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無事に桃香を送り、明人も我が家の近くまで来た時点で、いい匂いが漂ってきた。自分の好物の一つ、豚汁だろう。
期待とともに門扉を開けると、中型の雑種犬が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ただいま、リンタロウ」
近守家の飼い犬、リンタロウが庭の片隅に繋がれた紐を一杯に伸ばして、尻尾を振ってくれている。明人が小学五年の頃にもらわれてきたから、数えでもう七歳、人間で言えばおそらく中年にはなっているはずだ。
「じつはおっさんだもんなあ、おまえ」
とはいえまだまだ元気なリンタロウは、「なんのこと?」とでも言いたげに軽く首を傾けると、うしろ脚で立ちあがってさらに顔を近づけてくる。
「晩ご飯もらった? 兄ちゃん、帰ってるよね?」
耳の後ろを撫でてやりながら、犬小屋の方に目をやる。リンタロウは無事夕食を食べ終えたようで、そこには縁まできれいに舐められた専用のペット皿が置いてあった。帰宅時間のタイミングもあり、いつの頃からかリンタロウの散歩は母、食事を出したり下げたりするのは正と明人がそれぞれ帰ってきた順に、という家族間の平日ルーティーンができあがっている。
「皿、持っていくね」
ペット皿を手に取ると、リンタロウは名残惜しそうに、もう一度鼻先を膝に近づけてきた。そうすると明人が家に入ってしまうというのを、理解しているのだ。
「またあとで。なんかおやつあったら、持ってきてあげるよ」
「おやつ」という単語に尻尾を振り回すリンタロウへ手を振り、明人は「ただいまー」と家のドアを開けた。
ダイニングに顔を出すと案の定、母が豚汁の鍋を温め直してくれているところだった。
「ただいま」
「お帰り。あ、リンちゃんのね。ありがとう。流しに置いといて」
「わかった」
「今日、桃香ちゃんと一緒の日やったっけ? ちゃんと送ってきた?」
今ではすっかり、母も明人たちのスケジュールを把握している。
「うん。家まで送ってきたよ」
「そう。で?」
「え?」
何が「で?」なのかわからず訊き返すと、どこか呆れたような顔で言われてしまった。
「送ってっただけ? まだ手も繋いどらんの? あ、ちなみにキスまではええけど、そこから先は駄目やからね。我慢しいや」
「…………」
父や兄も似たところを持っているが、近守家の母はそれに輪をかけてとぼけた人なのだった。この家でもっとも真面目なのは客観的に見ても自分、もしくはリンタロウなのではないかと、明人はたまに本気で思ってしまう。
「いつも言ってるけど、別にそういう関係じゃないから」
「だらしないなあ、もう。桃香ちゃんなら、私がお嫁さんにしたいぐらいやのに」
いや、同性婚はまだ認められてないでしょうが、とすかさずつっこみたくなったが、なんとか踏みとどまった。やはり関西で暮らしていると、こうなってしまうのだろうか。
近守家が関東からこちらに引っ越してきたのは、明人が小学四年生のときだった。
サラリーマンである父の転勤で、というよくある話だが、母の実家が近いことも両親にとっては大きかったらしい。病気を患った母方の祖父の身体が、かなり弱ってきていたのである。家族が近くに来るのを待っていたかのように、祖父はその一年ほど後に亡くなった。
残された彼の妻、つまり明人と正の祖母は変わらず一人暮らしを続けているが、こちらは七十を超えた今でも心身ともに元気で、家族が顔を見せると、とても嬉しそうにしてくれる。また両親とも義理の実家との仲は悪くなく、むしろ本当の親子のように、気兼ねなく話せる関係を築けている様子だ。
「母ちゃんと結婚させてくれって、こっちの家に挨拶にきたんだよ。そしたら祖母さんがいきなり、〝全然いいけど、あとから返さんといてな〟だぞ? で、次の台詞が〝むしろ引き取り料かかるから、気いつけてや〟だもんなあ。一番いい背広着て緊張しまくってたのが、なんだかアホらしくなったよ」
何度か父に聞かされたことのあるエピソードからも、その微笑ましい関係性が見て取れる。しかも祖母はついでのように、
「あ、できれば名字だけ変えてくれへん? 『近守』って、なんか格好ええやろ? うち、婿殿、とかっていっぺん言ってみたかったんよ」
などと頼んできたらしい。朴訥な祖父も、そんな様子をにこにこと笑いながら見ているだけだったとか。とはいえ父の実家でも特に拒む理由はなく、少なくとも表向きは「なんか格好ええやろ」という冗談のような理由で、父が婿養子に入る形で二人は結婚したのだそうだ。
たしかに母方の祖母は、娘に似てすっとぼけた人というのが、話していると明人にもよくわかる。今年の誕生日など、
「明人。あんたに彼女ができて、いざ勝負! ってときになったら開けるんやで」
などと意味深な台詞とともに、これまた意味深なお守りをプレゼントされてしまった。
ちなみに彼女は若い頃「医者にも患者にも大人気の、ナイスバデエの看護婦」だったらしい。「ナイスバデエ」云々はともかく、たしかにあの性格なら病棟が明るくなったのは間違いないだろう。
いずれにせよ、こうした家族に囲まれて明人と正は関東と関西、両方を経験して育ってきた。なぜか関西弁だけは身に着かなかったが、まわりからそれで何か言われることもない。
「兄ちゃんは?」
気を取り直した明人が聞くと、母は二階を指差した。
「部屋にいるんちゃう? あの子も今日は、見先さんを送ってきたみたいよ」
「あ、そう」
努めて冷静に頷きながら「風呂、入るね」と、明人はダイニングをあとにした。
いつものように泥だらけのソックスや短パンを風呂場で洗っていると、うっすらと母の声が聞こえてくる。
「でも二年生になってから、明人、すごくしっかりするようになったと思わへん?」
「ん? まあ、そうだね」
「あんたも、もうちょっと大人になんなさい。そんなんじゃ見先さんに振られちゃうで」
「いや、別にそういう関係じゃないから」
自分と同じ口調で、同じリアクションを取る兄の声もする。二階からダイニングに下りてきたのだろう。その場にいないのをいいことに、明人が話の肴というかダシにされているようだ。
「なんも言わんうちに、ソックスとかも一度洗ってから洗濯カゴに入れてくれるようになったし、こないだなんて、ちょっと気になるから言うて、自分以外の玄関の靴も揃えてくれてたんよ。やっぱり運動部は、そういうところも厳しくされるんやねえ」
「悪かったね、厳しくない新聞部で」
機嫌を損ねるでもなく、飄々と兄は答えている。
本人が語る通り、兄の正はオハ高新聞部に所属している。新聞部というと地味なイメージを抱かれがちだが、オハ高では決してそんなことはない。文化部の実情はよくわからないし、明人は校内新聞もあまり読まないが、なんでも我が高の新聞部は全国コンクール(というのが高校新聞部にもあるそうだ)入賞の常連で、三年生も受験の直前まで活動するのだとか。
なかでも正の書く記事はプロ顔負けのレベルだそうで、いつだったか現代文の先生に、「近守家は文武両道だな。おまえのサッカーが凄いのは聞いてるけど、兄さんの文章もかなりのもんだぞ」と、褒められたことがあった。もっとも本人にそれを伝えると、「ああ、古矢先生? そりゃどうも」と、さらっと流されてしまったけれど。
「とかなんとか言っとるけど、あんたもちゃんと見先さんの荷物、持ってあげたりしとるんやろ。こないだ保護者会で向こうのお母さんに、めっちゃ丁寧にお礼言われたで」
「俺以外だってそうしてるよ。カメラマン――じゃなくてカメラウーマンか、は大荷物だし」
「お母さんも綺麗な人やねえ。あんた、ちゃんとご挨拶したことあんの? 月とスッポンポンなのに、あんな美人さんがなんで仲良くしてくれるんやろ。ただでさえ釣り合ってないんやから、アホみたいに大事にしいや」
「いろいろと、日本語がおかしいんですけど」
いつもながらまるで噛み合っていない会話に、明人は湯船のなかで笑ってしまった。同時に、正の同級生で新聞部のカメラウーマン、見先直の顔が頭に浮かぶ。
――明人君ね? 正君からいつも聞いてます。初めまして。
艶やかなボブカットを揺らして初対面の挨拶をされたのは、オハ高に入学してすぐの頃だったろうか。
母が言う通り、十人中八人は振り返るんじゃないかと思えるくらい綺麗な先輩だった。よく考えたら自分と一歳しか違わないのでまだ十八、いや、誕生日が来ていなければ、今は同じ十七歳だろうか。にもかかわらず、可愛いというよりも美人と呼ぶのが相応しい、古風な言い方をすれば「学園のマドンナ」的な雰囲気のある人だった。
「大人になりなさい、か」
母の台詞を繰り返しながら、まさにそれを体現しているような直の姿を、明人はしばらく思い浮かべ続けていた。
風呂から上がると、ちょうど父も帰ってきたところだった。
いつもはもう少し遅い時間の帰宅だが、今日は早めに仕事が終わったらしい。お陰で近守家は久しぶりに、四人全員で夕食のテーブルを囲むことができた。
「明人、『新三郎』はどこまで読んだ?」
ともに好物である豚汁をすすりながら、父が訊いてきた。同じものが入ったお椀を手にしたまま、明人もすぐに答える。
「今、五巻まで読み終わったとこ」
「五巻っていうと、居酒屋の亭主の話か」
「うん。あれも凄くよかった。いかにも新三郎っぽくて」
「だろ?」と父の顔がさらにほころんでいく。共通の趣味である時代小説の話をするとき、彼は本当に楽しそうにしてくれる。
「前も言ったけど新三郎って、俺たちの世代は特にファンが多いんだよ。社長さんとか経営者さんにも、愛読者がかなりいるらしいぞ」
「ああ、部下を大事にするところとか、格好いいもんね」
「そうそう。で、部下も部下で優秀な侍ばっかりだし。いいよなあ。俺にも三島左近みたいな右腕がいればなあ」
「でも会社の人たちだって、自分にも長縄新三郎みたいな上司がいれば、って逆に思ってるかもよ」
「ちげえねえ。は、は、は」
ドラマ化もされた人気時代小説『火盗改め新三郎』の主人公を真似ながら、父はますますご機嫌の様子である。
「……完全に、おっさん同士の会話やね」
「明人も明人だよね。高二で愛読書が『新三郎』だし」
母の言葉通り、知らない人が聞けばおじさん同士のようにすら聞こえる二人のやり取りに、残る二人はなかば呆れ顔をしている。
「たしか亡くなったこっちの祖父ちゃんも、『新三郎』が好きだったんだっけ」
ささみカツを箸に挟んだまま、正が思い出したように続けた。
「そうやで。お父さんが好きなんも、もともとはお祖父ちゃんに薦められたのがきっかけやし。お祖母ちゃんとこ行けば、今でも全巻揃っとるはずよ」
「じゃあ明人は、由緒正しいおっさんの道を歩んでるってわけか」
リンタロウじゃあるまいし、おっさんとは失敬なと明人は思ったが、少しだけくすぐったいような気もしていた。そんな父から紹介されたことがきっかけで、自分も時代小説にはまったからだ。
祖父から父へ。そして父から自分へ。ささやかな趣味に過ぎないとはいえ、受け継いでいるのがなんだか嬉しい。
由緒正しき三代目の時代小説好き、か。桃香に変なあだ名で呼ばれちゃうのも、無理ないかもな。
箸を片手につい苦笑してしまうと、その道に引き込んだ当人が、さらに調子に乗った口調で尋ねてきた。
「む、明人。思い出し笑いかえ?」
「は……いかさま」
思わず乗せられて、自分も合わせた口調で返してしまう。
ふたたび顔を見合わせる母と兄から、見事に重なった声で「おっさん」とつっこみが入った。
食後、明人が部屋で机に向かっていると、ドアがノックされた。
「俺だけど、ちょっといい?」
「開いてるよ。どうぞ」
慣れた雰囲気で正が入ってくる。階段を歩く音がしなかったし、彼も隣にある自分の部屋にいたようだ。
「あ、勉強してた? 悪い」
「ううん、大丈夫」
首を振ってみせると、正は机の上の参考書に視線を向け、さらに訊いてきた。
「また英語?」
「うん」
「ほんと、好きだなあ」
「兄ちゃんだって、人のこと言えないだろ」
「おまえほどじゃないよ」
笑って謙遜しているものの、正もまた英語の成績は常に上位だと、明人は聞いた覚えがあった。自分たちが幼い頃、父が奮発してアメリカ旅行に連れていってくれたことがあるのだが、以来語学の重要性と楽しさを理解した二人は、他のどんな科目よりも英語を熱心に勉強するくせがついている。
「父さんぐらい喋れれば、授業も楽なんだろうなあ」
羨ましそうにつぶやいた正が、ベッドを背もたれにして床のクッションに座り込む。たがいの部屋にお邪魔するときの、それぞれの定位置だ。
「でもあの人、大人になってから勉強し直して、喋れるようになったんだよね」
「うん。会社で毎週有料の英会話教室を開いてくれてたから、熱心に通ったって言ってたよな」
「友だちいないし、お酒も飲めないからって照れてたけど」
「そうそう」
いつの間にか明人も椅子を回し、兄と向かい合う形で笑っていた。年子というのもあるかもしれないが、兄弟仲はまったく悪くなく、ただ単に学年が違うだけの友人といった感覚で話ができる。顔もあまり似ていないので、知らない人が見たら本当にそう見えるかもしれない。
正はどちらかというと父親似で、目鼻立ちのくっきりした顔立ちをしている。反対に明人の、母から受け継いだ細い顎の線や優しげな目は、むしろこちらが文化部と言っても通用しそうなくらいだ。いつだったか桃香には、
「明人、PKのときだけでも正さんと顔、変えてもらいや」
などと、無茶な要求をされたほどである。もっとも直後には「まあ、顔にまで出とる人の好さが、あんたのええとこなんやけど」と、ぶっきら棒にフォローしてくれたが。
「明人も今日、桃香ちゃんを送ってったの?」
「え? ああ、うん。水曜だし」
「そっか」
確認してきた正は、なんでもないことのように頷いている。この兄は絶対に「で、実際のところ、桃香ちゃんとつきあってんの?」みたいな馬鹿な質問はしてこない。というか、いかにも高校生っぽいその手の話題には、まったく興味がないように見える。
「正さんって顔はアスリートみたいやけど、子どものときから、なんちゅうか仙人みたいな人やもんねえ」
とは、これまた桃香の評である。しかも面と向かって言われたにもかかわらず、本人も、
「お、いいねえ、仙人。これからはそういう路線でいこう。サンキュー、桃香ちゃん」
などと逆に喜んでいるのだから、明人からすれば意味がわからない。なんにせよ、この飄々としたキャラクターは、まぎれもなく祖母や両親の遺伝子だろう。
「俺も今日、直を送ってったんだけどさ」
やはりなんでもないことのように、かたわらに置いてあったサッカー雑誌をぱらぱらとめくりながら、正は話し始めた。
「ああ、うん」
ほんの少しだけ、明人は心拍数が上がるのを自覚した。
風呂で思い浮かべた、大人びた微笑がまた甦る。同時に、彼女から漂うさわやかな香りも。ほんのりとだけ漂う柑橘系のあれは、香水か何かだろうか。同級生の女子たちにも制汗スプレーの匂いをさせている子は多いが、直のそれは、明らかに違う類のもののはずだ。
兄ちゃん、いつもあの香りのそばにいるんだよな。
ぼーっとそんなことを考えていたからか、正の声が聞こえなかったらしい。
「――ってさ。おい明人、聞いてる?」
「え? あ、ごめん! 何?」
「大丈夫か? 俺、日本語で喋ってたよな?」
「うん。多分」
「おいおい、大丈夫か? 今日も練習、きつかったの?」
「いや、それはいつものことだし。で、見先さんが何?」
その名前に食いついているように聞こえないだろうか、と若干気にしながらも、明人はやはり訊き直さずにはいられなかった。
けれども答えより先に、笑ってつっこまれてしまった。
「そうやって呼ぶと、また嫌がられるぞ」
「あ、ごめん。ええっと……直さんが、なんだって?」
遠慮がちに下の名前で呼び直す。直とは何度も会っているし、新聞部の打ち合わせで正が家に呼んだこともあるほどだが、大人びたキャラクターもあって、明人の方はついつい名字で呼んでしまう。するとすぐさま本人に、
「明人君も名前でいいって言ってるでしょ。会社員じゃないんだから」
と、頬をふくらまされてしまうのだ。
その直も最寄り駅が同じなので、明人と桃香の組み合わせ同様に、遅くなると必ず正が送っている。特に三年生は、受験に向けて放課後の補習授業を受けたり、空き教室や図書室勉強したりと、部活以外でも下校時刻ぎりぎりまで学校にいることが多い。新聞部の同僚ということもあってか、直に関しては正がボディーガード役を務めるよう、先生たちからも当然のように言われているそうだ。
……などと思い出してもいると、訊き直した問いを、正はどこか面白そうに繰り返してくれた。
「直が、最近明人君に会ってないから寂しい、ってさ」
「え!?」
「私のこと避けてるわけじゃないよね? とも言ってたぞ。もちろん笑いながらだけど」
「ご、ごめん」
「はは、俺にじゃなくて、本人に言ってやれって」
「ああ、うん。ごめん」
ひたすら恐縮する弟を見て、正はおかしそうに笑っている。
兄ちゃんは見先さん……直さんとつきあってないの? 好きじゃないの?
思わずそんな台詞が喉元にせり上がってきたが、慌てて飲み込んだ。自分たちにとって定番の、「別にそういう関係じゃないから」という答えが返ってくるだけだろう。
「でもたしかに、行事がないと二年と三年じゃ、会うことないもんな」
「そうだね。体育祭も終わっちゃったし」
オハ高は進学校であると同時に、文化祭や体育祭が大いに盛り上がることでも知られている。特に体育祭は、一年生から三年生までの各学年十クラスが二クラスずつの縦割り、計五ブロックに分かれて競い合う対抗戦で、近くの陸上競技場を借りて毎年盛大に開催される一大イベントだ。応援合戦などの演出も大々的で、父兄はもちろんOBや、オハ高受験を考えている中学生らも沢山観にきてくれる。
「一週間前までは明人と三人で、ほぼ毎日顔を合わせてたもんな」
応援合戦でのダンスパフォーマンスに加え、ブロック対抗でのリレーやむかで競争といった種目まであるので、各学年のリーダー役や種目ごとの出場メンバーは約半月の間、準備や練習で多くの時間をともにすることとなる。
兄弟だから、というよくわからない理由で一組、二組からなる赤組ブロック、通称「赤ブロ」でそれぞれの学年リーダーにされてしまった近守兄弟を、三年のサブリーダーとして大いに助けてくれたのが、他ならぬ直だった。
「忙しかったけど、楽しかったよね」
「ああ」
「優勝できたのは、見先さん――じゃなかった、直さんのお陰だけど」
「だよな。お世辞抜きに、俺もそう思う」
正と明人が各学年への連絡や、種目ごとの練習を仕切るのに奔走するなか、直は応援合戦での振り付けをイラストつきでわかりやすく紙にしてくれたり、ユニフォームとなるTシャツのデザインや発注を担当してくれたりと、実務面でまさに大車輪の活躍だった。そのうち誰が言い出したのか、「赤ブロのジャンヌ・ダルク」などと呼ばれるようになり、本番では放送部まで、
《さあ、続いては女子四百メートルリレー、赤ブロ最終走者には話題のジャンヌ・ダルクこと、三年二組の見先直さんも登場します!》
などとアナウンスしていたほどだ。
本人は「ちょっと!? やめてよ、もう!」となかば本気で嫌がっていたが、美しいルックスと高校生離れした落ち着いた雰囲気は、父兄の間でも評判になっていた。
いずれにせよ、直の働きのお陰で正と明人は自分の仕事に集中することができ、結果、赤組ブロックは見事に優勝を飾ったのだった。
「父さんと母さん、本番で自分の娘みたいに自慢してたよね」
「一緒に写真まで撮りまくってな。俺たちなんて、そっちのけで」
当日の様子を思い出して、明人と正は顔を見合わせながら笑ってしまった。
そんな忙しくも充実した日々が終わり、今はすっかり通常授業の毎日だ。中間テストまでは少しだけ間があるし、明人は選手権予選、正たち三年生は言わずもがな、大学受験という人生を賭けた試験に向けて、ふたたび高校生らしい日々を送っている。
「ま、そんなわけだから、たまにはうちのクラスにも顔出してやってよ。おまえならみんな知ってるし」
例によって軽い調子で、正がリクエストしてくる。
「そうだけど、用もないのに三年の教室には行きづらいよ」
「尊敬するお兄様に会いにきたとか、家族としての連絡があってとか、理由なんかなんとでもなるだろ。直以外にも意外と人気あるぞ、明人は」
「わかった。じゃあ、そのうち」
意外とってなんだよ、と言ってやりたくもなったが、その直が問題というか、なんとも微妙な存在なのである。
明人にとって直は、言わば「憧れのお姉さん」だ。正直、会えるものなら会いたいとは思う。しかしいざ本人を前にすると、何を喋っていいのか困ってしまうのだ。自分自身もともと口数が多い方ではないが、それでも桃香と一緒にいるときのような素直なリアクションや何気ない台詞が、あの切れ長の目で見つめられると途端に出てこなくなる。
「……意識しすぎかな」
「ん?」
「ううん、なんでもない。わかった、近いうちに顔出すよ」
慌ててごまかしたが、こういうときの常で、兄は特に何も言わずにいてくれた。
無事に桃香を送り、明人も我が家の近くまで来た時点で、いい匂いが漂ってきた。自分の好物の一つ、豚汁だろう。
期待とともに門扉を開けると、中型の雑種犬が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「ただいま、リンタロウ」
近守家の飼い犬、リンタロウが庭の片隅に繋がれた紐を一杯に伸ばして、尻尾を振ってくれている。明人が小学五年の頃にもらわれてきたから、数えでもう七歳、人間で言えばおそらく中年にはなっているはずだ。
「じつはおっさんだもんなあ、おまえ」
とはいえまだまだ元気なリンタロウは、「なんのこと?」とでも言いたげに軽く首を傾けると、うしろ脚で立ちあがってさらに顔を近づけてくる。
「晩ご飯もらった? 兄ちゃん、帰ってるよね?」
耳の後ろを撫でてやりながら、犬小屋の方に目をやる。リンタロウは無事夕食を食べ終えたようで、そこには縁まできれいに舐められた専用のペット皿が置いてあった。帰宅時間のタイミングもあり、いつの頃からかリンタロウの散歩は母、食事を出したり下げたりするのは正と明人がそれぞれ帰ってきた順に、という家族間の平日ルーティーンができあがっている。
「皿、持っていくね」
ペット皿を手に取ると、リンタロウは名残惜しそうに、もう一度鼻先を膝に近づけてきた。そうすると明人が家に入ってしまうというのを、理解しているのだ。
「またあとで。なんかおやつあったら、持ってきてあげるよ」
「おやつ」という単語に尻尾を振り回すリンタロウへ手を振り、明人は「ただいまー」と家のドアを開けた。
ダイニングに顔を出すと案の定、母が豚汁の鍋を温め直してくれているところだった。
「ただいま」
「お帰り。あ、リンちゃんのね。ありがとう。流しに置いといて」
「わかった」
「今日、桃香ちゃんと一緒の日やったっけ? ちゃんと送ってきた?」
今ではすっかり、母も明人たちのスケジュールを把握している。
「うん。家まで送ってきたよ」
「そう。で?」
「え?」
何が「で?」なのかわからず訊き返すと、どこか呆れたような顔で言われてしまった。
「送ってっただけ? まだ手も繋いどらんの? あ、ちなみにキスまではええけど、そこから先は駄目やからね。我慢しいや」
「…………」
父や兄も似たところを持っているが、近守家の母はそれに輪をかけてとぼけた人なのだった。この家でもっとも真面目なのは客観的に見ても自分、もしくはリンタロウなのではないかと、明人はたまに本気で思ってしまう。
「いつも言ってるけど、別にそういう関係じゃないから」
「だらしないなあ、もう。桃香ちゃんなら、私がお嫁さんにしたいぐらいやのに」
いや、同性婚はまだ認められてないでしょうが、とすかさずつっこみたくなったが、なんとか踏みとどまった。やはり関西で暮らしていると、こうなってしまうのだろうか。
近守家が関東からこちらに引っ越してきたのは、明人が小学四年生のときだった。
サラリーマンである父の転勤で、というよくある話だが、母の実家が近いことも両親にとっては大きかったらしい。病気を患った母方の祖父の身体が、かなり弱ってきていたのである。家族が近くに来るのを待っていたかのように、祖父はその一年ほど後に亡くなった。
残された彼の妻、つまり明人と正の祖母は変わらず一人暮らしを続けているが、こちらは七十を超えた今でも心身ともに元気で、家族が顔を見せると、とても嬉しそうにしてくれる。また両親とも義理の実家との仲は悪くなく、むしろ本当の親子のように、気兼ねなく話せる関係を築けている様子だ。
「母ちゃんと結婚させてくれって、こっちの家に挨拶にきたんだよ。そしたら祖母さんがいきなり、〝全然いいけど、あとから返さんといてな〟だぞ? で、次の台詞が〝むしろ引き取り料かかるから、気いつけてや〟だもんなあ。一番いい背広着て緊張しまくってたのが、なんだかアホらしくなったよ」
何度か父に聞かされたことのあるエピソードからも、その微笑ましい関係性が見て取れる。しかも祖母はついでのように、
「あ、できれば名字だけ変えてくれへん? 『近守』って、なんか格好ええやろ? うち、婿殿、とかっていっぺん言ってみたかったんよ」
などと頼んできたらしい。朴訥な祖父も、そんな様子をにこにこと笑いながら見ているだけだったとか。とはいえ父の実家でも特に拒む理由はなく、少なくとも表向きは「なんか格好ええやろ」という冗談のような理由で、父が婿養子に入る形で二人は結婚したのだそうだ。
たしかに母方の祖母は、娘に似てすっとぼけた人というのが、話していると明人にもよくわかる。今年の誕生日など、
「明人。あんたに彼女ができて、いざ勝負! ってときになったら開けるんやで」
などと意味深な台詞とともに、これまた意味深なお守りをプレゼントされてしまった。
ちなみに彼女は若い頃「医者にも患者にも大人気の、ナイスバデエの看護婦」だったらしい。「ナイスバデエ」云々はともかく、たしかにあの性格なら病棟が明るくなったのは間違いないだろう。
いずれにせよ、こうした家族に囲まれて明人と正は関東と関西、両方を経験して育ってきた。なぜか関西弁だけは身に着かなかったが、まわりからそれで何か言われることもない。
「兄ちゃんは?」
気を取り直した明人が聞くと、母は二階を指差した。
「部屋にいるんちゃう? あの子も今日は、見先さんを送ってきたみたいよ」
「あ、そう」
努めて冷静に頷きながら「風呂、入るね」と、明人はダイニングをあとにした。
いつものように泥だらけのソックスや短パンを風呂場で洗っていると、うっすらと母の声が聞こえてくる。
「でも二年生になってから、明人、すごくしっかりするようになったと思わへん?」
「ん? まあ、そうだね」
「あんたも、もうちょっと大人になんなさい。そんなんじゃ見先さんに振られちゃうで」
「いや、別にそういう関係じゃないから」
自分と同じ口調で、同じリアクションを取る兄の声もする。二階からダイニングに下りてきたのだろう。その場にいないのをいいことに、明人が話の肴というかダシにされているようだ。
「なんも言わんうちに、ソックスとかも一度洗ってから洗濯カゴに入れてくれるようになったし、こないだなんて、ちょっと気になるから言うて、自分以外の玄関の靴も揃えてくれてたんよ。やっぱり運動部は、そういうところも厳しくされるんやねえ」
「悪かったね、厳しくない新聞部で」
機嫌を損ねるでもなく、飄々と兄は答えている。
本人が語る通り、兄の正はオハ高新聞部に所属している。新聞部というと地味なイメージを抱かれがちだが、オハ高では決してそんなことはない。文化部の実情はよくわからないし、明人は校内新聞もあまり読まないが、なんでも我が高の新聞部は全国コンクール(というのが高校新聞部にもあるそうだ)入賞の常連で、三年生も受験の直前まで活動するのだとか。
なかでも正の書く記事はプロ顔負けのレベルだそうで、いつだったか現代文の先生に、「近守家は文武両道だな。おまえのサッカーが凄いのは聞いてるけど、兄さんの文章もかなりのもんだぞ」と、褒められたことがあった。もっとも本人にそれを伝えると、「ああ、古矢先生? そりゃどうも」と、さらっと流されてしまったけれど。
「とかなんとか言っとるけど、あんたもちゃんと見先さんの荷物、持ってあげたりしとるんやろ。こないだ保護者会で向こうのお母さんに、めっちゃ丁寧にお礼言われたで」
「俺以外だってそうしてるよ。カメラマン――じゃなくてカメラウーマンか、は大荷物だし」
「お母さんも綺麗な人やねえ。あんた、ちゃんとご挨拶したことあんの? 月とスッポンポンなのに、あんな美人さんがなんで仲良くしてくれるんやろ。ただでさえ釣り合ってないんやから、アホみたいに大事にしいや」
「いろいろと、日本語がおかしいんですけど」
いつもながらまるで噛み合っていない会話に、明人は湯船のなかで笑ってしまった。同時に、正の同級生で新聞部のカメラウーマン、見先直の顔が頭に浮かぶ。
――明人君ね? 正君からいつも聞いてます。初めまして。
艶やかなボブカットを揺らして初対面の挨拶をされたのは、オハ高に入学してすぐの頃だったろうか。
母が言う通り、十人中八人は振り返るんじゃないかと思えるくらい綺麗な先輩だった。よく考えたら自分と一歳しか違わないのでまだ十八、いや、誕生日が来ていなければ、今は同じ十七歳だろうか。にもかかわらず、可愛いというよりも美人と呼ぶのが相応しい、古風な言い方をすれば「学園のマドンナ」的な雰囲気のある人だった。
「大人になりなさい、か」
母の台詞を繰り返しながら、まさにそれを体現しているような直の姿を、明人はしばらく思い浮かべ続けていた。
風呂から上がると、ちょうど父も帰ってきたところだった。
いつもはもう少し遅い時間の帰宅だが、今日は早めに仕事が終わったらしい。お陰で近守家は久しぶりに、四人全員で夕食のテーブルを囲むことができた。
「明人、『新三郎』はどこまで読んだ?」
ともに好物である豚汁をすすりながら、父が訊いてきた。同じものが入ったお椀を手にしたまま、明人もすぐに答える。
「今、五巻まで読み終わったとこ」
「五巻っていうと、居酒屋の亭主の話か」
「うん。あれも凄くよかった。いかにも新三郎っぽくて」
「だろ?」と父の顔がさらにほころんでいく。共通の趣味である時代小説の話をするとき、彼は本当に楽しそうにしてくれる。
「前も言ったけど新三郎って、俺たちの世代は特にファンが多いんだよ。社長さんとか経営者さんにも、愛読者がかなりいるらしいぞ」
「ああ、部下を大事にするところとか、格好いいもんね」
「そうそう。で、部下も部下で優秀な侍ばっかりだし。いいよなあ。俺にも三島左近みたいな右腕がいればなあ」
「でも会社の人たちだって、自分にも長縄新三郎みたいな上司がいれば、って逆に思ってるかもよ」
「ちげえねえ。は、は、は」
ドラマ化もされた人気時代小説『火盗改め新三郎』の主人公を真似ながら、父はますますご機嫌の様子である。
「……完全に、おっさん同士の会話やね」
「明人も明人だよね。高二で愛読書が『新三郎』だし」
母の言葉通り、知らない人が聞けばおじさん同士のようにすら聞こえる二人のやり取りに、残る二人はなかば呆れ顔をしている。
「たしか亡くなったこっちの祖父ちゃんも、『新三郎』が好きだったんだっけ」
ささみカツを箸に挟んだまま、正が思い出したように続けた。
「そうやで。お父さんが好きなんも、もともとはお祖父ちゃんに薦められたのがきっかけやし。お祖母ちゃんとこ行けば、今でも全巻揃っとるはずよ」
「じゃあ明人は、由緒正しいおっさんの道を歩んでるってわけか」
リンタロウじゃあるまいし、おっさんとは失敬なと明人は思ったが、少しだけくすぐったいような気もしていた。そんな父から紹介されたことがきっかけで、自分も時代小説にはまったからだ。
祖父から父へ。そして父から自分へ。ささやかな趣味に過ぎないとはいえ、受け継いでいるのがなんだか嬉しい。
由緒正しき三代目の時代小説好き、か。桃香に変なあだ名で呼ばれちゃうのも、無理ないかもな。
箸を片手につい苦笑してしまうと、その道に引き込んだ当人が、さらに調子に乗った口調で尋ねてきた。
「む、明人。思い出し笑いかえ?」
「は……いかさま」
思わず乗せられて、自分も合わせた口調で返してしまう。
ふたたび顔を見合わせる母と兄から、見事に重なった声で「おっさん」とつっこみが入った。
食後、明人が部屋で机に向かっていると、ドアがノックされた。
「俺だけど、ちょっといい?」
「開いてるよ。どうぞ」
慣れた雰囲気で正が入ってくる。階段を歩く音がしなかったし、彼も隣にある自分の部屋にいたようだ。
「あ、勉強してた? 悪い」
「ううん、大丈夫」
首を振ってみせると、正は机の上の参考書に視線を向け、さらに訊いてきた。
「また英語?」
「うん」
「ほんと、好きだなあ」
「兄ちゃんだって、人のこと言えないだろ」
「おまえほどじゃないよ」
笑って謙遜しているものの、正もまた英語の成績は常に上位だと、明人は聞いた覚えがあった。自分たちが幼い頃、父が奮発してアメリカ旅行に連れていってくれたことがあるのだが、以来語学の重要性と楽しさを理解した二人は、他のどんな科目よりも英語を熱心に勉強するくせがついている。
「父さんぐらい喋れれば、授業も楽なんだろうなあ」
羨ましそうにつぶやいた正が、ベッドを背もたれにして床のクッションに座り込む。たがいの部屋にお邪魔するときの、それぞれの定位置だ。
「でもあの人、大人になってから勉強し直して、喋れるようになったんだよね」
「うん。会社で毎週有料の英会話教室を開いてくれてたから、熱心に通ったって言ってたよな」
「友だちいないし、お酒も飲めないからって照れてたけど」
「そうそう」
いつの間にか明人も椅子を回し、兄と向かい合う形で笑っていた。年子というのもあるかもしれないが、兄弟仲はまったく悪くなく、ただ単に学年が違うだけの友人といった感覚で話ができる。顔もあまり似ていないので、知らない人が見たら本当にそう見えるかもしれない。
正はどちらかというと父親似で、目鼻立ちのくっきりした顔立ちをしている。反対に明人の、母から受け継いだ細い顎の線や優しげな目は、むしろこちらが文化部と言っても通用しそうなくらいだ。いつだったか桃香には、
「明人、PKのときだけでも正さんと顔、変えてもらいや」
などと、無茶な要求をされたほどである。もっとも直後には「まあ、顔にまで出とる人の好さが、あんたのええとこなんやけど」と、ぶっきら棒にフォローしてくれたが。
「明人も今日、桃香ちゃんを送ってったの?」
「え? ああ、うん。水曜だし」
「そっか」
確認してきた正は、なんでもないことのように頷いている。この兄は絶対に「で、実際のところ、桃香ちゃんとつきあってんの?」みたいな馬鹿な質問はしてこない。というか、いかにも高校生っぽいその手の話題には、まったく興味がないように見える。
「正さんって顔はアスリートみたいやけど、子どものときから、なんちゅうか仙人みたいな人やもんねえ」
とは、これまた桃香の評である。しかも面と向かって言われたにもかかわらず、本人も、
「お、いいねえ、仙人。これからはそういう路線でいこう。サンキュー、桃香ちゃん」
などと逆に喜んでいるのだから、明人からすれば意味がわからない。なんにせよ、この飄々としたキャラクターは、まぎれもなく祖母や両親の遺伝子だろう。
「俺も今日、直を送ってったんだけどさ」
やはりなんでもないことのように、かたわらに置いてあったサッカー雑誌をぱらぱらとめくりながら、正は話し始めた。
「ああ、うん」
ほんの少しだけ、明人は心拍数が上がるのを自覚した。
風呂で思い浮かべた、大人びた微笑がまた甦る。同時に、彼女から漂うさわやかな香りも。ほんのりとだけ漂う柑橘系のあれは、香水か何かだろうか。同級生の女子たちにも制汗スプレーの匂いをさせている子は多いが、直のそれは、明らかに違う類のもののはずだ。
兄ちゃん、いつもあの香りのそばにいるんだよな。
ぼーっとそんなことを考えていたからか、正の声が聞こえなかったらしい。
「――ってさ。おい明人、聞いてる?」
「え? あ、ごめん! 何?」
「大丈夫か? 俺、日本語で喋ってたよな?」
「うん。多分」
「おいおい、大丈夫か? 今日も練習、きつかったの?」
「いや、それはいつものことだし。で、見先さんが何?」
その名前に食いついているように聞こえないだろうか、と若干気にしながらも、明人はやはり訊き直さずにはいられなかった。
けれども答えより先に、笑ってつっこまれてしまった。
「そうやって呼ぶと、また嫌がられるぞ」
「あ、ごめん。ええっと……直さんが、なんだって?」
遠慮がちに下の名前で呼び直す。直とは何度も会っているし、新聞部の打ち合わせで正が家に呼んだこともあるほどだが、大人びたキャラクターもあって、明人の方はついつい名字で呼んでしまう。するとすぐさま本人に、
「明人君も名前でいいって言ってるでしょ。会社員じゃないんだから」
と、頬をふくらまされてしまうのだ。
その直も最寄り駅が同じなので、明人と桃香の組み合わせ同様に、遅くなると必ず正が送っている。特に三年生は、受験に向けて放課後の補習授業を受けたり、空き教室や図書室勉強したりと、部活以外でも下校時刻ぎりぎりまで学校にいることが多い。新聞部の同僚ということもあってか、直に関しては正がボディーガード役を務めるよう、先生たちからも当然のように言われているそうだ。
……などと思い出してもいると、訊き直した問いを、正はどこか面白そうに繰り返してくれた。
「直が、最近明人君に会ってないから寂しい、ってさ」
「え!?」
「私のこと避けてるわけじゃないよね? とも言ってたぞ。もちろん笑いながらだけど」
「ご、ごめん」
「はは、俺にじゃなくて、本人に言ってやれって」
「ああ、うん。ごめん」
ひたすら恐縮する弟を見て、正はおかしそうに笑っている。
兄ちゃんは見先さん……直さんとつきあってないの? 好きじゃないの?
思わずそんな台詞が喉元にせり上がってきたが、慌てて飲み込んだ。自分たちにとって定番の、「別にそういう関係じゃないから」という答えが返ってくるだけだろう。
「でもたしかに、行事がないと二年と三年じゃ、会うことないもんな」
「そうだね。体育祭も終わっちゃったし」
オハ高は進学校であると同時に、文化祭や体育祭が大いに盛り上がることでも知られている。特に体育祭は、一年生から三年生までの各学年十クラスが二クラスずつの縦割り、計五ブロックに分かれて競い合う対抗戦で、近くの陸上競技場を借りて毎年盛大に開催される一大イベントだ。応援合戦などの演出も大々的で、父兄はもちろんOBや、オハ高受験を考えている中学生らも沢山観にきてくれる。
「一週間前までは明人と三人で、ほぼ毎日顔を合わせてたもんな」
応援合戦でのダンスパフォーマンスに加え、ブロック対抗でのリレーやむかで競争といった種目まであるので、各学年のリーダー役や種目ごとの出場メンバーは約半月の間、準備や練習で多くの時間をともにすることとなる。
兄弟だから、というよくわからない理由で一組、二組からなる赤組ブロック、通称「赤ブロ」でそれぞれの学年リーダーにされてしまった近守兄弟を、三年のサブリーダーとして大いに助けてくれたのが、他ならぬ直だった。
「忙しかったけど、楽しかったよね」
「ああ」
「優勝できたのは、見先さん――じゃなかった、直さんのお陰だけど」
「だよな。お世辞抜きに、俺もそう思う」
正と明人が各学年への連絡や、種目ごとの練習を仕切るのに奔走するなか、直は応援合戦での振り付けをイラストつきでわかりやすく紙にしてくれたり、ユニフォームとなるTシャツのデザインや発注を担当してくれたりと、実務面でまさに大車輪の活躍だった。そのうち誰が言い出したのか、「赤ブロのジャンヌ・ダルク」などと呼ばれるようになり、本番では放送部まで、
《さあ、続いては女子四百メートルリレー、赤ブロ最終走者には話題のジャンヌ・ダルクこと、三年二組の見先直さんも登場します!》
などとアナウンスしていたほどだ。
本人は「ちょっと!? やめてよ、もう!」となかば本気で嫌がっていたが、美しいルックスと高校生離れした落ち着いた雰囲気は、父兄の間でも評判になっていた。
いずれにせよ、直の働きのお陰で正と明人は自分の仕事に集中することができ、結果、赤組ブロックは見事に優勝を飾ったのだった。
「父さんと母さん、本番で自分の娘みたいに自慢してたよね」
「一緒に写真まで撮りまくってな。俺たちなんて、そっちのけで」
当日の様子を思い出して、明人と正は顔を見合わせながら笑ってしまった。
そんな忙しくも充実した日々が終わり、今はすっかり通常授業の毎日だ。中間テストまでは少しだけ間があるし、明人は選手権予選、正たち三年生は言わずもがな、大学受験という人生を賭けた試験に向けて、ふたたび高校生らしい日々を送っている。
「ま、そんなわけだから、たまにはうちのクラスにも顔出してやってよ。おまえならみんな知ってるし」
例によって軽い調子で、正がリクエストしてくる。
「そうだけど、用もないのに三年の教室には行きづらいよ」
「尊敬するお兄様に会いにきたとか、家族としての連絡があってとか、理由なんかなんとでもなるだろ。直以外にも意外と人気あるぞ、明人は」
「わかった。じゃあ、そのうち」
意外とってなんだよ、と言ってやりたくもなったが、その直が問題というか、なんとも微妙な存在なのである。
明人にとって直は、言わば「憧れのお姉さん」だ。正直、会えるものなら会いたいとは思う。しかしいざ本人を前にすると、何を喋っていいのか困ってしまうのだ。自分自身もともと口数が多い方ではないが、それでも桃香と一緒にいるときのような素直なリアクションや何気ない台詞が、あの切れ長の目で見つめられると途端に出てこなくなる。
「……意識しすぎかな」
「ん?」
「ううん、なんでもない。わかった、近いうちに顔出すよ」
慌ててごまかしたが、こういうときの常で、兄は特に何も言わずにいてくれた。