土埃で汚れた巫女装束を脱ぎ、家僕の俗鬼(ぞっき)が運んできてくれたさっぱりとした小袖に着替えた奈古女(なこめ)は、戦いの熱気がようやく冷め始めた夜半、板ヶ谷(いたがやつ)の館を訪れた。

 鬼頭(きとう)の館よりも敷地は小さいが、堀と板塀に囲まれた質素かつ剛健な館だった。

三紅(みくれ)様のご実家だよー」

 間延びした口調で教えてくれたのは、日中に奈古女の部屋で寝転がり怠けていた緑の俗鬼だ。どうやら奈古女の身の回りの世話を言いつけられているらしく、先ほどは戦いの場にまで駆り出され、負傷者の手当などの後方支援を行っていたようだ。

「三紅様……若殿の母君ね」

 対屋(たいのや)の縁側で対面した尼姿が脳裏に蘇る。頭巾の下で柔和に細められた目に宿る、どこか狂気を帯びたような色を思い出し、奈古女は人知れず腕をさすった。

「そういえばあのお方はどうして尼姿なのかしら」

 夫が亡くなればその菩提(ぼだい)を弔うために出家する女は多いのだが、三紅の夫は健在なはず。また、寺に入っているという様子もなく、鬼頭の館の奥屋敷で暮らしているはずだ。

 奈古女の疑問に、俗鬼は運んでいた長方形の木箱を抱え直して答えた。

「えっとね、(みさお)を立てた証、なんだってー」
「どういうこと?」
「おいらにもよくわかんない。ふわああああ眠たいなー。あ、ついたよー」

 俗鬼が足を止めたのは、真均(まさひと)の従者らが滞在する宿所からやや離れた、静かな一室だった。縁側から見える庭は月明りにぼんやりと木々を浮かび上がらせるだけで、秋虫の気配もない。己の足音が闇に溶けれ途端に静寂が辺りを満たした。

「案内ありがとう。えっと、何て呼べばよかったかな」

 緑の俗鬼は不思議そうに奈古女を見上げ、あくびをした。

「ふああああ。何でもいいよー」
「名前は?」
「ないよー」
「え、でもお館にはあなたみたいな俗鬼がたくさん働いているでしょう。あなたを呼びたい時はどうすればいいの」
「皆、緑のー、とか、そこのーとか呼ぶよー。おいらは名前、なくても困らないけど、奈古女様が困るんなら好きに呼んでよー」
「じゃあ、あくび」

 家僕の俗鬼に名がないという事実に衝撃を覚えつつ反射的に飛び出したのは、我ながら安直な名である。そもそも、あくびだなんて失礼だったかもしれない。少し顔を青ざめさせた奈古女だが、当の俗鬼はもう一度ふわあああと眠たげな息を吸い込んで、目尻に怠惰な涙を浮かべて頷いた。

「わかった。おいら、これからあくびー。えへへ、嬉しいなー」
「おい、いつまでそこで無駄話をしている」

 室内から不機嫌な声が立ち上がった。奈古女は思わず肩を震わせたが、あくびは気後れした風もなく、床板の上をひたひたと歩く。

「あ、若殿、お待たせー」
「何だその箱は」

 部屋の奥に敷いた畳の上に座して書面に目を落としていた真均が、あくびが抱く木箱に胡乱げな目を向けた。見る者を威圧するような鋭い眼光にも動じることなく、あくびは若殿の近くで木箱を開いた。

「香炉だよー。三紅様が若殿にって。傷の痛みを抑えて心が安らかになる香りなんだって。よかったねー」

 真均の眉が軽く動いたが、彼は何も言わず、あくびが香を焚くのを許した。

 傷の痛み、とあくびは言った。真均の態度が普段通りなので全く気に留めていなかったが、戦いに出ていたのだから、怪我をしていても不思議はない。注意して観察すれば、少し寛がせた真均の衿元から、塗り薬の色が滲んだ白布が覗いている。

「何だ」
「いいえ。何も」

 それきり二人の間には沈黙の(とばり)が落ちる。香炉が立てる物音だけが時折かちゃかちゃと空気を揺らした。やがて、甘ったるい香煙が細く立ち上り始めると、あくびは満足そうに頷いて、ぺこりと一礼した。

「じゃあおいら、その辺で寝てるねー」
「ああ、ご苦労だった」

 ふわわわ、と後を引くあくびの声が去ると、真均は手元の書簡を持ち上げて、再び目を落とす。正面に端座した奈古女は居心地の悪さを感じたが、急かすでもなく静かに待った。

 秉燭(ひょうそく)の火皿の上で揺れる微かな灯り火が、若殿の掘り深い顔に陰影を映しているのをぼんやりと眺めていると、不意に視線を上げた真均と目が合った。慌てて視線を逸らせたものの、何やら鼓動が速い。それほどまでに鬼頭の若殿に怯えているのだろうかと、我がことながら不審に思った。

 真均は不自然な間を空けてから口を開く。

「何も訊ねないのか」

 しゅる、と衣擦れの音がした。奈古女は床板に向けていた顔を恐る恐る上げ、常に鋭さを宿す真均の瞳を捉えた。

「どうやら俺は、鬼らしい」

 あまりに淡泊で、拍子抜けするほど他人事な口調である。微かに強張る真均の顔を、奈古女はただ、じっと見つめた。

「驚かないのか」
鬼穴(きけつ)で、見えましたから」

 そう、奈古女は見たのだ。闇の底に沈まんとする真均の兜を押し上げて覗いた、小さな角を。

「驚かせたな」
「はい……あ、いいえ」
「もう一度触れてみろ」

 突然の発言に瞠目して動かない奈古女の近くに膝を進め、促すように首を前に傾ける。奈古女は眩暈がする思いで上体をやや後ろに引いた。

 鬼頭の若殿の意図は読めないが、これはもしや、鬼穴で許可なく額を撫でたことを罰しようとしているのではなかろうか。触れよと言われてその通りにした場合、不届き者として拘束されるということもあり得る。

「あ、あの、先ほどはご無礼を。どうかお許しください」
「咎めてなどいない」
「でも」

 真均は盛大に舌打ちをして、奈古女の腕を掴んで己の額に引き寄せた。

 拒絶する間もなく指先が温かな額を滑り、烏帽子(えぼし)との境に軽く潜り込む。肌よりも体温の低い、硬いものに触れた。それは親指の爪ほどもない小さな角だった。

 清高(きよたか)の角は確かな存在感を示しており、隠しようがないのだが、真均の額にあるそれは小さく、烏帽子の中に収めてしまえば誰の目に映ることもない。鬼穴で目にした時よりも、かなり小さく思えるのは気のせいだろうか。

「これを知っているのは清高の他にはおまえだけだ」

 彼は奈古女の手を解放し、烏帽子の位置をさっと直す。その手慣れた動作に、思わず言葉が零れ落ちていた。

「ずっと、ご自身の素性を隠しておられたのですか」

 純鬼の清高とたった二人、人の輪の中で、心のうちに秘めた孤独を抱え。

「ああ。だが、これは消えるのだ。だから、そもそも目撃されること自体が稀だ」

 思わず怪訝そうな顔をした奈古女に、真均は額の突起を撫でながら言った。

「おまえは、心に(うろ)が空いたかのような強烈な悲しみを覚えたことはあるか。意外かもしれないが、俺にはある。そういう時には決まって、額に角が生まれるのだ」
「角が生まれる?」

 真均は頷いた。

「妙な話だが、真実だ。やがて俺の中の弱々しい感情が消えて心が強さを取り戻せば、角は徐々に体内に吸収されて、自然に消える。現にこれは今、おまえが鬼穴で触れた時よりも、ささやかな大きさになっているだろう」

 確かに彼の言う通り。指先に触れる突起は、できものだと言われても納得できるほどの大きさになっていた。

「どうして、こんなことが」
「角が現れたり消えたりする理由はわからない。だが一つ確かなことは、俺が生来の鬼だということ。父親が鬼なのだ」
「まさか大殿が?」
「違う。俺の本当の父は、二十年ほど前に東国を震撼させた、()(つの)という大鬼だ」
「みつつの……」
「鬼の角は普通、一つか二つ。しかしあいつは鬼や人を食い過ぎて、いつしか三つ目の角を生やしたらしい。鬼格が上がり力を得た三つ角は、角を隠して完全に人と同じ姿に化けることができたという。俺の角もきっと、奴の力に由来するものなのだろうと思う」

 三つ角。さぞかし凶悪な大鬼だったのだろう。

「俺は鬼頭の大殿とは似ていないだろう」
「そのようなことは」

 真均は側頭から覗く黒髪を撫でた。

「大殿は、赤髪だ。しかし俺はこのとおり」
「親子でも、髪質が似るとは限りません。それに、若殿と大殿は似ておられます。その、身にまとう空気とか、あとは横顔も」

 真均は眉一つ動かずに奈古女の表情の動きを見つめてから、少し視線を逸らして半蔀(はじとみ)の辺りを見るともなしに眺めた。

「だが、血の繋がりがないのは本当だ。母は俺を身籠る前後、三つ角に囚われていた。胎の子が鬼の子かもしれないと思った母は、思い悩み、我が子に辛い生を送らせるくらいならば最初から生まれない方がいいと考え、堕胎を試みたらしい。だが、何をしても俺は流れなかった。それこそが鬼の子の印だったのだろうな。そんな俺が一族の醜聞となることを恐れた父は、生まれた赤子を己の子として扱った。ああ、元服の折、俺に名をつけてくれたのも父だった」
「名前」
「真均は、本来真人(まさひと)だった」

 真均は悲しみの一つも浮かべず指先を持ち上げて、淡々と宙に文字を書く。

「真の、人。鬼頭の後継者が真に人間であるようにと願いつけられた名だ。あまりにあからさまな名に絶望した母上が、泣き喚いて真均に改めさせてくれた」

 雲が切れたのか、開かれた半蔀から、青白い月明りが差し込んだ。奈古女は言葉を失い、月光に照らされて陰影を帯びる真均の顔を見つめた。

「俺の心には醜い闇が蠢いている。劣等、怯え、理不尽な生い立ちへの怒り。負の感情に呑み込まれ、心の芯が折れそうになる度、額に角が生まれこの身は鬼となっていく。だから俺は強くあらねばならない。まあ、そのせいで、気難しい奴だと皆から遠巻きにされるのだが」
「でも、若殿を慕っておられる方は多くいらっしゃいます。家僕も郎党も、和香(わか)様も」
「和香に会ったのか」

 真均の眉間に不快げな皺が寄る。(けん)のある空気に打たれ危うく肩を震わせかけた奈古女は、膝の上で拳を握って堪えた。

「はい、お庭を眺めていましたら、たまたま」
「あいつは、許婚が鬼の子だとは知らない。だからこそ、俺を受け入れてくれるのだ」
「お告げにならないのですか」
「……和香は昔から俺に、あなたは鬼などではありません、と何度も言ってくれた。裏を返せば、鬼の子に嫁ぐのは嫌なのだろう。ならば言う必要はない。本人が拒んでも、父上が命ずれば鬼頭に嫁がざるを得ないのだ。心通わぬ許婚だが、大切にしてやりたい。鬼を恐れて暮らすのは哀れだ」

 忌々しそうに心中を吐露し、真均は奈古女から目を逸らす。雲が戻ったのか、月明りが衰えた。再び薄暗くなった部屋の中、真均の瞳が秉燭の火に照らされて揺れた。

 そこに浮かぶ陰に気づいた途端、奈古女は言い知れぬ息苦しさを覚え、胸を押さえた。彼は、単に粗暴で威圧的な若殿なのではない。不器用で寂しい人なのだ。