潮風に濃紫色のスターチスが靡く。
親父が墓石に柄杓で水をかけると、滑らかな御影石を陽射しが反射し、ちかっと輝いた。それが母親からの反応に思えるのだから、俺も多少は変われてるんじゃないだろうか。
潮の香りと、線香の匂いが混ざり合い、鼻腔を優しく刺激する。揺らめく一筋の煙が、ゆっくりと天に昇っていくのを、俺は黙って見ていた。
「母さんはとにかくスターチスが好きでな、特にこの色の濃い紫がお気に入りだったんだよ」
親父は合掌を解き、ゆっくりと腰を上げる。
家の花瓶にスターチスが飾られていたかと言えば、やっぱり覚えてはいない。でも、小さな花がいくつも集まって支え合う姿は俺も好きになれそうだ。
「今度は俺が一番好きな花を供えてあげようかな。今日は一人分しか摘んでこれなかったんだ」
抱えた白い花束に親父が視線をくれる。
「よし、じゃあ父さんも今から好きな花を探してみよう。スターチスだけじゃ、寂しいもんな」
「それがいいよ。俺たちは三人で家族なんだから」
五月の中旬にしては、今日はやけに蒸し暑い。まるで、早い夏が来たみたいだ。じりじりと照り付ける太陽に汗がじんわりと滲む。
「それじゃあ、父さんは車に戻っているけど、日影はまだ用があるんだろ?」
親父には彼女のことについて詳しくは話していなかった。ただ、一年前にある人の葬儀に出席したこと。それから、定期的に母親以外の墓参りに行っていることは伝えてあった。
「今度、ちゃんと話すからさ。聞いてくれるか……?」
すると親父は一瞬母親へと目を向け、そして何故か嬉しそうに笑った。だから、きっと母親も今笑っているんだと思う。
「もちろんだ。日影がこんなにも執着する人なんだ。それは是非、父さんも母さんも知りたいな」
そう言われると、途端に恥ずかしくなった。多分、二人には色々とバレているんだと思う。親に隠し事をするっていうのは存外難しいものなんだなと改めて思う。
一人になった後、水平線が一番近い端まで移動した。そこに彼女は眠っている。この墓地で一番日当たりが良く、やけに眩しいところだ。
彼女にぴったりの場所だと思った。むしろ、彼女にはこの場所以外考えられない。
一回忌の今日は先客がいた。
「こんにちは」
喪服姿の女性に声をかける。顔を上げてこちらを見た女性は頬を軽く濡らしていた。
「……こんにちは。来てくださったのね」
「はい。お邪魔じゃ無ければ、線香を上げさせていただきたいです」
「もちろんよ、この子も喜ぶに決まっているわ」
持ってきたみかんの花を供える。それを見て、隣の女性はまた少し涙ぐんだ。
「私はまだあなたのことを、やっぱり許せないでいます……」
線香に火を付けようとして、一度離した。女性が俺をじっと見つめていたから。
「俺がしたことは紛れもない事実です。だから、許してもらえるとは思っていません。あの日も、そういう覚悟で彼女と一緒にいました」
「それでも、あの動画に映っていたあの子の表情は、今まで見たことがないくらい明るくて、幸せそうだったわ。あの子にあんな表情をさせてくれたのは、あなたなのでしょう? 本当に感謝しているわ」
あの日の後、俺は彼女の家を訪れ、門前払いをくらいそうになりながらも彼女の動画を彼女の両親に見せた。
私の愛する人たちへ。それには彼女の両親も入っているに違いないからだ。
「私や夫では、あの子のあんな嬉しそうな顔は引き出せなかった。だから、まだ許せない思いももちろんあります。だけど、葬儀での失言は謝罪するわ。ごめんなさい」
深々と頭を下げる彼女の母親に、俺は頭の後ろを無意識に掻いていた。やっぱり、子供は親に似るんだと再認識する。
「今年はもう花が散ってしまいますけれど、良ければ来年、俺の働くみかん畑に来てください。俺と彼女が見た景色を、ご両親にも見てもらいたいですから」
彼女の母親は少し意外そうな顔をしていた。ややあって、その表情が綻び、悲しみの残滓が頬を伝った。
「そうね。是非、伺わせていただくわ」
また、彼女に俺は救われたんだと思う。あの動画が無ければ、俺と彼女の両親との関係はあの葬儀の時から変わることは無かっただろう。
いつだって、彼女は俺の中心で明るく輝いている。それは昔も、今も、変わることはない。
「あの子ね、最後に話した時に言ってたのよ。日影くんは私にとっての太陽なんだ。だから、私も誰かの太陽になりたいって……」
俺が彼女の太陽に。
なれていたのだろうか。……いや、なれていた。確かに、彼女にとって俺は太陽だっただろうし、俺もまた彼女に救われている。
「なれていますよ。それも太陽どころじゃない、10万1ルクスに輝いて」
「……そうよね。あの子はちゃんと輝いていたわ」
彼女の母親を見送り、ようやく線香に火を付けた。すっかり静まり返った辺りに、心が落ち着く。
手を合わせ、目を閉じると彼女の姿が浮かぶ。とても明るくて、輝いていた。
俺は今も輝くことが出来ているだろうか。やっぱり、彼女のようには中々いかない。
大層な物語のように、驚きの結末も、奇跡もない。
でも、それでいいんだと思う。俺も彼女も普通の人間で、普通の人生を歩んでいる。その中で精一杯、輝き続けるだけだ。
だから、まだ彼女ほどの輝きは出来なくとも、これからも俺は全力で足掻こうと思う。この理不尽で、平凡な世界を。
空を仰いだ。遥かてっぺんで、太陽が見下ろしていた。
その姿はやっぱり傲慢に思える。
だけど、ちょっとだけ好きになれそうだった。
(了)
親父が墓石に柄杓で水をかけると、滑らかな御影石を陽射しが反射し、ちかっと輝いた。それが母親からの反応に思えるのだから、俺も多少は変われてるんじゃないだろうか。
潮の香りと、線香の匂いが混ざり合い、鼻腔を優しく刺激する。揺らめく一筋の煙が、ゆっくりと天に昇っていくのを、俺は黙って見ていた。
「母さんはとにかくスターチスが好きでな、特にこの色の濃い紫がお気に入りだったんだよ」
親父は合掌を解き、ゆっくりと腰を上げる。
家の花瓶にスターチスが飾られていたかと言えば、やっぱり覚えてはいない。でも、小さな花がいくつも集まって支え合う姿は俺も好きになれそうだ。
「今度は俺が一番好きな花を供えてあげようかな。今日は一人分しか摘んでこれなかったんだ」
抱えた白い花束に親父が視線をくれる。
「よし、じゃあ父さんも今から好きな花を探してみよう。スターチスだけじゃ、寂しいもんな」
「それがいいよ。俺たちは三人で家族なんだから」
五月の中旬にしては、今日はやけに蒸し暑い。まるで、早い夏が来たみたいだ。じりじりと照り付ける太陽に汗がじんわりと滲む。
「それじゃあ、父さんは車に戻っているけど、日影はまだ用があるんだろ?」
親父には彼女のことについて詳しくは話していなかった。ただ、一年前にある人の葬儀に出席したこと。それから、定期的に母親以外の墓参りに行っていることは伝えてあった。
「今度、ちゃんと話すからさ。聞いてくれるか……?」
すると親父は一瞬母親へと目を向け、そして何故か嬉しそうに笑った。だから、きっと母親も今笑っているんだと思う。
「もちろんだ。日影がこんなにも執着する人なんだ。それは是非、父さんも母さんも知りたいな」
そう言われると、途端に恥ずかしくなった。多分、二人には色々とバレているんだと思う。親に隠し事をするっていうのは存外難しいものなんだなと改めて思う。
一人になった後、水平線が一番近い端まで移動した。そこに彼女は眠っている。この墓地で一番日当たりが良く、やけに眩しいところだ。
彼女にぴったりの場所だと思った。むしろ、彼女にはこの場所以外考えられない。
一回忌の今日は先客がいた。
「こんにちは」
喪服姿の女性に声をかける。顔を上げてこちらを見た女性は頬を軽く濡らしていた。
「……こんにちは。来てくださったのね」
「はい。お邪魔じゃ無ければ、線香を上げさせていただきたいです」
「もちろんよ、この子も喜ぶに決まっているわ」
持ってきたみかんの花を供える。それを見て、隣の女性はまた少し涙ぐんだ。
「私はまだあなたのことを、やっぱり許せないでいます……」
線香に火を付けようとして、一度離した。女性が俺をじっと見つめていたから。
「俺がしたことは紛れもない事実です。だから、許してもらえるとは思っていません。あの日も、そういう覚悟で彼女と一緒にいました」
「それでも、あの動画に映っていたあの子の表情は、今まで見たことがないくらい明るくて、幸せそうだったわ。あの子にあんな表情をさせてくれたのは、あなたなのでしょう? 本当に感謝しているわ」
あの日の後、俺は彼女の家を訪れ、門前払いをくらいそうになりながらも彼女の動画を彼女の両親に見せた。
私の愛する人たちへ。それには彼女の両親も入っているに違いないからだ。
「私や夫では、あの子のあんな嬉しそうな顔は引き出せなかった。だから、まだ許せない思いももちろんあります。だけど、葬儀での失言は謝罪するわ。ごめんなさい」
深々と頭を下げる彼女の母親に、俺は頭の後ろを無意識に掻いていた。やっぱり、子供は親に似るんだと再認識する。
「今年はもう花が散ってしまいますけれど、良ければ来年、俺の働くみかん畑に来てください。俺と彼女が見た景色を、ご両親にも見てもらいたいですから」
彼女の母親は少し意外そうな顔をしていた。ややあって、その表情が綻び、悲しみの残滓が頬を伝った。
「そうね。是非、伺わせていただくわ」
また、彼女に俺は救われたんだと思う。あの動画が無ければ、俺と彼女の両親との関係はあの葬儀の時から変わることは無かっただろう。
いつだって、彼女は俺の中心で明るく輝いている。それは昔も、今も、変わることはない。
「あの子ね、最後に話した時に言ってたのよ。日影くんは私にとっての太陽なんだ。だから、私も誰かの太陽になりたいって……」
俺が彼女の太陽に。
なれていたのだろうか。……いや、なれていた。確かに、彼女にとって俺は太陽だっただろうし、俺もまた彼女に救われている。
「なれていますよ。それも太陽どころじゃない、10万1ルクスに輝いて」
「……そうよね。あの子はちゃんと輝いていたわ」
彼女の母親を見送り、ようやく線香に火を付けた。すっかり静まり返った辺りに、心が落ち着く。
手を合わせ、目を閉じると彼女の姿が浮かぶ。とても明るくて、輝いていた。
俺は今も輝くことが出来ているだろうか。やっぱり、彼女のようには中々いかない。
大層な物語のように、驚きの結末も、奇跡もない。
でも、それでいいんだと思う。俺も彼女も普通の人間で、普通の人生を歩んでいる。その中で精一杯、輝き続けるだけだ。
だから、まだ彼女ほどの輝きは出来なくとも、これからも俺は全力で足掻こうと思う。この理不尽で、平凡な世界を。
空を仰いだ。遥かてっぺんで、太陽が見下ろしていた。
その姿はやっぱり傲慢に思える。
だけど、ちょっとだけ好きになれそうだった。
(了)