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入学して3ヶ月が経った夏休み前。

程々にクラスメイトとも馴染んで来た頃。かといって特定の友人をつくるのは性格上苦手なので基本ひとりでいると、決まって隣の席のイチは変に気を利かせてか俺に話しかけてきた。きっと俺みたいなタイプを放っておけない性分なんだろう。そういう分け隔てないところも本心が見えなくてやっぱり苦手だった。そんなイチのことが本格的に気になり出したのは、なんてことのないいつもの日常の中。その日も俺は、ひとりで昼休みに音楽室を訪れていた。

吹奏楽部も軽音部もないうちの高校は基本授業でしかここを使用しないので、いつも人気(ひとけ)がない。だからこうして、昼休みや放課後にたまにひとりでふらっと訪れて、ピアノに触れる。

幼い頃からずっと、ピアノが唯一の聖域だった。

習っていたのは小6までだったけれど、今でも時々こうやって触れたくなる。鍵盤に触れると全て忘れられるような気がするからだと思う。

指先を軽く鍵盤に触れさせれば、あとはもう迷うことはない、勝手に身体が動く。ピアノが鳴る。

ピアノの、蜘蛛の糸のような細くて芯のある繊細な音が好きだ。和音が重なる気持ちよさが好きだ。鍵盤を押し込む時の指圧がすきだ。弾いている間は、何も考えなくていいところが好きだ。感覚的に音を紡ぐのがすきだ。言葉にしたらやけに陳腐で軽々しいけれど、どうしようもなく、俺はピアノのことが好きなんだと思う。人の気持ちに敏感な分、自分の感情には、昔から少しだけ疎い。

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ぽろん、と。最後の和音を引き終わった瞬間、ガタッと大きな音がした。そこでやっと、現実に引き戻される。

ひとりしかいないはずなのに。気づかないうちに誰か来たのかな。

ゆっくりと音がした方を見たけれど誰もいない。音楽準備室から聞こえたな、と思って椅子から立ち上がる。音楽室と繋がっている音楽準備室の扉をガチャリと開けると、バツを悪そうに座り込んでいるイチと目が合った。するとイチはすぐにその視線を振り解いて俺から顔を背ける。

まさかイチがいるとは思わなかったから驚いた。その時はまだ、そこまで仲がいいわけではなかったし、どちらかといえばイチのことが苦手だったから。


『ご、ごめん、見るつもりはなかったんだけど』
『……』
『ウツミがたまに昼とか放課後とか消えるから、どこ行ってんのかなって気になって……』
『後、つけてきたの?』
『う、そう言われるとそうだな、ごめんストーカーみたいなことして』


別に隠していた訳でもないし、見られたとか聴かれたとかどーでもいいんだけど。まあ驚きはしたけどね。見る限り、イチは盗み見していたことを相当気にしているみたいだ。申し訳なさそうに下を向いている。俺がピアノを弾くこと、隠してると思ってんのかな。別にわざわざ言わないだけなんだけど。


『別に隠してるわけじゃないし、謝ることでもないよ』


え、と。再び視線を上げたイチの顔をまじまじと見ると、少しだけ目が赤くなっているのがわかった。さっきは咄嗟のことで気づかなかった。もしかして泣いてた?


『……いつも1人でふらっと消えるから、隠してるのかと思った』
『隠す理由ないでしょ、言う理由もないけど』
『なら聴いてよかったってこと?』
『うん、別に聴きたいならいつでも来れば』
『なんだよ、焦ったじゃん』
『焦ることでもないと思うけど』
『……おれさ、ずっと、ウツミのさ、指が綺麗だなって思ってたんだよ。だからなんか腑に落ちたし、すげーかっこよかったから、また見に来ていい?』
『……なにそれ』


変なこと言う奴もいるもんだな。ふ、とおれが思わず笑うと、イチも吊られて笑った。

イチはもしかしたら、俺のピアノを聴いて泣いていたのかもしれない。そういうの、どうしたってわかってしまう。隠しきれていない赤い目から、目が離すことができなかった。指が綺麗だなんて、初めて言われた。

なんで俺のピアノなんかで泣くの。変な奴だね。


『今弾いてたの、なんて曲?』
『……ベートーヴェンの月光』
『そっか、いい曲だ』


─────その時初めて、イチの本当の笑顔を見た気がした。