6
「おばさん、洗い物、うちがやりますよ」
「私は、お皿拭きますね。布巾とかお借りしていいですか?」
「まあ、ええの? じゃあ遠慮なく甘えちゃおうかしら」
「どうぞどうぞ。ゆっくりしとってください」
「あんなに美味しいもの、ご馳走になっちゃったし」
「二人とも優しいのねえ。ありがとう」
家庭用にしてはかなり広く造られた台所で、女性陣が朗らかに笑い合っている。
「やっぱり明人君、凄く食べるんですね」
「そうなんよ。エンゲル係数高くて大変よ。我が家を破産させる気かっちゅうねん」
「正さんは逆に、昔から普通ぐらいですよね」
「でもあれはあれで机に向かってるときも、しょっちゅうなんかつまんどるんよ? リンちゃんよりおやつ代かかってるかも」
答えながら母は、掃き出し窓から見えるリンタロウと、彼にローストビーフの欠片をあげている父に視線をやり笑ってみせた。
「あ、わかる気がします。新聞部の部室にも何かしら、お菓子置いてるし」
「あら、そうなん?」
「はい。なんにもないとお昼休みに学校抜け出して、コンビニで調達してきたりするくらいです」
「そういえば明人も昼休みの筋トレしたあと、よく菓子パンとか食べてますよ」
「学校へ何しに行ってんねん、あの子らは。食堂じゃなくて、勉強するとこやっちゅうの」
微笑ましい光景ではあるが、話の肴にされている明人と正は、なんとも複雑な表情をするしかない。こういうときは女性が強いというのを経験則から理解しているのか、さっさとリンタロウのところへ逃げ出した、父の危機察知能力(?)はさすがである。
その父と愛犬を眺めたまま、正がぼそりとつぶやいた。
「まあ、ある程度予想はできたけど」
「うん」
「それにしたって」
「うん」
「馴染みすぎだよな」
「うん」
「母さんが子どもっぽいのか」
「うん」
「直と桃香ちゃんが、おば……もとい、大人っぽいのか」
「うん。まあ、桃香はどうだかわからないけど」
などという兄弟のやり取りは、だがしっかりと聞こえていたらしい。
「大人じゃなくって悪かったですねー」
「おばさんぽくて、ごめんなさいねー」
「ちょっとあんたら、何失礼なこと言うてんの! それに私は子どもっぽいんちゃうわ! 身も心も若いだけや!」
桃香と直、そして母が揃って振り返り、かしましく反論してくる。こんなところまで息が合っているものだから、知らない人が見たら、むしろあちらの方が親子だと思うかもしれない。
「そもそも、なんでこうなったんだっけ」
「兄ちゃんが呼んだんだろ」
「そうやで。うちは正さんに呼んでもらったの。どっかの誰かさんは、社交辞令でも誘ってくれへんかったし」
つまり、そういうわけだった。
クリスマスに家族揃って食事をするのは近守家の恒例行事だが、今年はなんと、桃香と直も参加することになったのである。なんでも先日、学校内の廊下で桃香が、たまたま正と直にばったり遭遇したのだという。そしてその際、明人から近森家の予定を聞いたのだと話したところ、
「じゃあ桃香ちゃんも来る? あ、もちろん直も。今年は外じゃなくて、うちでいろいろと美味いもん作ってくれるらしいよ」
と、軽い調子で正に誘われたのだとか。しかも明人だけは当日まで二人の来訪を知らされておらず、菓子折りとプレゼントを持っていきなり玄関先に現れた彼女たちを見て、思いきり動揺してしまったのだった。
「ごめんね、明人君。二人して押しかけちゃって。迷惑だった?」
「い、いえ、全然そんなことないです!」
丁寧な手つきで皿を拭きながら振り返った直に、明人は慌てて両手を振ってみせた。今日の彼女は、膝丈のキュロットスカートに黒いストッキング、黒いセーターという格好だが、もともとが大人っぽいし、シンプルな装いが逆にとても似合っている。
「…………」
「な、なんだよ」
「……別にぃ」
こちらはめずらしいフレアスカート姿の桃香が、すかさず半目でにらんできた。正は一目見てすぐに「お、そういう格好も可愛いねえ、桃香ちゃん」と如才ないコメントをしていたし、じつは明人自身もひそかにそう思ったのだが、自分の方は口にするタイミングを逸してしまっていた。
ちょっと、気が利かなかったかな。
頭の片隅でそう考えていると、母がまさに同じことを言い出した。
「ほんま、気が利かないっちゅうか、びしっとしてないっちゅうか、情けない兄弟でごめんねえ。遺伝子は優秀なはずなんやけど、できあがる過程で不具合があったみたいで」
まるで工業製品のような扱いである。
「せやから桃香ちゃんも見先さんも、ええ男見つけたら、すぐに乗り換えても全然かまへんからね。あ、それと、そんな勇気もないやろうけど万が一、急にやる気出してやらしいことしようとしたら、遠慮なく刺してええから。グサッとやっといて、グサッと」
違う意味でグサッときた正と明人が、微妙な表情になる一方で、桃香と直は楽しそうに目を見交わしていた。
***
「きゃっ! ちょっとリンちゃん、そんな引っ張らんといてってば、もう!」
「はは、桃香ちゃんや直に会えて、おまえも嬉しいんだよな」
元気にリードを引っ張るリンタロウに、すぐ後ろから桃香と正が声をかける。明人は直と並ぶ形で、二人の数メートル後ろを歩いていた。
賑やかな食事会も無事終わり、桃香と直をリンタロウの散歩がてら、兄弟で家まで送っていくことになったのだった。地理的に桃香の方が近いので、まずはそちらをまわる予定である。
「明人君」
「はい?」
落ち着いた口調で直が話しかけてきた。二人きりというわけではないが、何を話したものかと戸惑っていた明人は、向こうから口を開いてくれてむしろ助かった。
「体調はもういいの?」
「あ、はい。お陰様で。直さんも気をつけてください」
「うん、ありがとう。冗談抜きに私も気をつける。今罹っちゃうと大変だもんね、インフルエンザ」
「はい」
真面目な表情で頷くと、彼女はあらためてこちらの顔を覗き込んできた。
「他は?」
「え?」
もはや見慣れたいたずらっぽい微笑だが、明人は直の表情に少しだけ違和感を覚えた。目の力が、いつもより強い気がする。
「身体以外は大丈夫?」
「え? はあ」
なんのことだろうと思いつつ曖昧に答えると、直は「うん。ならいい」と勝手に頷いている。
「ごめんね、変なこと聞いて」
「い、いえ」
「あ、そうだ。東京行き、誘ってくれてありがとう」
「いえ。なんかすいません、勝手に」
いつか兄弟で話した、正いわく「ダブルデート」の件について、彼は約束を忘れず直に伝えておいてくれたようだ。
「ううん。でも、ちょっと難しいかな。一次が終わったあとも、その自己採点とか二次試験、私立の試験とかもあるし」
「そうですか……。そうですよね、すみません」
「でも、誘ってくれてほんとに嬉しいよ。ありがとう」
強い瞳のままお礼を言ってくれた直は、数秒後、何かを振り切るかのように視線を切りながらつぶやいた。
「いろいろ考えてくれてるんだね、明人君」
「え?」
訊き返したときには、前を行く正と桃香、リンタロウに目を移した彼女の声は、もう明るくなっていた。
「選手権、頑張って。私も応援にいくから」
「あ、はい。ありがとうございます」
「あなたならできるよ、きっと」
「直さん?」
「私も頑張るね」
受験の話だろうか。サッカー部が、自分が、頑張ることでやる気や元気を届けられるのなら、それはもちろん嬉しいことだ。
ましてや、直がそう感じてくれるなら。
「あの、俺――」
「ほんと、治ってよかったね。インフルエンザ」
「はい」
余計な詮索はしないの、とでもいうように言葉をかぶせて、直がもう一度目を合わせてくる。
先ほどまでの強い光は消え、穏やかな瞳がそこにあった。
「おばさん、洗い物、うちがやりますよ」
「私は、お皿拭きますね。布巾とかお借りしていいですか?」
「まあ、ええの? じゃあ遠慮なく甘えちゃおうかしら」
「どうぞどうぞ。ゆっくりしとってください」
「あんなに美味しいもの、ご馳走になっちゃったし」
「二人とも優しいのねえ。ありがとう」
家庭用にしてはかなり広く造られた台所で、女性陣が朗らかに笑い合っている。
「やっぱり明人君、凄く食べるんですね」
「そうなんよ。エンゲル係数高くて大変よ。我が家を破産させる気かっちゅうねん」
「正さんは逆に、昔から普通ぐらいですよね」
「でもあれはあれで机に向かってるときも、しょっちゅうなんかつまんどるんよ? リンちゃんよりおやつ代かかってるかも」
答えながら母は、掃き出し窓から見えるリンタロウと、彼にローストビーフの欠片をあげている父に視線をやり笑ってみせた。
「あ、わかる気がします。新聞部の部室にも何かしら、お菓子置いてるし」
「あら、そうなん?」
「はい。なんにもないとお昼休みに学校抜け出して、コンビニで調達してきたりするくらいです」
「そういえば明人も昼休みの筋トレしたあと、よく菓子パンとか食べてますよ」
「学校へ何しに行ってんねん、あの子らは。食堂じゃなくて、勉強するとこやっちゅうの」
微笑ましい光景ではあるが、話の肴にされている明人と正は、なんとも複雑な表情をするしかない。こういうときは女性が強いというのを経験則から理解しているのか、さっさとリンタロウのところへ逃げ出した、父の危機察知能力(?)はさすがである。
その父と愛犬を眺めたまま、正がぼそりとつぶやいた。
「まあ、ある程度予想はできたけど」
「うん」
「それにしたって」
「うん」
「馴染みすぎだよな」
「うん」
「母さんが子どもっぽいのか」
「うん」
「直と桃香ちゃんが、おば……もとい、大人っぽいのか」
「うん。まあ、桃香はどうだかわからないけど」
などという兄弟のやり取りは、だがしっかりと聞こえていたらしい。
「大人じゃなくって悪かったですねー」
「おばさんぽくて、ごめんなさいねー」
「ちょっとあんたら、何失礼なこと言うてんの! それに私は子どもっぽいんちゃうわ! 身も心も若いだけや!」
桃香と直、そして母が揃って振り返り、かしましく反論してくる。こんなところまで息が合っているものだから、知らない人が見たら、むしろあちらの方が親子だと思うかもしれない。
「そもそも、なんでこうなったんだっけ」
「兄ちゃんが呼んだんだろ」
「そうやで。うちは正さんに呼んでもらったの。どっかの誰かさんは、社交辞令でも誘ってくれへんかったし」
つまり、そういうわけだった。
クリスマスに家族揃って食事をするのは近守家の恒例行事だが、今年はなんと、桃香と直も参加することになったのである。なんでも先日、学校内の廊下で桃香が、たまたま正と直にばったり遭遇したのだという。そしてその際、明人から近森家の予定を聞いたのだと話したところ、
「じゃあ桃香ちゃんも来る? あ、もちろん直も。今年は外じゃなくて、うちでいろいろと美味いもん作ってくれるらしいよ」
と、軽い調子で正に誘われたのだとか。しかも明人だけは当日まで二人の来訪を知らされておらず、菓子折りとプレゼントを持っていきなり玄関先に現れた彼女たちを見て、思いきり動揺してしまったのだった。
「ごめんね、明人君。二人して押しかけちゃって。迷惑だった?」
「い、いえ、全然そんなことないです!」
丁寧な手つきで皿を拭きながら振り返った直に、明人は慌てて両手を振ってみせた。今日の彼女は、膝丈のキュロットスカートに黒いストッキング、黒いセーターという格好だが、もともとが大人っぽいし、シンプルな装いが逆にとても似合っている。
「…………」
「な、なんだよ」
「……別にぃ」
こちらはめずらしいフレアスカート姿の桃香が、すかさず半目でにらんできた。正は一目見てすぐに「お、そういう格好も可愛いねえ、桃香ちゃん」と如才ないコメントをしていたし、じつは明人自身もひそかにそう思ったのだが、自分の方は口にするタイミングを逸してしまっていた。
ちょっと、気が利かなかったかな。
頭の片隅でそう考えていると、母がまさに同じことを言い出した。
「ほんま、気が利かないっちゅうか、びしっとしてないっちゅうか、情けない兄弟でごめんねえ。遺伝子は優秀なはずなんやけど、できあがる過程で不具合があったみたいで」
まるで工業製品のような扱いである。
「せやから桃香ちゃんも見先さんも、ええ男見つけたら、すぐに乗り換えても全然かまへんからね。あ、それと、そんな勇気もないやろうけど万が一、急にやる気出してやらしいことしようとしたら、遠慮なく刺してええから。グサッとやっといて、グサッと」
違う意味でグサッときた正と明人が、微妙な表情になる一方で、桃香と直は楽しそうに目を見交わしていた。
***
「きゃっ! ちょっとリンちゃん、そんな引っ張らんといてってば、もう!」
「はは、桃香ちゃんや直に会えて、おまえも嬉しいんだよな」
元気にリードを引っ張るリンタロウに、すぐ後ろから桃香と正が声をかける。明人は直と並ぶ形で、二人の数メートル後ろを歩いていた。
賑やかな食事会も無事終わり、桃香と直をリンタロウの散歩がてら、兄弟で家まで送っていくことになったのだった。地理的に桃香の方が近いので、まずはそちらをまわる予定である。
「明人君」
「はい?」
落ち着いた口調で直が話しかけてきた。二人きりというわけではないが、何を話したものかと戸惑っていた明人は、向こうから口を開いてくれてむしろ助かった。
「体調はもういいの?」
「あ、はい。お陰様で。直さんも気をつけてください」
「うん、ありがとう。冗談抜きに私も気をつける。今罹っちゃうと大変だもんね、インフルエンザ」
「はい」
真面目な表情で頷くと、彼女はあらためてこちらの顔を覗き込んできた。
「他は?」
「え?」
もはや見慣れたいたずらっぽい微笑だが、明人は直の表情に少しだけ違和感を覚えた。目の力が、いつもより強い気がする。
「身体以外は大丈夫?」
「え? はあ」
なんのことだろうと思いつつ曖昧に答えると、直は「うん。ならいい」と勝手に頷いている。
「ごめんね、変なこと聞いて」
「い、いえ」
「あ、そうだ。東京行き、誘ってくれてありがとう」
「いえ。なんかすいません、勝手に」
いつか兄弟で話した、正いわく「ダブルデート」の件について、彼は約束を忘れず直に伝えておいてくれたようだ。
「ううん。でも、ちょっと難しいかな。一次が終わったあとも、その自己採点とか二次試験、私立の試験とかもあるし」
「そうですか……。そうですよね、すみません」
「でも、誘ってくれてほんとに嬉しいよ。ありがとう」
強い瞳のままお礼を言ってくれた直は、数秒後、何かを振り切るかのように視線を切りながらつぶやいた。
「いろいろ考えてくれてるんだね、明人君」
「え?」
訊き返したときには、前を行く正と桃香、リンタロウに目を移した彼女の声は、もう明るくなっていた。
「選手権、頑張って。私も応援にいくから」
「あ、はい。ありがとうございます」
「あなたならできるよ、きっと」
「直さん?」
「私も頑張るね」
受験の話だろうか。サッカー部が、自分が、頑張ることでやる気や元気を届けられるのなら、それはもちろん嬉しいことだ。
ましてや、直がそう感じてくれるなら。
「あの、俺――」
「ほんと、治ってよかったね。インフルエンザ」
「はい」
余計な詮索はしないの、とでもいうように言葉をかぶせて、直がもう一度目を合わせてくる。
先ほどまでの強い光は消え、穏やかな瞳がそこにあった。