ひんやりとした空気が、いつしか随分と軽くなっていた。どうして夜の空気はもったりと重たいのに、早朝の空気はこんなにも軽いのだろう。
白んでいく空を仰いで、思い切り深呼吸をしてみた。濁りの無い爽やかな新緑の匂いが肺を満たす。
空気が美味しいって、こういうことを言うんだな。生きていて、初めて実感した感覚だった。
星が一つ、また一つと明るく塗られるキャンバスの彼方へと姿を隠していく。今日は幾ばくか気温が高くなりそうな気配がした。
「カーテンはどうする?」
「いえ、もういらないでしょう。今日の私はありのままです」
目の下を赤く腫らした彼女の表情は晴れやかだ。多分、俺も全く一緒だと思う。泣き擦りすぎて赤い隈が出来ているんじゃないだろうか。
それでも、心の内はとても穏やかだった。
彼女を背におぶって、長い丸太階段をゆっくり降りる。前に回した彼女の腕の俺を抱きしめる力は随分と弱々しく、とても熱い。
何が正解なのか、きっと誰にも分からない。そもそも、正解なんて無いんだと思う。
俺と彼女は出来るだけいつも通りの日常的な会話を広げた。それでも、未来の話はしなかった。
途中、コンビニに寄ってアイスだけ買った。もちろん、俺は青い棒アイスを、彼女はハーゲンのいちご味を。綺麗に半分ずっこにした。もう、濃い味が嫌いじゃなくなっている自分に驚きだ。彼女は俺の好き嫌いまで変えてしまう。
徐々に気温が高まる最中、すっかり一面の青空になった下で食べるアイスは格別だった。暗闇で食べるなんて、やっぱり勿体ない。
山を下り、そしてまた別の山に向けて登る。バスも出ていないような早朝の峠道は人通りはおろか、車通りもかなり少ない。それでも、二人きりの世界ではなくなってしまった事がちょっぴり残念だ。
「楽しみですね、みかん畑」
「普通、実が成ってる時を見たがると思うんだけどな」
彼女が身を乗り出し、横から俺の顔を覗き込む。
「だって、それは日影くんがもう見てしまったじゃないですか。でも、まだみかんの花は見ていませんよね? 私は日影くんと初めてを共有するのが楽しみなんです」
果たして、俺はちゃんと彼女と思いを共有することが出来るだろうか。実際にその時になってみないと分からない。
俺も彼女も、ずっと小さく震えていた。でも、二人ともそれについて触れなかった。
やっぱり、俺も彼女も物語の主人公にはなれそうもない。腹を括ったはずなのに、まだ恐怖を逃れられない。
でも、それでいいんだと思う。だって、これは人間的に当たり前の感情で、殺してはいけない弱い部分だ。彼女といることが出来て嬉しいのと同様、別れが悲しくて怖いのは自然なことなのだから。
だから、これでいい。押し殺さないで、我慢もしない。
今だけは、彼女にありのままの俺でいたいから。
「ほら、見えてきたぞ」
前方を指さす。錆びて古びた大きな看板と、直営所が道脇にそびえている。駐車場には一台だけ荷台のついた小型のトラックが、隅にぽつんと停められていた。
「おぉー、すぐにみかん畑がお出迎えするわけではないのですね」
彼女の言葉に少し笑いが零れる。
「どうしたんですか?」
「いや、初めて来たとき全く同じ感想だったなって」
「ふふっ、息ぴったりです」
直営所の逆さになったビールケースの上にはまだ何も置かれていない。
脇のドアをノックする。しばらくして、奥から床を雑に踏み歩く足音が聞こえてきた。がらっと勢いよくドアが開き、眉間に皺を寄せたおっさんが姿を見せる。大方、こんな朝っぱらに誰が来やがったとでも思っているのだろう。何なら、文句の一つも喉元まで用意していそうだ。
おっさんは俺の顔を見るや否や、少し驚いたように眉間の皺を緩める。
「なんだぁ? こんな早くにどしたんだ、坊主」
俺に尋ねながらも、その視線が背に担いだ彼女へと向く。そして、余計に首を傾げた。
「すんません、ちょっとお願いがありまして」
神妙な気配を察したのか、おっさんは難しそうな顔で白髭を擦る。そして、ややあって一言「入れ」と呟いて、背を向けた。
「やはり、ご迷惑でしたよね……」
彼女が囁く。
「いや、別にそんなことないだろ。何か結構機嫌良さそうだったし」
「ほ、本当ですか?」
「おっさんはああいう人間なんだよ」
確かに初対面の彼女には、ぶっきらぼうで愛想の無い人に見えるだろう。しかし、おっさんは言ってしまえば人見知りのようなものなのだ。慣れるまでは取り付く島が無い。
多分、五月の現在はまだニューサマーオレンジの収穫体験で忙しいだろうに、おっさんはすんなりといつものように倉庫に通してくれた。
「何だか訳ありっぽいじゃねえか」
「あー、まあ、そうっすね。何から話したらよいのか」
こうしている間にも、彼女は常に戦い続けている。いつ限界が来てもおかしくは無いのだ。その焦りが、思考をやたらとかき乱す。
「日影くん、私に説明させていただけますか?」
後ろ髪を掻く俺の手を彼女が握り、そっと降ろした。
「あ、あぁ……。そうだな、それがいい」
それから、彼女はおっさんに全てを伝えた。己の病気のこと、余命のこと、何をしにここに来たのかということ。時折、息が切れながらも彼女はひたむきに語った。それをおっさんは口を挟むことなくじっと、黙って聞いていた。
そして、全部を明け透けに話し終えると、おっさんは俺と彼女を見据えて、暫し思案するように顎をしきりに擦る。
もちろん、断られる可能性の方が高いだろう。少なからず、この場所には悪いイメージが付いてしまう。どれだけ沈黙を貫こうと、情報はどこかで勝手に漏れ出してしまうのだから。
しかし、最初は懐疑的だったおっさんも、彼女の熱意に当てられて真剣に考えてくれている。
俺はそんなおっさんの昔話を思い返し、そして、気が付けば口を開いていた。
「あの、今言うのも変かもですけど、」
そう前置き、一度唾を呑み込む。これが彼女の後押しになるとは限らない。それでも、俺はおっさんに伝えておきたかった。ずっと分からなかった疑問が解けたから。
「息子さん、自殺じゃないと思います」
おっさんの瞳が見開く。
「いや、自ら命を絶ったことには変わりないと思うっす。でも、遺書の『俺が俺であるために』って言葉、今ならどういう意味か分かるんすよ……」
おっさんの貧乏ゆすりがぴたっと止まる。小刻みに鳴り響いていた音が止まり、天井の高い倉庫に静寂が敷き詰められる。
「お、おい、それってつまり――」
「息子さん、多分私と同じなんだと思います」
そっと彼女が呟く。彼女が横目で俺をちらっと見るから、小さく頷いた。
おっさんは半開きの口を震わせ、言葉を失う。
「私は、私のために死にたい。自分じゃなくなってしまうのが怖くて、今こうして色んな人に迷惑をかけてここにいます。それでも、私は運命なんかに負けたくないのです」
彼女の真剣な眼差しにおっさんは動きを固めた。そして、額に手を当てうなだれるように顔を隠す。
「そうか……。そうだったか……あいつ、そんなことを考えて――」
その声は少し震えていた。
しばらくの沈黙の後、おっさんはゆっくりと顔を上げた。微かに潤んだ瞳が俺と彼女を捉える。
「全く、大馬鹿だな。あいつも、お前らも」
「やっぱり、ご迷惑ですよね……」
残念そうに顔を下げる彼女をおっさんが立って見下ろす。そして、どこか満足げに目尻を下げた。
「何してんだ、さっさと行くぞ。早くしねえと営業時間になって客が来ちまうからな」
そう言い残し、おっさんは踵を返した。すたすたと早足で倉庫の奥へと向かう。
「えっ……と?」
困惑する彼女の手を俺は優しく握り、ゆっくりと立たせる。
「ついて来いってことだよ。ったく、分かりにくいんだよな」
彼女はきょとんと目を丸め、ややあってようやく緊張の糸を解いたのか、安堵の息を吐く。
「歩けるか……?」
「はい、さいごは自分の足で歩みたいです。でも、私は寂しがり屋なので手は繋いでいてくれますか?」
「もちろんだよ」
震える足で懸命に彼女は立ち上がった。もう、足を上げることは叶わないらしく、すり足でゆっくりと一歩ずつ進む。俺の肩を借りるでもなく、寄りかかるわけでも無い。ただ、自分の足で確かに歩んだ。
息も随分荒い。額に滲む汗は明らかに身体の異常を示している。それでも、彼女は抑えきれない高揚感に満ち溢れていた。
おっさんも何も言わず、大きなシャッターの前でじっと待っていてくれた。その瞳は懐かしさを抱えているように思える。きっと、思い出しているのだろう。俺や彼女と同じくらいの歳だと言っていたし。
「この先が、俺の自慢のみかん畑だ」
薄暗い倉庫に、思わずしり込みしそうな大きなシャッター。ほのかに染みつく柑橘の香りが、この暗さには似つかわしくない。
ぎゅっと、触れるだけだった彼女の手に力が籠る。だから、俺は彼女の手を優しく握り返した。それが、合図だった。
おっさんがシャッターを勢いよく開ける。隙間から漏れ出した光を気にする間もなく、視界が開けた。強烈な日差しが真っ先に飛び込んで、視界を白く染め上げる。徐々に鮮明になっていく世界に、思わず言葉を失って立ち尽くしてしまった。
雲の一つない快晴な青空と、張り合うように煌めく水平線。そして、緩やかな斜面を等間隔に並ぶみかんの木々。遠くに見える山々よりもずっと青々と茂った新緑に純白の花が咲き誇っている。割けるように開いた白い花弁に、蜜蜂を寄せる黄色いめしべとおしべ。それらが一つの木にたくさんの宝石となって太陽の光を受けて輝いていた。
吹き抜ける風が白と緑を揺らし、甘い爽やかな香りが鼻腔を撫でる。
「すっげぇ……」
今まで、二度この場所から同じ景色を見渡した。青い果実が入道雲に映える時。太陽に負けない橙色の果実が色彩を明るく染め上げた時。どちらも、紛れもない感動があった。
それでも、思わず声が出たのは初めての事だった。ありきたりな言葉だけど、この光景を表すにはどんなに華やかな言葉を並べても形容することは出来ない。
初夏の空が、海が、満開のみかん畑が、俺の心を掴んで離さない。
ふと、隣の彼女に目を向けた。俺と同じように目を奪われ、自然と笑みを零していた。それは今まで見たどんな彼女よりも表情が生き生きとしていて、思わず見惚れてしまう。
気が付けば、二人とも手の震えが止まっていた。
「私、やっぱり来てよかったです」
「あぁ、俺も……」
おっさんが気を利かせて椅子を用意してくれた。二人で並んで、ずっとみかん畑を眺めた。薄暗い倉庫から眺める燦々と輝いた世界は、まるで映画を見ているようだ。
「今日は良い天気ですね」
「そうだな、この景色を見るのにぴったりだ」
いつの間にか、太陽がとても高い位置にある。倉庫にかかった時計を見ると、もう十二時を回っていた。
客が来ないことを見るに、多分おっさんが臨時で休みにしたのだろう。本当に頭が上がらない。
「少し、席を外す。おっさん、蛍琉のこと見ててやってくれ」
「おう、任せな」
倉庫を出て、直営所のビールケースに腰をかける。手の震えは止まったけれど、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
頬を強く叩く。ひりひりして、すごく痛かった。生きてるって、実感できた。
五分ほどその場で呼吸を落ち着かせ、戻るとおっさんは背を向けて肩を震わせていた。ぽたりとおっさんの足元に零れ落ちた雫が染みる。
「どうしたんだ?」
晴れやかな表情の彼女がにこっと俺に笑いかける。
「何でも無いですよ。ただ、少しお話していただけです。ねっ?」
おっさんは乱暴に作業着の袖で顔を拭い、俺と入れ替わるように外へと踵を返した。
「そうだな、何でもねえよ。でもな、坊主、嬢ちゃん。……ありがとうな。ようやく、息子のことが分かったよ」
そう言い残し、おっさんは外へと行ってしまった。一体、俺がいない間に何を話したのやら。きっと、彼女にしか伝えられないことがあったのだろう。
彼女の隣に座り直す。そして、またぽつりぽつりと会話を交わしながら、夢心地な景色に目を奪われた。
こんな時間がいつまでも続けばいい。月並みな思いを心の底から感じていた。
「やっぱり、さいごに日影くんとこの景色を見ることが出来て良かったです」
ゆっくりと彼女が立ち上がった。手を貸そうとして、彼女が緩やかに首を振る。
そのまま、彼女は一歩踏み出した。薄暗い倉庫から抜け出した白磁の腕が、制服が、太陽の陽射しを浴びて輝く。その様子を俺はただ眺めていた。
全身を太陽の下に晒した彼女が、まるで病気を感じさせない軽やかな動きで振り返る。10万ルクスの明かりを一身に受け止めて、同じように輝きを放つ少女がそこにいた。
「日影くん」
彼女が俺の名前を呼ぶ。
きっと、愛の告白でも、別れの言葉でも無い。だって、これは残酷で、幸せな、日常の最後の一ページなのだから。
「どうした?」
自然と口元が綻んでいた。
最高の笑顔に一筋の涙が零れ落ちる。それはとても美しくて、一ミリも悲しい気持ちになんてならなかった。
「私、日影くんに出会えて幸せでした! ――生きていて、本当に良かったです!」
この日、彼女は世界で一番輝いていた。
太陽のような10万ルクスの満面の笑顔と、1ルクスの輝く涙で、いつまでも俺を照らしてくれた。
この日のことを俺は一生忘れないだろう。俺にとって、彼女にとって、この日は人生で一番眩く輝いていた日だ。
――彼女の葬儀が執り行われたのは、それから三日後のことだった。
肌寒そうな枝木に薄桃色の花が咲き誇り、そして、やっぱりあまり目に留めることもなく散った。
それでも、昨年よりは記憶に残ったはずだ。最近は意識的に草花に目を向けることが増えたから。
スマホを見ながら、ぼんやり歩くことは無くなった。ブルーライトから発せられる何ルクスかの明るさは、太陽と違ってすごく身体に良くない気がして。
変わらない趣味の悪い応援を遠巻きに、観客席からコートを見下ろす。約七十九坪のフィールドを、ネットを挟んで二人が駆ける。
青を塗りたくった空から陽射しが二人を穿つように照り付け、白熱する試合により熱をもたらしている。
激しく行き交う蛍光色の球の行方を、俺は固唾を呑んで見守っていた。
「ファイトーッ!」
気が付けば、自然と大きな声を張り上げていた。遠巻きに眺める人たちは声を出していない人が多かったこともあり、周りから視線が集まる。だけど、そんなこと関係なかった。心の底から、とにかく、彼に勝ってほしかったから。
一時間近くに及ぶ長丁場の試合の最後は、彼のネット前でのプレーで締めくくられた。迫真という表現が正しい、ポール際のダイビングボレーだった。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 6-5」
審判が審判台から降りるのを見て、俺はそっとその場を後にした。思ったよりも長引いた試合に、今日は休みを取ってきて正解だと心の中で独り言ちる。
隣県から電車で帰ってたんじゃ、夕方の納入にも間に合わなかっただろう。それに、おっさんも気兼ねなく行って来いと言ってくれたし。
最後の試合が終わり、設備の整った広いテニス場はいつもと違う、哀愁を感じる空気が漂っていた。テニスコートが立ち並ぶくせに、球を弾く音が一切聞こえないのは変な感覚だ。同時に部活終わりの懐かしさもこみ上げてくる。
夕照に染まりつつある橙色の景色が、笠木の優勝を持って一日の幕を降ろす準備をしているみたいだった。
「――先輩!」
ふと背から声がかかる。バレずに帰るつもりだったが、彼を相手にはそうもいかないらしい。汗だくで息を切らした笠木が、ラケットを手放すことも忘れてそこにいた。
「おう、東海大会優勝おめでとさん」
「ありがとうございます! あ、えっと、応援ありがとうございます!」
全部ひっくるめて一言で良いのに。相変わらず、律義な性格なのだ。
「最後、ちゃんと先輩の声聞こえたっす!」
「あの状況で? お前、すげぇな」
にかっと歯を見せて笑う笠木。当たり前っすよ、と言いたげだった。
「次は全国だな」
「はい! 先輩の分まで、俺が頑張ってきます!」
「俺はもう卒業して部員じゃねえんだけどなぁ」
「気の持ちようっすよ」
それなら、まあ別にいいか。
俺もあの時、笠木の分まで、と意気込んでいたわけだし。
「応援来てくれるっすか?」
「仕事の休みが取れたらな。まあ、大丈夫だろ。七月はそこまで忙しくないしな」
数か月先の約束をするのは、実はあまり好きではない。人生何が起きるか分からないんだ。だから、どうせおっさんは休みをくれるんだろうけど、断言はしないでおいた。
会場に設置された音響設備から、大会の閉幕を告げるアナウンスが流れる。見る見るうちに人が捌けていく最中、俺は胸の疼きをずっと感じていた。
斜陽で寂しそうになったコートから、目がなかなか話せない。
少しくらい、欲を出しても良いだろうか。
「なあ、」
「どうしたっすか?」
「一試合、やらね?」
ようやく息の整った笠木の表情が一気に明るくなる。まるで、花が咲いたみたいだ。
「はい! もちろんっすよ!」
ネットを挟み、コート上で笠木と向かい合う。遠慮はいらないと言っておいたけれど、果たしてどうだろうか。
その疑問は、すぐさま消え失せた。内側から抉るような猛烈なファーストサーブが飛んできて、俺はラケットを振る間もなく息を呑む。
「どうしたんすか、どんどん行きますよ!」
もちろん、試合はコテンパンにされた。それでも、久しぶりに一心不乱にコートを駆ける時の昂る気持ちと、得点を取った時の高揚感にどうしようもなく痺れた。
次第に、思考が目の前のことだけに支配されていく。他の何もかもが頭の隅に塵となって消え、今はただ、眼前のことだけしか考えられない。
ラリーを交わしながら、自然と笑みが零れ落ちる。激しく打ち鳴らす鼓動が心地よかった。
もうどうにも間に合わない最後の一球まで、全力で追いかけた。届かないと分かっていても、懸命に腕を伸ばした。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 7-1っす」
大の字でコートに倒れ込む俺に笠木が手を差し出す。俺はその手をありがたく取って、身体を起こした。まだ、うるさいくらいに心臓が暴れている。
「はぁー、お前強すぎんだよ」
「1ゲームも渡すつもりは無かったんすけどね。やっぱり、先輩は流石っす!」
その言葉に皮肉は混じっていない。笠木の純然たる俺への感想だった。
やっぱり、過大評価だ。そう思ったけど、口には出さないでおいた。こんな俺でも、誰かの道しるべになれているのなら、わざわざ自分で否定する必要も無いのだから。
「先輩、また試合してくれますか?」
コートを見渡す。風にそよぐネット、土をつけた蛍光色の球。自分だけがヒーローになれる、強く輝ける場所。
なあ、母さん。蛍琉。俺はやっぱり――
「あぁ、もちろん。俺、テニス好きだからさ」
まだ車通りの少ない山岳道路の朝は、窓を開けながら走行すると軽い空気が存分に感じられる。運転中にも随分余裕が出来た証拠だろうか。とはいえ、まだ免許を取って数か月。まだまだ、親父にもおっさんにも危なっかしいと言われる日々だ。
この辺りは民家が少なく、もちろんマンションなどはあるはずもない。コンビニだって、五分前に通り過ぎたのが最後だ。
日の出がすっかり早くなった五月は、朝の七時でも高く太陽が昇っている。朝のさわやかな空気にわずかな熱を感じ、今日は暑くなりそうだなと思った。
駐車場の隅に車を止める。主要道を脇に逸れたここは、車のドアを閉める音がよく響く。
農繁期もだいぶ落ち着き、ようやく怒涛ともいえる日々に余裕が生まれてきた。とはいえ、ウチの職場はニューサマーオレンジの栽培、収穫体験も行っているため、あと半月くらいは閑散期とは言えない。
今日もこれから前日に収穫したニューサマーオレンジの選果、それから農協への持ち込みから始まる。長い一日になるだろう。
直営所のドアを鍵で開け、そのまま中へ入る。おっさんの持ち家だが、同時に俺の職場でもある。だから、合鍵を持たされていた。
そのまま倉庫に向かうと、おっさんはニューサマーオレンジが積まれたコンテナに手をかけているところだった。まだ就業時間ではないのに、どうやら、一足先に仕事を始めるつもりだったらしい。どこまでも仕事熱心な人だ。
「おはざいまーす」
俺の挨拶でようやく存在に気が付いたのか、皺の深い顔を向ける。
「おう、今日はちょっと早えじゃねぇか、日影」
「おっさんがいつも、こうやって先に仕事始めちまうからっすよ」
おっさんは罰が悪そうな顔で手を動かす。これまで奥さんが亡くなるまでは夫婦で、それからは一人でここを切り盛りしてきたせいか、どうも始業と終業の感覚が分からないらしい。とはいえ、別に俺以外に従業員はいないわけだし、こうして面と向かって苦言出来る間柄だから、さほど問題でもない。今日、早く来たのは、実際はただの気分だ。
手早く荷物を降ろし、仕事に取り掛かる。つい最近までは毎日のように怒鳴られていたけれど、ようやく一年を通しての仕事にも慣れてきた。
「ったく、毎度律義なやつだな。早くに始めたからって、給料は増えねえぞ?」
「仕事以外ここでやることないっすよ」
「かぁー、生意気なやつだこんちくしょう。バイトの時にゃあ、もう少し可愛げがあったってのに」
そんなことを言いながらも、おっさんはやけに楽しそうだった。まるで、息子と会話している。そんな風に思えた。ただの俺の思い込みかもしれないけど。
昨年の五月。俺はおっさんに頼み込んでバイトとして雇ってもらった。迷惑をかけたというのも理由の一つだけど、おっさんの仕事への熱意に感銘を受けて働いてみたくなったからだ。後は、まあ、何かをしていないと辛い時期だった。
高校三年は就活組にとっては時間が有り余る。夏には部活も終わり、自由登校日が増える。だから、俺はその分、おっさんの下でバイトをしたり、免許を取ったり、なるべく暇な時間をつくらないようにしていた。
就活はしなかった。元々、おっさんに卒業と同時に雇ってもらえるように頼んでいたからだ。
コンテナから黄色い果実を取っては、傷や汚れなどのチェックをして大きさ別に仕分ける。倉庫を漂う爽やかな酸味の強い香りにふと思う。
「ニューサマーはあんまり太陽っぽくねえな……」
独り言におっさんが手元から目を離し、俺を一瞥する。
「あぁ、いや、特に意味はないっすよ。ただ、みかんはどんな果物とか野菜よりも太陽みたいだって言ってたやつがいて」
「面白いこというな、そいつ。そんでもって、変なやつだ」
「やっぱり、そう思うっすよね」
今でも、鮮明に姿が蘇る。目を爛々と輝かせ、話していた彼女が。
手が止まりそうになり、強引にかき消す。なぜかおっさんが俺をじっと見つめていたけれど、気が付かないふりをして選果を続けた。
選果を終え、トラックにニューサマーオレンジを積み込む。農協へはおっさんが午後に向かうらしい。とりあえず、今日の分はひと段落だ。
「そうだ、日影」
「なんすか?」
「お前、今日は午後休な」
「はい? なんでっすか、急に。昨日も休みだったのに」
時計を見る。もう短針がてっぺんを超えていた。今日はまだやることがあったはずだが、一体どういう風の吹き回しなのだろう。
「いいから、今日はもうお前は仕事すんな。後、一つ話すことがある」
昼休憩中は滅多なことじゃ立ち上がりもしないおっさんが、重い腰を上げる。そのまま、何を言うでもなくみかん畑に繋がるシャッターの前まで歩いて行く。
「昨日、咲いたんだよ」
がらっとシャッターが開く。燦々と降り注ぐ陽射しを受けたその景色に、思わず涙が出そうになった。
斜面をどこまでも並ぶみかんの木に満開の白い花が咲いていた。
偶然か、雲一つない快晴。遠くに見える水平線に小さく船が見えた。多分、ぼうという汽笛を鳴らしているんだろうな。何となく、そう思った。
一年前と全く同じ光景だ。俺が、彼女が、世界で一番好きな景色。
違うことがあるとすれば、俺の隣にはもう彼女がいないということだ。
この景色を独り占めするのは、とても寂しい。一緒に綺麗だねって、今年も言いたかった。
「もう一年経ったのか……。早いな……」
今も俺はこうして呼吸をして、心臓を動かしている。起きたら死んでいるんじゃないかと思うくらい、絶望のどん底を味わったのに、まだやっぱり生きている。
噂を聞いた周囲の反応が、一年という月日が、あの時の決意と選択を濁らせる。
なあ、蛍琉。俺たち、本当に正しかったんだよな……?
その答えは、もちろんみかん畑からは帰ってこない。
「そうだ、一年経った。だから、嬢ちゃんとの約束の時なんだよ」
「えっ……?」
おっさんは懐かしそうに目を細め、そしてスマホを取り出した。慣れない手つきで画面を操作し、俺に手渡す。
「嬢ちゃんに頼まれちまったんだよ。日影くんは実はとても繊細で、傷つきやすくて、自分を責めちゃう人だから、一年後にこれを見せてあげて欲しいってな」
「何を言って……」
おっさんが首でスマホを見ろと合図する。不思議に思いながら目を落とすと、真っ暗な画面の中心に動画の再生ボタンがあった。
何故か、手が震えた。ちょっぴり、再生するのが怖い。
一年間、押し殺した思いがざわめく。
ジャスミンのような甘い匂いが風に吹かれて香った。
覚悟を決め、再生ボタンに触れる。
『早く、早く! 日影くんが戻って来ちゃいます』
暗い画面越しに、懐かしい声が聞こえた。ずっと、ずっと渇望していた彼女の声だ。それだけで、目頭がじんわりと熱くなった。
『お、おい、俺はあんま慣れてねえんだよ』
おっさんの声と共に、画面がぱっと色づく。
満開のみかん畑を背後に添え、太陽の下で制服姿の彼女が立っていた。思わず、スマホを前に掲げる。まさに、今目の前に彼女がいる。そんな錯覚に陥った。
『大丈夫です。そのまま持っていてください』
『お、おう』
彼女が空を仰ぎ、大きく深呼吸をした。身体の隅々まで行き渡らせる様な、長い呼吸だった。そして、すっと目線がこちらを向く。
『私の愛する人たちへ。
遺書なんてものは書きませんよ。お互いに悲しい気持ちになっちゃいますからね。
だから、私はこの動画を残します』
彼女が静かに目を閉じる。画面の中と、目の前で、同時に強く一陣の風が吹き抜け、みかんの木を揺らした。
そして、一瞬の静寂が訪れる。まるで、時間が止まったみたいに、世界から音も動きも無くなった。
ゆっくりと彼女が口を開く。
『みかんの花が 満開で――』
いつか耳にした、あの曲だ。
視界がぼやけ、喉が震える。大粒の涙が頬を伝う冷たい感覚だけを残して、膝に染みをつくった。
嗚咽が漏れそうになり、我慢した。彼女の輝きを邪魔したくなかったから。
彼女の優しい歌声が、いつまでも俺を包んで離さなかった。
本当に今すぐ画面から出て来そうで、手を伸ばす。暗がりを突き抜けた俺の腕を、太陽が照らす。
「俺が先に歌わなきゃ、歌わないんじゃなかったのかよ……」
気が付けば立ち上がって、俺はみかん畑へと飛び出していた。10万ルクスの陽射しが俺に容赦なく降り注ぐ。
彼女が瞼を上げると、確かに目が合った。その透き通る宝石のような瞳が、俺を見ていた。
『私はちゃんとさいごまで生きたよ!
辛いことも多かった。でも、やっぱり楽しかった!
たくさん、迷惑かけてごめんなさい。
……ううん。そうじゃないよね』
彼女の顔がほころぶ。
会心の笑顔だった。
『――いっぱい、ありがとう!』
動画はそこで終わっていた。ふっと、暗くなる画面に雫が垂れる。いくら拭っても、止まらなかった。
静かになったみかん畑に、嗚咽が漏れる。胸が痛いくらいに苦しくて、俺は声を上げて泣いた。
「くそっ! くそっ……! うぅっ……くそっ!」
とにかく、大声で叫んだ。太陽なら、全部持っていってくれる気がしたから。
強く、風が吹いた。みかんの花びらが俺を慰めるように一面を舞う。その景色があまりにも美しくて――
「俺の方こそ、ありがとう!」
いつの間にか、涙は止まっていた。
潮風に濃紫色のスターチスが靡く。
親父が墓石に柄杓で水をかけると、滑らかな御影石を陽射しが反射し、ちかっと輝いた。それが母親からの反応に思えるのだから、俺も多少は変われてるんじゃないだろうか。
潮の香りと、線香の匂いが混ざり合い、鼻腔を優しく刺激する。揺らめく一筋の煙が、ゆっくりと天に昇っていくのを、俺は黙って見ていた。
「母さんはとにかくスターチスが好きでな、特にこの色の濃い紫がお気に入りだったんだよ」
親父は合掌を解き、ゆっくりと腰を上げる。
家の花瓶にスターチスが飾られていたかと言えば、やっぱり覚えてはいない。でも、小さな花がいくつも集まって支え合う姿は俺も好きになれそうだ。
「今度は俺が一番好きな花を供えてあげようかな。今日は一人分しか摘んでこれなかったんだ」
抱えた白い花束に親父が視線をくれる。
「よし、じゃあ父さんも今から好きな花を探してみよう。スターチスだけじゃ、寂しいもんな」
「それがいいよ。俺たちは三人で家族なんだから」
五月の中旬にしては、今日はやけに蒸し暑い。まるで、早い夏が来たみたいだ。じりじりと照り付ける太陽に汗がじんわりと滲む。
「それじゃあ、父さんは車に戻っているけど、日影はまだ用があるんだろ?」
親父には彼女のことについて詳しくは話していなかった。ただ、一年前にある人の葬儀に出席したこと。それから、定期的に母親以外の墓参りに行っていることは伝えてあった。
「今度、ちゃんと話すからさ。聞いてくれるか……?」
すると親父は一瞬母親へと目を向け、そして何故か嬉しそうに笑った。だから、きっと母親も今笑っているんだと思う。
「もちろんだ。日影がこんなにも執着する人なんだ。それは是非、父さんも母さんも知りたいな」
そう言われると、途端に恥ずかしくなった。多分、二人には色々とバレているんだと思う。親に隠し事をするっていうのは存外難しいものなんだなと改めて思う。
一人になった後、水平線が一番近い端まで移動した。そこに彼女は眠っている。この墓地で一番日当たりが良く、やけに眩しいところだ。
彼女にぴったりの場所だと思った。むしろ、彼女にはこの場所以外考えられない。
一回忌の今日は先客がいた。
「こんにちは」
喪服姿の女性に声をかける。顔を上げてこちらを見た女性は頬を軽く濡らしていた。
「……こんにちは。来てくださったのね」
「はい。お邪魔じゃ無ければ、線香を上げさせていただきたいです」
「もちろんよ、この子も喜ぶに決まっているわ」
持ってきたみかんの花を供える。それを見て、隣の女性はまた少し涙ぐんだ。
「私はまだあなたのことを、やっぱり許せないでいます……」
線香に火を付けようとして、一度離した。女性が俺をじっと見つめていたから。
「俺がしたことは紛れもない事実です。だから、許してもらえるとは思っていません。あの日も、そういう覚悟で彼女と一緒にいました」
「それでも、あの動画に映っていたあの子の表情は、今まで見たことがないくらい明るくて、幸せそうだったわ。あの子にあんな表情をさせてくれたのは、あなたなのでしょう? 本当に感謝しているわ」
あの日の後、俺は彼女の家を訪れ、門前払いをくらいそうになりながらも彼女の動画を彼女の両親に見せた。
私の愛する人たちへ。それには彼女の両親も入っているに違いないからだ。
「私や夫では、あの子のあんな嬉しそうな顔は引き出せなかった。だから、まだ許せない思いももちろんあります。だけど、葬儀での失言は謝罪するわ。ごめんなさい」
深々と頭を下げる彼女の母親に、俺は頭の後ろを無意識に掻いていた。やっぱり、子供は親に似るんだと再認識する。
「今年はもう花が散ってしまいますけれど、良ければ来年、俺の働くみかん畑に来てください。俺と彼女が見た景色を、ご両親にも見てもらいたいですから」
彼女の母親は少し意外そうな顔をしていた。ややあって、その表情が綻び、悲しみの残滓が頬を伝った。
「そうね。是非、伺わせていただくわ」
また、彼女に俺は救われたんだと思う。あの動画が無ければ、俺と彼女の両親との関係はあの葬儀の時から変わることは無かっただろう。
いつだって、彼女は俺の中心で明るく輝いている。それは昔も、今も、変わることはない。
「あの子ね、最後に話した時に言ってたのよ。日影くんは私にとっての太陽なんだ。だから、私も誰かの太陽になりたいって……」
俺が彼女の太陽に。
なれていたのだろうか。……いや、なれていた。確かに、彼女にとって俺は太陽だっただろうし、俺もまた彼女に救われている。
「なれていますよ。それも太陽どころじゃない、10万1ルクスに輝いて」
「……そうよね。あの子はちゃんと輝いていたわ」
彼女の母親を見送り、ようやく線香に火を付けた。すっかり静まり返った辺りに、心が落ち着く。
手を合わせ、目を閉じると彼女の姿が浮かぶ。とても明るくて、輝いていた。
俺は今も輝くことが出来ているだろうか。やっぱり、彼女のようには中々いかない。
大層な物語のように、驚きの結末も、奇跡もない。
でも、それでいいんだと思う。俺も彼女も普通の人間で、普通の人生を歩んでいる。その中で精一杯、輝き続けるだけだ。
だから、まだ彼女ほどの輝きは出来なくとも、これからも俺は全力で足掻こうと思う。この理不尽で、平凡な世界を。
空を仰いだ。遥かてっぺんで、太陽が見下ろしていた。
その姿はやっぱり傲慢に思える。
だけど、ちょっとだけ好きになれそうだった。
(了)