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 翌日の昼休み。
 グラウンド脇に立てられた、「トレ室」こと筋力トレーニング用のプレハブで、明人はスクワットをしていた。背中に担いだバーベルの両端には、二十キロと十五キロのプレートが一枚ずつと、プレートを抑えるためのカラーと呼ばれるストッパーがついている。
 バーベルシャフトは、それだけで二十キロあるので計九十キロ。自分の体重より二十キロも重い負荷をかけた状態だが、このきつさにもすっかり慣れてきた。むしろ目標としている体重の一・五倍、一〇五キロにまだまだ届かないのが悔しい。

「っ!!」

 声にならない気合とともに最後の五セット目をやり切り、目の前のラックへ慎重にバーベルを戻す。正直、かなり脚にきているが、安全のためにも最後まで気を抜くわけにはいかない。

「ふう……」

 ガチャン、という音とともにやっと高重量から解放された明人は、思わず近くのベンチに座り込んだ。
 ほぼ一日おきのペースで、昼休み開始と同時に急いで弁当を食べ、トレ室で筋トレするのが明人のルーティンだ。世の中には「筋肉がつくと背が伸びなくなる」などと言う人もいるが、それは単なる迷信に過ぎないことも知っている。桃香の影響もあって、トレーニングやコンディショニングに関しては彼女の次に詳しいくらいだし、テーピングを巻くのも上手なので、チームメイトから頼まれたりもするほどである。

「なんか、うちの仕事取られたみたいで悔しいわ。明人のくせに。むっつり侍のくせに」

 と桃香に不満そうな顔をされるときもあるが、ドリンクを作ったり相手チームとメンバー表を交換したりと、ただでさえ忙しいマネージャーの手を、さらにわずらわせるわけにもいかない。結果として、

「選手はセルフ・コンディショニングが基本だろ」

 と返しつつ、文字通り自分のことは自分でするくせがついているのだった。

 でもたしかに、トレーナー志望だもんな。

 桃香の夢を思い返した明人は、座ったまま頭に軽く手をやった。よく考えたらトレーナー志望者にとっては貴重な、実務研修の機会を奪ってしまっているかもしれない。本当に迷惑じゃないのであれば、逆にテーピングくらいはどんどんやってもらうよう、チームメイトにも伝えておこうか。
 悪いことしちゃってたかな、と考え直しつつ、バーベルを片づけようと立ち上がったとき。

「失礼します」

 開け放してあるドアを叩く音とともに、シトラスのような香りが漂ってきた。

「あ」
「こんにちは、明人君」

 直だった。

「お疲れ様です」
「なあに、それ? またサラリーマンみたいな挨拶?」

 肩まで揺らして、直は整った顔に苦笑を浮かべている。

「す、すいません」
「ごめんね。トレーニング中だった?」
「いえ、ちょうど今終わったところです」
「ほんと? 私に気ぃ遣ってない?」
「いえ、本当です。今日は最初から、スクワットだけのつもりでしたし」
「ならよかった」

 にっこりと返してくれた直の目が、バーベルに近寄った途端、大きく見開かれる。

「……って、これでスクワットしてたの!?」

 あ、この顔は高校生っぽい。睫毛、やっぱ長いんだな。描いてないみたいだけど、眉も綺麗だし――。
 明人はと言えば、そんな姿にぼけっと見とれてしまっていた。

「ちなみにこれ、何キロ?」
「あ、九十キロです」

 我に返って答えると、直はさらに驚いて、しかも訊いてもいない個人情報まで明かしてきた。

「九十!? もうちょっとで、私が二人ぶんじゃない!」
「え」

 もうちょっとで、ということは直の体重は五十キロ前後だろうか。身長は桃香と同じかちょっと高い程度だから、多分百六十ちょうどくらい。というかそれって、かなりスタイルがいいのでは。
 ふたたび心ここにあらずの状態になってしまった明人だったが、直も直で、意識をどこかに飛ばして、ぶつぶつとひとりごとをつぶやいている。

「やばい。マジで二人ぶんにならないようにしないと。あれ? でもなった方がいいのか。そうすると四十五? いや、それはちょっと痩せすぎかな。美容体重がたしか、BMI十八・五から二十の間だから――」
「あの、見先さん?」

 なんとか落ち着き取り戻した明人は、バーベルを片づけるために声をかけた。思わず頬が緩んだのは、眉間にしわを寄せて「む~」などと唸る表情が、妙に可愛らしかったからでもある。

「あ! ごめんね!」と直もようやく察してくれたが、重ねて別のことにも気づいた様子だった。
「あっ! 明人君、ひょっとして私の体重、わかっちゃった?」
「い、いえ、正確には」

 思わず正直に答えてしまった。けれどもそれがおかしかったようで、ぱっと表情を緩めた直は、「あはは」と声も出して笑ってくれている。

「二倍しても、まだぎりぎり三桁にはならないからね。そこんとこ、忘れないで」
「はあ……」

 そうじゃなくても忘れませんけど、とはさすがに言えない。
 直の方はすっかりペースを取り戻したらしく、芝居がかった仕草で「あと」と、人差し指を立ててきた。

「また今、見先さん、て呼んだでしょ。名前でいいって言ってるのに」

 今度は明人が、「あ!」と気づかされる番だった。

「すいません、つい」
「一学年しか違わないんだから、そんなの誤差みたいなもんだってば」

 どうでもいいことだが、学年の違いを「誤差」などという人は、あまりいないのではないだろうか。

「ちなみに明人君の誕生日って、いつ?」
「ええっと、七月三十一日です」
「夏なんだ? へえ、なんだか明人君っぽいね」
「ど、どうも」

 よくわからないが、勢いに押されてしまっている明人としては、とりあえず曖昧に答えるしかない。というか、直の方はいつが誕生日だろう。勝手な印象だが、なんだか冬っぽい感じがする。
 と思ったら、見事に正解だったらしい。

「私は一月だよ。一月十八日。覚えておいてね」
「はい!」

 反射的に声が大きくなった。理由はわからないものの、直もまた嬉しそうに目を輝かせてくれている。

「だからほら、ますます名前で呼んでもオッケーでしょ」

 どうやら、これが言いたかったようだ。

「あと四ヶ月ぐらいは私たち、同い年なんだし」

「ね?」とばかりに、小さな顔が傾けられる。なんというか、この人は確信犯でこういう仕草をしているようにも明人には思える。ただでさえ美人なのに、自分がより魅力的に見える仕草や表情が、わかっているような。

 敵わないなあ。

 これで同い年って言われても……などと考えていると「あ、そっか、バーベル片づけるんだよね。ごめんね」と、直は途中になっていた話を思い出してくれた。

「いえ、大丈夫です」
「邪魔しちゃったし、私も手伝うね」
「いいですよ! それに、重いから危ないです」

 明人は慌てて首を振ってみせた。
「そう?」と一瞬不思議そうにした直も、ベーベルを見直して、すぐに納得してくれたようだ。

「うわ! 十五とか二十って書いてある! たしかに重そうだ。これ、キロだよね」
「はい」

 そりゃあグラムのわけないでしょう、と明人はまた笑いそうになってしまった。基本的に大人びている人だが、意外と天然ぽい部分もあるのかもしれない。

「じゃあ他に、なんか手伝えることない?」
「ええっと……」

 問われた明人は、「じゃあ」と直にも頼めそうな作業を提案してみた。

「僕がプレートを外すんで、シャフトの反対側を、下から支えてもらってていいですか。一応、左右交互には外していきますけど」
「反対側? ああ、なるほど。バランス崩れちゃうもんね。うん、わかった!」
「すいません、お願いします」

 意外に知られていないが、バーベルからプレートを外すとき、必ず留意すべき要素の一つがこれである。明人のようにトレーニング慣れしている人間は、カラーも含めて左右交互に、さらにはシャフト全体も軽くなる側へずらしながプレートを外していくので、バランスを崩したバーベルが落下してしまうようなことはない。けれども、きちんと筋トレを教わっていない人が下手に高重量を扱おうとすると、得てしてそういう事故が起きるのだ。

「うん。こんなのが傾いて落っこちたら、大惨事だよね」

 錆びついたバーベルシャフトにためらいなく触れてくれながら、直は感心した態で頷いている。

「凄いなあ。九十キロか」

 つぶやいた彼女は、「じゃあさ」と、なんでもない話のように続けた。

「私のこと、お姫様抱っこもできちゃうんじゃない?」

 明人の手から、外したばかりのカラーが落ちそうになる。

「はい!?」
「されてみたいんだ、お姫様抱っこ。いいよね、あれ」

 誰に、とか、どこが、とかいろいろとつっこみどころはあるはずだが、何も言えなくなった明人は、熱を感じる顔を隠すようにして作業を続けるしかなかった。



「ありがとうございました」

 とりあえず無事にすべてのプレートを外し、シャフトも一段低いラックに降ろしたところで、明人はきちんと頭を下げて礼を述べた。反対側を支えてくれただけとはいえ、より安全な環境を作ってくれたのは、お世辞抜きに助かった。幸い(?)顔の熱さも引いている。

「ううん、こちらこそ。ごめんね、急にお邪魔しちゃって」
「いえ。で、何かご用だったんですか?」

 兄ちゃんに言ってくれればこっちから出向いたのに、と思いつつたしかめてみる。本人は「誤差」呼ばわりしているが先輩、それも学内ではちょっとした有名人の「ジャンヌ・ダルク」を、わざわざトレ室にまで来させたなどと知れたら、周囲からの大ブーイングは必至だろう。
 だが直本人は、それが当然のようにさらりと告げてきた。

「明人君に会いたかったの」
「え」
「体育祭が終わってから、すっかり顔合わせなくなっちゃったでしょう。さすがに用もないのに、君たちの家にお邪魔するわけにもいかないし」
「はあ」

 間抜けなリアクションになってしまったが、それ以外に出てこない。

「だから、どうしてるかなーって思って。正君に聞いても、普通だよ、とか、元気にしてるよ、とかしか返ってこないんだもの。まるで暖簾に腕押し。歩く暖簾よね、あの人」

 独特の、だが的を射た表現に、戸惑っていた明人もつい笑ってしまった。とぼけた口調で答える兄の姿が目に浮かぶ。

「でも、ほんとに元気ですから。お陰様で」

 笑えたことで、今度は自然な返答ができた。直もまた、くすりと笑ってくれる。

「お陰様でって、またサラリーマンみたい」
「あ、すいません」
「でも明人君らしいね。よかった。たしかに普通だ」
「はい。特に体調も崩してないですから」

 体調という言葉で、直はまた何かを思い出したようだ。

「そうだ、選手権予選もうすぐだよね。頑張ってね」
「ありがとうございます」

 最近はいろいろな人からかけられる台詞だが、この人に言ってもらえるのは、やはり嬉しい。

「三年の間でも、よく聞くよ。サッカー部は近守の弟次第だなって」
「そんなことないです」
「あはは、マジでいつも通りだ。相変わらず謙虚だね」

 朗らかな笑みがまぶしくて、明人はつい視線を外してしまう。

「いえ、本当のことです。サッカーはチームスポーツですから。ピッチの十一人だけじゃなくて、ベンチもサポートメンバーもみんなで戦わないと」
「凄いなあ。なんか、プロ選手のインタビューみたい。それも模範解答の優等生。マスコミ慣れしてるって感じ」
「からかわないでください」

 なんとか明人は苦笑してみせた。あなたこそ、なんでそんなに男子と会話するのに慣れてるんですか、と言ってやりたいところである。これで本当に一歳違いどころか、今現在にいたっては同い年というのが、なかば本気で信じられない。

「でも、ほんとだよ」

 少しだけ直の口調があらたまった。

「え?」
「さっきも言ったけど、本気で久しぶりに会いたかったの。だって、明人君とこうして話してると落ち着くもの」
「ど、どうも」

 ストレートに言われてしまい、またしても明人の顔が熱くなる。しかも今度は、耳やうなじのあたりにまで熱が広がっていく気がする。

「ねえ――」
「は、はい!?」

 急にシトラスの香りが強くなった。と思ったら、いつの間にか直が一歩近づいていた。切れ長の目が、じっと自分を見つめている。茶色がかった瞳に自分が映っているのも、はっきりとわかる。
 どうしていいかわからず、明人が固まった瞬間。

「あ、おった!」

 場違いなほどに元気なもう一つの声が、救いの神よろしく飛び込んできた。

「やっぱ、ここやったんや。いっつも筋トレして、よく飽きたりせえへんね」
「桃香!」

 いいタイミングで入ってきてくれた幼馴染みに、だが明人は、お礼よりも先に別のことを口走ってしまっていた。

「飽きた、とか言うなって」
「あ、そやった。ごめんね」

 素直に謝ってくれるのは、いかにも桃香らしい。軽く頭まで下げるので、ポニーテールが文字通り、尻尾のように揺れている。

「いや、こっちこそごめん」

 はっとした明人も、すぐさま謝った。本人は気づいていないかもしれないが、微妙な空気のところを助けてもらったのだ。むしろ先に感謝すべきくらいなのに。
 じつは「飽きた」という言葉が、明人は好きではない。部活でも勉強でもそうだが、みずから課したこと、選んだこと、極端に言えば人生における選択みたいなものに関して、どんな形にせよ最後までやり切る、というのをささやかなモットーにしているからだ。
 部活中も「この練習、ちょっと飽きてきたなあ」などと後輩がぼやくのを耳にした際に、「そういうこと言っちゃダメだ。自分で選んだ部活だろう」と、めずらしく強い口調でたしなめたことがある。ふだんは寡黙な明人がぴしりと伝えたので、以来一年生は誰も似た台詞を吐かなくなった。

「明人はほんと、侍みたいな奴だな。でもまあ、その通りだ」

 沖田先生も笑いながらではあるが、こうした部分は大いに認めてくれている。
 ともあれ、今の場面は桃香のお陰で本当に助かったのだ。もう一度、明人は心を込めて繰り返した。

「ごめんな」

「ううん。うちこそ、ほんまごめん。明人の好き嫌い、わかっとるのにね」

 すると、羨ましそうな声が割って入った。

「いいなあ、幼馴染み。なんか夫婦みたいだね」
「いやあ、そんなそんな。アホな旦那を操縦するのは嫁として大変で……って、誰が夫婦やねん!」

 関西女子だからか、反射的とも言える素早さでボケてみせる桃香だが、声の主が誰だか遅れて気づいたらしい。

「ああっ! 直先輩や!」

 体育祭で一躍有名になった彼女のことは、当然ながら桃香も知っている。

「うわあ、顔ちっさ! めっちゃかわいい!」
「ふふ、どうもありがとう」
「や~ん、声まで綺麗!」
「褒めすぎだってば」

 照れる本人に構わず、桃香は憧れの芸能人に会えたかのように、早口でまくし立て始めた。

「あの、私サッカー部マネージャーの――」
「所桃香ちゃんだよね」
「は、はい!」
「正君からも聞いたことあるよ。二人と幼馴染みの可愛い子で、小学生の頃は明人君よりサッカー上手だったって」
「とんでもないです! ちょっと大会の優秀選手とかに選ばれただけで、それも子どもの頃やし」

 頬まで染めて手を振りつつも、桃香はやたらと嬉しそうだ。というか、

 ……可愛い、の評価をまず先に謙遜しないのか。

 苦笑した明人が何か言ってやろうとすると、先手を取って鋭い視線を向けられた。

「明人」
「な、なんだよ」
「直先輩――あ、すいません、勝手に名前で呼んじゃって」
「ううん、全然。むしろ嬉しいよ。ありがとう」

 大人びた笑顔と二度目の「ありがとう」で、ますます桃香は調子づいてしまったようである。

「あんた、直先輩に何してたん? まさか、むっつり侍だからってトレ室に連れ込んで、あんなことやこんなことを無理矢理――」
「違うっつーの。久しぶりに会ったから挨拶してただけだ。ていうか、その変な呼び方はやめろ」

 特に直の前では。

「残念ながら、ほんとに挨拶だけなの。明人君、なんにもしてくれないんだもん」
「直さん!?」

 あなたまで何を言い出すんですか、とあたふたと目を向けると、わざとらしく舌を出されてしまった。ますます敵わない。

「でも桃香ちゃんて、面白いね。元気があってすごく可愛いし」

 言われた桃香は、もはや尻尾を振らんばかりの表情になっている。

「ありがとうございます! でも直先輩こそ、近くで見るとますます綺麗です! 新聞部のカメラマンさんやってはるんですよね? うちら後輩、美人なのになんで自分が撮られる側じゃないんやろって、みんな言ってます!」
「あはは、ありがとう。じゃ、たまには自撮りしてみよっかな」

 そういって、直はきょとんとしている桃香にもう一度笑いかけた。

「じゃあ私、もう行くね。ごめんね桃香ちゃん、お邪魔しちゃって」
「いえいえ、全然です!」
「またゆっくりお話しようね」
「はい!」

 大きな瞳を輝かせ続ける桃香に手を振ると、直は軽く一礼してトレ室を出ていきかけた。 が、ふと思い出したように振り返る。

「そうだ。選手権予選、取材も兼ねてだけど私も応援に行かせてね。頑張って」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」

 そうして彼女は、ささやかなシトラスの香りだけを残してトレ室から去っていった。



「エロ侍」

 直の姿が見えなくなると、半眼になった桃香が視線だけをこちらに寄越してきた。

「むっつり傘張り浪人」
「……あのな」

 直に関してだというのは、さすがに明人でも理解できる。

「見先さん、じゃなかった、直さんも言ってたろ。久しぶりに会ったから、ちょっと話してただけだって」
「やっぱり明人も面食いなんや」

 人の話をまったく聞いていない。というか、

「なんだよ、そのやっぱりって」

 だが桃香は、頬までふくらませている。

「そりゃ、うちはあんなふうに髪さらさらじゃないし、スタイルよくないし、おっぱいないし、お尻でかいし、汗と埃にまみれた男くさーいなかで、きったないボトル並べたりゼッケン洗ったりしとるけどさ」
「なんか、どさくさに紛れて俺たちが責められてないか」
「でもええねん。うちはしがない日陰の女。健気に尽くす大和撫子」
「自分で言うか」
「内助の功! 華岡清洲の妻! 亭主元気で留守がいい!」
「おまえ、意味わかってないだろ」

 今度は明人の方が半眼になってしまったが、同時に少しだけほっとしてもいた。どうやら、本気で怒っているわけではないようだ。
 くるりと身体ごと振り返った桃香の顔に、今度はにやりとした笑みが浮かんでいる。

「ええのんよ、明人? オハ高のゴールさえ、しっかり守ってくれれば。そのかわり試合中、直先輩の方見てて点決められたりした日には、あんたのキーパーグローブに消炎クリーム塗りつけとくから」
「おいおい」
「おほほほ。楽しみざますわ」

 一体なんのキャラクターだとつっこむ気も失せて、明人はため息を吐くだけにしておいた。というか、桃香も何か用事があってここへ来たのだろうか。
 今さらになって思い至ったところで、意志が伝わったかのようにふたたび目が合う。

「ねえ、明人」

 あらためて呼びかけてきた桃香は、どこか緊張した口調で続けた。

「今日も送ってってくれる?」

 どうやら、これが用件だったらしい。

「全然いいけど。あれ? でも今日、水曜じゃないぞ。女バスは?」
「ええっと、なんか大会前だし練習遅くなるんやって。ユッコが言ってた」
「ふーん。そういえば秋季リーグとかあるんだっけ。大変だな、バスケ部も」
「そうそう! 大変なんよ!」

 なんだか取ってつけたようなリアクションだが、いずれにせよ明人の方はなんの問題もない。それに最近は日も短くなっているので、仮に桃香が言い出さなくても、事情を知ったら同じ行動を取っていただろう。

「いや、別に桃香が大変なわけじゃないだろ」
「う、うっさいわ! とにかく今日も頼むで! 傘張り浪人らしく、変態が出たらしっかり切り捨ててや!」

 なぜか慌てたように言い残した桃香は、「ほな、またね!」と駆け足でトレ室を出ていってしまった。ちなみに「またね」などと言っているが、彼女とはクラスも同じなので、十五分後にはすぐ顔を合わせることになる。
 なんだかなあと苦笑しつつ、使っていた以外のダンベルやプレートもしっかりと整頓してから、明人もトレ室をあとにした。