君と僕の世界に色が灯るまでの八十八日間

7.

 僕のカラーイラストを見つめたまま、大粒の涙を流す紬。
 そんなにまじまじと見つめられると、なんだかちょっと恥ずかしい。
 僕はぽりぽりと頬をかきながら口早にその沈黙を破った。
「えっと、その。来年の誕生日までにはって約束だったけど、紬が頑張ってるのを見たら僕ももっと頑張らなきゃって思ってさ。一念発起して頑張ったっていうか……」
「……」
「それで、まだ完璧には塗れていないし、ブラッシュアップも足りてないんだけど……でも、自分の中ではなかなか僕らしい色が出せたかなって気がしてて。あ、もちろん、カラーじゃよくわからないからモノクロの方がいいって言われた時のために、この絵の線画やグレースケールだけの画像もあって……」
「綺麗……」
 ぽつんと落とされた呟きに、僕は一瞬、動きを止める。
「え?」
「本当に綺麗。夢みたい」
「待って。色、見えるの……?」
 僕の問いかけに、彼女は画面から静かに視線を剥がす。そして、困惑している僕をまじまじと見上げてからぽろぽろと涙をこぼし、満面の笑みで頷く。
「うん」
「うそ……」
「ウソじゃないよ。ここは緑……こっちは赤……ここは黄色のグラデーション。ちゃんと、見えてる」
 細い指で示された箇所にはたしかに彼女の答えた通りの色が塗られていて、僕は唖然とする。
「なんで……」
「この絵が、心から綺麗だと思うから」
 いつか、紬が教えてくれた。
『昔にも一度だけ似たようなことがあってね、きっと……心の問題っていうか。淀んだ世界で本心から綺麗だと思える物に出会えたから、その時は色づいて見えたんじゃないかって』
 ――と。
 結局それは過去に僕が描いた絵だと知るのには少し時間がかかったけれど、でも、あの時のことを思い出させるように、紬ははっきりとした口調で告げる。
「繊細で……温かくて……やさしい」
「……」
「よく、がんばったね。私にとってこの絵は、世界で一番、素敵な絵だよ」
 紬の言葉が僕の心の芯まで響いた時、気がつけば僕は、涙を垂れ流して泣いていた。
 それまで抱えていた心の傷がふっと和らいだような、まるで過去の呪縛から解き放たれたように、自分の中が無限の〝色〟で満たされていくのを感じた。
「泣いてる」
「泣いてない」
「涙でてるよ」
「これは汗だよ」
「ずいぶん汗っかきな目なんだね……」
 僕の苦しい言い訳に紬は僅かな笑みをこぼし、それ以上は言及することなく震える手で画面に触れる。
 細い指で確かめるよう色に触れ、しっかり目に焼き付けて心に刻むよう、色のついた世界を隅々まで丁寧になぞっていく。
「わたし、千隼くんの色、すごく好き」
「……ありがとう」
「この最高傑作、何かのコンテスト、出してね」
「それは紬の小説の表紙用だから」
「それじゃ、もったいない……」
「いいんだ。それに、まだ最高と呼ぶには早いよ。これからもっとブラッシュアップして、色の塗り方や見せ方も研究して、もっともっと完璧なカラーに仕上げる。それで、いつか絶対プロになって浅間にぎゃふんと言わせてやるから。楽しみにしてて」
 僕は紬に向かって、不安を微塵も感じさせない強気な笑みを浮かべる。
 すると彼女は、ぽろぽろと涙をこぼしながらも健気に笑っていた。
「そっか……楽しみにしてる」
 その笑顔は、僕が紬と出会い、共に過ごした中で最も幸せそうな顔だったと思う。
「千隼くんの絵も……色も……本当に大好きだよ」
「ん。ありがと」
「それから、千隼くんのことも……」
「え?」
「……なんでもない」
「いや、今なんか言いかけたでしょ」
「千隼くんの絵で、たくさんの人が幸せになったらいいなって」
「あ、ごまかした」
「私……今すごく幸せ。だから……千早くんも、幸せになってね」
「紬……?」
「やくそく」
 優しく微笑みながら、白くて細い小指をそっと立てる紬。
「……ん」
 僕は、彼女を安心させるように笑顔でその小指を握った。
 それが、僕たちの交わした最後の笑顔と言葉となる。
「それはそれとして、さっきの話の続き、気になるんだけど」
「……」
「『それから、千隼くんのことも……』の続き」
「……」
「……紬?」
 僕が小指を離すと、紬の手はベッドの上に力なく垂れた。
 彼女の持っていたタブレットが倒れて、ポスンと胸元に埋まる。
 まるで紬が、絵を抱きしめているみたいだった。
「紬……」
 返事はない。
 紬は安らかな顔で眠っている。
 きっと、もう二度と彼女が目を覚ますことはないだろう。
 漠然とそんな予感がした。
(紬――)
 よく頑張ったのは、彼女の方だ。
 彼女の手に自分の手を重ね、僕はただ静かに嗚咽を漏らす。
 ほどなくして外で待機していたおじさんやおばさん、担当医の先生がやってきて周囲は少し慌ただしくなったけれど、僕の想定していた通り、昏睡状態に入った紬が再び目を覚ますことはなかった。
 そうして約一時間後――。
 家族、担当医、そして偶然居合わせた僕に見守られながら、紬は書きかけの新作を完結させることがないまま、眠るよう穏やかに息を引き取ったのだった。

 8.

 六月末日。
 紬が死んで一ヶ月以上が経ったその日、僕は自宅自室のベッドに腰をかけたまま、ただぼんやり窓の外の雨を眺めていた。
「……」
 爽やかだった五月の陽気はいつの間にかじめじめした梅雨の季節に移行しており、その日も朝から土砂降りの雨が降っていた。
 昼を過ぎても外の雨が止む気配はない。ここしばらくすっきりと晴れ上がらない雨模様の空は、まるで僕の心の中を映し出しているかのようで妙に親近感を覚えている。
 あれから僕は、自分がどのように今日までの日々を過ごしてきたのかよく覚えていない。
 紬のお通夜や告別式、そして四十九日にだってきちんと参列したし、学校にも休まず登校。そのいずれにおいても僕はいつも以上の平静さを保っており、逆に周囲から心配されたほどだ。
 話しかけられれば普通に答えるし、気を遣って洒落でも言われようものならちゃんと愛想笑いを浮かべて返す。涙はすでに枯れ果てていたから、隠れてめそめそ泣くようなこともなかった。
 悲しくないわけじゃない。ただ――。
 虚無だった。何もかも。
 心にポッカリ穴が空いたように、ただ時間と日々だけが砂のように流れて落ちていく。
 もちろん紬との約束を果たそうと思って何度もイラストを描こうとしたけれど、どうしても筆が進まなかった。
 僕がイラストを描いたところで、一番に見せたい相手は……紬は、もういない。
 そのことが僕のせめてもの創作意欲を粉々に打ち砕いていたのだが、それでも僕は彼女との約束を反故にしたくなくて、苦しんで、もがき続けて。
 結局、今日までの日々を何もできないまま無駄に過ごしてしまった。
 まるで生きる屍のようだと自覚しながらも、それでも何かをする気力が持てずに無心で窓の外を眺めていると、ふと、今日は以前――面会謝絶中で紬に会えなかった期間――に、勢いで応募したイラストコンテストの結果発表日であることを思い出した。
 僕は緩慢な動きで手元に転がっていたスマホを持ち上げて画面をタップする。
 コンテストの掲載サイトを表示すると、『第七回イラストコンテスト結果発表』のバナーが真っ先に視界に飛び込んできた。
 応募作はグレースケールのみで描いた絵だったはず。どうせ入選するはずがないだろう、という自虐的な気持ちと、『でももしかしたら』という少しばかりの期待が入り混じる。煩悩に弄ばれながら、僕はそのバナーをタップした。
「……」
 結果は落選。
 何度リストを読み返してもそこに自分のペンネームは載っておらず、かなりの数の受賞作が出ているというのに、僕の作品は佳作や奨励賞にかすりもしていなかった。
(落選、か……)
 僕は持っていたスマホをその場に転がし、深く息を吐き出しながら目を瞑る。
 目の前が真っ暗になって、辛うじて保っていた創作意欲が、一気に崩壊した気分だった。
 もうボロボロだ。
 せっかく『色の世界』を取り戻したというのに、僕はまた、弱虫でダメな自分に戻ろうとしている。
(紬……)
 寂しい。会いたい。苦しい――。
 希望が何も見えなくて、真っ暗な未来だけが自分の中に広がっていく。
 紬の顔を思い浮かべて感傷に浸っていると、ふと死の間際に聞いた彼女の声が脳裏に蘇った。
『千隼くんの絵、大好き』
『それから、千隼くんのことも……』
 せめてあの言葉の続きが聞けていれば、少しは頑張れたかもしれないのに。
 僕は力なく倒れ込むように、ベッドにボスっと転がろうとした――そのとき。
 脇にある本棚に体がぶつかり、その振動で中途半端に収納されていた『あるもの』が、僕の頭上目掛けて勢いよくドスっと降ってきた。
「いでっ」
 短い悲鳴を上げながら、僕は涙目で自分の脇に転がったソレを見る。
 紬の手帳だ。
 不甲斐ない僕にまるで喝を入れるように降ってきたソレは、紬から――厳密には紬の両親から正式に――譲り受けていたものだ。
 その手帳には創作に関するメモしか書かれていないようで、紬はかねてから自分の死後この手帳は僕にと、両親に口酸っぱく言い聞かせていたらしい。
 僕自身、その手帳について存在は知っていたし、彼女がことあるごとに創作のメモを書き溜めていたことや、その手帳を大切にしていたことも知っている。
 だが、中身を見たことは一度もなかった。
 僕はいつも、この手帳に書き溜められたプロットを実際に小説化した原稿データの形で彼女とやりとりをしていたし、新作の話をするときは、この手帳に書き綴られたメモを彼女の口頭から聞かされるか、あるいはそれを手書きしたメモ用紙、あるいは文章データで渡されていたような状態だったから、実際に手帳の中身を見る機会がなかったのだ。
 本人もプロットのメモを見られるのは自分の脳みそを覗かれているようで恥ずかしいし、殴り書きが多く字も汚いからと頑なに見せてはくれなかった。
 なんとなくその気持ちもわからなくはないので、無理に中を確認することもなかったし、彼女の死後、手帳を譲り受けたはいいが、どうにも彼女への遠慮が働いてしまって今日までその手帳を開くこともできずにいたというわけだ。
(これは……読め、ってことか?)
 都合よく解釈して、僕は額をさすりながら手帳を持ち上げる。
 彼女が長年愛用し、たくさんのプロットを綴ってきただけのことはあり、それなりの重みがある。
 僕は手帳の表紙をひと撫ですると、パラパラと中をめくった。
 今まで僕が読んできた短編、中編、長編小説のタイトルと共に、設定やストーリーのメモなどが併記されている。
 懐かしさと、感慨深さで食い入るように文字を追う僕。
 この作品の内側にはこういう思いがあったのか……とか、この作品は読んだけどこっちの作品は読んだことないな、どこかにデータがあるのかな……とか、タイトルごとにそれぞれの思いを馳せていると、やがて見覚えのある作品タイトルが目が留まった。

『君と僕の世界に色が灯るまでの九十日間』

 僕がイラストを描いた、新作のプロットだ。
 僕はこの作品について、大まかな内容しか聞いていない。
 主人公はとある村に住む弱虫な少年で、頼りないが心優しい。
 ヒロインは色盲の天使で、色が見えるようになる〝魔法の玉〟を探し求めて下界に降りてきた、という設定。ひょんなことからそんな二人が出会い、手を取り合って〝魔法の玉〟を探しに世界中を旅するファンタジー物語だと聞いている。
 おそらく、実際に色が見えない彼女自身の経験をヒロインに落とし込んで、理想を盛り込んだ世界で自由に冒険する話なのだろうと勝手に推測していたのだが――。
 9.
 
(紬はいったいどんなストーリーを描きたかったんだろう)
 考えると少しわくわくしてきたし、やはり紬の頭の中をこっそり覗き見しているようで、手帳を持つ手に妙な緊張が走った。
 ごくりと喉を鳴らし、意を決してページを捲る。
 冒頭には、弱々しい筆跡でざっくりとした主要人物の紹介が書き殴られていて、僕はそれを順番に目で追った。
(これ……)
 主人公の少年は、天才的な絵の才能を持ちながらもひょんなことから自信を消失してしまい絵が描けなくなってしまった画家の卵・チハ。
 これは間違いなく僕。
 ヒロインである色盲の天使・ムギは、九十日間しか下界にいることができないという特殊なファンタジー設定を持った少女。
 これは言わずもがな紬だ。
 実際に僕と彼女が過ごしたのは八十八日間で多少日数のずれはあるにせよ、余命三ヶ月を告げられた彼女の境遇に酷似している。
 チハにムギ。千隼に紬。
 名前の後ろに一応〝仮名〟と付けられてはいるが、添えられた簡易イラストも誤魔化しようがないほど似ているし、これは紛れもなく僕であり紬だった。
 そこに綴られたプロットによれば、二人ははじめ、お互いに心に闇を抱えて孤独な世界を生きていた。しかし偶然出会い、夢を共有して手を取り合ったことによって、二人の人生が輝きを取り戻し始めるのだという。
【病院】【図書館】【水族館】【日常】【遊園地】【学校】――。
 出会いの【病院】では、ムギがピンチを救ってくれたチハに一目惚れをしてしまったり。
 再会したチハと夢を語らい、結託して〝魔法の玉〟を探しにいく約束を交わしたり。
 魔法の【図書館】では、過去の回想をすることで絆を深めたり、種族の差を感じながらも、ムギがチハへの恋情を深めたり。
 神秘の【水族館】では、宝箱からお揃いのクラゲのキーホルダーをゲットしたり、ミルク好きのムギがチハの影響でレモン好きに変わるイベントが発生したり、狸寝入りをして、束の間の急接近に胸をときめかせたり。
 何気ない【日常】で、チハへの愛情が膨れ上がりすぎてしまったムギは、天上界へ帰ることへの葛藤を抱えてしまったり、刻一刻と迫る期限を前に、予定より早く連れ戻しにやってきた両親に対し強く当たってしまい、それを後悔したり。
 落ち込むムギを慰めようと、チハは幻想の【遊園地】に彼女を誘い出す。
 幻想の【遊園地】では、二人がそこに棲まうヌシにもふもふの珍獣になる呪いをかけられてしまい、呪いを解くためにゴーストタウンで試練を潜り抜けたり、ハプニングから二人が急接近したり、クライマックスではチハからの思わぬプレゼントによってムギが喜びのあまり泣いてしまったり。
 その後――、チハが冒険の途中で【学校】に立ち寄るというので、それにムギもついていく……といった展開が仄めかされたところで、詳細な記述は終わっていた。
 おそらく紬本人が、その続きを書けないまま天上界へ帰ってしまったからだろう。
 最終的にはムギが〝魔法の玉〟を手に入れて〝色〟を取り戻し、チハへの未練――天上界の禁忌により告白することができないという最大の未練だ――を残したまま天上界へ帰る予定となっているらしいことだけは大まかにメモされていたが、詳細は不明のまま、いわば未完の状態となっている。
 小説のプロット、というよりは実話を元にした創作と日記のハイブリットに近い。
『チハは弱虫だし自分には向いていないと口癖のようにいうけど、ムギにとってチハは間違いなく唯一無二のヒーロー。チハはムギの夢を叶え、たくさんの幸せをくれた大切な存在。ムギは、チハが大好き。二人が別れた後も二人の絆は残る。チハは悲しみを乗り越えて夢を叶え、最後は必ず、チハ自身が幸せを手に入れる』
 それが手帳の最後に記された一文だった。
「……」
 狸寝入りとか。
 もふもふの珍獣とか。
 ゴーストタウンとか。
 唯一無二のヒーローとか。
「なに可愛いこと書いてんだよ……」 
 ――そこには、チハへの〝好き〟と、幸せだったムギの八十八日間が、これでもかと溢れんばかりに綴られていた。
 紬の笑顔を思い出し、僕は溢れ出して止まらない涙を腕で拭う。
 死を前にした彼女には辛いことだっていっぱいあったはずだ。
 それなのになぜこの物語が幸せなエピソードばかりで埋め尽くされているのか。
 僕にはわかる。優しい彼女はきっと、これを読んだ僕に、この作品が本になった時に出会う読者全てに、悲しい気持ちではなく幸せな気持ちになって欲しかったから、こんなにも明るく幸せなエピソードで溢れているのだろうと。
「……」
 長らくの沈黙の後、僕は立ち上がる。
 これは、紬に託された僕たちの物語だ。
 この作品まで死なせるわけにはいかない。
 未完では絶対に終わらせない――。
 僕は手帳を胸に抱えたままベッドから飛び降り、デスクに腰をかけると何日振りかもわからないタブレットや作業道具を広げる。
(待ってて、紬。必ず叶えてみせるから)

 ――そうして僕は、その日から再び前だけを向いて創作活動に没頭し続けた。
 SNSで冷やかされたり馬鹿にされても構わない。
 学校で浅間に会って嫌味を言われても決して屈することはなかったし、次々とコンテストに作品を送って幾度となく『落選』の現実を叩きつけられても、もう怯まなかった。
 僕は血の通った目で自分の創作と向き合い続け、迷うことなく突き進む。
 絶対に諦めない。
 いつの日かきっと僕たちの物語が世界中に届くと、そう信じて――。



  ◇

 二年後。都内某所――。
 大手出版社・スターライト文庫編集部の編集者である秋山洋子は、立て続けに入っていた作家との打ち合わせが終わると、自席に座ったまま真正面にある掛け時計を見上げた。
 時刻は十四時二十五分。
 作業は山積みだが、そろそろ昼食をとらないと午後の業務に差し支える。大きく伸びをしてから席を立ち、弁当箱の入った鞄を肩に引っ掛けたところ、ふと、部署内のミーティングスペースに見知った顔があることに気がついた。
「あれ、斎藤くんだ」
「あ、秋山先輩お疲れ様っす」
 コンビニのおにぎりを頬張ろうとしていた彼は、営業部の若手社員、斎藤。洋子とは同じ出身大学のよしみである。
「大賞選考会議、十四時半までじゃなかったっけ。もう終わったの?」
 洋子は彼のそばまで歩み寄り、首を捻りながら尋ねた。
というのも、この日、すぐ近くの大会議室ではスターライト文庫が主催する大規模な小説大賞およびイラストコンテストの最終選考会議が行われており、今、目の前にいる斎藤は大賞関連の広報担当をしているはずだった。
 大賞関連の広報担当者といえば、当然のことながら選考会にも参加するし、コンテストの結果が出次第すみやかに各部署と連携をとったり、受賞者への連絡――受賞の意志確認等の事前連絡だ――をすることになっているため、こんなところでのんびり昼食をとっている場合ではないはずだ。
 洋子が疑問に思っていると、斎藤は苦笑しながらその理由を説明した。
「あー……いやそれが、思いの外議論が白熱しちゃって。小説部門の大賞がまだ確定しないんですよね」
「うわ。ずいぶん荒れてんだ」
「うす。今回は小説部門もイラスト部門も、十年に一回あるかどうかの超大作が集まってるって編集長が太鼓判押してるくらいっすから。まだしばらくかかりそうだってことで、一旦休憩挟んで一時間後に仕切り直すことになったんすよ」
「なるほどねえ。それで今頃昼ごはんってわけか」
「午前中も別件の会議入ってたんでつい食いそびれちゃって……。斎藤先輩もこれから昼飯っすか?」
「うん。せっかくだしここいい?」
 洋子が自身の鞄から弁当を取り出しながら尋ねると、斎藤はもぐもぐ口を動かしながらも「もちろんっす」と、資料の束を脇に避けてスペースを空けた。
 遠慮なく彼の脇に腰掛け、自身の弁当を広げる。小綺麗に詰まっているおかずの中から黄色い厚焼き玉子を引き上げつつ、洋子はふと、脇に寄せられた斎藤の書類に目をやった。
『イラスト部門・受賞候補作一覧』
 書類にはマルやバツ、殴り書きのメモなどの赤字が入っており、リストの下にはプリントアウトされた応募作が並んでいるようだった。
「イラスト部門の受賞者は決まった?」
 いずれ洋子の元にも情報が入るはず。とはいえ、やはり気になるし待ちきれなくて尋ねてみると、斎藤はにんまりと笑って親指を立てた。
「そっちはもう決まりました。まあ、そっちもそっちで色々議論はあったんですけどね。最終的にはほぼ満場一致って感じで、綺麗に納まった感じでした」
「うわなにそれ、すっごい気になる……!」
 得意顔の斎藤を見て、余計に好奇心が駆り立てられる洋子。
 小説部門にも、イラスト部門にも、自分が受け持っている作家の卵、あるいはイラストレーターの卵が何人かエントリーしていたはずだ。
 受け持ったクリエイターには皆公平にアドバイスしているし、皆公平に良い結果が出ることを願っているものの、内心……洋子にはどうしても気掛かりとなっているイラストレーターの卵が一人いた。
 過去に佳作をとり担当付きとなった、まだ若いイラストレーター志望の子だ。
 その子には目を見張るような画力があるが、若さゆえかトラブルにも見舞われやすく、繊細で打たれ弱いという難点があった。
(あの子の絵はどうなっただろう)
 前回のコンテストでは、巧みなグレースケールのみでのイラストで勝負を仕掛けてくるという、奇想天外な作品を魅せてくれた。
 あれはあれで心躍らされるものがあったし、独特なタッチにはやはり類稀な才能を感じたけれど、賞を与えるにはまだ早い。彼――いや、彼女かもしれない――には、もっと世界を騒然とさせるような、圧倒的なカラーイラストが描けるはず。
 そう思って少し厳しめなアドバイスを送ってから、約二年が経つ。
 彼はその後、洋子のアドバイス通り次々と意欲的にカラーイラストを描きあげては自社他社問わず様々なイラストコンテストに積極的に挑戦をし続けたと聞いている。
 とはいえ、軒並み落選続きだったと、今から約二ヶ月前に送られてきたメールに書いてあったが、そのメールに今までのような迷いや悲嘆の色はなかった。
 まるで別人のように逞しく、前向きに、これからも諦めずに挑戦を続けるという強い意思表示とアドバイスへの感謝が丁寧に綴られており、末尾には年一で開催している我がスターライト文庫のイラストコンテストにも、渾身の力作を一件送ったという報告が添えられていた。
 贔屓をするわけではないが、やはり彼がどうなったかが気になるわけで、洋子は目の前の斎藤に向き合うと、前のめりで尋ねてみる。
「ねえ斎藤くん。イラスト部門の大賞作どれ? どうせこの後に知ることになるんだし、ちょっとだけ先に見せてよ」
 洋子は懇願するよう「お願い!」と、手を合わせる。
 すると斎藤は、わざとらしく眉を顰めて難色を示しつつも「仕方ないな〜。今度昼飯奢ってくださいよ?」と、手元の資料をこちらに差し出してきた。
 ちゃっかりした条件付きではあるが、先輩想いの後輩を持ったものである。
 洋子は礼を述べ、飛びつくように資料を持ち上げて捲る。
『イラスト部門・受賞候補一覧・大賞者……』
 今回の大賞受賞候補者は八名で、うち受賞者は三名。大賞、銀賞、佳作。リストを見てすぐに、洋子は察した。
(ない……か)
 改めて見直してみても、そのリストに例のイラストレーター志望の子のペンネームはなかった。
 落選かあ、と、気落ちしそうになるのをグッと堪えていると、いつの間にかカップ麺をずるずる啜っていた斎藤が、別の束に挟まっていた資料を洋子に差し出してきた。
「そっちがイラスト部門の受賞者で、『フリー創作部門』はこっちっす」
「『フリー創作部門』……?」
「自由テーマの小説、もしくは自分でおおまかなストーリーを設定したイラストで審議される部門っす」
「ああ、そういえば去年から新設された部門があったんだっけ」
 しばらく選考担当から外れていたので失念していた。小説部門では決められたテーマごとの小説が、イラスト部門ではお題に対するイラストが求められるのに対し、フリー創作部門では自分でテーマやあらすじを自由に設定し、それに対する小説本文、あるいはあらすじ付きのイメージイラストのどちらかを提出するといった、よりクリエイターらしさが求められる部門だ。
 ライター、イラストレーターのどちらからでもエントリーが可能で、洋子の記憶が正しければ、前年の受賞者であるイラストレーターは個性的なSF作品のあらすじと共に、その世界観を表す見事なイラストを提出して受賞が決まった。
 その後、筆力の高いライターがマッチングされ、あらすじから詳細なストーリーが起こされると、最終的には受賞作のイラストが正式な表紙や挿絵となって書籍化に至ったはずだった。
「この部門、意外とイラストレーター志望者の間じゃ話題なんすよね。受賞作がそのまま小説の表紙や挿絵になるわけだし、それなりに有名なライターがマッチングされることが決まってるんで、注目度も高くて売り上げも期待できますからね」
「……」
「んで、大注目となった第二回目のフリー創作部門大賞は、満場一致でソレ(・・)でした。合作での応募らしいんですけど、圧巻のイラストに、あらすじがこれまたよくて。『弱虫な画家志望の少年が、八十八日間しか地上に居られない美しい天使に恋しちゃうファンタジーな物語』なんすけど……って、秋山先輩、聞いてます?」
 受賞作を手にしたまま、食い入るようにイラストを見つめて微動だにしない洋子。
(嗚呼。これだわ、これなのよ……)
 圧倒的画力に、迸るような無限の色彩――。
 洋子の求めていたものが、二年越しに返ってきた答えが、そこに堂々と記されているようだった。
「秋山先輩〜?」
「……聞いてる」
「なんだ、聞いてたんすか。どうです、すごいでしょう?」
「すごいなんてもんじゃないわ」
 ――紙の中央で、一人の少年が天に向かって手を伸ばしている。
 少年の視線の先には、天から舞い降りてきた翼の生えた美しい黒髪の少女がおり、二人の世界には眩しいほどに輝く、無限の色彩が広がっている。
 見れば見るほどより緻密に、繊細に、しかし迷いのない力強いタッチで、洋子はあまりの美しさに、心を両手でガツンと掴まれ、この世界にぐんと引き込まれてそのまま呑まれてしまうような、そんな激しい衝撃を受けた。
「五百点満点ね。私の目に狂いはなかったってことだわ」
「……へ?」
「ううん、こっちの話。受賞作の刊行が楽しみね」
 洋子はふふっと口元を綻ばせ、受賞作となったイラスト数枚を手元に広げる。 

【大賞】
『君と僕の世界に色が灯るまでの八十八日間/イラスト:小鳥 遊(ストーリー原案:雪谷紬)』

 曇りなき表情で幸せそうに微笑む少年少女。
 彼らの世界には、どこまでも果てしなく鮮やかな色が広がっていた。
 

 ー了ー
  

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