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「兄ちゃん」
「ん?」
その晩の近守家。
明人がノックしたドアからは、すぐに返事が返ってきた。続けて「開いてるから、いいよ」とも。
「お邪魔します」
「いらっしゃいませ」
おどけてこちらを振り向いた正の前には、参考書などではなく、何かのコピーや古いメモ用紙のようなものが大量に置いてあった。最近は市立図書館などにも足を運んで、受験勉強しているらしい。
「ごめん、勉強中に」
「いや、全然。休憩して赤本でもやろうかなって、ちょうど思ってたとこ。明人も来年、国公立受けるんだろ」
正が掲げて見せた「赤本」、すなわち大学受験過去問題集は、国公立大と一部の私立大学の一次試験用のものだ。
「浪人しなかったら、これもやるよ。ああ、でも最新版の方がいいか?」
「ううん、それでじゅうぶん。ありがとう。ちなみに今年の試験日って、何日だっけ?」
「一月の十四、十五だったかな。なんにせよ、第三土曜と日曜だよ」
「十四、十五か……」
「どうして? ひょっとして、サッカーの選手権とかぶらないか心配なのか?」
「まあ、そんなとこ。万が一、出られればだけど」
「でもあれって、正月じゃなかったっけ」
「うん。大会自体は一週間で終わるから、兄ちゃんの試験とはかぶらないね」
「そりゃそうだろ。日程かぶってたら、その選手権に出てるサッカー部員が受験できないじゃん」
「あ、そうか」
たしかに正の言う通りだ。実際「彼は今大会のすぐあと、大学入試も待っているそうです」とテレビ中継で紹介される、文武両道の選手も少なくない。進学校の場合は、宿泊先に参考書を持ち込む三年生も多いのだとか。
自分たちも、そうなれるだろうか。
「サッカー部の三年も国公立受けるやつ、沢山いるはずだぞ。みんな成績いいみたいだし」
他人事のように言っているが、正自身、英語以外の成績もかなりのものらしい。東大とまではいかなくとも地方の国立大学や関関同立、東京六大学といったところは、じゅうぶんに射程圏内だと母から聞いた覚えがある。徹夜で勉強している姿など見たことないので、もとの頭がいいのだろう。
なんだかんだ言っても、新聞部の名記者だもんな。
飄々としながらも、要領よく締めるところは締める。そういう兄のスマートさが明人は羨ましかったし、好きだった。
羨ましいと言えば、もう一つ。
おたがいの部屋を訪れたときの定位置、ベッド脇に座りながら、明人は精一杯のさりげなさを装って続けた。
「あの、さ」
「ん?」
「変なこと聞くけどさ」
「んん?」
「見先さんって」
「んんん!?」
正の濃い眉が片方だけあがった。滅多に見せない、大きく驚いた顔をしている。
「な、何?」
「いや、めずらしいなと思って。明人から女子のこと、それも直について訊かれるなんて」
「いや、別に変な意味じゃないから」
「そうなの? 変な意味でも、俺はいいと思うけど」
その「変な意味」が、具体的にどういう意味かはあえてつっこまずに明人は続けた。
「直さんって授業中とか、どんな人?」
本人の顔が頭に浮かび、条件反射のように名前で呼び直しつつ兄を見上げる。すると正は、いつものごとく変な詮索はしないままに答えてくれた。
「どうって、普通かなあ。成績もいいぞ。ああ見えて要領いいんだよな、あいつ。そんなに勉強してなさそうなのに」
あんたが言うか、と思わず微笑んでしまう。
「ん? なんかおかしなこと言った、俺?」
「いや、ごめん。そっか、頭いいんだ」
「ああ。英語はもとからできるし。帰国子女なんだよ、直」
「えっ!?」
明人は目を見開いた。
「アムステルダムに子どもの頃、住んでたんだと。普段はオランダ語喋ってたらしいけど、英語も公用語だから、現地の人はみんなそっちもOKらしい。そういうの、なんつったっけ。三カ国語できる、ええっと」
「トライリンガル?」
「ああ、それそれ。直、渡来人ギャルなんだ。だからあいつも、関西弁じゃないんだよ」
「トライリンガル、ね」
わざとなのか素で間違えたのか読み取れない、相変わらずのとぼけ顔で、正はうんうんと頷いている。
それにしても、直が帰国子女というのは本当に知らなかった。だが、言われてみれば、とも思う。あの大人びた雰囲気や、こちらの目を見てストレートに接してくるコミュニケーションは、たしかに日本の女性っぽくない部分がある。
「明人」
「うん?」
正もまた、ストレートにこちらを見つめてきた。表情は変わっていないが、心なしか目の光が強まったように感じるのは、気のせいだろうか。
「直のこと好きなのか?」
質問もまた、ストレートだった。
「だ、だからそういうんじゃないって!」
「そっか。ならいいけど。いや、よくないか。う~ん、ま、いいや」
いいのか悪いのか、結局わからないリアクションでふたたび頷く兄を見ながら、明人はなんとも微妙な表情をするしかなかった。
ならいい、って……。
もう一度、直の顔が思い浮かぶ。さらりと揺れる黒髪と切れ長の目。いたずらっぽい微笑。
いつもながら彼女に関する質問をそれ以上することはできなかったが、少しだけ勇気を出した明人は、「ところでさ」と続けた。
「兄ちゃんは、直さんと一緒にキャンパス見学とか行かないの? 東京の大学とか」
「どうして?」
「いや、だって三年になるとみんないくでしょ」
「んー、俺はあんまし興味ないなあ。たしかにあっちの大学も受験するけど、行くだけでもめんどくさいし。それに新しくても古くても、それぞれよさはあるんじゃない? 直も前に、似たようなこと言ってた気がする」
「そっか。いや、もしよかったら一次試験が終わったあたりで一度、みんなで一緒に行ってみないかと思って。ちょっと早いけど、俺も桃香と行こうかなって考えてるから」
「おお!」
「え?」
「やるなあ、明人」
「は?」
さっき直の名前を出したとき以上に、正の目が丸くなっている。
「兄に向かってダブルデート、それも泊りがけのご提案とは!」
「いや、デートとかってわけじゃ――」
「そうだよな、元気で可愛い幼馴染みって定番だもんな」
「だから違うって」
「桃香ちゃん、可愛いもんなあ。三年の男にも人気あるぞ」
「え? そうなの?」
「ああ。剣道部の酒井とか、軟庭の森野とかが、サッカー部のマネージャーの子、可愛いよなって前も言ってた。ちなみに酒井は、おんなじ部の女子がいる場で口にしちゃったもんだから、直後の練習で袋叩きにされたらしいけど」
「なんでそんなに詳しいんだよ」
「そこはほれ、こう見えても新聞部だから」
新聞記者というよりゴシップ記者のようなことを言いながらも、「わかった」と正は笑顔で続けてくれた。
「旅行の件、考えとくよ。直にも伝えとく」
「ありがとう。あ、ついでって言ったらあれだけど、せっかく子どもがいなくなるんだし、父さんや母さんもそのタイミングで、のんびり旅行でもしてきたらいいんじゃないかって思ってるんだ」
「ああ、いいね」
「うん。どうせなら桃香や直さんのご両親も誘って、親同士も一緒にどこかへ出かけるとかさ。二人には俺たちが世話になってるわけだし、普段のご挨拶も兼ねて」
説明を聞いた正は、さらに面白そうな顔をした。
「ますますやりますなあ、明人君」
「何が?」
「ダブルデートどころか、家族ぐるみのつきあいまで深めようとするとは。わが弟は意外に強気というか、押しが強かったんですなあ。うんうん」
「だから、そういうんじゃないってば」
「はいはい。ま、少なくともうちの父さんと母さんには、そっちの話もしておくよ」
「うん、ありがとう!」
二度目の感謝は自分で思っていた以上に元気よく、そして素直に、明人の口から飛び出した。
「兄ちゃん」
「ん?」
その晩の近守家。
明人がノックしたドアからは、すぐに返事が返ってきた。続けて「開いてるから、いいよ」とも。
「お邪魔します」
「いらっしゃいませ」
おどけてこちらを振り向いた正の前には、参考書などではなく、何かのコピーや古いメモ用紙のようなものが大量に置いてあった。最近は市立図書館などにも足を運んで、受験勉強しているらしい。
「ごめん、勉強中に」
「いや、全然。休憩して赤本でもやろうかなって、ちょうど思ってたとこ。明人も来年、国公立受けるんだろ」
正が掲げて見せた「赤本」、すなわち大学受験過去問題集は、国公立大と一部の私立大学の一次試験用のものだ。
「浪人しなかったら、これもやるよ。ああ、でも最新版の方がいいか?」
「ううん、それでじゅうぶん。ありがとう。ちなみに今年の試験日って、何日だっけ?」
「一月の十四、十五だったかな。なんにせよ、第三土曜と日曜だよ」
「十四、十五か……」
「どうして? ひょっとして、サッカーの選手権とかぶらないか心配なのか?」
「まあ、そんなとこ。万が一、出られればだけど」
「でもあれって、正月じゃなかったっけ」
「うん。大会自体は一週間で終わるから、兄ちゃんの試験とはかぶらないね」
「そりゃそうだろ。日程かぶってたら、その選手権に出てるサッカー部員が受験できないじゃん」
「あ、そうか」
たしかに正の言う通りだ。実際「彼は今大会のすぐあと、大学入試も待っているそうです」とテレビ中継で紹介される、文武両道の選手も少なくない。進学校の場合は、宿泊先に参考書を持ち込む三年生も多いのだとか。
自分たちも、そうなれるだろうか。
「サッカー部の三年も国公立受けるやつ、沢山いるはずだぞ。みんな成績いいみたいだし」
他人事のように言っているが、正自身、英語以外の成績もかなりのものらしい。東大とまではいかなくとも地方の国立大学や関関同立、東京六大学といったところは、じゅうぶんに射程圏内だと母から聞いた覚えがある。徹夜で勉強している姿など見たことないので、もとの頭がいいのだろう。
なんだかんだ言っても、新聞部の名記者だもんな。
飄々としながらも、要領よく締めるところは締める。そういう兄のスマートさが明人は羨ましかったし、好きだった。
羨ましいと言えば、もう一つ。
おたがいの部屋を訪れたときの定位置、ベッド脇に座りながら、明人は精一杯のさりげなさを装って続けた。
「あの、さ」
「ん?」
「変なこと聞くけどさ」
「んん?」
「見先さんって」
「んんん!?」
正の濃い眉が片方だけあがった。滅多に見せない、大きく驚いた顔をしている。
「な、何?」
「いや、めずらしいなと思って。明人から女子のこと、それも直について訊かれるなんて」
「いや、別に変な意味じゃないから」
「そうなの? 変な意味でも、俺はいいと思うけど」
その「変な意味」が、具体的にどういう意味かはあえてつっこまずに明人は続けた。
「直さんって授業中とか、どんな人?」
本人の顔が頭に浮かび、条件反射のように名前で呼び直しつつ兄を見上げる。すると正は、いつものごとく変な詮索はしないままに答えてくれた。
「どうって、普通かなあ。成績もいいぞ。ああ見えて要領いいんだよな、あいつ。そんなに勉強してなさそうなのに」
あんたが言うか、と思わず微笑んでしまう。
「ん? なんかおかしなこと言った、俺?」
「いや、ごめん。そっか、頭いいんだ」
「ああ。英語はもとからできるし。帰国子女なんだよ、直」
「えっ!?」
明人は目を見開いた。
「アムステルダムに子どもの頃、住んでたんだと。普段はオランダ語喋ってたらしいけど、英語も公用語だから、現地の人はみんなそっちもOKらしい。そういうの、なんつったっけ。三カ国語できる、ええっと」
「トライリンガル?」
「ああ、それそれ。直、渡来人ギャルなんだ。だからあいつも、関西弁じゃないんだよ」
「トライリンガル、ね」
わざとなのか素で間違えたのか読み取れない、相変わらずのとぼけ顔で、正はうんうんと頷いている。
それにしても、直が帰国子女というのは本当に知らなかった。だが、言われてみれば、とも思う。あの大人びた雰囲気や、こちらの目を見てストレートに接してくるコミュニケーションは、たしかに日本の女性っぽくない部分がある。
「明人」
「うん?」
正もまた、ストレートにこちらを見つめてきた。表情は変わっていないが、心なしか目の光が強まったように感じるのは、気のせいだろうか。
「直のこと好きなのか?」
質問もまた、ストレートだった。
「だ、だからそういうんじゃないって!」
「そっか。ならいいけど。いや、よくないか。う~ん、ま、いいや」
いいのか悪いのか、結局わからないリアクションでふたたび頷く兄を見ながら、明人はなんとも微妙な表情をするしかなかった。
ならいい、って……。
もう一度、直の顔が思い浮かぶ。さらりと揺れる黒髪と切れ長の目。いたずらっぽい微笑。
いつもながら彼女に関する質問をそれ以上することはできなかったが、少しだけ勇気を出した明人は、「ところでさ」と続けた。
「兄ちゃんは、直さんと一緒にキャンパス見学とか行かないの? 東京の大学とか」
「どうして?」
「いや、だって三年になるとみんないくでしょ」
「んー、俺はあんまし興味ないなあ。たしかにあっちの大学も受験するけど、行くだけでもめんどくさいし。それに新しくても古くても、それぞれよさはあるんじゃない? 直も前に、似たようなこと言ってた気がする」
「そっか。いや、もしよかったら一次試験が終わったあたりで一度、みんなで一緒に行ってみないかと思って。ちょっと早いけど、俺も桃香と行こうかなって考えてるから」
「おお!」
「え?」
「やるなあ、明人」
「は?」
さっき直の名前を出したとき以上に、正の目が丸くなっている。
「兄に向かってダブルデート、それも泊りがけのご提案とは!」
「いや、デートとかってわけじゃ――」
「そうだよな、元気で可愛い幼馴染みって定番だもんな」
「だから違うって」
「桃香ちゃん、可愛いもんなあ。三年の男にも人気あるぞ」
「え? そうなの?」
「ああ。剣道部の酒井とか、軟庭の森野とかが、サッカー部のマネージャーの子、可愛いよなって前も言ってた。ちなみに酒井は、おんなじ部の女子がいる場で口にしちゃったもんだから、直後の練習で袋叩きにされたらしいけど」
「なんでそんなに詳しいんだよ」
「そこはほれ、こう見えても新聞部だから」
新聞記者というよりゴシップ記者のようなことを言いながらも、「わかった」と正は笑顔で続けてくれた。
「旅行の件、考えとくよ。直にも伝えとく」
「ありがとう。あ、ついでって言ったらあれだけど、せっかく子どもがいなくなるんだし、父さんや母さんもそのタイミングで、のんびり旅行でもしてきたらいいんじゃないかって思ってるんだ」
「ああ、いいね」
「うん。どうせなら桃香や直さんのご両親も誘って、親同士も一緒にどこかへ出かけるとかさ。二人には俺たちが世話になってるわけだし、普段のご挨拶も兼ねて」
説明を聞いた正は、さらに面白そうな顔をした。
「ますますやりますなあ、明人君」
「何が?」
「ダブルデートどころか、家族ぐるみのつきあいまで深めようとするとは。わが弟は意外に強気というか、押しが強かったんですなあ。うんうん」
「だから、そういうんじゃないってば」
「はいはい。ま、少なくともうちの父さんと母さんには、そっちの話もしておくよ」
「うん、ありがとう!」
二度目の感謝は自分で思っていた以上に元気よく、そして素直に、明人の口から飛び出した。