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全国高校サッカー選手権大会の県予選が、いよいよ始まった。
県立小原高校はインターハイ予選での活躍を受けて、公立校としてはめずらしい上位シード枠、ベスト32からの登場を今年に限っては許されている。とはいっても全国への切符を手にするには、そこから五連勝しなければならない。しかも相手は同レベルかむしろ格上のシード校、もしくはそれらを破って勝ち上がってきた、真に力と勢いのある学校だ。険しい道のりであることに変わりはない。
けれども今年のオハ高サッカー部の実力もまた、本物だった。
「じゃあみんな、聞いてくれ」
ベスト16入りを賭けた緒戦前日、最後の練習のあと、沖田先生が円陣の一角で口を開いた。
「いつも思うんだけどさ、サッカーって理不尽だよな」
なんのことかわからずぽかんとする部員たちに対して、困ったような笑みを見せながら、先生はもう一度「ほんと、理不尽だよ」と繰り返した。
「というより、部活動そのものが理不尽や矛盾のかたまりだ。だって、ここにサッカーが好きで好きでたまらない仲間たちが三十六人もいる。もちろんマネージャーも含めてだ。でも、選手権予選に登録される選手は三十人。ベンチ入りはもっと減って二十人。スタメンなんて、たったの十一人。サッカーに対する気持ち、チームに対する想い、仲間に対する信頼、そういうものはみんな変わらないはずなのに、実際にキックオフの笛をフィールドで聞けるのは三分の一以下なんだよ」
ああ、と明人は思う。
「でも俺たちなんて、まだましだ。私立の強豪校はどうだ? インハイに出た滝浜二校なんて、部員が百人を超えてる。登録メンバーに入る時点で、うち以上の狭き門だ。にもかかわらず、誰もサッカーを嫌いにならない。少なくとも、この選手権予選まで続けてる。サッカーだけじゃないよな。野球部だってそうだ。甲子園のテレビ中継見るとさ、スタンドで応援してる部員の方が圧倒的に多いだろ。外国じゃ信じられない光景だそうだ。スポーツはみんなのもの、みんなの文化だっていうふうに向こうは根づいてるから」
この人は、沖田先生はやっぱり凄い人だ。尊敬できる先生だ。
そして、このあとにくる話は――。
「でも俺たちだって、その〝理不尽〟をあたえてたりするんだよ」
そう。サッカー部の、運動部の、矛盾。理不尽な扱いに耐えているだけに見える、自分たちの別の側面。
「たとえばさ、亮介」
「はい」
「いつもおまえと明人と、一年の和也が三人でキーパー練習してるだろ。ゴール前で」
「はい」
「あそこで、自分たちも運動したいです、ってまったく関係ない生徒が来たらどうする?」
「え? いや、グラウンドはサッカー部と野球部が練習するっていうルールなんで」
「どうして?」
「は?」
「どうしてサッカー部と野球部が、優先的にグラウンドを使えるルールなんだ?」
「ええっと……」
「どうして俺たちは朝練も放課後の練習も、グラウンドがあってゴールがあるっていう当たり前の、でもよく考えたら恵まれた環境でサッカーできるんだ? 本来ならグラウンドは生徒全員のものだろう? さっきも言ったけど、スポーツはみんなものだろう? 俺たちと野球部だけで、独占していいものじゃないんじゃないか?」
何人もの部員たちが、まさに目から鱗が落ちた表情で頷いている。
「それでも学校は、俺たちにグラウンドを譲ってくれている。しかも毎日。それこそ外国じゃ考えられないよ。アメリカやヨーロッパじゃ、スポーツは学校じゃなくて地域のクラブでやるものだそうだ。きちんと月謝を払って、そのかわり芝生のグラウンドや専門のコーチが揃った環境で。逆に言えばスポーツっていうのは、本気でやりたかったら、それぐらい手間もお金もかかるっていうことだ」
明人もまた、先生の顔をしっかり見つめたまま頷いた。
「でも部活は、ほとんどお金がかからない。コーチも俺たち教員がやる。つまり放課後には学校がクラブになる。それをまわりが許して、認めて、本当に沢山の便宜を計ってくれてるんだ。それはなぜか。竜也、わかるか?」
三十五人の信頼を集めるキャプテンは、数秒だけ考えてからはっきりと口にした。まるで、仲間たち全員にも聞かせるように。
「僕たち運動部が、先生が仰るように本気だからだと思います。上手く言えないけど、本気でサッカーや、野球や、それぞれのスポーツに取り組んで、そこから本気で何かを学ぼうとしているから。だから勉強の一環としてっていうか、校内活動の一つとして認めてくれて、そうやって応援してくれてるんだと思います」
期せずして全員から拍手が起こった。「キャプテン、すげえ」という拍手ではない。「その通り!」という雰囲気の、心からの同意を表す拍手だった。
「そう。まさにそれなんだ。俺たちはプロじゃないからさ、スポンサーもタニマチもいない。でっかいスタジアムで、いつも試合できるわけじゃない。でも、やっぱりまわりからサポートされてるんだよ。応援してもらってるんだよ」
くすん、と鼻をすすり上げる声が聞こえた。隣で桃香が目頭に手を当てている。けれど明人は、気づかないふりをしておいた。
「野球部が頭を坊主にしてるのは、きっとそうしたサポートへの、理解への、感謝を示しているんだと思う。いつもありがとう、沢山の応援ありがとうって」
そうだ。自分たちは本当に沢山の人たちの支えのお陰で、サッカーをすることができるのだ。今身に着けている練習着やスパイクだって、父が稼いだお金で買ってもらっている。サッカーボールだって学校や保護者会、OB会が補助してくれる部費がなければ、一つとして買えないだろう。
「俺たちはさすがに、坊主にまではしないけどさ」
そこで明人は、沖田先生と目が合った。にやりと笑っている。
「あ。それとも明人、代表で坊主にしてくれるか?」
「すいません。嫌です」
思わず即答してしまい、円陣がどっと湧いた。こうしたメリハリ、集中力を切らさない話術は先生の得意とするところだ。
「ははは、そうだよな。でも真面目な話、頭は坊主にしないけど〝心は坊主〟みたいな心意気でさ、まわりへの感謝の気持ちをあらためて噛み締めながら、明日からのトーナメントを戦っていこう」
「はい!」
全員が力強く答える。
「勝負事だから結果はわからない。だけど感謝の気持ちや、一クラスぶんもの仲間と一緒に大好きなサッカーができる喜びを胸にして走れば、ボールを追えば、必ずそれは伝わるよ。それが俺たちのサッカーだろう? オハ高のサッカーだろう?」
「はい!」
「やってやろうぜ。そういう気持ちいいサッカー、清々しいサッカーで全国を目指そう。オハ高の新しい歴史をつくろう」
「はいっ!!」
いつの間にか、三十六人の仲間全員が手を繋いでいた。
キーパーグローブを外した明人の右手を、小さな手がもう一度、ぎゅっと握り締めてきた。
《古豪復活へ ~三十六人で切り開く道~》
快進撃と言っていいだろう。
二十年前のインターハイ出場以来、我が小原高校サッカー部は全国の舞台から遠ざかってきた。スポーツ推薦の生徒など、望むべくもない公立高校。グラウンドも野球部と半々。最近では地区選抜選手すら、いない年の方が多い。
そんな「普通の部活」となって久しい古豪が、年明けの『全国高校サッカー選手権大会』出場に向けてトーナメントを勝ち上がっている。今年もスター選手不在のチームではあるが、二年前に着任した顧問、沖田雅敏先生(体育科)の掲げる「全員で戦うサッカー」を実践し、登録メンバー三十名中二十九名がここまで試合に出場、さらには登録外の部員やマネージャーも、全力でチームをサポートする一体感を武器に、見事県ベスト4に名乗りを挙げた。
ここからは、さらに総力戦だ。今大会最大の難敵、全国常連の滝浜第二高校との準決勝は来週十月三十日(日)、県営総合運動公園にて11:00キックオフ。時間のある人はぜひ応援に行って、スタンドからもオハ高魂を届けよう。(Chika)
「これ、正さんの記事ちゃう?」
「ああ。だろうね」
兄の記事どころか校内新聞そのものをほとんど読まない明人だが、Chikaなどという、なんの捻りもないペンネームに苦笑しながら頷いた。こういうところに無頓着なのも正らしい。
桃香が手にしている校内新聞、『オハ・タイムズ』は月に二回発行されている。古いが立派な輪転機があるとかで、ページ数こそ八ページだけだが二色刷りで写真もふんだんに使われた、なかなか立派なものだ。見開きB4サイズにまとめてくれているのも、生徒たちの読みやすさを考慮してのことだろう。
そういえば、新聞部こそ全国レベルなんだっけ。
休み時間、彼女が嬉々として持ってきたそれを見ながら、明人は今さらのように思い出した。
「やっぱ文章、上手いんやねえ。いつもはなんちゅうか、とぼけた感じやけど。……あ、ごめん」
「いや、実際その通りだし」
思わず笑ってしまった。たしかにこのしっかりした記事と、兄の飄々とした表情は結びつかない。
「でも、うちのことも書いてくれとるし、めっちゃ嬉しい! よろしく言っといて」
「ああ」
すると隣の席から、先日明人に生インタビューしてくれた名取律子も、興味深そうに身を乗り出してきた。
「近守君のお兄さん? なんかの記事で去年、賞ももろてたよね」
文化部同士、そのあたりの情報は詳しいようだ。ちなみに普段の律子は関西弁で、ラジオパーソナリティを務めるときの標準語と見事に使い分けている。
「え? そうなの?」
「うん。地方版やけど、本物の新聞とかも取材に来とったよ」
全然知らなかった。おそらく正は両親にすら伝えていないだろう。まったく。
「お兄さんと、家で部活の話とかせえへんの?」
「サッカー部のことはたまに訊かれるけど、俺の方からは特に」
「あ、ひどーい。うちら文化部だって頑張ってんのに」
「ごめん」
「ほら、うちの番組の特集予定とかも載せてくれてるし」
わざとらしく頬をふくらませながら、律子はさらに身を寄せて、ページの片隅を指差してくる。
「ご、ごめん」
「曲のリクエストもできるんやからね」
「そ、それは知ってる。……ごめん」
同じ台詞を連呼しながら、彼女とは逆に、明人は身体をのけぞらせつつあった。なんだか顔が熱いし、どこに視線をやっていいのかすらわからなくなってくる。
「あのさ、名取……」
不自然に上半身を傾けたまま、明人はなんとか呼びかけた。それにしても近い。近すぎる。
明人の左、桃香側に記載されている記事を律子は反対の席から、しかもなぜか身体を開き右手で示しているので、なんというか……。
「うん? ああ、ごめんね。おっぱい当たっとった?」
つまりは、そういう体勢なのだった。
「いや、その、ほんとごめん」
もはや何度目かわからない言葉を、明人は繰り返すしかなかった。
「ううん、こっちこそ。あ、ごめんね、桃香も」
「は!? なんでうちに謝んの? そもそもりっちゃん、謝らんでええって! 明人がむっつり変態傘張り浪人なだけなんやから!」
「あはは。じゃ、近守君、お触り料一万円」
お昼の生放送そのままに、律子は朗らかに笑っている。周囲の、特に男子から刺すような視線を複数感じるが、明人は気のせいだと思うことにした。もちろん桃香とは、それ以上に目を合わせないようにする。
と思ったら彼女自身が、ふたたび紙面に目を落としてくれていた
「でもこの記事、写真もええね。シンプルでかっこええわあ」
「うん。なんか新聞ていうより、お洒落な雑誌みたい」
律子も同じ箇所を見て、にこにこしている。
女子二人が感心する記事内の写真は、ありがちな練習や試合の光景ではなく、ユニフォームの胸部分に刺繍された、樫の葉を象ったエンブレムだった。オハ高の校章でもあるそれを、微妙に角度をつけ、明暗も調節したうえで撮影してあるようだ。芸術的センスなど皆無の明人にも一目でよさがわかる。
あ。
何かが閃くようにして、明人は思い出した。アップの写真。被写体にカメラを寄せた撮り方。
接写だ……。
揺れる黒髪と爽やかな香りをすぐに思い出したが、残念ながら写真の方には、フォトグラファーの名前は記されていなかった。
全国高校サッカー選手権大会の県予選が、いよいよ始まった。
県立小原高校はインターハイ予選での活躍を受けて、公立校としてはめずらしい上位シード枠、ベスト32からの登場を今年に限っては許されている。とはいっても全国への切符を手にするには、そこから五連勝しなければならない。しかも相手は同レベルかむしろ格上のシード校、もしくはそれらを破って勝ち上がってきた、真に力と勢いのある学校だ。険しい道のりであることに変わりはない。
けれども今年のオハ高サッカー部の実力もまた、本物だった。
「じゃあみんな、聞いてくれ」
ベスト16入りを賭けた緒戦前日、最後の練習のあと、沖田先生が円陣の一角で口を開いた。
「いつも思うんだけどさ、サッカーって理不尽だよな」
なんのことかわからずぽかんとする部員たちに対して、困ったような笑みを見せながら、先生はもう一度「ほんと、理不尽だよ」と繰り返した。
「というより、部活動そのものが理不尽や矛盾のかたまりだ。だって、ここにサッカーが好きで好きでたまらない仲間たちが三十六人もいる。もちろんマネージャーも含めてだ。でも、選手権予選に登録される選手は三十人。ベンチ入りはもっと減って二十人。スタメンなんて、たったの十一人。サッカーに対する気持ち、チームに対する想い、仲間に対する信頼、そういうものはみんな変わらないはずなのに、実際にキックオフの笛をフィールドで聞けるのは三分の一以下なんだよ」
ああ、と明人は思う。
「でも俺たちなんて、まだましだ。私立の強豪校はどうだ? インハイに出た滝浜二校なんて、部員が百人を超えてる。登録メンバーに入る時点で、うち以上の狭き門だ。にもかかわらず、誰もサッカーを嫌いにならない。少なくとも、この選手権予選まで続けてる。サッカーだけじゃないよな。野球部だってそうだ。甲子園のテレビ中継見るとさ、スタンドで応援してる部員の方が圧倒的に多いだろ。外国じゃ信じられない光景だそうだ。スポーツはみんなのもの、みんなの文化だっていうふうに向こうは根づいてるから」
この人は、沖田先生はやっぱり凄い人だ。尊敬できる先生だ。
そして、このあとにくる話は――。
「でも俺たちだって、その〝理不尽〟をあたえてたりするんだよ」
そう。サッカー部の、運動部の、矛盾。理不尽な扱いに耐えているだけに見える、自分たちの別の側面。
「たとえばさ、亮介」
「はい」
「いつもおまえと明人と、一年の和也が三人でキーパー練習してるだろ。ゴール前で」
「はい」
「あそこで、自分たちも運動したいです、ってまったく関係ない生徒が来たらどうする?」
「え? いや、グラウンドはサッカー部と野球部が練習するっていうルールなんで」
「どうして?」
「は?」
「どうしてサッカー部と野球部が、優先的にグラウンドを使えるルールなんだ?」
「ええっと……」
「どうして俺たちは朝練も放課後の練習も、グラウンドがあってゴールがあるっていう当たり前の、でもよく考えたら恵まれた環境でサッカーできるんだ? 本来ならグラウンドは生徒全員のものだろう? さっきも言ったけど、スポーツはみんなものだろう? 俺たちと野球部だけで、独占していいものじゃないんじゃないか?」
何人もの部員たちが、まさに目から鱗が落ちた表情で頷いている。
「それでも学校は、俺たちにグラウンドを譲ってくれている。しかも毎日。それこそ外国じゃ考えられないよ。アメリカやヨーロッパじゃ、スポーツは学校じゃなくて地域のクラブでやるものだそうだ。きちんと月謝を払って、そのかわり芝生のグラウンドや専門のコーチが揃った環境で。逆に言えばスポーツっていうのは、本気でやりたかったら、それぐらい手間もお金もかかるっていうことだ」
明人もまた、先生の顔をしっかり見つめたまま頷いた。
「でも部活は、ほとんどお金がかからない。コーチも俺たち教員がやる。つまり放課後には学校がクラブになる。それをまわりが許して、認めて、本当に沢山の便宜を計ってくれてるんだ。それはなぜか。竜也、わかるか?」
三十五人の信頼を集めるキャプテンは、数秒だけ考えてからはっきりと口にした。まるで、仲間たち全員にも聞かせるように。
「僕たち運動部が、先生が仰るように本気だからだと思います。上手く言えないけど、本気でサッカーや、野球や、それぞれのスポーツに取り組んで、そこから本気で何かを学ぼうとしているから。だから勉強の一環としてっていうか、校内活動の一つとして認めてくれて、そうやって応援してくれてるんだと思います」
期せずして全員から拍手が起こった。「キャプテン、すげえ」という拍手ではない。「その通り!」という雰囲気の、心からの同意を表す拍手だった。
「そう。まさにそれなんだ。俺たちはプロじゃないからさ、スポンサーもタニマチもいない。でっかいスタジアムで、いつも試合できるわけじゃない。でも、やっぱりまわりからサポートされてるんだよ。応援してもらってるんだよ」
くすん、と鼻をすすり上げる声が聞こえた。隣で桃香が目頭に手を当てている。けれど明人は、気づかないふりをしておいた。
「野球部が頭を坊主にしてるのは、きっとそうしたサポートへの、理解への、感謝を示しているんだと思う。いつもありがとう、沢山の応援ありがとうって」
そうだ。自分たちは本当に沢山の人たちの支えのお陰で、サッカーをすることができるのだ。今身に着けている練習着やスパイクだって、父が稼いだお金で買ってもらっている。サッカーボールだって学校や保護者会、OB会が補助してくれる部費がなければ、一つとして買えないだろう。
「俺たちはさすがに、坊主にまではしないけどさ」
そこで明人は、沖田先生と目が合った。にやりと笑っている。
「あ。それとも明人、代表で坊主にしてくれるか?」
「すいません。嫌です」
思わず即答してしまい、円陣がどっと湧いた。こうしたメリハリ、集中力を切らさない話術は先生の得意とするところだ。
「ははは、そうだよな。でも真面目な話、頭は坊主にしないけど〝心は坊主〟みたいな心意気でさ、まわりへの感謝の気持ちをあらためて噛み締めながら、明日からのトーナメントを戦っていこう」
「はい!」
全員が力強く答える。
「勝負事だから結果はわからない。だけど感謝の気持ちや、一クラスぶんもの仲間と一緒に大好きなサッカーができる喜びを胸にして走れば、ボールを追えば、必ずそれは伝わるよ。それが俺たちのサッカーだろう? オハ高のサッカーだろう?」
「はい!」
「やってやろうぜ。そういう気持ちいいサッカー、清々しいサッカーで全国を目指そう。オハ高の新しい歴史をつくろう」
「はいっ!!」
いつの間にか、三十六人の仲間全員が手を繋いでいた。
キーパーグローブを外した明人の右手を、小さな手がもう一度、ぎゅっと握り締めてきた。
《古豪復活へ ~三十六人で切り開く道~》
快進撃と言っていいだろう。
二十年前のインターハイ出場以来、我が小原高校サッカー部は全国の舞台から遠ざかってきた。スポーツ推薦の生徒など、望むべくもない公立高校。グラウンドも野球部と半々。最近では地区選抜選手すら、いない年の方が多い。
そんな「普通の部活」となって久しい古豪が、年明けの『全国高校サッカー選手権大会』出場に向けてトーナメントを勝ち上がっている。今年もスター選手不在のチームではあるが、二年前に着任した顧問、沖田雅敏先生(体育科)の掲げる「全員で戦うサッカー」を実践し、登録メンバー三十名中二十九名がここまで試合に出場、さらには登録外の部員やマネージャーも、全力でチームをサポートする一体感を武器に、見事県ベスト4に名乗りを挙げた。
ここからは、さらに総力戦だ。今大会最大の難敵、全国常連の滝浜第二高校との準決勝は来週十月三十日(日)、県営総合運動公園にて11:00キックオフ。時間のある人はぜひ応援に行って、スタンドからもオハ高魂を届けよう。(Chika)
「これ、正さんの記事ちゃう?」
「ああ。だろうね」
兄の記事どころか校内新聞そのものをほとんど読まない明人だが、Chikaなどという、なんの捻りもないペンネームに苦笑しながら頷いた。こういうところに無頓着なのも正らしい。
桃香が手にしている校内新聞、『オハ・タイムズ』は月に二回発行されている。古いが立派な輪転機があるとかで、ページ数こそ八ページだけだが二色刷りで写真もふんだんに使われた、なかなか立派なものだ。見開きB4サイズにまとめてくれているのも、生徒たちの読みやすさを考慮してのことだろう。
そういえば、新聞部こそ全国レベルなんだっけ。
休み時間、彼女が嬉々として持ってきたそれを見ながら、明人は今さらのように思い出した。
「やっぱ文章、上手いんやねえ。いつもはなんちゅうか、とぼけた感じやけど。……あ、ごめん」
「いや、実際その通りだし」
思わず笑ってしまった。たしかにこのしっかりした記事と、兄の飄々とした表情は結びつかない。
「でも、うちのことも書いてくれとるし、めっちゃ嬉しい! よろしく言っといて」
「ああ」
すると隣の席から、先日明人に生インタビューしてくれた名取律子も、興味深そうに身を乗り出してきた。
「近守君のお兄さん? なんかの記事で去年、賞ももろてたよね」
文化部同士、そのあたりの情報は詳しいようだ。ちなみに普段の律子は関西弁で、ラジオパーソナリティを務めるときの標準語と見事に使い分けている。
「え? そうなの?」
「うん。地方版やけど、本物の新聞とかも取材に来とったよ」
全然知らなかった。おそらく正は両親にすら伝えていないだろう。まったく。
「お兄さんと、家で部活の話とかせえへんの?」
「サッカー部のことはたまに訊かれるけど、俺の方からは特に」
「あ、ひどーい。うちら文化部だって頑張ってんのに」
「ごめん」
「ほら、うちの番組の特集予定とかも載せてくれてるし」
わざとらしく頬をふくらませながら、律子はさらに身を寄せて、ページの片隅を指差してくる。
「ご、ごめん」
「曲のリクエストもできるんやからね」
「そ、それは知ってる。……ごめん」
同じ台詞を連呼しながら、彼女とは逆に、明人は身体をのけぞらせつつあった。なんだか顔が熱いし、どこに視線をやっていいのかすらわからなくなってくる。
「あのさ、名取……」
不自然に上半身を傾けたまま、明人はなんとか呼びかけた。それにしても近い。近すぎる。
明人の左、桃香側に記載されている記事を律子は反対の席から、しかもなぜか身体を開き右手で示しているので、なんというか……。
「うん? ああ、ごめんね。おっぱい当たっとった?」
つまりは、そういう体勢なのだった。
「いや、その、ほんとごめん」
もはや何度目かわからない言葉を、明人は繰り返すしかなかった。
「ううん、こっちこそ。あ、ごめんね、桃香も」
「は!? なんでうちに謝んの? そもそもりっちゃん、謝らんでええって! 明人がむっつり変態傘張り浪人なだけなんやから!」
「あはは。じゃ、近守君、お触り料一万円」
お昼の生放送そのままに、律子は朗らかに笑っている。周囲の、特に男子から刺すような視線を複数感じるが、明人は気のせいだと思うことにした。もちろん桃香とは、それ以上に目を合わせないようにする。
と思ったら彼女自身が、ふたたび紙面に目を落としてくれていた
「でもこの記事、写真もええね。シンプルでかっこええわあ」
「うん。なんか新聞ていうより、お洒落な雑誌みたい」
律子も同じ箇所を見て、にこにこしている。
女子二人が感心する記事内の写真は、ありがちな練習や試合の光景ではなく、ユニフォームの胸部分に刺繍された、樫の葉を象ったエンブレムだった。オハ高の校章でもあるそれを、微妙に角度をつけ、明暗も調節したうえで撮影してあるようだ。芸術的センスなど皆無の明人にも一目でよさがわかる。
あ。
何かが閃くようにして、明人は思い出した。アップの写真。被写体にカメラを寄せた撮り方。
接写だ……。
揺れる黒髪と爽やかな香りをすぐに思い出したが、残念ながら写真の方には、フォトグラファーの名前は記されていなかった。