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その瞬間を、明人は公園で迎えた。インフルエンザが治ったあとの自主トレでも使った場所で、広々とした芝生のスペースが確保されている場所だ。
一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。
視界が、揺れた。
来た!
ぐらつく足下を感じた瞬間、しゃがむのでも頭を抱えるのでもなく、明人は目の前にある身体をまず抱き寄せた。そうしてさらに、みずからが屋根になるような体勢で身を低くする。
「ちょ! 明人!?」
顎の下のポニーテールから、シャンプーの残り香が漂ってくる。こんな非常識な、しかも寒い時間に呼び出してしまい、本当に申し訳なく思う。
それでも桃香は来てくれた。
「え!? きゃあっ! 揺れとる!!」
無意識にだろうが、桃香はそのまま自分にしがみついてくれている。
揺れは長く続いた。地域によっては十秒以上も揺れたようで、あとから調べたところ、自分たちが今いるこの場所もそうだったらしい。
ようやく収まったと感じたあたりから、周囲の音も聞きとれるようになってきた。
何かが倒れるような轟音。ガラスが割れる音。車のクラクション。そして、重なる声。
沢山の声が、どんどん大きくなっていく。悲鳴や泣き声、誰かを呼ぶような台詞がはっきりと聞き取れる。どこかで犬が吠える声もして一瞬ドキリとしたが、リンタロウは正が無事に保護してくれていることを思い出して安堵した。
「桃香」
できるだけ落ち着いた声音で、明人は腕のなかの幼馴染みに声をかけた。
「明人……地震、やんな?」
「ああ。凄くでかいやつだ」
桃香は心配そうな顔で、周囲に視線を走らせている。安心させるように、明人は黒目がちの瞳を覗き込んだ。
「桃香のご両親は、起きてたよな」
「え? あ、うん! お父さんもお母さんも、ちゃんと。だから大丈夫矢と思う。明人の電話のお陰や。ありがとう、ほんま!」
「いや、こっちこそ変な時間に、変なお願いしてごめんな。でもよかった」
「ううん。でも明人、なんで――」
「よかった。本当に」
何かを聞こうとする声を、優しく明人はさえぎった。そのままもう一度、チャーミングな猫目を見つめる。
「とりあえず、家族のところに戻ろう」
「うん! ありがとう!」
「歩けるか?」
「うん。どこも怪我しとらんよ。明人は?」
「俺も大丈夫」
逆にこちらの心配をしてくれる幼馴染みを、いい子だなとあらためて思う。まずは桃香の無事が確認できて本当に嬉しい。
「嬉しいよ。桃香が無事で」
心のうちをはっきり口にすると、遠慮がちに、だがしっかりと左手を握られる感触があった。
「また揺れたり、はぐれたりするとアレやから……家まで繋いでてもろて、ええ?」
「ああ。もちろん」
「ありがとう」
関西弁アクセントの「ありがとう」を聞きながら、他の人々の顔も明人は思い浮かべる。
きっと大丈夫だと信じて。
我が家に関しても、ほぼ確実に全員無事だろうとは思っていた。大きな家具などは、事情を理解してくれた正と一緒に夜のうちに固定しておいたし、今も彼が家族とともにいるからだ。兄は当初の予定通り、父母もリンタロウも早めに起こして、避難させてくれているだろう。
見先家も同様である。直の両親は、昨日までの娘がタイムリープしてきた「大人」だという事実をすでに知っていたそうだし、この日、この時間に地震が起きることも彼女はすでに報告済みだと言っていた。あとは眠っている間に入れ替わった、つまり十七歳に戻った本人だが、こちらも逆に父母の方で安全確保してくれるはず。
そう考えると、「未来を知っている」というのは本当に大きなアドバンテージになるのだとあらためて実感させられる。同時に、それほどの「力」を自分が持っているのだという、責任感のようなものも。
「せめて、有効に使わなきゃな」
「うん?」
思わず漏れた言葉に、桃香がマフラーに顎をうずめたまま視線を向けてくる。
「いや、なんでもない。寒くないか?」
「うん。明人は? 今日も手袋しとらんやん」
「大丈夫。桃香の手があったかいし」
「……うちも手袋、せんかったらよかった」
「ん?」
「なんでもない! ……って、うわっ!」
大きな声とともに桃香が見つめる方向には、自分たちとは逆向きにこちらへと避難してくる人々の群れがあった。ここ『小原城址公園』は近隣の学校等と並ぶ広域避難所になっているのだ。
「急ごう。きっと道路も、人や車がいっぱいなはずだ」
「うん!」
手を繋いだまま、明人と桃香は小走りに駆け出した。
***
「桃香!」
「お父さん! お母さん!」
家の前に出ていた両親を見つけると、桃香は満面の笑顔になり、嬉しそうにこちらにも頷いてから走り寄っていった。しっかりと抱き合う三人の様子を見て、明人自身もほっとする。
「よかった……」
つぶやいていると、すぐに桃香の母が気づいてくれた。
「明人君! ありがとう。ようわからんけど、あんたのお陰や!」
「そうだな、本当にありがとう。君のご家族は?」
隣にいた父親も、寝巻き姿のまま丁寧に頭をさげつつ、逆に明人を気づかってくれる。
桃香のお父さんにお会いするのって、かなり久しぶりだな。
なぜか冷静にそんなことを考えつつ、明人も心を込めて礼を返した。
「お陰様で、うちも大丈夫だと思います。こちらこそ、とんでもない時間に桃香さんを呼び出したうえ、お二人にもご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
実際、桃香と両親の無事を確保するために明人はかなり強引で、しかもいつか以上に「ずるい」手を使ったのだった。
「桃香。本当に悪いんだけど、朝の五時四十分に城址公園まできてくれないか。大事な話があるんだ」
作夜のうち桃香に電話して、そう頼んだのである。気持ちを告げられていることもあり、なんだか思わせぶりで申し訳なかったが、躊躇している場合ではなかった。果たして希望通り、桃香はただひとこと、けれどいつものように明るい声で返事をくれた。
「うん。わかった」
ただしこれだけでは、桃香本人の安全しか確保できない。そのまま母親にもかわってもらい、
「夜分にすみません、近守明人です。あの、大変申し訳ないんですが明日の早朝、五時四十分頃に、城址公園で桃香さんと少しだけ話をさせていただけないでしょうか。大切な話があるんです。それで、もちろんすぐにお帰ししますから六時頃まで、いえ、せめて五時五十分まででも、ご家族で起きて待っていてくださいませんか」
などと、知らない人が聞いたら、はた迷惑極まりない頼みごとまで試みたのだった。駄目なら別の方法を、とも考えていたが、子どもの頃から顔馴染みの桃香母は、娘と同じように何かを勘違いしてくれたらしい。
「あらあら、めっちゃ早いのねえ。うん、わかった。明人君ならうちらも信用しとるし、ええよ。ふつつか者の娘やけど、これからも末永くよろしくお願いしますね。そっかそっか、だから桃香、昨日ちょっとだけ様子が違ったんやねえ。やっと勇気を出したんかあ」
と、なんとこちらも、あっさりOKしてくれたのだ。
こうして明人は「近くにいる大切な人たち」を、なんとか守ることができたのだった。
「じゃあ、僕も家に戻りますので」
「ほんまにありがとうね」
「ご家族にもよろしく」
如才なく桃香の両親と頭を下げ合った明人は、最後にもう一度、チャーミングな幼馴染みに呼びかけた。
「桃香」
「うん?」
大きな瞳が嬉しそうに、じっと見つめ返してくる。何かを言おうと迷っていたら、先に彼女の方から口を開いてくれた。
「明人」
「うん?」
繰り返しとなったやり取りに、二人して笑ってしまう。こんな状況なのに、ご両親だって見ているのに、この笑顔から、魅力的な猫目からはやっぱり目が離せない。
「ありがとう、明人」
関西弁アクセントの、いつもの「ありがとう」。
自分が本当に十七歳だったら、この時代の人間だったらどんなによかっただろう。桃香の恋人として、高校生活やその後の大学生活を送れたらどんなに幸せだろう。
「桃香――」
開きかけた口がもう一度、彼女の声で遮られた。
「やっぱり、うちは明人が好き」
視界の隅でなぜか桃香母がガッツポーズをしているが、気にしないことにした。
「なんか最近、めっちゃ大人っぽくなって、自分だけ置いてかれてるみたいでちょっぴり悔しいけど、りっちゃんとかの方がお似合いやな、とか不安になったりもするけど、でもどんな明人でも、やっぱりうちは明人がめっちゃ好き」
「桃香……」
「だって、明人は明人やもん。うちの大好きな、明人やもん」
その言葉を聞いて、聞けて、言おうとしていた自分の言葉もはっきりと固まった。
いつか自分も、直を追って「跳ぶ」だろう。そのときこの身体は本来の、心と一致した年齢の自分に戻るだろう。
だからこそ伝えておきたい。伝えておかなくちゃいけない。
「桃香」
もう一度、明人は大きな瞳に呼びかける。
「これからも、よろしくな」
「うん!」
ポニーテールが、ふわりと元気に揺れた。
その瞬間を、明人は公園で迎えた。インフルエンザが治ったあとの自主トレでも使った場所で、広々とした芝生のスペースが確保されている場所だ。
一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。
視界が、揺れた。
来た!
ぐらつく足下を感じた瞬間、しゃがむのでも頭を抱えるのでもなく、明人は目の前にある身体をまず抱き寄せた。そうしてさらに、みずからが屋根になるような体勢で身を低くする。
「ちょ! 明人!?」
顎の下のポニーテールから、シャンプーの残り香が漂ってくる。こんな非常識な、しかも寒い時間に呼び出してしまい、本当に申し訳なく思う。
それでも桃香は来てくれた。
「え!? きゃあっ! 揺れとる!!」
無意識にだろうが、桃香はそのまま自分にしがみついてくれている。
揺れは長く続いた。地域によっては十秒以上も揺れたようで、あとから調べたところ、自分たちが今いるこの場所もそうだったらしい。
ようやく収まったと感じたあたりから、周囲の音も聞きとれるようになってきた。
何かが倒れるような轟音。ガラスが割れる音。車のクラクション。そして、重なる声。
沢山の声が、どんどん大きくなっていく。悲鳴や泣き声、誰かを呼ぶような台詞がはっきりと聞き取れる。どこかで犬が吠える声もして一瞬ドキリとしたが、リンタロウは正が無事に保護してくれていることを思い出して安堵した。
「桃香」
できるだけ落ち着いた声音で、明人は腕のなかの幼馴染みに声をかけた。
「明人……地震、やんな?」
「ああ。凄くでかいやつだ」
桃香は心配そうな顔で、周囲に視線を走らせている。安心させるように、明人は黒目がちの瞳を覗き込んだ。
「桃香のご両親は、起きてたよな」
「え? あ、うん! お父さんもお母さんも、ちゃんと。だから大丈夫矢と思う。明人の電話のお陰や。ありがとう、ほんま!」
「いや、こっちこそ変な時間に、変なお願いしてごめんな。でもよかった」
「ううん。でも明人、なんで――」
「よかった。本当に」
何かを聞こうとする声を、優しく明人はさえぎった。そのままもう一度、チャーミングな猫目を見つめる。
「とりあえず、家族のところに戻ろう」
「うん! ありがとう!」
「歩けるか?」
「うん。どこも怪我しとらんよ。明人は?」
「俺も大丈夫」
逆にこちらの心配をしてくれる幼馴染みを、いい子だなとあらためて思う。まずは桃香の無事が確認できて本当に嬉しい。
「嬉しいよ。桃香が無事で」
心のうちをはっきり口にすると、遠慮がちに、だがしっかりと左手を握られる感触があった。
「また揺れたり、はぐれたりするとアレやから……家まで繋いでてもろて、ええ?」
「ああ。もちろん」
「ありがとう」
関西弁アクセントの「ありがとう」を聞きながら、他の人々の顔も明人は思い浮かべる。
きっと大丈夫だと信じて。
我が家に関しても、ほぼ確実に全員無事だろうとは思っていた。大きな家具などは、事情を理解してくれた正と一緒に夜のうちに固定しておいたし、今も彼が家族とともにいるからだ。兄は当初の予定通り、父母もリンタロウも早めに起こして、避難させてくれているだろう。
見先家も同様である。直の両親は、昨日までの娘がタイムリープしてきた「大人」だという事実をすでに知っていたそうだし、この日、この時間に地震が起きることも彼女はすでに報告済みだと言っていた。あとは眠っている間に入れ替わった、つまり十七歳に戻った本人だが、こちらも逆に父母の方で安全確保してくれるはず。
そう考えると、「未来を知っている」というのは本当に大きなアドバンテージになるのだとあらためて実感させられる。同時に、それほどの「力」を自分が持っているのだという、責任感のようなものも。
「せめて、有効に使わなきゃな」
「うん?」
思わず漏れた言葉に、桃香がマフラーに顎をうずめたまま視線を向けてくる。
「いや、なんでもない。寒くないか?」
「うん。明人は? 今日も手袋しとらんやん」
「大丈夫。桃香の手があったかいし」
「……うちも手袋、せんかったらよかった」
「ん?」
「なんでもない! ……って、うわっ!」
大きな声とともに桃香が見つめる方向には、自分たちとは逆向きにこちらへと避難してくる人々の群れがあった。ここ『小原城址公園』は近隣の学校等と並ぶ広域避難所になっているのだ。
「急ごう。きっと道路も、人や車がいっぱいなはずだ」
「うん!」
手を繋いだまま、明人と桃香は小走りに駆け出した。
***
「桃香!」
「お父さん! お母さん!」
家の前に出ていた両親を見つけると、桃香は満面の笑顔になり、嬉しそうにこちらにも頷いてから走り寄っていった。しっかりと抱き合う三人の様子を見て、明人自身もほっとする。
「よかった……」
つぶやいていると、すぐに桃香の母が気づいてくれた。
「明人君! ありがとう。ようわからんけど、あんたのお陰や!」
「そうだな、本当にありがとう。君のご家族は?」
隣にいた父親も、寝巻き姿のまま丁寧に頭をさげつつ、逆に明人を気づかってくれる。
桃香のお父さんにお会いするのって、かなり久しぶりだな。
なぜか冷静にそんなことを考えつつ、明人も心を込めて礼を返した。
「お陰様で、うちも大丈夫だと思います。こちらこそ、とんでもない時間に桃香さんを呼び出したうえ、お二人にもご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
実際、桃香と両親の無事を確保するために明人はかなり強引で、しかもいつか以上に「ずるい」手を使ったのだった。
「桃香。本当に悪いんだけど、朝の五時四十分に城址公園まできてくれないか。大事な話があるんだ」
作夜のうち桃香に電話して、そう頼んだのである。気持ちを告げられていることもあり、なんだか思わせぶりで申し訳なかったが、躊躇している場合ではなかった。果たして希望通り、桃香はただひとこと、けれどいつものように明るい声で返事をくれた。
「うん。わかった」
ただしこれだけでは、桃香本人の安全しか確保できない。そのまま母親にもかわってもらい、
「夜分にすみません、近守明人です。あの、大変申し訳ないんですが明日の早朝、五時四十分頃に、城址公園で桃香さんと少しだけ話をさせていただけないでしょうか。大切な話があるんです。それで、もちろんすぐにお帰ししますから六時頃まで、いえ、せめて五時五十分まででも、ご家族で起きて待っていてくださいませんか」
などと、知らない人が聞いたら、はた迷惑極まりない頼みごとまで試みたのだった。駄目なら別の方法を、とも考えていたが、子どもの頃から顔馴染みの桃香母は、娘と同じように何かを勘違いしてくれたらしい。
「あらあら、めっちゃ早いのねえ。うん、わかった。明人君ならうちらも信用しとるし、ええよ。ふつつか者の娘やけど、これからも末永くよろしくお願いしますね。そっかそっか、だから桃香、昨日ちょっとだけ様子が違ったんやねえ。やっと勇気を出したんかあ」
と、なんとこちらも、あっさりOKしてくれたのだ。
こうして明人は「近くにいる大切な人たち」を、なんとか守ることができたのだった。
「じゃあ、僕も家に戻りますので」
「ほんまにありがとうね」
「ご家族にもよろしく」
如才なく桃香の両親と頭を下げ合った明人は、最後にもう一度、チャーミングな幼馴染みに呼びかけた。
「桃香」
「うん?」
大きな瞳が嬉しそうに、じっと見つめ返してくる。何かを言おうと迷っていたら、先に彼女の方から口を開いてくれた。
「明人」
「うん?」
繰り返しとなったやり取りに、二人して笑ってしまう。こんな状況なのに、ご両親だって見ているのに、この笑顔から、魅力的な猫目からはやっぱり目が離せない。
「ありがとう、明人」
関西弁アクセントの、いつもの「ありがとう」。
自分が本当に十七歳だったら、この時代の人間だったらどんなによかっただろう。桃香の恋人として、高校生活やその後の大学生活を送れたらどんなに幸せだろう。
「桃香――」
開きかけた口がもう一度、彼女の声で遮られた。
「やっぱり、うちは明人が好き」
視界の隅でなぜか桃香母がガッツポーズをしているが、気にしないことにした。
「なんか最近、めっちゃ大人っぽくなって、自分だけ置いてかれてるみたいでちょっぴり悔しいけど、りっちゃんとかの方がお似合いやな、とか不安になったりもするけど、でもどんな明人でも、やっぱりうちは明人がめっちゃ好き」
「桃香……」
「だって、明人は明人やもん。うちの大好きな、明人やもん」
その言葉を聞いて、聞けて、言おうとしていた自分の言葉もはっきりと固まった。
いつか自分も、直を追って「跳ぶ」だろう。そのときこの身体は本来の、心と一致した年齢の自分に戻るだろう。
だからこそ伝えておきたい。伝えておかなくちゃいけない。
「桃香」
もう一度、明人は大きな瞳に呼びかける。
「これからも、よろしくな」
「うん!」
ポニーテールが、ふわりと元気に揺れた。