鼻歌が、ドアの向こうから漏れていた。
ここら辺の人間にとってはなじみ深い童謡で、一番なら誰でも歌える。電車の発車メロディーにもなっているくらいだ。聞き覚えが無い方がおかしい。
ドアを開けると、より鮮明に聞こえた。
「みかんの花が 満開で――」
陽気にそこまで歌い、彼女は俺の存在にようやく気が付く。
「――えっ……」
石のように固まる彼女。そんな、何でここにいる、とでも言いたげな表情をされても困る。
スマホを持たない彼女への連絡手段は無い。いつだって見舞いは突然のものになるのだ。
「続けないのか?」
「いや、いやいや……」
膝に乗せた掛け布団を頭まで被り、彼女は暗闇に溶け込んだ。
「上手いんだから、もっと堂々としてりゃいいのに」
サイドランプを点ける。ちょうど、みかんのような色の明かりが一帯を包み込む。
「ほ、本当ですか?」
目元だけ布団から出して、こちらを見る彼女。そんなに恥ずかしがるのなら、せめてロックとかラップでも歌っていてほしかった。そうしたら、存分にいじり倒してやるのに。
「嘘つけねえ性格なのは蛍琉だけじゃねえよ」
いつもの定位置に腰を掛け、一息つく。
無意識にスマホを取り出そうとして、慌ててポケットに押し込む。現代病とは、厄介なものだ。彼女を前にしたら、病気と呼ぶことすら憚られるけど。
「小さい頃、合唱団に入っていましたから」
「ふーん」
確かに、彼女の歌い方はしっかりと指導を受けたうえで土台が存在するものだった。素人でもたったの一フレーズからそのことが分かるのだから、お世辞抜きに本当に達者なのだろう。
「四年前に辞めちゃいましたけどね」
四年前、ね……。
もしかしたら、この生活を四年。途方もない話だ。
「それなら人前で歌うのくらい慣れてんだろ」
「上手く歌おうとか考えてないときに見られたからですよぉ」
「そういうもんかねぇ」
恥のかき損だとでも思っているのだろうか。
「それなら、今度はちゃんと蛍琉なりに上手く歌ってみてくれよ」
彼女がジトっと俺を見て、すごく嫌そうな顔をする。
「……駄目です」
「おい、何でだよ」
「日影くんには聞かせてあげませーん。どうしてもって言うのならば、日影くんが先に歌ってください」
まさか、そんな返しをされるとは思わなかった。流石にさっきの彼女の歌声を聞いた後では、首を縦に振ることは出来ない。そもそも、歌は得意ではないのだ。
「ま、いいか」
仕方がなく、引き下がることにした。そもそも、会話の切り出しに打ってつけの話題があったから引き延ばしただけだ。それ以外の何ものでもない。
でも、彼女の歌声はやけに耳に残る。まだ、俺の脳裏には彼女の潮騒のような心地よい音が滞留していた。
「みかんの花って、何色なんですかね」
暑かったのか、布団を剥いで彼女が大きく伸びをする。患者衣から柔らかに身体のラインが浮かび上がり、そっと視線を逸らす。
「知らねーよ。気にしたこともねえ」
「私も見たことないんですよ。この辺りにはみかん畑が多いはずなんですけどね」
「用が無けりゃ行くこともないだろ」
十六年住んでいて、どこにみかん畑があるのかすら知らない。童謡の舞台になるくらいだ。さぞ、名産地なんだろうが、実際に住んでいたら農家なんてものとは縁遠い。
「そうだ、今度行って確かめてきてくださいよ」
「はぁ? なんでそんなことしなくちゃならねぇんだよ」
彼女が拗ねたように頬を膨らます。そして、さも軽い口調で言ったのだ。
「じゃあ、日影くんは私に死ねと言うんですか?」
「――えっ……」
あまりにも突然の告白だった。
〝死〟という響きに言葉が詰まる。喉が締まって、呼吸がしづらい。
だって、彼女の病気がそういうものだと知らなかった。明るい場所に居られないことは聞いての通り。でも、それに伴う症状のことを彼女は語らなかった。
普段の彼女の様子を見て、厄介ではあるけれど、そんなに重い病気だなんて想像もしていなかった。だとすると、彼女の母親の過敏さにも合点がいく。
目の前の少女が、死と言うリスクを背負って生きている。そのことが、たまらなく恐ろしい。
「い、行けばいいんだろ!」
ほとんど無意識に口にしていた。考えることから逃げるように。彼女との向き合いを拒絶するための逃げ台詞だった。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
でも、彼女はそんなことはどうでも良さそうだ。というか、そもそも俺がその単語に意識を削がれていることにすら気が付いていない。ただ、瑞々しく笑顔を弾けさせて、俺に差し向ける。
「……いいよ、別に。どうせ来週の土日は暇だから」
天井を見上げた。電球色の薄衣に包まれた浅い闇が、一面に広がっている。当たり前だけど、星なんて見えやしない。
「出来れば、一緒に行ってみたかったですね……みかん畑」
悲しそうな呟きだった。
ゆっくり視線を下げると、彼女も倣ったように天井を見つめていた。透き通る硝子玉のような瞳に、3.5ルクスにも満たない暗い空が浮かんでいる。
「みかん、私大好きなんですよ」
「ふーん……」
ぶっきらぼうな俺の態度を彼女は歯牙にも掛けず、続けた。
「だって、みかんってどんな果物よりも、どんな野菜よりも、太陽浴びてるんだなぁって思いませんか?」
「……そうか?」
「そうですよ! だって、あんなに鮮やかな橙色に敵うものはありません。今にも弾けてしまいそうなくらい瑞々しくて、輝いているじゃないですか!」
熱弁の後、彼女は「実際に木になっているの見たこと無いですけど」と付け加える。
言われてみれば、そうなのかもしれない。その時、トマトとかりんごが良い勝負しそうだな、とか思ったけれど、言わなかった。だって、みかんの方が太陽っぽい色だし。
「そもそも、みかんの花って今咲いてるのかよ」
彼女は腕を組んで小さく唸る。
「どうなんでしょうね。冬が旬ですし、ちょうど良い時期に思えなくも無いですけれど」
つまり、彼女は花の咲く季節すら知らずに、俺に確認して来いと言ったのか。
ネットで調べたら開花時期も花弁の色も当然のように分かるのだろう。けれど、それはそれでつまらないなと思う。
彼女が本当に見たいと思っているのだから、俺が代わりにこの目で確かめてやるべきだ。それにもう行くと言ってしまったわけだし。
結局、その日は彼女の病気について、それ以上訊くことは出来なかった。不可思議だった彼女との暗闇での会話が、今さら現実味を帯びたようにほのかに色づきだす。
帰り際には壊れ物を扱うように、慎重に言葉を選んでいる自分がいた。らしくもない。
燃える夕照が、やけに憎らしかった。
ここら辺の人間にとってはなじみ深い童謡で、一番なら誰でも歌える。電車の発車メロディーにもなっているくらいだ。聞き覚えが無い方がおかしい。
ドアを開けると、より鮮明に聞こえた。
「みかんの花が 満開で――」
陽気にそこまで歌い、彼女は俺の存在にようやく気が付く。
「――えっ……」
石のように固まる彼女。そんな、何でここにいる、とでも言いたげな表情をされても困る。
スマホを持たない彼女への連絡手段は無い。いつだって見舞いは突然のものになるのだ。
「続けないのか?」
「いや、いやいや……」
膝に乗せた掛け布団を頭まで被り、彼女は暗闇に溶け込んだ。
「上手いんだから、もっと堂々としてりゃいいのに」
サイドランプを点ける。ちょうど、みかんのような色の明かりが一帯を包み込む。
「ほ、本当ですか?」
目元だけ布団から出して、こちらを見る彼女。そんなに恥ずかしがるのなら、せめてロックとかラップでも歌っていてほしかった。そうしたら、存分にいじり倒してやるのに。
「嘘つけねえ性格なのは蛍琉だけじゃねえよ」
いつもの定位置に腰を掛け、一息つく。
無意識にスマホを取り出そうとして、慌ててポケットに押し込む。現代病とは、厄介なものだ。彼女を前にしたら、病気と呼ぶことすら憚られるけど。
「小さい頃、合唱団に入っていましたから」
「ふーん」
確かに、彼女の歌い方はしっかりと指導を受けたうえで土台が存在するものだった。素人でもたったの一フレーズからそのことが分かるのだから、お世辞抜きに本当に達者なのだろう。
「四年前に辞めちゃいましたけどね」
四年前、ね……。
もしかしたら、この生活を四年。途方もない話だ。
「それなら人前で歌うのくらい慣れてんだろ」
「上手く歌おうとか考えてないときに見られたからですよぉ」
「そういうもんかねぇ」
恥のかき損だとでも思っているのだろうか。
「それなら、今度はちゃんと蛍琉なりに上手く歌ってみてくれよ」
彼女がジトっと俺を見て、すごく嫌そうな顔をする。
「……駄目です」
「おい、何でだよ」
「日影くんには聞かせてあげませーん。どうしてもって言うのならば、日影くんが先に歌ってください」
まさか、そんな返しをされるとは思わなかった。流石にさっきの彼女の歌声を聞いた後では、首を縦に振ることは出来ない。そもそも、歌は得意ではないのだ。
「ま、いいか」
仕方がなく、引き下がることにした。そもそも、会話の切り出しに打ってつけの話題があったから引き延ばしただけだ。それ以外の何ものでもない。
でも、彼女の歌声はやけに耳に残る。まだ、俺の脳裏には彼女の潮騒のような心地よい音が滞留していた。
「みかんの花って、何色なんですかね」
暑かったのか、布団を剥いで彼女が大きく伸びをする。患者衣から柔らかに身体のラインが浮かび上がり、そっと視線を逸らす。
「知らねーよ。気にしたこともねえ」
「私も見たことないんですよ。この辺りにはみかん畑が多いはずなんですけどね」
「用が無けりゃ行くこともないだろ」
十六年住んでいて、どこにみかん畑があるのかすら知らない。童謡の舞台になるくらいだ。さぞ、名産地なんだろうが、実際に住んでいたら農家なんてものとは縁遠い。
「そうだ、今度行って確かめてきてくださいよ」
「はぁ? なんでそんなことしなくちゃならねぇんだよ」
彼女が拗ねたように頬を膨らます。そして、さも軽い口調で言ったのだ。
「じゃあ、日影くんは私に死ねと言うんですか?」
「――えっ……」
あまりにも突然の告白だった。
〝死〟という響きに言葉が詰まる。喉が締まって、呼吸がしづらい。
だって、彼女の病気がそういうものだと知らなかった。明るい場所に居られないことは聞いての通り。でも、それに伴う症状のことを彼女は語らなかった。
普段の彼女の様子を見て、厄介ではあるけれど、そんなに重い病気だなんて想像もしていなかった。だとすると、彼女の母親の過敏さにも合点がいく。
目の前の少女が、死と言うリスクを背負って生きている。そのことが、たまらなく恐ろしい。
「い、行けばいいんだろ!」
ほとんど無意識に口にしていた。考えることから逃げるように。彼女との向き合いを拒絶するための逃げ台詞だった。
「本当ですか!? ありがとうございます!」
でも、彼女はそんなことはどうでも良さそうだ。というか、そもそも俺がその単語に意識を削がれていることにすら気が付いていない。ただ、瑞々しく笑顔を弾けさせて、俺に差し向ける。
「……いいよ、別に。どうせ来週の土日は暇だから」
天井を見上げた。電球色の薄衣に包まれた浅い闇が、一面に広がっている。当たり前だけど、星なんて見えやしない。
「出来れば、一緒に行ってみたかったですね……みかん畑」
悲しそうな呟きだった。
ゆっくり視線を下げると、彼女も倣ったように天井を見つめていた。透き通る硝子玉のような瞳に、3.5ルクスにも満たない暗い空が浮かんでいる。
「みかん、私大好きなんですよ」
「ふーん……」
ぶっきらぼうな俺の態度を彼女は歯牙にも掛けず、続けた。
「だって、みかんってどんな果物よりも、どんな野菜よりも、太陽浴びてるんだなぁって思いませんか?」
「……そうか?」
「そうですよ! だって、あんなに鮮やかな橙色に敵うものはありません。今にも弾けてしまいそうなくらい瑞々しくて、輝いているじゃないですか!」
熱弁の後、彼女は「実際に木になっているの見たこと無いですけど」と付け加える。
言われてみれば、そうなのかもしれない。その時、トマトとかりんごが良い勝負しそうだな、とか思ったけれど、言わなかった。だって、みかんの方が太陽っぽい色だし。
「そもそも、みかんの花って今咲いてるのかよ」
彼女は腕を組んで小さく唸る。
「どうなんでしょうね。冬が旬ですし、ちょうど良い時期に思えなくも無いですけれど」
つまり、彼女は花の咲く季節すら知らずに、俺に確認して来いと言ったのか。
ネットで調べたら開花時期も花弁の色も当然のように分かるのだろう。けれど、それはそれでつまらないなと思う。
彼女が本当に見たいと思っているのだから、俺が代わりにこの目で確かめてやるべきだ。それにもう行くと言ってしまったわけだし。
結局、その日は彼女の病気について、それ以上訊くことは出来なかった。不可思議だった彼女との暗闇での会話が、今さら現実味を帯びたようにほのかに色づきだす。
帰り際には壊れ物を扱うように、慎重に言葉を選んでいる自分がいた。らしくもない。
燃える夕照が、やけに憎らしかった。