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「明人、帰ろ」
「ああ」
「あ、百段坂の方からでええ? ちょっと文房具屋さん、寄りたいねん」
「うん」
「ほな、行こ」
母親が迎えにきた子どもみたいだな、と思いながら、近守明人は部室から足を踏み出した。
「お疲れ、明人」
「お疲れ様です。失礼します」
「桃香ちゃんも、お疲れさん」
「お疲れ様でしたー!」
「明人、桃香ちゃんを襲うなよ」
「大丈夫ですよ、竜也さん。うち、メリケンサック持ってますから」
ははは、と笑い声がこぼれるなか、明人はなんとも微妙な表情をするしかなかった。プラスチック製のおもちゃとはいえ、「事実です」と喉元まで出かかったが、そんな発言をしたら本当に一撃もらいかねない。
メリケンサック常備の小原高校サッカー部マネージャー、所桃香は「ほな、また明日!」と、ポニーテールを揺らして部員たちにお辞儀をすると、もう一度、明人の顔を覗き込んできた。
「ほら、明人。か弱いうちを、今日もしっかり送ってってや」
「はいはい」
堂々と言ってのけるので、もはや苦笑するしかない。
笑みを浮かべたまま、明人は桃香と並んで歩き出した。
県立小原高校、通称「オハ高」は地域でも有数の進学校である。なんでも明治時代、県で二番目の旧制中学として建学されたとかで、年配の人のなかには今でも「オハ高」ではなく、「二中」と呼ぶ人もいるらしい。部活動に関しても一通り盛んで、千人近い生徒のほとんどが、なんらかの部で熱心に活動している。
明人たちサッカー部も百年近い伝統があり、公立校ながらかつては全国大会の常連として活躍、そして大昔に一人だけとはいえ、日本代表選手まで輩出しているのだとか。
まあでも、何十年も前の話なんだよな。
桃香と並んで歩きながら、明人はふたたび苦笑してしまった。余談ながら、毎年お正月に行なわれる『全国高校サッカー選手権』は、ここ関西が発祥の地なのだという。そうした地の利も、当時はあったのかもしれない。
「明人? 何にやにやしてんの?」
笑い顔をしっかり見られていたようだ。一七五センチある自分の頭一つ下から、桃香の大きな瞳が見上げてくる。
「ああ、いや」
「なんぼうちが可愛いからって、見とれてにやつくのは気色悪いで」
「あのな……」
「そんなんやから、むっつりスケベ侍、とか言われるんよ」
「はいはい」
いつものごとく、明人は適当に流しておいた。「むっつりスケベ侍」などと失礼な呼び方をしてくるのは、当然ながら桃香だけである。小学生時代からのチームメイト(当時は桃香も選手だった)だし、もはや慣れたものだ。けれども知らない人が見たら、なんてがさつな女の子だと思うかもしれない。
「所もなあ、黙ってりゃ可愛いんやけど」
「残念なアイドルって感じ?」
などと男子たちから評されているのを、本人は知っているのだろうか。
たしかに「ザ・残念アイドル」って感じだもんなあ。
少しだけ角度がついた猫目とポニーテールがよく似合うルックスは、じゅうぶんに人目を引く可愛らしさではある。ただ、歯切れのいい口調で常に動き回っている姿は、マネージャーというより桃香自身もアスリートっぽい。体育や部活でのジャージ姿は、他のどんな女子よりも様になっているほどだ。
「あ、またわろてる」
「え? ああ、ごめん」
「なんやねん、ほんま。……あ! ひょっとしてうちの胸、見とったん? このペチャパイとか、まな板とか壁女とか思っとったんやろ! おっぱい星人め! むっつりスケベ侍の、変態傘張り浪人!」
「違うっつーの」
変わらない会話とともに、二人は「百段坂」と呼ばれる長い階段を下りていく。駅へと向かうには遠回りだが、学校の裏門から繋がるここは、好きな相手に告白する場所や交際している生徒たちの帰路として、オハ高生たちに知られている。とはいえ入学当初から二年生の今まで、週に二回は必ず桃香を送っている明人は、そんな話を気にしたこともなかった。もちろん彼女も同様だろう。
普段は女子バスケ部の同級生と連れ立って下校する桃香だが、体育館の割り当ての都合で、彼女たちが近くの市立体育館へ行ってしまう水曜日と金曜日だけはそうもできない。結果、二駅先の同じ町に住んでいて家も近い明人が、責任を持って送っていくよう、サッカー部顧問の沖田先生から言い渡されているのだ。
一度、後輩の一年生部員がストレートに「明人さんと桃香さんて、つきあってはるんですよね?」と聞いてきたことがあったが、直後に桃香の正確なシュートが顔面に直撃していた。
「そんなわけないやろ、ボケ! うちのタイプは、ヨハン・クライフやっちゅうねん!」
さすがにメリケンサックこそ出なかったが、それ以来一年生たちはますます桃香を、そしてついでのように明人もより一層、敬うようになったのだった。
ほんと、大人しくしてれば可愛いのに。
逆に保護者のような気分で、揺れるポニーテールを見つめ直すと、またしても目が合ってしまった。
「明人」
「あ、ごめん」
だが、今回はまともな台詞が続いた。
「選手権、行けるとええね」
「ああ、うん。行くつもりで頑張るよ」
「うん、そやね。行くつもりで戦わな、ね」
こういうとき、「絶対に行く。俺がおまえを全国に連れてってやる」などと言えれば少しは格好もつくのだろうけれど、明人は性格上、それこそ絶対に威勢のいい台詞は口にしないタイプである。理解している桃香も素直に頷いてくれた。
二人が話す『全国高校サッカー選手権』は、夏のインターハイと並ぶ高校サッカーの一大イベントだ。本選はもちろん、都道府県予選の決勝にもテレビ中継が入るため、野球の甲子園と同様、まさに汗と涙の青春ドラマが繰り広げられる大会として知名度も高い。
「今年はマジでチャンスやし」
桃香が瞳を輝かせる通り、今年度のオハ高サッカー部はその「選手権」予選において、好成績が期待されている。強豪校のようなずば抜けた選手こそいないものの、一般的な公立校にしては粒ぞろいの選手が集まったことに加え、二年前に就任した顧問、沖田雅敏先生の熱血指導が実を結びつつあるからだ。実際、夏のインターハイ予選ではなんと数十年ぶりに県のベスト8まで進出し、新聞の地域欄にも大きく取り上げられた。
「頼むで、明人」
気持ちの込もった手で、桃香がぽんと二の腕を叩いてくる。間もなくの十月後半から始まる県予選において、台風の目になるのではと噂されるオハ高サッカー部。その鍵を握ると言われるのが、何を隠そうゴールキーパーを務める明人自身なのだった。
「うん。でもまずは、しっかり試合に出られるようにしないと」
「相変わらず謙虚やねえ」
桃香はこう評してくれるが、沖田先生は実際、調子のいい選手から試合に使っていくタイプの監督である。明人とともにチームでたった二人、地区選抜に選ばれている三年生の植原キャプテンですら、コンディションが悪いとスタメンを外される場合がある。けれども逆に、それがチーム内でのいい競争を生み出しているし、先生の熱いキャラクターと相まって部の結束力は非常に固い。
「誰が出ることになっても準備はできてるし、チームワークのよさがうちの強みだから」
「うん。たしかに」
「もちろん、マネージャーも含めて」
「ありがとう」
関西弁ならではの後半が上がるアクセントで言いながら、桃香はまた素直に笑ってくれた。感謝の気持ちや挨拶をはっきり口にしてくれるのも、彼女の素敵なところだ。
めずらしいよな、と明人は思う。
高校生という年頃だと、同様の場面で変に照れたりしてしまう人もいるはずだが、桃香は決してそうならない。むしろこちらの目を真っ直ぐに見て、ストレートに気持ちを伝えてくれる。
女子アスリートとか、姫様武芸者って感じだよなあ、やっぱ。
「うん? 何? またうちの美貌に見とれてんの?」
「はいはい」
可愛らしく小首を傾げる姿に、明人は笑っていつも通りの返事をしておいた。
「志望校、明人はやっぱテト大で出したん?」
何気ない口調で桃香が話題を変えてきたのは、百段坂を下り切って、駅まで続く坂道に入ったタイミングでだった。生徒同士、具体的な進路の話は口にしづらかったりもするが、幸い明人も桃香も成績は悪くないので、たがいの行きたい大学について把握している。明人は東京都の公立大である帝都大、通称「テト大」が第一志望。桃香も同じ東京だが、体育専門の女子大を志望しており、将来的にはスポーツトレーナーになりたいのだという。
「うん」と明人は頷いた。
「親は私立でも全然大丈夫って、言ってくれてるけど」
「正さんと立て続けやもんね」
桃香の言う「正」とは明人と一歳違い、すなわち年子の兄で、同じオハ高生でもある近守正のことだ。
――まあなんつーか、いろいろ頑張ったんだ。溜まってるものもあったしな。
どうでもいい話だが、兄弟が中学生になった頃、父はぬけぬけとそんなことを言って、顔を赤くした母にすかさず頭をはたかれていた。ちなみに、こういうすっとぼけた性格は、明人よりも正の方が色濃く受け継いでいる。
「あ。でも明人、サッカーでも誘われてるんやなかったっけ」
思い出した表情で、桃香がひょいと眉を上げた。
「誘われてるって言っても、新設の私立から一校だけだよ。スポーツ推薦ていうより、最近流行りの一芸入試ってやつだし」
「ふーん。じゃ、行かへんの?」
「行かないじゃなくて、行けない、な。夏休みに練習参加させてもらったけど、ちょっとレベルが違った」
「相手にならんってこと? ペナルティーエリア外からのシュートなんて、スーパー・グレート・ゴールキーパーの俺には通用せえへん! みたいな。そしたら二十頭身ぐらいあるライバルが、ボールは友だち! とか言いながらドライブシュート打ってきて――」
「どこの世界の話だ。逆だ、逆。俺なんかが通用するレベルじゃないってこと」
「え? そうなん?」
国民的サッカー漫画の物真似をした桃香は、なぜか不思議そうな顔をしている。
「おまえ、俺のことをプロかなんかと勘違いしてないか」
苦笑を通り越してなかば呆れながら、明人は黒目がちの瞳を見返した。
「俺が馬鹿みたいにシュートを決められまくってる隣で、静岡から呼ばれた人はPKまで止めてみせてた。他のフィールドプレイヤーだって、なんでこの新設校に? って思っちゃうような選手ばっかりだったよ。ジュニアユース代表歴のある人までいたし」
ほんの二ヶ月前のはずだが、もうずいぶん昔のように、明人はそのときのことを思い返した。
ウォーミングアップ前、遊び感覚でボールと戯れる姿を見ただけでわかった。ああ、この人たちは完全に別次元だ、と。それでもなぜか監督やコーチ、そして現役の部員たちは明人のひたむきなプレイを気に入ってくれたようで、たった三日間の練習参加にもかかわらず口々に、「再来年、待ってるよ」とか「一緒にやろうぜ」と嬉しい声をかけてくれたのだが。
けど、あれじゃさすがになあ。
仮に入学しても、自分の実力では試合に出られないどころか、練習相手にすらなれなくて、チームのレベルを落としてしまうのではないだろうか。新設校らしいピカピカのグラウンドや部室、美しいキャンパスといった環境は本当に魅力的だったが、やはり「サッカーで入ってきた」生徒がそんなでは申し訳ない。
そもそも桃香ほど明確ではないが、明人だって将来就いてみたい職業がちゃんとあるのだ。大学はやはり、それを見据えたところにきちんと進学したい。
すると心を読んだかのように、桃香が重ねて尋ねてきた。
「テト大って、パソコンの会社に就職しやすいとかあるん?」
「大手のメーカーに結構OBがいるみたい。工業系の大学じゃないけど、情報学に力を入れてて講義も多いらしいんだ」
「ああ、前にも言っとったね」
家族や桃香には伝えてあるが、明人はそうした方面、すなわIT関連の企業で働きたいと思っているのだった。
「凄いなあ。うちはそういうの、さっぱりやわ」
「スポーツ医学だってじゅうぶん凄いだろ」
「ふふ、ありがとう」
またしても素直に言われてしまった明人は、まぶしそうに目をそらしながら、思い出したように訊いてみた。
「桃香はキャンパス見学とか、行かないのか?」
「年明けぐらいから、ぼちぼち行きたいなとは思てるよ。あ、東京やったら一緒に行く? 明人かて他の大学も見たいやろ。それにほら、渋谷とか新宿って、あんた以上の変態が沢山おるっていうし。怖いわあ」
メリケンサック常備の女子高生の方が怖いと思うんですが、とは明人もさすがにつっこまない。
「東京でも、しっかり警護してや」
彼女のなかでは、それがすでに決定事項らしい。またもや苦笑してしまいつつ「じゃあ、選手権が終わった頃にでも行ってみようか」と明人も頷いてみせた。
「うん! ありがとう」
嬉しそうな桃香だが、直後に「あ!」と何かに気づいた声を出した。しかもすぐさま表情を変えて、不審そうにこちらを睨んでくる。
「あのな、明人。わかってると思うけど」
「うん?」
「泊まる部屋は別々やで。夜這いのかけられないホテル、ちゃんと取ってや」
「当たり前だ」
なんの話かと身構えていた明人の肩から、がっくりと力が抜ける。むしろ「夜這いのかけられるホテル」なるものがどういうものか、逆に問い詰めてやりたい。というかそれ以前に、宿の確保も自分の仕事になっているらしい。
「だって明人、旅慣れとるやん」
当然のように桃香は指摘してきた。
「大学の練習参加もやけど、選抜の遠征とかでもよく泊まりに行っとったし」
「まあ、そりゃそうだけど」
じつは桃香の言う通りで、選抜チームに選ばれていたこともあって、明人はオハ高生のなかでは比較的旅慣れている方ではあった。
「安くて綺麗で朝ごはんが美味しくて、あんたが夜這いかけられないホテル、よろしく」
「最後以外は、結構頑張って探さないと難しいかもな」
難しい顔になった明人だが、大学に呼んでもらったときのあそこでもいいかな、などと結局は候補をいくつか考えてしまっていた。毎度ながらすっかり桃香にペースを握られていることに遅れて気づき、もはや何度目かわからない苦笑いが浮かんでくる。
「あ、またわろてる。ホテルでうちをどうやって襲おうか、シュミレーションしとるんやろ。この変態。エロ侍」
「ちがうっつーの。それと、シュミレーションじゃなくて、シミュレーションな」
「え、そうなん?」
「そうだよ。サッカー用語でもあるだろ」
「そうやっけ?」
「……いや、まあいいけど」
「でも選抜の方は、一段落ついたんよね」
サッカーの話になったからか、桃香の目が無邪気に輝き始めた。
「うん。さすがに県選抜には残れないよ」
今年度のオハ高からは、明人と主将の植原竜也が地区選抜に選ばれていたが、そこからさらに先、国体などに出場する県選抜チームにはさすがに入れなかった。県サッカー協会のスタッフも務める沖田先生いわく、「例年、滝浜二高と西洋大付属で固めちゃうからな。二人とも推す声はあったんだけど」との話だった。それでも地区選抜選手が、それも二名も同時に出たのは、オハ高サッカー部としては久々だ。
「惜しかったね」
「ありがとう」
笑顔で桃香が言ってくれたので、明人も素直に返すことができた。
「でもうち、マジで明人かて凄いって思っとるよ。なんていうかこう、あんたのプレイって、ちょっと違うやん。『ダイヤモンド・フットボール』で外国の試合見とっても、明人みたいなタイプのキーパー、おらんもん」
「そうか?」
ぱっと切り替えて熱心に語り始める桃香に、明人としては笑って返すしかない。というか、十七歳の女子高生が観る番組として『ダイヤモンド・フットボール』はどうなのか。
日曜夕方に放送されている『ダイヤモンド・フットボール』は、海外のマニアックな試合を中心に放送する、どちらかというと――というより完全に、コアなサッカーファン向けの番組である。熱心なことに桃香はそれを毎週録画し、さらには自分で編集した好プレイ集なども作って、「これ見て勉強しいや」と一年生たちへ強引に渡している。
何も知らない彼らは、可愛い先輩マネージャーからのプレゼントに大喜びしていたが、それも最初だけだった。何せ一時間以上もある映像のうえ、沖田先生も公認で、なんと彼女に感想を提出しなければいけない決まりになっているのである。図書室で後輩を見かけた明人が声をかけようとしたら、授業の課題ではなく、その「桃香レポート」を必死になって書いていた、などという事件があったほどだ。
かようなまでにサッカー好きの桃香は、猫目をきらきらさせたまま、明人のプレイを解説し続けてくれる。
「だって明人、平気でペナの外飛び出して、スイーパーみたいなことするやん。あんだけ守備範囲の広いキーパー、めずらしいって」
ああ、そこか、と明人は思った。さすがによく見ているな、とも。ペナ、すなわち手を使えるペナルティエリアを飛び出して、味方ディフェンダーの裏に抜けてきたパスや相手をいち早く止めるプレイは、たしかに明人の得意とするところだ。
「しかも二年になって、ああいうプレイがますます増えてるやん? きっとそれが認められたから、選抜入りもできたんよ」
「ありがとう。たまに、出すぎだって言われるけど」
「ええんちゃう? 足下も上手いんやし。うちは好きやで」
「……ありがとう」
本人は何も意識していないのだろうが、またしてもばっちり視線を合わせて、ストレートに言われてしまった。慣れていても、やはり少々照れくさい。
自分のこと、わかってないんだろうなあ。
明人ですらこうなのだから、他の男子については推して知るべしである。事実、桃香の性格がわかっているはずの同級生たちですら、
「◯◯君、ありがとう! むっちゃ嬉しい!」
などと元気な笑顔で言われ、頬を染めている場面をたまに見かけたりする。実際は、単に先生から頼まれた教材運びを手伝ったことへの、お礼に過ぎなかったりするのだが。
表情をごまかすように、前へと向き直って明人は答えた。
「キーパーは、〝十一人目のフィールドプレイヤー〟だから」
「へえ。なんや格好いい言葉、知っとるやん。明人のくせに」
「最後のひとことは余計だ」
気持ちを落ち着けつつ、小さな顔をにらむ真似をしてみせたが、「あはは。でも、ええ格言やね。それに、なんだか明人っぽい」と、これまた無邪気な笑顔で返されてしまう。
やれやれ。
自身もさり気なく頬を緩めて、チャーミングな幼馴染みの隣を、明人はのんびりと歩き続けた。
「明人、帰ろ」
「ああ」
「あ、百段坂の方からでええ? ちょっと文房具屋さん、寄りたいねん」
「うん」
「ほな、行こ」
母親が迎えにきた子どもみたいだな、と思いながら、近守明人は部室から足を踏み出した。
「お疲れ、明人」
「お疲れ様です。失礼します」
「桃香ちゃんも、お疲れさん」
「お疲れ様でしたー!」
「明人、桃香ちゃんを襲うなよ」
「大丈夫ですよ、竜也さん。うち、メリケンサック持ってますから」
ははは、と笑い声がこぼれるなか、明人はなんとも微妙な表情をするしかなかった。プラスチック製のおもちゃとはいえ、「事実です」と喉元まで出かかったが、そんな発言をしたら本当に一撃もらいかねない。
メリケンサック常備の小原高校サッカー部マネージャー、所桃香は「ほな、また明日!」と、ポニーテールを揺らして部員たちにお辞儀をすると、もう一度、明人の顔を覗き込んできた。
「ほら、明人。か弱いうちを、今日もしっかり送ってってや」
「はいはい」
堂々と言ってのけるので、もはや苦笑するしかない。
笑みを浮かべたまま、明人は桃香と並んで歩き出した。
県立小原高校、通称「オハ高」は地域でも有数の進学校である。なんでも明治時代、県で二番目の旧制中学として建学されたとかで、年配の人のなかには今でも「オハ高」ではなく、「二中」と呼ぶ人もいるらしい。部活動に関しても一通り盛んで、千人近い生徒のほとんどが、なんらかの部で熱心に活動している。
明人たちサッカー部も百年近い伝統があり、公立校ながらかつては全国大会の常連として活躍、そして大昔に一人だけとはいえ、日本代表選手まで輩出しているのだとか。
まあでも、何十年も前の話なんだよな。
桃香と並んで歩きながら、明人はふたたび苦笑してしまった。余談ながら、毎年お正月に行なわれる『全国高校サッカー選手権』は、ここ関西が発祥の地なのだという。そうした地の利も、当時はあったのかもしれない。
「明人? 何にやにやしてんの?」
笑い顔をしっかり見られていたようだ。一七五センチある自分の頭一つ下から、桃香の大きな瞳が見上げてくる。
「ああ、いや」
「なんぼうちが可愛いからって、見とれてにやつくのは気色悪いで」
「あのな……」
「そんなんやから、むっつりスケベ侍、とか言われるんよ」
「はいはい」
いつものごとく、明人は適当に流しておいた。「むっつりスケベ侍」などと失礼な呼び方をしてくるのは、当然ながら桃香だけである。小学生時代からのチームメイト(当時は桃香も選手だった)だし、もはや慣れたものだ。けれども知らない人が見たら、なんてがさつな女の子だと思うかもしれない。
「所もなあ、黙ってりゃ可愛いんやけど」
「残念なアイドルって感じ?」
などと男子たちから評されているのを、本人は知っているのだろうか。
たしかに「ザ・残念アイドル」って感じだもんなあ。
少しだけ角度がついた猫目とポニーテールがよく似合うルックスは、じゅうぶんに人目を引く可愛らしさではある。ただ、歯切れのいい口調で常に動き回っている姿は、マネージャーというより桃香自身もアスリートっぽい。体育や部活でのジャージ姿は、他のどんな女子よりも様になっているほどだ。
「あ、またわろてる」
「え? ああ、ごめん」
「なんやねん、ほんま。……あ! ひょっとしてうちの胸、見とったん? このペチャパイとか、まな板とか壁女とか思っとったんやろ! おっぱい星人め! むっつりスケベ侍の、変態傘張り浪人!」
「違うっつーの」
変わらない会話とともに、二人は「百段坂」と呼ばれる長い階段を下りていく。駅へと向かうには遠回りだが、学校の裏門から繋がるここは、好きな相手に告白する場所や交際している生徒たちの帰路として、オハ高生たちに知られている。とはいえ入学当初から二年生の今まで、週に二回は必ず桃香を送っている明人は、そんな話を気にしたこともなかった。もちろん彼女も同様だろう。
普段は女子バスケ部の同級生と連れ立って下校する桃香だが、体育館の割り当ての都合で、彼女たちが近くの市立体育館へ行ってしまう水曜日と金曜日だけはそうもできない。結果、二駅先の同じ町に住んでいて家も近い明人が、責任を持って送っていくよう、サッカー部顧問の沖田先生から言い渡されているのだ。
一度、後輩の一年生部員がストレートに「明人さんと桃香さんて、つきあってはるんですよね?」と聞いてきたことがあったが、直後に桃香の正確なシュートが顔面に直撃していた。
「そんなわけないやろ、ボケ! うちのタイプは、ヨハン・クライフやっちゅうねん!」
さすがにメリケンサックこそ出なかったが、それ以来一年生たちはますます桃香を、そしてついでのように明人もより一層、敬うようになったのだった。
ほんと、大人しくしてれば可愛いのに。
逆に保護者のような気分で、揺れるポニーテールを見つめ直すと、またしても目が合ってしまった。
「明人」
「あ、ごめん」
だが、今回はまともな台詞が続いた。
「選手権、行けるとええね」
「ああ、うん。行くつもりで頑張るよ」
「うん、そやね。行くつもりで戦わな、ね」
こういうとき、「絶対に行く。俺がおまえを全国に連れてってやる」などと言えれば少しは格好もつくのだろうけれど、明人は性格上、それこそ絶対に威勢のいい台詞は口にしないタイプである。理解している桃香も素直に頷いてくれた。
二人が話す『全国高校サッカー選手権』は、夏のインターハイと並ぶ高校サッカーの一大イベントだ。本選はもちろん、都道府県予選の決勝にもテレビ中継が入るため、野球の甲子園と同様、まさに汗と涙の青春ドラマが繰り広げられる大会として知名度も高い。
「今年はマジでチャンスやし」
桃香が瞳を輝かせる通り、今年度のオハ高サッカー部はその「選手権」予選において、好成績が期待されている。強豪校のようなずば抜けた選手こそいないものの、一般的な公立校にしては粒ぞろいの選手が集まったことに加え、二年前に就任した顧問、沖田雅敏先生の熱血指導が実を結びつつあるからだ。実際、夏のインターハイ予選ではなんと数十年ぶりに県のベスト8まで進出し、新聞の地域欄にも大きく取り上げられた。
「頼むで、明人」
気持ちの込もった手で、桃香がぽんと二の腕を叩いてくる。間もなくの十月後半から始まる県予選において、台風の目になるのではと噂されるオハ高サッカー部。その鍵を握ると言われるのが、何を隠そうゴールキーパーを務める明人自身なのだった。
「うん。でもまずは、しっかり試合に出られるようにしないと」
「相変わらず謙虚やねえ」
桃香はこう評してくれるが、沖田先生は実際、調子のいい選手から試合に使っていくタイプの監督である。明人とともにチームでたった二人、地区選抜に選ばれている三年生の植原キャプテンですら、コンディションが悪いとスタメンを外される場合がある。けれども逆に、それがチーム内でのいい競争を生み出しているし、先生の熱いキャラクターと相まって部の結束力は非常に固い。
「誰が出ることになっても準備はできてるし、チームワークのよさがうちの強みだから」
「うん。たしかに」
「もちろん、マネージャーも含めて」
「ありがとう」
関西弁ならではの後半が上がるアクセントで言いながら、桃香はまた素直に笑ってくれた。感謝の気持ちや挨拶をはっきり口にしてくれるのも、彼女の素敵なところだ。
めずらしいよな、と明人は思う。
高校生という年頃だと、同様の場面で変に照れたりしてしまう人もいるはずだが、桃香は決してそうならない。むしろこちらの目を真っ直ぐに見て、ストレートに気持ちを伝えてくれる。
女子アスリートとか、姫様武芸者って感じだよなあ、やっぱ。
「うん? 何? またうちの美貌に見とれてんの?」
「はいはい」
可愛らしく小首を傾げる姿に、明人は笑っていつも通りの返事をしておいた。
「志望校、明人はやっぱテト大で出したん?」
何気ない口調で桃香が話題を変えてきたのは、百段坂を下り切って、駅まで続く坂道に入ったタイミングでだった。生徒同士、具体的な進路の話は口にしづらかったりもするが、幸い明人も桃香も成績は悪くないので、たがいの行きたい大学について把握している。明人は東京都の公立大である帝都大、通称「テト大」が第一志望。桃香も同じ東京だが、体育専門の女子大を志望しており、将来的にはスポーツトレーナーになりたいのだという。
「うん」と明人は頷いた。
「親は私立でも全然大丈夫って、言ってくれてるけど」
「正さんと立て続けやもんね」
桃香の言う「正」とは明人と一歳違い、すなわち年子の兄で、同じオハ高生でもある近守正のことだ。
――まあなんつーか、いろいろ頑張ったんだ。溜まってるものもあったしな。
どうでもいい話だが、兄弟が中学生になった頃、父はぬけぬけとそんなことを言って、顔を赤くした母にすかさず頭をはたかれていた。ちなみに、こういうすっとぼけた性格は、明人よりも正の方が色濃く受け継いでいる。
「あ。でも明人、サッカーでも誘われてるんやなかったっけ」
思い出した表情で、桃香がひょいと眉を上げた。
「誘われてるって言っても、新設の私立から一校だけだよ。スポーツ推薦ていうより、最近流行りの一芸入試ってやつだし」
「ふーん。じゃ、行かへんの?」
「行かないじゃなくて、行けない、な。夏休みに練習参加させてもらったけど、ちょっとレベルが違った」
「相手にならんってこと? ペナルティーエリア外からのシュートなんて、スーパー・グレート・ゴールキーパーの俺には通用せえへん! みたいな。そしたら二十頭身ぐらいあるライバルが、ボールは友だち! とか言いながらドライブシュート打ってきて――」
「どこの世界の話だ。逆だ、逆。俺なんかが通用するレベルじゃないってこと」
「え? そうなん?」
国民的サッカー漫画の物真似をした桃香は、なぜか不思議そうな顔をしている。
「おまえ、俺のことをプロかなんかと勘違いしてないか」
苦笑を通り越してなかば呆れながら、明人は黒目がちの瞳を見返した。
「俺が馬鹿みたいにシュートを決められまくってる隣で、静岡から呼ばれた人はPKまで止めてみせてた。他のフィールドプレイヤーだって、なんでこの新設校に? って思っちゃうような選手ばっかりだったよ。ジュニアユース代表歴のある人までいたし」
ほんの二ヶ月前のはずだが、もうずいぶん昔のように、明人はそのときのことを思い返した。
ウォーミングアップ前、遊び感覚でボールと戯れる姿を見ただけでわかった。ああ、この人たちは完全に別次元だ、と。それでもなぜか監督やコーチ、そして現役の部員たちは明人のひたむきなプレイを気に入ってくれたようで、たった三日間の練習参加にもかかわらず口々に、「再来年、待ってるよ」とか「一緒にやろうぜ」と嬉しい声をかけてくれたのだが。
けど、あれじゃさすがになあ。
仮に入学しても、自分の実力では試合に出られないどころか、練習相手にすらなれなくて、チームのレベルを落としてしまうのではないだろうか。新設校らしいピカピカのグラウンドや部室、美しいキャンパスといった環境は本当に魅力的だったが、やはり「サッカーで入ってきた」生徒がそんなでは申し訳ない。
そもそも桃香ほど明確ではないが、明人だって将来就いてみたい職業がちゃんとあるのだ。大学はやはり、それを見据えたところにきちんと進学したい。
すると心を読んだかのように、桃香が重ねて尋ねてきた。
「テト大って、パソコンの会社に就職しやすいとかあるん?」
「大手のメーカーに結構OBがいるみたい。工業系の大学じゃないけど、情報学に力を入れてて講義も多いらしいんだ」
「ああ、前にも言っとったね」
家族や桃香には伝えてあるが、明人はそうした方面、すなわIT関連の企業で働きたいと思っているのだった。
「凄いなあ。うちはそういうの、さっぱりやわ」
「スポーツ医学だってじゅうぶん凄いだろ」
「ふふ、ありがとう」
またしても素直に言われてしまった明人は、まぶしそうに目をそらしながら、思い出したように訊いてみた。
「桃香はキャンパス見学とか、行かないのか?」
「年明けぐらいから、ぼちぼち行きたいなとは思てるよ。あ、東京やったら一緒に行く? 明人かて他の大学も見たいやろ。それにほら、渋谷とか新宿って、あんた以上の変態が沢山おるっていうし。怖いわあ」
メリケンサック常備の女子高生の方が怖いと思うんですが、とは明人もさすがにつっこまない。
「東京でも、しっかり警護してや」
彼女のなかでは、それがすでに決定事項らしい。またもや苦笑してしまいつつ「じゃあ、選手権が終わった頃にでも行ってみようか」と明人も頷いてみせた。
「うん! ありがとう」
嬉しそうな桃香だが、直後に「あ!」と何かに気づいた声を出した。しかもすぐさま表情を変えて、不審そうにこちらを睨んでくる。
「あのな、明人。わかってると思うけど」
「うん?」
「泊まる部屋は別々やで。夜這いのかけられないホテル、ちゃんと取ってや」
「当たり前だ」
なんの話かと身構えていた明人の肩から、がっくりと力が抜ける。むしろ「夜這いのかけられるホテル」なるものがどういうものか、逆に問い詰めてやりたい。というかそれ以前に、宿の確保も自分の仕事になっているらしい。
「だって明人、旅慣れとるやん」
当然のように桃香は指摘してきた。
「大学の練習参加もやけど、選抜の遠征とかでもよく泊まりに行っとったし」
「まあ、そりゃそうだけど」
じつは桃香の言う通りで、選抜チームに選ばれていたこともあって、明人はオハ高生のなかでは比較的旅慣れている方ではあった。
「安くて綺麗で朝ごはんが美味しくて、あんたが夜這いかけられないホテル、よろしく」
「最後以外は、結構頑張って探さないと難しいかもな」
難しい顔になった明人だが、大学に呼んでもらったときのあそこでもいいかな、などと結局は候補をいくつか考えてしまっていた。毎度ながらすっかり桃香にペースを握られていることに遅れて気づき、もはや何度目かわからない苦笑いが浮かんでくる。
「あ、またわろてる。ホテルでうちをどうやって襲おうか、シュミレーションしとるんやろ。この変態。エロ侍」
「ちがうっつーの。それと、シュミレーションじゃなくて、シミュレーションな」
「え、そうなん?」
「そうだよ。サッカー用語でもあるだろ」
「そうやっけ?」
「……いや、まあいいけど」
「でも選抜の方は、一段落ついたんよね」
サッカーの話になったからか、桃香の目が無邪気に輝き始めた。
「うん。さすがに県選抜には残れないよ」
今年度のオハ高からは、明人と主将の植原竜也が地区選抜に選ばれていたが、そこからさらに先、国体などに出場する県選抜チームにはさすがに入れなかった。県サッカー協会のスタッフも務める沖田先生いわく、「例年、滝浜二高と西洋大付属で固めちゃうからな。二人とも推す声はあったんだけど」との話だった。それでも地区選抜選手が、それも二名も同時に出たのは、オハ高サッカー部としては久々だ。
「惜しかったね」
「ありがとう」
笑顔で桃香が言ってくれたので、明人も素直に返すことができた。
「でもうち、マジで明人かて凄いって思っとるよ。なんていうかこう、あんたのプレイって、ちょっと違うやん。『ダイヤモンド・フットボール』で外国の試合見とっても、明人みたいなタイプのキーパー、おらんもん」
「そうか?」
ぱっと切り替えて熱心に語り始める桃香に、明人としては笑って返すしかない。というか、十七歳の女子高生が観る番組として『ダイヤモンド・フットボール』はどうなのか。
日曜夕方に放送されている『ダイヤモンド・フットボール』は、海外のマニアックな試合を中心に放送する、どちらかというと――というより完全に、コアなサッカーファン向けの番組である。熱心なことに桃香はそれを毎週録画し、さらには自分で編集した好プレイ集なども作って、「これ見て勉強しいや」と一年生たちへ強引に渡している。
何も知らない彼らは、可愛い先輩マネージャーからのプレゼントに大喜びしていたが、それも最初だけだった。何せ一時間以上もある映像のうえ、沖田先生も公認で、なんと彼女に感想を提出しなければいけない決まりになっているのである。図書室で後輩を見かけた明人が声をかけようとしたら、授業の課題ではなく、その「桃香レポート」を必死になって書いていた、などという事件があったほどだ。
かようなまでにサッカー好きの桃香は、猫目をきらきらさせたまま、明人のプレイを解説し続けてくれる。
「だって明人、平気でペナの外飛び出して、スイーパーみたいなことするやん。あんだけ守備範囲の広いキーパー、めずらしいって」
ああ、そこか、と明人は思った。さすがによく見ているな、とも。ペナ、すなわち手を使えるペナルティエリアを飛び出して、味方ディフェンダーの裏に抜けてきたパスや相手をいち早く止めるプレイは、たしかに明人の得意とするところだ。
「しかも二年になって、ああいうプレイがますます増えてるやん? きっとそれが認められたから、選抜入りもできたんよ」
「ありがとう。たまに、出すぎだって言われるけど」
「ええんちゃう? 足下も上手いんやし。うちは好きやで」
「……ありがとう」
本人は何も意識していないのだろうが、またしてもばっちり視線を合わせて、ストレートに言われてしまった。慣れていても、やはり少々照れくさい。
自分のこと、わかってないんだろうなあ。
明人ですらこうなのだから、他の男子については推して知るべしである。事実、桃香の性格がわかっているはずの同級生たちですら、
「◯◯君、ありがとう! むっちゃ嬉しい!」
などと元気な笑顔で言われ、頬を染めている場面をたまに見かけたりする。実際は、単に先生から頼まれた教材運びを手伝ったことへの、お礼に過ぎなかったりするのだが。
表情をごまかすように、前へと向き直って明人は答えた。
「キーパーは、〝十一人目のフィールドプレイヤー〟だから」
「へえ。なんや格好いい言葉、知っとるやん。明人のくせに」
「最後のひとことは余計だ」
気持ちを落ち着けつつ、小さな顔をにらむ真似をしてみせたが、「あはは。でも、ええ格言やね。それに、なんだか明人っぽい」と、これまた無邪気な笑顔で返されてしまう。
やれやれ。
自身もさり気なく頬を緩めて、チャーミングな幼馴染みの隣を、明人はのんびりと歩き続けた。