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 阪神淡路大震災。
 一九九五年(平成七年)一月十七日、午前五時四十六分に発生したこの大地震は、六千名を超える死者と四万人を超える負傷者を出す、当時としては未曾有の大災害となった。震源地の淡路島沖にほど近いここ神戸市は、同じく兵庫県の西宮市や(あし)()市、(あまが)(さき)市、(あか)()市などとならんで甚大な被害を受けてしまう事態となる。
 ネット環境や社会インフラが今ほど整備されていない状況、加えて直近の都市型大震災といえば、一九四四年の(しょう)()(とう)(なん)(かい)地震にまで遡らなければならない歴史もあり、救助・支援活動は手探りでの対応となってしまうケースも多かった。困難な状況のなか全国各地からボランティアが駆けつけ、「ボランティア元年」とまで呼称されるようになった等の評価すべき部分はあったが、いずれも後世から見直しての話だ。実際に現地で被災した人々にとっては、当時はまさに「それどころではない」状況だったのが現実である。

 幸いなことに、もとの人生ではそのとき、近守家も隣に住む桃香の家も皆が無事だった。あとから正に聞いたのだが、見先家も全員怪我一つなかったそうだ。
 けれど、わからない。
 歴史の復元力みたいなものがあるにしても、果たしてあれだけ大きな災害にまで作用しするだろうか。あのときは無事だったとしても、今回は大怪我をしたり、最悪のことになってしまう人が出るかもしれない。直の言葉ではないが、PKを止めるのとは規模が違う。違いすぎる。
 明人は、これをずっと懸念していた。だから桃香や正、両親に旅行を勧めたのだ。少なくとも震災の発生時には、関西から離れてもらうために。近しい人たちだけでも、なんとかして守るために。

「俺は残りますから、直さんは跳んでください」

 今一度、明人は真っ直ぐに目を見て伝えた。
 直は元号改正の他に、天変地異もタイムリープのきっかけになると言っていた。あれほどの規模の地震なら、まず間違いなく該当するはずだ。そしてここに一枚だけある《飽きた》の六芒星。二つが組み合わされば、自分か直のどちらかは、ほぼ確実にタイムリープできるだろう。逆に言えば、これを逃がせばタイムリープの確率が高まるチャンスは、またしばらくは巡ってこない。はっきりわかるのは東日本大震災だが、それにしたって十六年もあとの出来事だし、可能ならばあれだって二度と起こって欲しくない。

 いずれにせよ、確実に跳べるのは一人だけ。
 だからこそ直に跳んで欲しかった。この人には、無事にもとの人生へ戻って欲しい。心からそう願っている。

「嫌よ。私も残る」

 一瞬だけ首を振った直は、きっぱりと拒絶した。当たり前だが、瞳にはいたずらっぽいものではなく、どこまでも真剣な光が宿っている。

「私だってリーパーだもの。見先家の人間だもの。こういうときのために、私たちはいるんでしょう? 生まれたんでしょう?」

 だろうな、と明人も思う。神様がいるのかどうかはわからない。でもこんな特殊能力がある人間は、自分たちのような存在は、何かのために、誰かのために使うべくしてその力を授けられたはずだ。
 それでも。

「――こそ」
「え?」

 気持ちが、心が、自然と唇からあふれ出る。

「だからこそです」

 何かのためにこそ。誰かのためにこそ。大切な人のためにこそ。

「あなたのために、俺は力を使いたい」
「明人君?」

 ああ、やっぱり綺麗だな、と場違いな感想が頭をよぎる。

「大切で」

 さわやかな香り。

「近しくて」

 艶やかなボブカット。

「守りたい人」

 切れ長の目。

「俺にとっては、あなただってそうだから」

 憧れの人から、明人はもう視線をそらさない。堂々と胸の内を伝える。

「だから直さんは跳んでください。そして、待っていてください」
「待ってる?」

 そうだ。待っていて欲しい。必ず追いかけるから。絶対会いにいくから。

「高校生に戻った直さんとご家族は、俺が必ず守ります。うちの家族も、桃香の家族も守ります。だから直さんには、待っていて欲しいんです」

 力強く頷いて、明人は頼んだ。

「もとの人生で。大人になった、未来で」



「わかった。じゃあ待ってる」

 一瞬だけ目を見開いた直だが、直後にはいつものいたずらっぽい微笑に戻り、頷き返してくれた。

「ちゃんと遅れないできてね」

 まるでデートの待ち合わせみたいに明るく言って、こちらの顔を覗き込んだりもしてくれる。それ以上は何も言わずに。何も聞かずに。
 本当に、なんて優しい人だろう。素敵な人だろう。美しい面立ちを、明人はじっと見つめてしまっていた。

「どうしたの? 私の美貌に見とれちゃった?」
「す、すいません!」

 桃香みたいな台詞でおどけながら、直は「ごめんね」と謝ってきた。

「せっかく東京に誘ってくれたりもしたのに」
「ああ、いえ。よく考えたら、かなり強引でしたね」
「まあ普通、高校生同士がいきなり旅行とかに誘わないものね」
「たしかに」

 頭をかきつつ、高校生じゃなくてもハードルは高いだろう、と明人は今さらながら自分につっこむしかない。

「まだ受験が続くのに、かなり無茶なスケジュールだったし」
「そうですね」

 彼女の言う通り、考えてみれば無茶苦茶な誘いだ。本当に女性を口説く目的でやっているんだとしたら、もとの時代で言うところの「ドン引き」されてもおかしくない。それだけ震災を避けることに、必死になっていたということでもあるが。

「でも、楽しみだなあ。二十四年後の明人君」
「〝明人君〟って歳じゃないですけどね」
「それを言うなら、私だっておばちゃんだよ」

 おたがいに苦笑してしまう。
 二十四年後、二〇一九年には二人とも四十を超えている。その歳になった明人は当初の希望に沿って、大手IT企業に就職していた。インターネットがここまで爆発的に普及するとは思ってもいなかったが、いずれにせよ「コンピューター関連の仕事をする」という、十代の頃に抱いた目標を叶えていたのだ。
 だが、直についてはまったく知らない。彼女は一体、どんな女性になっていたのだろう。もとの人生では、高校時代に深い交流がなかったこともあり、卒業後に連絡を取ったりはしなかった。

「あなたがここに残るって決めたのなら、私はもう止めない。さっきも言ったけど、きちんと待ってる。明人君を信じてる」
「だから」と直は、ふたたびいたずらっぽく笑ってみせた。
「再会したら嘘でも、変わりませんね、って言うんだよ? いい?」

 芝居がかった仕草で人差し指を立てる姿に、明人も笑ってしまった。きっと彼女は大人になっても、こんなふうに素敵な女性のままなのだろう。

「あ、今、本気で笑ったでしょう? また面倒くさい女とか思って」
「思ってませんってば!」
「怪しいなあ。私の方が一学年上なんだから、未来でもちゃんとリスペクトするんだよ」

 いつかとまったく逆のことを言っている気もするが、お陰で明人は思い出すことができた。同時にまたしても、何やってんだ俺、と心のなかで歯噛みする。

「でも」

 ぎこちないながらも笑ってみせる。似たような表情を作れていますように、と願いながら。

「明日までは俺たち、同い年ですよね」
「!!」

 あっ! とばかりに口もとへ当てられる白い両手。

「すいません。震災のことばっかり考えてたから、なんにも用意できなくて」

 大きく見開かれた瞳に向かって、「だから」と明人は告げる。

「二十四年後に、あらためてお祝いしますから。プレゼント、用意しておきますから」
「うん……うん!」
「こんなときに言うのもなんだし、二日も早いですけど」

 ぎこちなさが自然と消えた笑顔から、素直な言葉が紡がれる。

「お誕生日おめでとうございます、直さん」
「ありがとう!」

 瞬間、彼女の香りがいっぱいに広がった。最初と反対側の頬に、柔らかい感触がふたたび触れる。

「二〇一九年で、待ってるね」

 その温もりを、明人はずっと忘れなかった。


   ***


 帰宅後、門を開けるとリンタロウと一緒に正が待っていた。

「おう、お帰り」
「ただいま」
「直は? 帰ったの?」
「うん。ちゃんと家まで送ったよ」
「サンキュ。早々にリクエストに答えるとは、さすが我が弟だ」

 たしかにそんなことも言われたっけ、と思い出しながら、じゃれついてくるリンタロウの顎や頭を明人も撫でてやった。兄弟揃って相手をしてくれるシチュエーションは彼も予想外だったらしく、いつも以上に嬉しそうに尻尾を振ってくれている。

「リンタロウも、よくやったって言ってるぞ。な?」

 柔らかな背中を撫でながら言った正は、そのままなんでもないことのように尋ねてきた。

「明人」
「うん?」
()()()()()()()()()()()

 それだけで明人にもわかった。兄が、正がほぼすべてを悟っていることを。自分が以前とは「変わった」事実に、気づいているのだと。
 だが正は、深くは訊いてこなかった。普段通りのとぼけた、けれども楽しそうな表情で、リンタロウの耳の後ろを掻いてやったりしている。彼の方こそ、まさにいつものままだった。

「この間、祖母ちゃんに会ってきたんだ。一週間くらい前かな」
「うん」

 飄々とした口調も変わらない。

「祖母ちゃん、また言ってたよ。明人はあの人によく似てる、って」
「うん」

「あの人」が誰のことかは、明人も訊き直さない。かわりに浮かんだのは、あらためての尊敬と、そして感謝の気持ちだった。
 兄ちゃんにも敵わないな。
 同時に思う。この人の弟でよかった。この人の弟であることが誇らしい。そして、この人も守りたい。

「そうそう。で、祖母ちゃんから、これを預かってきたんだ。渡すの忘れてた」
「え!? これって」

 来ているジャージのポケットから正が取り出したものは、あの《飽きた》の六芒星が入っているものと、まったく同じ形のお守りだった。

「よくわかんないけど、どうせ明人のことだから、前のは誰かのために使っちゃうだろうしって。こっちは将来の自分用だって言ってた。あと、世話がかかるとこまであの人に似てるんだから、ってなんか面白そうに笑ってたぞ」
「祖母ちゃん……」

 どうやら祖母は、渡した一つ目の《飽きた》を、明人がこの時期に使うであろうと予想していたらしい。ということは、彼女も震災が起きてしまう未来はわかっているのだろう。明人によく似ていたという「あの人」、すなわち自身の夫から聞いて。

「祖母ちゃんの話によると、俺たちの祖父さんて、なんか凄い人だったらしいな」

 正がお守りを手渡してくれる。しゃがみ込み「あ、おまえも聞きたい?」と、まさに興味津々の顔をしているリンタロウの頭を、反対の手で撫でながら。
 ふと明人は気がついた。めずらしく兄の目が真剣で、かつ穏やかな色をたたえていることに。最近もこんな表情を見た記憶がある。あれはいつだったろうか。

「戦争の終わり頃にさ」

 目に穏やかな光を宿したまま、正は続ける。

「祖父ちゃん、何人かの人を助けたことがあるんだってさ」
「あ」

 思わず声を上げてしまった明人だが、正の方は特に何も言わない。目の光だけが、さらに強くなったように見える。

「終戦の直前、祖母ちゃんや近所の人たちが、長崎に行こうって話をしてたんだって」
「うん」
「長崎には当時から、医大があったみたいで」

 兄のお陰で、いつしか明人も穏やかな表情を取り戻せていた。視線を交わす先で、正が小さく頷いてくれる。

「近所の元看護師さんのところに人手が足りないって依頼がきて、同じように医療経験のある祖母ちゃんたちが、仲間うちの何人かで一週間程度、今で言うボランティアに行こうとしてたそうなんだ」
「でも、止められたんだよね」

 尊敬を込めた微笑とともに、明人は確認する。
 一九四五年八月九日という日に、祖父が妻たちを()()に行かせなかったことを。
 正もまた、同じ微笑みでもう一度頷いてくれる。

「ああ。祖父さんが、絶対に行っちゃ駄目だ、って強く止めてくれたんだと。合わせて、もうすぐ戦争は終わるから、とも言ったって」
「うん。わかるよ」

 明人は笑みを深くした。

「祖父ちゃんて、祖母ちゃんと出会ったときからすでに老成してるっていうか、ちょっと年寄りくさい人だったんだよね」
「あれ? その話――」

 知ってるんだ? と続いたであろう台詞を、だが正は飲み込んでくれた。かわりに「そっか。明人は祖父さんに似てるんだもんな」と、いつもの飄々とした顔に戻って、どこか楽しげに口にしている。

「うん」

 明人も素直に認める。タイムリーパーのことを、正がどこまで知っているのかはわからない。けれども兄は最後まで自分を、みずからが知る弟、十七歳の近守明人として扱ってくれているのだとわかる。今の台詞一つとっても、痛いほどに。

「俺は、祖父ちゃんに似てるから」

 言われた言葉を繰り返す。誇らしい気持ちで。
 自分はその人と似ているから。近くの人、大切な人を守るくらいしかできないけれど、でも、彼と同じささやかな「力」を持つ者だから。近守の、タイムリーパーだから。

「明人」

 自身もどこか誇らしそうに笑ってくれていた正が、さらりと尋ねてきたのは次の瞬間だった。

「明日、地震が起きるんだろ」

 二つ目の《飽きた》をもらったときと同じくらい、明人は驚いた。

「!! なんで……」
「直から聞いたんだ。一次が終わった直後だったかな。また人をからかうようなことを、って思ったけどあいつの顔、真剣だったから」

 自分以外にも直が真剣な眼差しを向けた人がいたことに、明人は一瞬だけ嫉妬した。が、すぐに納得できた。
 兄ちゃんなら仕方ない。いや、兄ちゃんでよかった。

「俺が不思議そうな顔してたらすぐに、女の勘ってやつよ、とかなんとか笑ってごまかされたけど」
「でも、信じたんだよね」
「ああ。もちろん」

 そのひとことで、じゅうぶんだった。

「兄ちゃんも直さんのこと、好きなんだね」
「ああ。もちろん」

 つい微笑んでしまう。性格こそ正反対だけど、やっぱり兄弟だ。自分と同じだ。むしろそれが嬉しい。

「おんなじ台詞、言ってるよ?」
「ああ。もちろん」

 三度目は明らかにわざと繰り返して、正は楽しそうに笑った。

「そりゃ、あれだけいい女だもんな」
「うん」
「ま、残念ながら、歴史小説が好きでぬーぼーとしてるゴールキーパーの方が、好みらしいけど」

 ごめん、とは言えなかった。言わなかった。かわりに明人は胸を張って切り出した。

「兄ちゃんは……ううん、兄ちゃんと父さんと母さんとリンタロウと、直さんと桃香と、二人の家族ぐらいは、さ」

 自分の名前がでてきたリンタロウが、「うん?」というように首を傾げている。
 つぶらな瞳に笑いかけて、明人はきっぱりと告げる。
 大切な人たちを、そばにいる人たちを、大好きな人たちを「守るよ」と。

「地震が起きても。いや、起きる前に俺がみんなを守るから」
「明人」
「俺は、近守の男だから。祖父ちゃんに似てるから」

 ワン! というリンタロウの声。わかった! と言ってくれたように感じたとき、本当にその言葉がかけられた。

「わかった。信頼してるよ」

 変わらない飄々とした口調で、誰よりも尊敬する兄がぽんと肩を叩いてくれる。

「明人は、明人だから」
「ありがとう」

 笑顔とともに、明人は小さく頭を下げた。