に取る。そんな顔するなら連絡なんて取らなきゃいいのに、意味わかんない。
「ごめんウツミ、ちょっと用事出来たかも」
「え?」
「石川さんちょっと困ってるみたいでさ。物理はまた明日見るから、今から行っていい?」
は? なんで?
さぞ当たり前かのようにそう尋ねるイチの目に迷いがなくて困惑する。さっきまで俺のことが好きだって言っていたくせに、なんで突然最近知り合ったばかりの女子の元へ行こうとするわけ。それが何で許されると思うわけ。
沈黙は肯定だと思ったんだろう。立ち上がって身支度を始めたイチの姿にいても経ってもいられなくて、思わずその腕を強く掴んでしまった。
「俺のこと好きなんじゃないの」
あれ、俺、なんでこんなこと言ってんの。なんで俺こんな気持ちになってるんだろ。意味わかんない。