2
三学期。サッカー部は植原たち三年生が選手権終了にともなって引退、新チームでのスタートとなったが、その新チームでちょっとした異変というか、意外なできごとがあった。
明人が主将就任を拒否したのである。
プレイヤーとしての実績やキャラクターからいっても、当然のようにそうなるだろうと誰もが思っていただけに、周囲も驚いた様子だった。サッカー部とはなんの関係もない正ですら、
「新キャプテン、辞退したんだって? なんかうちのクラスでも話題になってたぞ。スターは大変だなあ」
と、彼らしい口調ながら言及してきたほどだ。前キャプテンの植原が同じクラスというのも、あるのかもしれないが。
その植原はもちろん沖田先生からも説得されたのだが、明人は頑なに「すいません。どうしても……」と固辞したのだった。ただし意固地になったわけではなく、逆に、
「性格的には海斗が向いてると思う。海斗は俺以上に落ち着いてるっていうか、いつも堂々としているし。それで副将を亮介にすれば、どっしり構えるタイプとムードメーカータイプでバランスもいいんじゃないかな。もちろん俺も二人をサポートするけど、主将とか副将とかじゃなくて、なんていうか秘書とかブレーンみたいな感じの立ち位置でいられれば、って思うんだ。外国のクラブだと、そういうポジションの第三キャプテンとかもあるっていうし。ていうかこのチームは、今言ったような体制の方がむしろ上手くいく気がするんだ」
などと全体ミーティングでしっかりとした代案も出したので、さすがに他のメンバーも納得してくれたようだ。沖田先生も、
「わかった。おまえがそこまで考えてくれて、チームも納得しているならそれでいい。正直なところ俺も、もし明人じゃなければ海斗かな、とは思ってたしな」
と頷いてくれた。桃香だけは最後まで何か言いたそうな顔をしていたが、彼女にしてはめずらしく、一緒に帰る際もこの件についてはいまだに触れてこない。
なんか、気を遣わせちゃってるかな。
キャプテンの件以外は努めて明るく、いつも通りに振る舞う彼女の姿を見ながら、明人は申し訳なく思うのだった。それにあの日、選手権緒戦で負けた日に彼女自身が言っていた「伝えたいこと」もまだ聞いていない。こちらから水を向けてあげた方が、いいのだろうか。
気を遣わせるといえば、以前に約束した東京へのキャンパス見学旅行に関してもだ。正と直も誘ったことは、去年のうちに伝えてあったが、年明けすぐにあらためて電話したところ、
《あ、そやったね! でもごめん、もうちょっと落ち着いたらでもええ?》
《年明けは無理そうってこと?》
《うん。ほんま、ごめん》
《そっか……》
《でも、明人と一緒に行ってみたいんは、ほんまよ。ごめんね》
《いや。ありがとう》
《ううん。うちこそ》
という話だった。
もうちょっと落ち着いたらというのが、例の「伝えたいこと」と関係あるのかどうか確認したい気もしたが、それこそますます気を遣わせてしまいそうだったので、さすがにつっこんでの質問はできなかった。正にもその旨を伝えると「あ、そうなんだ。じゃあまた、あらためてだな。けど直も、おんなじようなこと言ってたんだろ?」と返ってきた。
たしかにクリスマスで我が家に集まった日、直からも行くのは難しいと告げられている。じつは同様に旅行を提案した両親にも、「嬉しいけど、どうせやったら春休みとかにしたらええやん」と断られており、かくしていずれの計画も流れてしまったのだった。
そんな空気のなかで一週間ほどが経った、一月十五日。
「ねえ」
駅から送っていく帰り道、いつものようにポニーテールを揺らしながら、桃香が明人を振り返った。
そろそろ彼女の家のそばだ。まだ夕方なので、オレンジ色に照らされた表情がはっきりとわかる。
「試験、無事終わったんかな。正さんと直先輩も受けてるんよね」
「二人なら、大丈夫じゃないかな」
この日は日曜日で、明人たちは直接関係ないが、国公立大入試の一次試験二日目に当たる。オハ高は試験会場に指定されたとかで、部活動も含めて受験者以外の生徒は立ち入り禁止とされてしまったため、外へ練習試合に出かけたのだった。
受験する本人である正は、
「自分の学校で大学入試って、なんか変な感じだなあ。逆に緊張感がなくなりそうだ」
などと言っていたが、そもそもそんな台詞が一番似合わない人なので、明人は苦笑とともに「頑張って」と声をかけるだけにしておいた。実際、本番が近くなっても彼は一向に変わった様子はなく、相変わらず学校だけでなく市立図書館にもちょくちょく通ったりしながら、マイペースそのものの生活を続けていた。
「そやね。正さんは緊張とかしなさそうやし、直先輩はなんちゅうか、めっちゃ大人やもんね」
「うん」
さすがによくわかっている。活発なキャラクターに目が行きがちになるが、桃香は本当に人を見る目がある。マネージャーとしてもそれは存分に発揮されており、部活にも勉強のペースにもついていけず、人知れず悩んでいた一年生の様子をいち早く察したり、主将としての責任感から、軽い肉離れを隠して練習していた植原にすぐ気づいて、「竜也さん、今日は休んでください! ていうか禁止! ええですね!」と、腰に手を当てながら堂々と宣告したこともあるほどだ。
「ごめんね、明人」
「え?」
唐突に謝られて、明人は思わず目を丸くした。
「何が?」
「東京旅行、延期してもろて」
「ああ、そのことか。いや……うん、全然気にしなくていいよ。兄ちゃんと直さんも、中止になってよかったみたいだし」
「ほんま?」
「うん。どうして?」
「だって最近、なんか元気ないやん。せやから、旅行のことが原因かなって」
「そんなことないよ」
やはりよく見ている、と思った。お世辞抜きに、本当に、桃香は優しくて面倒見がいい。
「桃香は、いい子だな」
自然と口が動いていた。一瞬だけきょとんとした彼女の瞳が、数秒遅れでじわじわと見開かれていく。照れ隠しにつっこまれるかな、と明人はまた思った。
けれども、今日は違った。
「ありがとう」
関西弁ならではの、後半が上がった「ありがとう」。
ポニーテールがよく似合う、元気で健気な桃香らしい「ありがとう」。
はにかんだような、こちらの胸が温かくなるような笑顔での「ありがとう」。
そんな「ありがとう」とともに、チャーミングな幼馴染みは、真っ直ぐに自分を見つめてきた。
「明人は、〝いい子〟は好き?」
「え?」
「うちはね――」
直後の言葉は、さらりと届いた。いつもみたいに。いつも隣にいてくれる桃香自身みたいに。
「うちは、明人が好き」
「桃香……」
頭の片隅で、「何やってんだ、俺」という声がリフレインする。
「好きよ」
何やってんだ。なんか言えよ、俺。なんか答えてやれよ。反応してやれよ。
だが、呆けたように言葉が出てこない。時間が止まってしまったかのように、澄んだ笑顔とうなじの陰から見え隠れするポニーテールを、ぼけっと見つめるだけだった。
「バレバレかもしれんけど、ずーっと好きやった。大好き。せやから、明人の彼女になりたい。彼女にして欲しい」
なんだか楽しげに、嬉しげに、桃香は語り続ける。きっと言葉が溢れるままに。気持ちが湧き出るままに。
どこまでも桃香らしい、真っ直ぐで優しい告白だった。
「ずっとずーっと、明人のそばにいたい。抱きしめて欲しい。キスして欲しい。それ以上のことも明人なら、明人だけにはして欲しい」
ああ、とあらためて実感する。
「それぐらい、好きなんよ?」
いい子だな。
「ずっと前から。子どものときから」
やっぱり桃香は、いい子だ。
「えへへ、言っちゃった。うわあ、めっちゃ恥ずかしい! あ、もう家やん! じゃあね、そういうわけやから!」
最後まで明るい笑顔を残して、桃香は小走りで去っていった。
返事をしていない自分に明人が気づいたのは、少し遠くから「ただいまー!」という彼女の声が聞こえてからだった。
***
幸い翌日はオフだった。
桃香のことだから、告白の答えをせっついたり、ましてや突然ぎこちなくなったりはしないだろう。だからこそ逆に、明人は申し訳なかった。どう接するべきか、いや、そもそもどう返事をすればいいのかわからない。
桃香は可愛い。性格がよくてチャーミングな子だというのは、自慢じゃないが他のどんな男子よりわかっているつもりでもある。けど。
「どうすりゃいいんだ……」
夕方のひととき。ベッドで横になってつぶやいていると、ドアがノックされた。
「明人、いる?」
「あ、うん。どうぞ……って、え!?」
「お邪魔します」の声は、なぜか二つ重なっていた。一つはノックした正本人。そしてもう片方は、なんと。
「直さん!?」
「ごめんね、急に」
「いえ、えっと、あの、こっちこそすみません!」
慌てて立ち上がったものの、動揺のあまりなぜか自分の方が謝ってしまった。我ながら意味がわからない。
「あ、一次試験、お疲れ様でした」
「ありがとう。お陰様で無事、終えることができました」
たがいに頭をさげる様子に、正が笑っている。
「おまえらってほんと、会社員みたいな挨拶するよな」
「正君もしてみれば? 私を送るとき、お世話になっております、とかお母さんに言ってくれればいいのに」
「遠慮しとく」
「まあそんなことしなくても、うちでは二人とも評判いいけどね」
「そりゃどーも」
直とぽんぽんやり取りできる兄が、明人にはひそかに羨ましい。しかし、すぐさま我に返って口を挟んでいた。
「二人とも?」
正はわかる。けど、どうして自分も含まれているのだろう。直の家になど行ったことはないはずだが。
「うん。うちのお母さん、私と同じで明人君のファンなの」
「は?」
「正君の弟さんでサッカーも上手っていうのは話してたんだけど、私が撮った写真見て、余計に興味持っちゃったみたい」
「ど、どうも」
「お兄さんもいいけど、たまには弟さんにも送ってもらいなさい、ってわけわかんないこと言ってるんだよ」
「はあ。ありがとうございます」
……で、いいのだろうか。リアクションに困っていると、正まで調子に乗っておかしなことを言い出した。
「直のお母さんも美人だぞ。これをこのまんま、十年後にした感じ」
「え」
「よく似てるんだよ」
いや、そうじゃなくて、と明人は内心で素早くつっこんだ。十年後ってまだ二十代でしょう。というか、本人の目の前でしれっと「お母さん〝も〟美人」とか断言しちゃってるの、兄ちゃん気づいてる?
「嬉しいけど、〝これ〟とか言ってる時点でポイント低いなあ。それに十年後は言いすぎ。私を十歳で生んだ計算になっちゃうじゃない」
「あ、そうか、悪い。ま、それだけ綺麗なお母さんてことで」
「そりゃどーも」
先ほどの台詞をいたずらっぽく返す直の表情は、桃香とは違うタイプの魅力に溢れている。綺麗なお姉さんが時おり見せる少女のような笑顔、とでも言えばいいだろうか。
すると彼女は、そんな笑顔のままドキリとする言葉を投げてきた。
「けど、明人君には桃香ちゃんがいるもんね」
「は!?」
心を読まれたのかと思い、明人は変な声を出してしまった。というか直ならできそうだし、実際にやりかねない。
「だからお母さんには、送って欲しくてもさすがに無理、って言っておいたの。安心して」
「あ、ありがとうございます」
いや、だから「ありがとうございます」じゃないだろ、と内心で自分につっこんでしまう。とはいえ本当に、どう答えればよかったものか。しどろもどろになるこちらに構わず、直の方はどこかおかしそうに続けてくる。
「でも今日は、ほんとに明人君を呼びにきたの」
「へ?」
またしても変な声が漏れた。
「なんか、どうしても明人に話があるんだと。告白するつもりらしいぞ」
「はあ!?」
正の下手な冗談に、だが明人は目を剥いてしまった。何せ、桃香からあんなことを言われた昨日の今日だ。動揺するなという方が難しい。
しかも直本人まで、調子に乗って話を合わせてくる。
「あ、いいかも。OKもらえたら、堂々と家まで送ってもらえるし。そうしたら正君はお役御免だけど、大丈夫?」
「お好きにどうぞ」
「あはは、ちょっと妬いてる?」
「どこが」
またしても繰り広げられる息の合ったやり取りを、明人は動揺を残したまま、ぼけっと見つめるしかなかった。
やっぱり、兄ちゃんたちはつきあってるの?
訊こうと思いながらも訊けなかった、いや、訊くのが怖かった台詞が、今まで以上に口元までせり上がってくる。
でも、今さらわかっても――。
さりげなく唇を噛んだ瞬間。手首に冷たい感触が触れた。
「というわけで、ちょっとつきあって、明人君。ね?」
「え? あ、はい」
「ではでは、大事な弟君をお借りしますよ、お兄様」
「どうぞどうぞ」という正の声。
それからわずか数十秒後、なかば無意識のままに、明人はブルゾンとマフラーを身に着けてしまっていた。
「桃香ちゃんに、見つかんないようにしろよー」
部屋を出るとき追いかけてきた台詞は、とりあえず聞こえないふりをしておいた。
「なんか、デートみたいだね」
「はあ」
「あれ? 手袋してないんだ。ごめんね、急に連れ出しちゃったから?」
「いえ、普段からあんまりしない方です」
「へえ。私もだよ」
「そうなんですか?」
「うん。嫌いってわけじゃないけど、どこかに落っことしたり忘れたりしちゃいそうで。私、けっこうおっちょこちょいだから」
「そうなんですか?」
「あ、おんなじリアクション続けた。面倒くさい女だと思って、適当にあしらってるでしょう」
「そんなことありませんよ!」
「あはは、冗談だってば」
隣を歩く直は、妙に楽しそうだ。まさか本当にデート気分というわけではないだろうが、自分といて明るい表情をしてくれるのは、やはり嬉しい。
「でもやっぱり手、冷たいよね」
「そうですね」
「あったかい方が、いいよね」
「そうですね」
「む~、やっぱり適当だ」
「え?」
「そこは嘘でも、じゃあ手ぇ繋ぐ? とか言ってあげると女子は喜ぶのです」
「す、すいません」
「桃香ちゃんにも、そういうこと言われてるんじゃない?」
「な、なんで知ってるんですか!?」
桃香にも似たような話をされたっけ、と思い出した矢先だったので、明人は心底驚いた。
「んっふっふ。私はなんでもお見通しなのです」
わざとらしいドヤ顔で、直は胸を張っている。しかも彼女が言うと、半分本当に思えてしまうから困る。
「大丈夫だよ。ここなら絶対に会わないから」
「いや、別に桃香がどうとかは……」
とはいえたしかに、今日この場所で桃香に出会う確率は低いだろう。そんなことまで直は、気を遣ってくれたのだろうか。
二駅だけながら、電車にまで乗って明人が連れてこられたのは、オハ高の裏門から続く百段坂だった。
「オハ高生の告白っていえば、やっぱりここがお約束だもんね」
冗談だか本気だか本当にわからなくなってきたので、明人としては曖昧な表情でごまかすしかない。
挙動不審気味に視線を外すと、冬枯れの木の根元に、たまたまだが猫が一匹座っていた。綺麗な毛並みなので、どこかで飼われているのだろうか。利発そうで可愛らしい黒猫だ。
興味深げにこちらを見つめる猫目に微笑みかけていると、直も気づいたらしい。
「わあ! 可愛い!」
自分にも視線を向けてくれる猫に、直は小さく手を振っている。そして。
猫を見つめたまま、彼女はするりと尋ねてきた。
「桃香ちゃんにも、ここで告白されたの? それとも家のそばとかかな」
「え?」
瞬きとともに、明人はぽかんと口を開けてしまった。今、なんて言いました?
「気持ち、伝えられたんでしょ」
「なんで――」
知ってるんですか、という再度の言葉は、だが続かなかった。むしろ頭に浮かんだのは、「やっぱり」という感想である。
やっぱり、と記憶の欠片が次々と腑に落ちていく。「なんでもお見通し、って言ったでしょ」と笑う直の目を見つめ返しながら。
やっぱり。やっぱり、直さんは――。
「うん。あなたと同じだから」
「――なんでも、ってわけじゃありませんよね」
知らず知らずのうちに、明人も苦笑してしまっていた。
そう。なんでもわかるわけじゃない。いや、わからないことの方が多い。自分でも。自分たちでも。
「そうだね。ごめん、ちょっと盛っちゃった。あれ? 〝盛った〟って言い方もまだしないか。これも気をつけなきゃ」
引き続き直は笑っている。お得意のいたずらっぽい笑顔で。でも「大人びた」という表現は、もう当てはまらない気がした。
この人は同じだから。自分たちは同じだから。
自撮り、ストーカー、話を〝盛る〟……。そんな言葉を知っている人だから。
「まあ、桃香ちゃんが告白したって知ってるのは全然関係ないけど。昨日の夜、彼女から電話があったの。で、宣戦布告されちゃった。さっき明人に告白してきました、直先輩には言っておきたくて、って。ほんとにいい子よね。私が男だったら絶対、逆に告白してるわ」
大人びた、いや、大人そのものの笑顔で直は続ける。
「ちなみに明人君だって、けっこうボロが出てるんだからね。サッカーのフィールドをピッチって呼んでたでしょ。あれって、Jリーグができてから言うようになったんじゃない? それに、病院に行ってもインフルエンザはわからないって断言しちゃったり」
「あ!」
指摘されて、明人は初めて気がついた。いろいろ注意はしているつもりだが、わかる人にはわかるミスを重ねてしまっていたようだ。
「たしかにインフル検査キットは、まだなかったもんね」
わかる人=自分と同じ境遇の女性が、なんでもないことのように言う。
「この一九九五年には」
三学期。サッカー部は植原たち三年生が選手権終了にともなって引退、新チームでのスタートとなったが、その新チームでちょっとした異変というか、意外なできごとがあった。
明人が主将就任を拒否したのである。
プレイヤーとしての実績やキャラクターからいっても、当然のようにそうなるだろうと誰もが思っていただけに、周囲も驚いた様子だった。サッカー部とはなんの関係もない正ですら、
「新キャプテン、辞退したんだって? なんかうちのクラスでも話題になってたぞ。スターは大変だなあ」
と、彼らしい口調ながら言及してきたほどだ。前キャプテンの植原が同じクラスというのも、あるのかもしれないが。
その植原はもちろん沖田先生からも説得されたのだが、明人は頑なに「すいません。どうしても……」と固辞したのだった。ただし意固地になったわけではなく、逆に、
「性格的には海斗が向いてると思う。海斗は俺以上に落ち着いてるっていうか、いつも堂々としているし。それで副将を亮介にすれば、どっしり構えるタイプとムードメーカータイプでバランスもいいんじゃないかな。もちろん俺も二人をサポートするけど、主将とか副将とかじゃなくて、なんていうか秘書とかブレーンみたいな感じの立ち位置でいられれば、って思うんだ。外国のクラブだと、そういうポジションの第三キャプテンとかもあるっていうし。ていうかこのチームは、今言ったような体制の方がむしろ上手くいく気がするんだ」
などと全体ミーティングでしっかりとした代案も出したので、さすがに他のメンバーも納得してくれたようだ。沖田先生も、
「わかった。おまえがそこまで考えてくれて、チームも納得しているならそれでいい。正直なところ俺も、もし明人じゃなければ海斗かな、とは思ってたしな」
と頷いてくれた。桃香だけは最後まで何か言いたそうな顔をしていたが、彼女にしてはめずらしく、一緒に帰る際もこの件についてはいまだに触れてこない。
なんか、気を遣わせちゃってるかな。
キャプテンの件以外は努めて明るく、いつも通りに振る舞う彼女の姿を見ながら、明人は申し訳なく思うのだった。それにあの日、選手権緒戦で負けた日に彼女自身が言っていた「伝えたいこと」もまだ聞いていない。こちらから水を向けてあげた方が、いいのだろうか。
気を遣わせるといえば、以前に約束した東京へのキャンパス見学旅行に関してもだ。正と直も誘ったことは、去年のうちに伝えてあったが、年明けすぐにあらためて電話したところ、
《あ、そやったね! でもごめん、もうちょっと落ち着いたらでもええ?》
《年明けは無理そうってこと?》
《うん。ほんま、ごめん》
《そっか……》
《でも、明人と一緒に行ってみたいんは、ほんまよ。ごめんね》
《いや。ありがとう》
《ううん。うちこそ》
という話だった。
もうちょっと落ち着いたらというのが、例の「伝えたいこと」と関係あるのかどうか確認したい気もしたが、それこそますます気を遣わせてしまいそうだったので、さすがにつっこんでの質問はできなかった。正にもその旨を伝えると「あ、そうなんだ。じゃあまた、あらためてだな。けど直も、おんなじようなこと言ってたんだろ?」と返ってきた。
たしかにクリスマスで我が家に集まった日、直からも行くのは難しいと告げられている。じつは同様に旅行を提案した両親にも、「嬉しいけど、どうせやったら春休みとかにしたらええやん」と断られており、かくしていずれの計画も流れてしまったのだった。
そんな空気のなかで一週間ほどが経った、一月十五日。
「ねえ」
駅から送っていく帰り道、いつものようにポニーテールを揺らしながら、桃香が明人を振り返った。
そろそろ彼女の家のそばだ。まだ夕方なので、オレンジ色に照らされた表情がはっきりとわかる。
「試験、無事終わったんかな。正さんと直先輩も受けてるんよね」
「二人なら、大丈夫じゃないかな」
この日は日曜日で、明人たちは直接関係ないが、国公立大入試の一次試験二日目に当たる。オハ高は試験会場に指定されたとかで、部活動も含めて受験者以外の生徒は立ち入り禁止とされてしまったため、外へ練習試合に出かけたのだった。
受験する本人である正は、
「自分の学校で大学入試って、なんか変な感じだなあ。逆に緊張感がなくなりそうだ」
などと言っていたが、そもそもそんな台詞が一番似合わない人なので、明人は苦笑とともに「頑張って」と声をかけるだけにしておいた。実際、本番が近くなっても彼は一向に変わった様子はなく、相変わらず学校だけでなく市立図書館にもちょくちょく通ったりしながら、マイペースそのものの生活を続けていた。
「そやね。正さんは緊張とかしなさそうやし、直先輩はなんちゅうか、めっちゃ大人やもんね」
「うん」
さすがによくわかっている。活発なキャラクターに目が行きがちになるが、桃香は本当に人を見る目がある。マネージャーとしてもそれは存分に発揮されており、部活にも勉強のペースにもついていけず、人知れず悩んでいた一年生の様子をいち早く察したり、主将としての責任感から、軽い肉離れを隠して練習していた植原にすぐ気づいて、「竜也さん、今日は休んでください! ていうか禁止! ええですね!」と、腰に手を当てながら堂々と宣告したこともあるほどだ。
「ごめんね、明人」
「え?」
唐突に謝られて、明人は思わず目を丸くした。
「何が?」
「東京旅行、延期してもろて」
「ああ、そのことか。いや……うん、全然気にしなくていいよ。兄ちゃんと直さんも、中止になってよかったみたいだし」
「ほんま?」
「うん。どうして?」
「だって最近、なんか元気ないやん。せやから、旅行のことが原因かなって」
「そんなことないよ」
やはりよく見ている、と思った。お世辞抜きに、本当に、桃香は優しくて面倒見がいい。
「桃香は、いい子だな」
自然と口が動いていた。一瞬だけきょとんとした彼女の瞳が、数秒遅れでじわじわと見開かれていく。照れ隠しにつっこまれるかな、と明人はまた思った。
けれども、今日は違った。
「ありがとう」
関西弁ならではの、後半が上がった「ありがとう」。
ポニーテールがよく似合う、元気で健気な桃香らしい「ありがとう」。
はにかんだような、こちらの胸が温かくなるような笑顔での「ありがとう」。
そんな「ありがとう」とともに、チャーミングな幼馴染みは、真っ直ぐに自分を見つめてきた。
「明人は、〝いい子〟は好き?」
「え?」
「うちはね――」
直後の言葉は、さらりと届いた。いつもみたいに。いつも隣にいてくれる桃香自身みたいに。
「うちは、明人が好き」
「桃香……」
頭の片隅で、「何やってんだ、俺」という声がリフレインする。
「好きよ」
何やってんだ。なんか言えよ、俺。なんか答えてやれよ。反応してやれよ。
だが、呆けたように言葉が出てこない。時間が止まってしまったかのように、澄んだ笑顔とうなじの陰から見え隠れするポニーテールを、ぼけっと見つめるだけだった。
「バレバレかもしれんけど、ずーっと好きやった。大好き。せやから、明人の彼女になりたい。彼女にして欲しい」
なんだか楽しげに、嬉しげに、桃香は語り続ける。きっと言葉が溢れるままに。気持ちが湧き出るままに。
どこまでも桃香らしい、真っ直ぐで優しい告白だった。
「ずっとずーっと、明人のそばにいたい。抱きしめて欲しい。キスして欲しい。それ以上のことも明人なら、明人だけにはして欲しい」
ああ、とあらためて実感する。
「それぐらい、好きなんよ?」
いい子だな。
「ずっと前から。子どものときから」
やっぱり桃香は、いい子だ。
「えへへ、言っちゃった。うわあ、めっちゃ恥ずかしい! あ、もう家やん! じゃあね、そういうわけやから!」
最後まで明るい笑顔を残して、桃香は小走りで去っていった。
返事をしていない自分に明人が気づいたのは、少し遠くから「ただいまー!」という彼女の声が聞こえてからだった。
***
幸い翌日はオフだった。
桃香のことだから、告白の答えをせっついたり、ましてや突然ぎこちなくなったりはしないだろう。だからこそ逆に、明人は申し訳なかった。どう接するべきか、いや、そもそもどう返事をすればいいのかわからない。
桃香は可愛い。性格がよくてチャーミングな子だというのは、自慢じゃないが他のどんな男子よりわかっているつもりでもある。けど。
「どうすりゃいいんだ……」
夕方のひととき。ベッドで横になってつぶやいていると、ドアがノックされた。
「明人、いる?」
「あ、うん。どうぞ……って、え!?」
「お邪魔します」の声は、なぜか二つ重なっていた。一つはノックした正本人。そしてもう片方は、なんと。
「直さん!?」
「ごめんね、急に」
「いえ、えっと、あの、こっちこそすみません!」
慌てて立ち上がったものの、動揺のあまりなぜか自分の方が謝ってしまった。我ながら意味がわからない。
「あ、一次試験、お疲れ様でした」
「ありがとう。お陰様で無事、終えることができました」
たがいに頭をさげる様子に、正が笑っている。
「おまえらってほんと、会社員みたいな挨拶するよな」
「正君もしてみれば? 私を送るとき、お世話になっております、とかお母さんに言ってくれればいいのに」
「遠慮しとく」
「まあそんなことしなくても、うちでは二人とも評判いいけどね」
「そりゃどーも」
直とぽんぽんやり取りできる兄が、明人にはひそかに羨ましい。しかし、すぐさま我に返って口を挟んでいた。
「二人とも?」
正はわかる。けど、どうして自分も含まれているのだろう。直の家になど行ったことはないはずだが。
「うん。うちのお母さん、私と同じで明人君のファンなの」
「は?」
「正君の弟さんでサッカーも上手っていうのは話してたんだけど、私が撮った写真見て、余計に興味持っちゃったみたい」
「ど、どうも」
「お兄さんもいいけど、たまには弟さんにも送ってもらいなさい、ってわけわかんないこと言ってるんだよ」
「はあ。ありがとうございます」
……で、いいのだろうか。リアクションに困っていると、正まで調子に乗っておかしなことを言い出した。
「直のお母さんも美人だぞ。これをこのまんま、十年後にした感じ」
「え」
「よく似てるんだよ」
いや、そうじゃなくて、と明人は内心で素早くつっこんだ。十年後ってまだ二十代でしょう。というか、本人の目の前でしれっと「お母さん〝も〟美人」とか断言しちゃってるの、兄ちゃん気づいてる?
「嬉しいけど、〝これ〟とか言ってる時点でポイント低いなあ。それに十年後は言いすぎ。私を十歳で生んだ計算になっちゃうじゃない」
「あ、そうか、悪い。ま、それだけ綺麗なお母さんてことで」
「そりゃどーも」
先ほどの台詞をいたずらっぽく返す直の表情は、桃香とは違うタイプの魅力に溢れている。綺麗なお姉さんが時おり見せる少女のような笑顔、とでも言えばいいだろうか。
すると彼女は、そんな笑顔のままドキリとする言葉を投げてきた。
「けど、明人君には桃香ちゃんがいるもんね」
「は!?」
心を読まれたのかと思い、明人は変な声を出してしまった。というか直ならできそうだし、実際にやりかねない。
「だからお母さんには、送って欲しくてもさすがに無理、って言っておいたの。安心して」
「あ、ありがとうございます」
いや、だから「ありがとうございます」じゃないだろ、と内心で自分につっこんでしまう。とはいえ本当に、どう答えればよかったものか。しどろもどろになるこちらに構わず、直の方はどこかおかしそうに続けてくる。
「でも今日は、ほんとに明人君を呼びにきたの」
「へ?」
またしても変な声が漏れた。
「なんか、どうしても明人に話があるんだと。告白するつもりらしいぞ」
「はあ!?」
正の下手な冗談に、だが明人は目を剥いてしまった。何せ、桃香からあんなことを言われた昨日の今日だ。動揺するなという方が難しい。
しかも直本人まで、調子に乗って話を合わせてくる。
「あ、いいかも。OKもらえたら、堂々と家まで送ってもらえるし。そうしたら正君はお役御免だけど、大丈夫?」
「お好きにどうぞ」
「あはは、ちょっと妬いてる?」
「どこが」
またしても繰り広げられる息の合ったやり取りを、明人は動揺を残したまま、ぼけっと見つめるしかなかった。
やっぱり、兄ちゃんたちはつきあってるの?
訊こうと思いながらも訊けなかった、いや、訊くのが怖かった台詞が、今まで以上に口元までせり上がってくる。
でも、今さらわかっても――。
さりげなく唇を噛んだ瞬間。手首に冷たい感触が触れた。
「というわけで、ちょっとつきあって、明人君。ね?」
「え? あ、はい」
「ではでは、大事な弟君をお借りしますよ、お兄様」
「どうぞどうぞ」という正の声。
それからわずか数十秒後、なかば無意識のままに、明人はブルゾンとマフラーを身に着けてしまっていた。
「桃香ちゃんに、見つかんないようにしろよー」
部屋を出るとき追いかけてきた台詞は、とりあえず聞こえないふりをしておいた。
「なんか、デートみたいだね」
「はあ」
「あれ? 手袋してないんだ。ごめんね、急に連れ出しちゃったから?」
「いえ、普段からあんまりしない方です」
「へえ。私もだよ」
「そうなんですか?」
「うん。嫌いってわけじゃないけど、どこかに落っことしたり忘れたりしちゃいそうで。私、けっこうおっちょこちょいだから」
「そうなんですか?」
「あ、おんなじリアクション続けた。面倒くさい女だと思って、適当にあしらってるでしょう」
「そんなことありませんよ!」
「あはは、冗談だってば」
隣を歩く直は、妙に楽しそうだ。まさか本当にデート気分というわけではないだろうが、自分といて明るい表情をしてくれるのは、やはり嬉しい。
「でもやっぱり手、冷たいよね」
「そうですね」
「あったかい方が、いいよね」
「そうですね」
「む~、やっぱり適当だ」
「え?」
「そこは嘘でも、じゃあ手ぇ繋ぐ? とか言ってあげると女子は喜ぶのです」
「す、すいません」
「桃香ちゃんにも、そういうこと言われてるんじゃない?」
「な、なんで知ってるんですか!?」
桃香にも似たような話をされたっけ、と思い出した矢先だったので、明人は心底驚いた。
「んっふっふ。私はなんでもお見通しなのです」
わざとらしいドヤ顔で、直は胸を張っている。しかも彼女が言うと、半分本当に思えてしまうから困る。
「大丈夫だよ。ここなら絶対に会わないから」
「いや、別に桃香がどうとかは……」
とはいえたしかに、今日この場所で桃香に出会う確率は低いだろう。そんなことまで直は、気を遣ってくれたのだろうか。
二駅だけながら、電車にまで乗って明人が連れてこられたのは、オハ高の裏門から続く百段坂だった。
「オハ高生の告白っていえば、やっぱりここがお約束だもんね」
冗談だか本気だか本当にわからなくなってきたので、明人としては曖昧な表情でごまかすしかない。
挙動不審気味に視線を外すと、冬枯れの木の根元に、たまたまだが猫が一匹座っていた。綺麗な毛並みなので、どこかで飼われているのだろうか。利発そうで可愛らしい黒猫だ。
興味深げにこちらを見つめる猫目に微笑みかけていると、直も気づいたらしい。
「わあ! 可愛い!」
自分にも視線を向けてくれる猫に、直は小さく手を振っている。そして。
猫を見つめたまま、彼女はするりと尋ねてきた。
「桃香ちゃんにも、ここで告白されたの? それとも家のそばとかかな」
「え?」
瞬きとともに、明人はぽかんと口を開けてしまった。今、なんて言いました?
「気持ち、伝えられたんでしょ」
「なんで――」
知ってるんですか、という再度の言葉は、だが続かなかった。むしろ頭に浮かんだのは、「やっぱり」という感想である。
やっぱり、と記憶の欠片が次々と腑に落ちていく。「なんでもお見通し、って言ったでしょ」と笑う直の目を見つめ返しながら。
やっぱり。やっぱり、直さんは――。
「うん。あなたと同じだから」
「――なんでも、ってわけじゃありませんよね」
知らず知らずのうちに、明人も苦笑してしまっていた。
そう。なんでもわかるわけじゃない。いや、わからないことの方が多い。自分でも。自分たちでも。
「そうだね。ごめん、ちょっと盛っちゃった。あれ? 〝盛った〟って言い方もまだしないか。これも気をつけなきゃ」
引き続き直は笑っている。お得意のいたずらっぽい笑顔で。でも「大人びた」という表現は、もう当てはまらない気がした。
この人は同じだから。自分たちは同じだから。
自撮り、ストーカー、話を〝盛る〟……。そんな言葉を知っている人だから。
「まあ、桃香ちゃんが告白したって知ってるのは全然関係ないけど。昨日の夜、彼女から電話があったの。で、宣戦布告されちゃった。さっき明人に告白してきました、直先輩には言っておきたくて、って。ほんとにいい子よね。私が男だったら絶対、逆に告白してるわ」
大人びた、いや、大人そのものの笑顔で直は続ける。
「ちなみに明人君だって、けっこうボロが出てるんだからね。サッカーのフィールドをピッチって呼んでたでしょ。あれって、Jリーグができてから言うようになったんじゃない? それに、病院に行ってもインフルエンザはわからないって断言しちゃったり」
「あ!」
指摘されて、明人は初めて気がついた。いろいろ注意はしているつもりだが、わかる人にはわかるミスを重ねてしまっていたようだ。
「たしかにインフル検査キットは、まだなかったもんね」
わかる人=自分と同じ境遇の女性が、なんでもないことのように言う。
「この一九九五年には」