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阪神淡路大震災。
一九九五年(平成七年)一月十七日、午前五時四十六分に発生したこの大地震は、六千名を超える死者と四万人を超える負傷者を出す、当時としては未曾有の大災害となった。震源地の淡路島沖にほど近いここ神戸市は、同じく兵庫県の西宮市や芦屋市、尼崎市、明石市などとならんで甚大な被害を受けてしまう事態となる。
ネット環境や社会インフラが今ほど整備されていない状況、加えて直近の都市型大震災といえば、一九四四年の昭和東南海地震にまで遡らなければならない歴史もあり、救助・支援活動は手探りでの対応となってしまうケースも多かった。困難な状況のなか全国各地からボランティアが駆けつけ、「ボランティア元年」とまで呼称されるようになった等の評価すべき部分はあったが、いずれも後世から見直しての話だ。実際に現地で被災した人々にとっては、当時はまさに「それどころではない」状況だったのが現実である。
幸いなことに、もとの人生ではそのとき、近守家も隣に住む桃香の家も皆が無事だった。あとから正に聞いたのだが、見先家も全員怪我一つなかったそうだ。
けれど、わからない。
歴史の復元力みたいなものがあるにしても、果たしてあれだけ大きな災害にまで作用しするだろうか。あのときは無事だったとしても、今回は大怪我をしたり、最悪のことになってしまう人が出るかもしれない。直の言葉ではないが、PKを止めるのとは規模が違う。違いすぎる。
明人は、これをずっと懸念していた。だから桃香や正、両親に旅行を勧めたのだ。少なくとも震災の発生時には、関西から離れてもらうために。近しい人たちだけでも、なんとかして守るために。
「俺は残りますから、直さんは跳んでください」
今一度、明人は真っ直ぐに目を見て伝えた。
直は元号改正の他に、天変地異もタイムリープのきっかけになると言っていた。あれほどの規模の地震なら、まず間違いなく該当するはずだ。そしてここに一枚だけある《飽きた》の六芒星。二つが組み合わされば、自分か直のどちらかは、ほぼ確実にタイムリープできるだろう。逆に言えば、これを逃がせばタイムリープの確率が高まるチャンスは、またしばらくは巡ってこない。はっきりわかるのは東日本大震災だが、それにしたって十六年もあとの出来事だし、可能ならばあれだって二度と起こって欲しくない。
いずれにせよ、確実に跳べるのは一人だけ。
だからこそ直に跳んで欲しかった。この人には、無事にもとの人生へ戻って欲しい。心からそう願っている。
「嫌よ。私も残る」
一瞬だけ首を振った直は、きっぱりと拒絶した。当たり前だが、瞳にはいたずらっぽいものではなく、どこまでも真剣な光が宿っている。
「私だってリーパーだもの。見先家の人間だもの。こういうときのために、私たちはいるんでしょう? 生まれたんでしょう?」
だろうな、と明人も思う。神様がいるのかどうかはわからない。でもこんな特殊能力がある人間は、自分たちのような存在は、何かのために、誰かのために使うべくしてその力を授けられたはずだ。
それでも。
「――こそ」
「え?」
気持ちが、心が、自然と唇からあふれ出る。
「だからこそです」
何かのためにこそ。誰かのためにこそ。大切な人のためにこそ。
「あなたのために、俺は力を使いたい」
「明人君?」
ああ、やっぱり綺麗だな、と場違いな感想が頭をよぎる。
「大切で」
さわやかな香り。
「近しくて」
艶やかなボブカット。
「守りたい人」
切れ長の目。
「俺にとっては、あなただってそうだから」
憧れの人から、明人はもう視線をそらさない。堂々と胸の内を伝える。
「だから直さんは跳んでください。そして、待っていてください」
「待ってる?」
そうだ。待っていて欲しい。必ず追いかけるから。絶対会いにいくから。
「高校生に戻った直さんとご家族は、俺が必ず守ります。うちの家族も、桃香の家族も守ります。だから直さんには、待っていて欲しいんです」
力強く頷いて、明人は頼んだ。
「もとの人生で。大人になった、未来で」
「わかった。じゃあ待ってる」
一瞬だけ目を見開いた直だが、直後にはいつものいたずらっぽい微笑に戻り、頷き返してくれた。
「ちゃんと遅れないできてね」
まるでデートの待ち合わせみたいに明るく言って、こちらの顔を覗き込んだりもしてくれる。それ以上は何も言わずに。何も聞かずに。
本当に、なんて優しい人だろう。素敵な人だろう。美しい面立ちを、明人はじっと見つめてしまっていた。
「どうしたの? 私の美貌に見とれちゃった?」
「す、すいません!」
桃香みたいな台詞でおどけながら、直は「ごめんね」と謝ってきた。
「せっかく東京に誘ってくれたりもしたのに」
「ああ、いえ。よく考えたら、かなり強引でしたね」
「まあ普通、高校生同士がいきなり旅行とかに誘わないものね」
「たしかに」
頭をかきつつ、高校生じゃなくてもハードルは高いだろう、と明人は今さらながら自分につっこむしかない。
「まだ受験が続くのに、かなり無茶なスケジュールだったし」
「そうですね」
彼女の言う通り、考えてみれば無茶苦茶な誘いだ。本当に女性を口説く目的でやっているんだとしたら、もとの時代で言うところの「ドン引き」されてもおかしくない。それだけ震災を避けることに、必死になっていたということでもあるが。
「でも、楽しみだなあ。二十四年後の明人君」
「〝明人君〟って歳じゃないですけどね」
「それを言うなら、私だっておばちゃんだよ」
おたがいに苦笑してしまう。
二十四年後、二〇一九年には二人とも四十を超えている。その歳になった明人は当初の希望に沿って、大手IT企業に就職していた。インターネットがここまで爆発的に普及するとは思ってもいなかったが、いずれにせよ「コンピューター関連の仕事をする」という、十代の頃に抱いた目標を叶えていたのだ。
だが、直についてはまったく知らない。彼女は一体、どんな女性になっていたのだろう。もとの人生では、高校時代に深い交流がなかったこともあり、卒業後に連絡を取ったりはしなかった。
「あなたがここに残るって決めたのなら、私はもう止めない。さっきも言ったけど、きちんと待ってる。明人君を信じてる」
「だから」と直は、ふたたびいたずらっぽく笑ってみせた。
「再会したら嘘でも、変わりませんね、って言うんだよ? いい?」
芝居がかった仕草で人差し指を立てる姿に、明人も笑ってしまった。きっと彼女は大人になっても、こんなふうに素敵な女性のままなのだろう。
「あ、今、本気で笑ったでしょう? また面倒くさい女とか思って」
「思ってませんってば!」
「怪しいなあ。私の方が一学年上なんだから、未来でもちゃんとリスペクトするんだよ」
いつかとまったく逆のことを言っている気もするが、お陰で明人は思い出すことができた。同時にまたしても、何やってんだ俺、と心のなかで歯噛みする。
「でも」
ぎこちないながらも笑ってみせる。似たような表情を作れていますように、と願いながら。
「明日までは俺たち、同い年ですよね」
「!!」
あっ! とばかりに口もとへ当てられる白い両手。
「すいません。震災のことばっかり考えてたから、なんにも用意できなくて」
大きく見開かれた瞳に向かって、「だから」と明人は告げる。
「二十四年後に、あらためてお祝いしますから。プレゼント、用意しておきますから」
「うん……うん!」
「こんなときに言うのもなんだし、二日も早いですけど」
ぎこちなさが自然と消えた笑顔から、素直な言葉が紡がれる。
「お誕生日おめでとうございます、直さん」
「ありがとう!」
瞬間、彼女の香りがいっぱいに広がった。最初と反対側の頬に、柔らかい感触がふたたび触れる。
「二〇一九年で、待ってるね」
その温もりを、明人はずっと忘れなかった。
***
帰宅後、門を開けるとリンタロウと一緒に正が待っていた。
「おう、お帰り」
「ただいま」
「直は? 帰ったの?」
「うん。ちゃんと家まで送ったよ」
「サンキュ。早々にリクエストに答えるとは、さすが我が弟だ」
たしかにそんなことも言われたっけ、と思い出しながら、じゃれついてくるリンタロウの顎や頭を明人も撫でてやった。兄弟揃って相手をしてくれるシチュエーションは彼も予想外だったらしく、いつも以上に嬉しそうに尻尾を振ってくれている。
「リンタロウも、よくやったって言ってるぞ。な?」
柔らかな背中を撫でながら言った正は、そのままなんでもないことのように尋ねてきた。
「明人」
「うん?」
「明人は、明人なんだよな?」
それだけで明人にもわかった。兄が、正がほぼすべてを悟っていることを。自分が以前とは「変わった」事実に、気づいているのだと。
だが正は、深くは訊いてこなかった。普段通りのとぼけた、けれども楽しそうな表情で、リンタロウの耳の後ろを掻いてやったりしている。彼の方こそ、まさにいつものままだった。
「この間、祖母ちゃんに会ってきたんだ。一週間くらい前かな」
「うん」
飄々とした口調も変わらない。
「祖母ちゃん、また言ってたよ。明人はあの人によく似てる、って」
「うん」
「あの人」が誰のことかは、明人も訊き直さない。かわりに浮かんだのは、あらためての尊敬と、そして感謝の気持ちだった。
兄ちゃんにも敵わないな。
同時に思う。この人の弟でよかった。この人の弟であることが誇らしい。そして、この人も守りたい。
「そうそう。で、祖母ちゃんから、これを預かってきたんだ。渡すの忘れてた」
「え!? これって」
来ているジャージのポケットから正が取り出したものは、あの《飽きた》の六芒星が入っているものと、まったく同じ形のお守りだった。
「よくわかんないけど、どうせ明人のことだから、前のは誰かのために使っちゃうだろうしって。こっちは将来の自分用だって言ってた。あと、世話がかかるとこまであの人に似てるんだから、ってなんか面白そうに笑ってたぞ」
「祖母ちゃん……」
どうやら祖母は、渡した一つ目の《飽きた》を、明人がこの時期に使うであろうと予想していたらしい。ということは、彼女も震災が起きてしまう未来はわかっているのだろう。明人によく似ていたという「あの人」、すなわち自身の夫から聞いて。
「祖母ちゃんの話によると、俺たちの祖父さんて、なんか凄い人だったらしいな」
正がお守りを手渡してくれる。しゃがみ込み「あ、おまえも聞きたい?」と、まさに興味津々の顔をしているリンタロウの頭を、反対の手で撫でながら。
ふと明人は気がついた。めずらしく兄の目が真剣で、かつ穏やかな色をたたえていることに。最近もこんな表情を見た記憶がある。あれはいつだったろうか。
「戦争の終わり頃にさ」
目に穏やかな光を宿したまま、正は続ける。
「祖父ちゃん、何人かの人を助けたことがあるんだってさ」
「あ」
思わず声を上げてしまった明人だが、正の方は特に何も言わない。目の光だけが、さらに強くなったように見える。
「終戦の直前、祖母ちゃんや近所の人たちが、長崎に行こうって話をしてたんだって」
「うん」
「長崎には当時から、医大があったみたいで」
兄のお陰で、いつしか明人も穏やかな表情を取り戻せていた。視線を交わす先で、正が小さく頷いてくれる。
「近所の元看護師さんのところに人手が足りないって依頼がきて、同じように医療経験のある祖母ちゃんたちが、仲間うちの何人かで一週間程度、今で言うボランティアに行こうとしてたそうなんだ」
「でも、止められたんだよね」
尊敬を込めた微笑とともに、明人は確認する。
一九四五年八月九日という日に、祖父が妻たちを長崎に行かせなかったことを。
正もまた、同じ微笑みでもう一度頷いてくれる。
「ああ。祖父さんが、絶対に行っちゃ駄目だ、って強く止めてくれたんだと。合わせて、もうすぐ戦争は終わるから、とも言ったって」
「うん。わかるよ」
明人は笑みを深くした。
「祖父ちゃんて、祖母ちゃんと出会ったときからすでに老成してるっていうか、ちょっと年寄りくさい人だったんだよね」
「あれ? その話――」
知ってるんだ? と続いたであろう台詞を、だが正は飲み込んでくれた。かわりに「そっか。明人は祖父さんに似てるんだもんな」と、いつもの飄々とした顔に戻って、どこか楽しげに口にしている。
「うん」
明人も素直に認める。タイムリーパーのことを、正がどこまで知っているのかはわからない。けれども兄は最後まで自分を、みずからが知る弟、十七歳の近守明人として扱ってくれているのだとわかる。今の台詞一つとっても、痛いほどに。
「俺は、祖父ちゃんに似てるから」
言われた言葉を繰り返す。誇らしい気持ちで。
自分はその人と似ているから。近くの人、大切な人を守るくらいしかできないけれど、でも、彼と同じささやかな「力」を持つ者だから。近守の、タイムリーパーだから。
「明人」
自身もどこか誇らしそうに笑ってくれていた正が、さらりと尋ねてきたのは次の瞬間だった。
「明日、地震が起きるんだろ」
二つ目の《飽きた》をもらったときと同じくらい、明人は驚いた。
「!! なんで……」
「直から聞いたんだ。一次が終わった直後だったかな。また人をからかうようなことを、って思ったけどあいつの顔、真剣だったから」
自分以外にも直が真剣な眼差しを向けた人がいたことに、明人は一瞬だけ嫉妬した。が、すぐに納得できた。
兄ちゃんなら仕方ない。いや、兄ちゃんでよかった。
「俺が不思議そうな顔してたらすぐに、女の勘ってやつよ、とかなんとか笑ってごまかされたけど」
「でも、信じたんだよね」
「ああ。もちろん」
そのひとことで、じゅうぶんだった。
「兄ちゃんも直さんのこと、好きなんだね」
「ああ。もちろん」
つい微笑んでしまう。性格こそ正反対だけど、やっぱり兄弟だ。自分と同じだ。むしろそれが嬉しい。
「おんなじ台詞、言ってるよ?」
「ああ。もちろん」
三度目は明らかにわざと繰り返して、正は楽しそうに笑った。
「そりゃ、あれだけいい女だもんな」
「うん」
「ま、残念ながら、歴史小説が好きでぬーぼーとしてるゴールキーパーの方が、好みらしいけど」
ごめん、とは言えなかった。言わなかった。かわりに明人は胸を張って切り出した。
「兄ちゃんは……ううん、兄ちゃんと父さんと母さんとリンタロウと、直さんと桃香と、二人の家族ぐらいは、さ」
自分の名前がでてきたリンタロウが、「うん?」というように首を傾げている。
つぶらな瞳に笑いかけて、明人はきっぱりと告げる。
大切な人たちを、そばにいる人たちを、大好きな人たちを「守るよ」と。
「地震が起きても。いや、起きる前に俺がみんなを守るから」
「明人」
「俺は、近守の男だから。祖父ちゃんに似てるから」
ワン! というリンタロウの声。わかった! と言ってくれたように感じたとき、本当にその言葉がかけられた。
「わかった。信頼してるよ」
変わらない飄々とした口調で、誰よりも尊敬する兄がぽんと肩を叩いてくれる。
「明人は、明人だから」
「ありがとう」
笑顔とともに、明人は小さく頭を下げた。
阪神淡路大震災。
一九九五年(平成七年)一月十七日、午前五時四十六分に発生したこの大地震は、六千名を超える死者と四万人を超える負傷者を出す、当時としては未曾有の大災害となった。震源地の淡路島沖にほど近いここ神戸市は、同じく兵庫県の西宮市や芦屋市、尼崎市、明石市などとならんで甚大な被害を受けてしまう事態となる。
ネット環境や社会インフラが今ほど整備されていない状況、加えて直近の都市型大震災といえば、一九四四年の昭和東南海地震にまで遡らなければならない歴史もあり、救助・支援活動は手探りでの対応となってしまうケースも多かった。困難な状況のなか全国各地からボランティアが駆けつけ、「ボランティア元年」とまで呼称されるようになった等の評価すべき部分はあったが、いずれも後世から見直しての話だ。実際に現地で被災した人々にとっては、当時はまさに「それどころではない」状況だったのが現実である。
幸いなことに、もとの人生ではそのとき、近守家も隣に住む桃香の家も皆が無事だった。あとから正に聞いたのだが、見先家も全員怪我一つなかったそうだ。
けれど、わからない。
歴史の復元力みたいなものがあるにしても、果たしてあれだけ大きな災害にまで作用しするだろうか。あのときは無事だったとしても、今回は大怪我をしたり、最悪のことになってしまう人が出るかもしれない。直の言葉ではないが、PKを止めるのとは規模が違う。違いすぎる。
明人は、これをずっと懸念していた。だから桃香や正、両親に旅行を勧めたのだ。少なくとも震災の発生時には、関西から離れてもらうために。近しい人たちだけでも、なんとかして守るために。
「俺は残りますから、直さんは跳んでください」
今一度、明人は真っ直ぐに目を見て伝えた。
直は元号改正の他に、天変地異もタイムリープのきっかけになると言っていた。あれほどの規模の地震なら、まず間違いなく該当するはずだ。そしてここに一枚だけある《飽きた》の六芒星。二つが組み合わされば、自分か直のどちらかは、ほぼ確実にタイムリープできるだろう。逆に言えば、これを逃がせばタイムリープの確率が高まるチャンスは、またしばらくは巡ってこない。はっきりわかるのは東日本大震災だが、それにしたって十六年もあとの出来事だし、可能ならばあれだって二度と起こって欲しくない。
いずれにせよ、確実に跳べるのは一人だけ。
だからこそ直に跳んで欲しかった。この人には、無事にもとの人生へ戻って欲しい。心からそう願っている。
「嫌よ。私も残る」
一瞬だけ首を振った直は、きっぱりと拒絶した。当たり前だが、瞳にはいたずらっぽいものではなく、どこまでも真剣な光が宿っている。
「私だってリーパーだもの。見先家の人間だもの。こういうときのために、私たちはいるんでしょう? 生まれたんでしょう?」
だろうな、と明人も思う。神様がいるのかどうかはわからない。でもこんな特殊能力がある人間は、自分たちのような存在は、何かのために、誰かのために使うべくしてその力を授けられたはずだ。
それでも。
「――こそ」
「え?」
気持ちが、心が、自然と唇からあふれ出る。
「だからこそです」
何かのためにこそ。誰かのためにこそ。大切な人のためにこそ。
「あなたのために、俺は力を使いたい」
「明人君?」
ああ、やっぱり綺麗だな、と場違いな感想が頭をよぎる。
「大切で」
さわやかな香り。
「近しくて」
艶やかなボブカット。
「守りたい人」
切れ長の目。
「俺にとっては、あなただってそうだから」
憧れの人から、明人はもう視線をそらさない。堂々と胸の内を伝える。
「だから直さんは跳んでください。そして、待っていてください」
「待ってる?」
そうだ。待っていて欲しい。必ず追いかけるから。絶対会いにいくから。
「高校生に戻った直さんとご家族は、俺が必ず守ります。うちの家族も、桃香の家族も守ります。だから直さんには、待っていて欲しいんです」
力強く頷いて、明人は頼んだ。
「もとの人生で。大人になった、未来で」
「わかった。じゃあ待ってる」
一瞬だけ目を見開いた直だが、直後にはいつものいたずらっぽい微笑に戻り、頷き返してくれた。
「ちゃんと遅れないできてね」
まるでデートの待ち合わせみたいに明るく言って、こちらの顔を覗き込んだりもしてくれる。それ以上は何も言わずに。何も聞かずに。
本当に、なんて優しい人だろう。素敵な人だろう。美しい面立ちを、明人はじっと見つめてしまっていた。
「どうしたの? 私の美貌に見とれちゃった?」
「す、すいません!」
桃香みたいな台詞でおどけながら、直は「ごめんね」と謝ってきた。
「せっかく東京に誘ってくれたりもしたのに」
「ああ、いえ。よく考えたら、かなり強引でしたね」
「まあ普通、高校生同士がいきなり旅行とかに誘わないものね」
「たしかに」
頭をかきつつ、高校生じゃなくてもハードルは高いだろう、と明人は今さらながら自分につっこむしかない。
「まだ受験が続くのに、かなり無茶なスケジュールだったし」
「そうですね」
彼女の言う通り、考えてみれば無茶苦茶な誘いだ。本当に女性を口説く目的でやっているんだとしたら、もとの時代で言うところの「ドン引き」されてもおかしくない。それだけ震災を避けることに、必死になっていたということでもあるが。
「でも、楽しみだなあ。二十四年後の明人君」
「〝明人君〟って歳じゃないですけどね」
「それを言うなら、私だっておばちゃんだよ」
おたがいに苦笑してしまう。
二十四年後、二〇一九年には二人とも四十を超えている。その歳になった明人は当初の希望に沿って、大手IT企業に就職していた。インターネットがここまで爆発的に普及するとは思ってもいなかったが、いずれにせよ「コンピューター関連の仕事をする」という、十代の頃に抱いた目標を叶えていたのだ。
だが、直についてはまったく知らない。彼女は一体、どんな女性になっていたのだろう。もとの人生では、高校時代に深い交流がなかったこともあり、卒業後に連絡を取ったりはしなかった。
「あなたがここに残るって決めたのなら、私はもう止めない。さっきも言ったけど、きちんと待ってる。明人君を信じてる」
「だから」と直は、ふたたびいたずらっぽく笑ってみせた。
「再会したら嘘でも、変わりませんね、って言うんだよ? いい?」
芝居がかった仕草で人差し指を立てる姿に、明人も笑ってしまった。きっと彼女は大人になっても、こんなふうに素敵な女性のままなのだろう。
「あ、今、本気で笑ったでしょう? また面倒くさい女とか思って」
「思ってませんってば!」
「怪しいなあ。私の方が一学年上なんだから、未来でもちゃんとリスペクトするんだよ」
いつかとまったく逆のことを言っている気もするが、お陰で明人は思い出すことができた。同時にまたしても、何やってんだ俺、と心のなかで歯噛みする。
「でも」
ぎこちないながらも笑ってみせる。似たような表情を作れていますように、と願いながら。
「明日までは俺たち、同い年ですよね」
「!!」
あっ! とばかりに口もとへ当てられる白い両手。
「すいません。震災のことばっかり考えてたから、なんにも用意できなくて」
大きく見開かれた瞳に向かって、「だから」と明人は告げる。
「二十四年後に、あらためてお祝いしますから。プレゼント、用意しておきますから」
「うん……うん!」
「こんなときに言うのもなんだし、二日も早いですけど」
ぎこちなさが自然と消えた笑顔から、素直な言葉が紡がれる。
「お誕生日おめでとうございます、直さん」
「ありがとう!」
瞬間、彼女の香りがいっぱいに広がった。最初と反対側の頬に、柔らかい感触がふたたび触れる。
「二〇一九年で、待ってるね」
その温もりを、明人はずっと忘れなかった。
***
帰宅後、門を開けるとリンタロウと一緒に正が待っていた。
「おう、お帰り」
「ただいま」
「直は? 帰ったの?」
「うん。ちゃんと家まで送ったよ」
「サンキュ。早々にリクエストに答えるとは、さすが我が弟だ」
たしかにそんなことも言われたっけ、と思い出しながら、じゃれついてくるリンタロウの顎や頭を明人も撫でてやった。兄弟揃って相手をしてくれるシチュエーションは彼も予想外だったらしく、いつも以上に嬉しそうに尻尾を振ってくれている。
「リンタロウも、よくやったって言ってるぞ。な?」
柔らかな背中を撫でながら言った正は、そのままなんでもないことのように尋ねてきた。
「明人」
「うん?」
「明人は、明人なんだよな?」
それだけで明人にもわかった。兄が、正がほぼすべてを悟っていることを。自分が以前とは「変わった」事実に、気づいているのだと。
だが正は、深くは訊いてこなかった。普段通りのとぼけた、けれども楽しそうな表情で、リンタロウの耳の後ろを掻いてやったりしている。彼の方こそ、まさにいつものままだった。
「この間、祖母ちゃんに会ってきたんだ。一週間くらい前かな」
「うん」
飄々とした口調も変わらない。
「祖母ちゃん、また言ってたよ。明人はあの人によく似てる、って」
「うん」
「あの人」が誰のことかは、明人も訊き直さない。かわりに浮かんだのは、あらためての尊敬と、そして感謝の気持ちだった。
兄ちゃんにも敵わないな。
同時に思う。この人の弟でよかった。この人の弟であることが誇らしい。そして、この人も守りたい。
「そうそう。で、祖母ちゃんから、これを預かってきたんだ。渡すの忘れてた」
「え!? これって」
来ているジャージのポケットから正が取り出したものは、あの《飽きた》の六芒星が入っているものと、まったく同じ形のお守りだった。
「よくわかんないけど、どうせ明人のことだから、前のは誰かのために使っちゃうだろうしって。こっちは将来の自分用だって言ってた。あと、世話がかかるとこまであの人に似てるんだから、ってなんか面白そうに笑ってたぞ」
「祖母ちゃん……」
どうやら祖母は、渡した一つ目の《飽きた》を、明人がこの時期に使うであろうと予想していたらしい。ということは、彼女も震災が起きてしまう未来はわかっているのだろう。明人によく似ていたという「あの人」、すなわち自身の夫から聞いて。
「祖母ちゃんの話によると、俺たちの祖父さんて、なんか凄い人だったらしいな」
正がお守りを手渡してくれる。しゃがみ込み「あ、おまえも聞きたい?」と、まさに興味津々の顔をしているリンタロウの頭を、反対の手で撫でながら。
ふと明人は気がついた。めずらしく兄の目が真剣で、かつ穏やかな色をたたえていることに。最近もこんな表情を見た記憶がある。あれはいつだったろうか。
「戦争の終わり頃にさ」
目に穏やかな光を宿したまま、正は続ける。
「祖父ちゃん、何人かの人を助けたことがあるんだってさ」
「あ」
思わず声を上げてしまった明人だが、正の方は特に何も言わない。目の光だけが、さらに強くなったように見える。
「終戦の直前、祖母ちゃんや近所の人たちが、長崎に行こうって話をしてたんだって」
「うん」
「長崎には当時から、医大があったみたいで」
兄のお陰で、いつしか明人も穏やかな表情を取り戻せていた。視線を交わす先で、正が小さく頷いてくれる。
「近所の元看護師さんのところに人手が足りないって依頼がきて、同じように医療経験のある祖母ちゃんたちが、仲間うちの何人かで一週間程度、今で言うボランティアに行こうとしてたそうなんだ」
「でも、止められたんだよね」
尊敬を込めた微笑とともに、明人は確認する。
一九四五年八月九日という日に、祖父が妻たちを長崎に行かせなかったことを。
正もまた、同じ微笑みでもう一度頷いてくれる。
「ああ。祖父さんが、絶対に行っちゃ駄目だ、って強く止めてくれたんだと。合わせて、もうすぐ戦争は終わるから、とも言ったって」
「うん。わかるよ」
明人は笑みを深くした。
「祖父ちゃんて、祖母ちゃんと出会ったときからすでに老成してるっていうか、ちょっと年寄りくさい人だったんだよね」
「あれ? その話――」
知ってるんだ? と続いたであろう台詞を、だが正は飲み込んでくれた。かわりに「そっか。明人は祖父さんに似てるんだもんな」と、いつもの飄々とした顔に戻って、どこか楽しげに口にしている。
「うん」
明人も素直に認める。タイムリーパーのことを、正がどこまで知っているのかはわからない。けれども兄は最後まで自分を、みずからが知る弟、十七歳の近守明人として扱ってくれているのだとわかる。今の台詞一つとっても、痛いほどに。
「俺は、祖父ちゃんに似てるから」
言われた言葉を繰り返す。誇らしい気持ちで。
自分はその人と似ているから。近くの人、大切な人を守るくらいしかできないけれど、でも、彼と同じささやかな「力」を持つ者だから。近守の、タイムリーパーだから。
「明人」
自身もどこか誇らしそうに笑ってくれていた正が、さらりと尋ねてきたのは次の瞬間だった。
「明日、地震が起きるんだろ」
二つ目の《飽きた》をもらったときと同じくらい、明人は驚いた。
「!! なんで……」
「直から聞いたんだ。一次が終わった直後だったかな。また人をからかうようなことを、って思ったけどあいつの顔、真剣だったから」
自分以外にも直が真剣な眼差しを向けた人がいたことに、明人は一瞬だけ嫉妬した。が、すぐに納得できた。
兄ちゃんなら仕方ない。いや、兄ちゃんでよかった。
「俺が不思議そうな顔してたらすぐに、女の勘ってやつよ、とかなんとか笑ってごまかされたけど」
「でも、信じたんだよね」
「ああ。もちろん」
そのひとことで、じゅうぶんだった。
「兄ちゃんも直さんのこと、好きなんだね」
「ああ。もちろん」
つい微笑んでしまう。性格こそ正反対だけど、やっぱり兄弟だ。自分と同じだ。むしろそれが嬉しい。
「おんなじ台詞、言ってるよ?」
「ああ。もちろん」
三度目は明らかにわざと繰り返して、正は楽しそうに笑った。
「そりゃ、あれだけいい女だもんな」
「うん」
「ま、残念ながら、歴史小説が好きでぬーぼーとしてるゴールキーパーの方が、好みらしいけど」
ごめん、とは言えなかった。言わなかった。かわりに明人は胸を張って切り出した。
「兄ちゃんは……ううん、兄ちゃんと父さんと母さんとリンタロウと、直さんと桃香と、二人の家族ぐらいは、さ」
自分の名前がでてきたリンタロウが、「うん?」というように首を傾げている。
つぶらな瞳に笑いかけて、明人はきっぱりと告げる。
大切な人たちを、そばにいる人たちを、大好きな人たちを「守るよ」と。
「地震が起きても。いや、起きる前に俺がみんなを守るから」
「明人」
「俺は、近守の男だから。祖父ちゃんに似てるから」
ワン! というリンタロウの声。わかった! と言ってくれたように感じたとき、本当にその言葉がかけられた。
「わかった。信頼してるよ」
変わらない飄々とした口調で、誰よりも尊敬する兄がぽんと肩を叩いてくれる。
「明人は、明人だから」
「ありがとう」
笑顔とともに、明人は小さく頭を下げた。