肌寒そうな枝木に薄桃色の花が咲き誇り、そして、やっぱりあまり目に留めることもなく散った。
それでも、昨年よりは記憶に残ったはずだ。最近は意識的に草花に目を向けることが増えたから。
スマホを見ながら、ぼんやり歩くことは無くなった。ブルーライトから発せられる何ルクスかの明るさは、太陽と違ってすごく身体に良くない気がして。
変わらない趣味の悪い応援を遠巻きに、観客席からコートを見下ろす。約七十九坪のフィールドを、ネットを挟んで二人が駆ける。
青を塗りたくった空から陽射しが二人を穿つように照り付け、白熱する試合により熱をもたらしている。
激しく行き交う蛍光色の球の行方を、俺は固唾を呑んで見守っていた。
「ファイトーッ!」
気が付けば、自然と大きな声を張り上げていた。遠巻きに眺める人たちは声を出していない人が多かったこともあり、周りから視線が集まる。だけど、そんなこと関係なかった。心の底から、とにかく、彼に勝ってほしかったから。
一時間近くに及ぶ長丁場の試合の最後は、彼のネット前でのプレーで締めくくられた。迫真という表現が正しい、ポール際のダイビングボレーだった。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 6-5」
審判が審判台から降りるのを見て、俺はそっとその場を後にした。思ったよりも長引いた試合に、今日は休みを取ってきて正解だと心の中で独り言ちる。
隣県から電車で帰ってたんじゃ、夕方の納入にも間に合わなかっただろう。それに、おっさんも気兼ねなく行って来いと言ってくれたし。
最後の試合が終わり、設備の整った広いテニス場はいつもと違う、哀愁を感じる空気が漂っていた。テニスコートが立ち並ぶくせに、球を弾く音が一切聞こえないのは変な感覚だ。同時に部活終わりの懐かしさもこみ上げてくる。
夕照に染まりつつある橙色の景色が、笠木の優勝を持って一日の幕を降ろす準備をしているみたいだった。
「――先輩!」
ふと背から声がかかる。バレずに帰るつもりだったが、彼を相手にはそうもいかないらしい。汗だくで息を切らした笠木が、ラケットを手放すことも忘れてそこにいた。
「おう、東海大会優勝おめでとさん」
「ありがとうございます! あ、えっと、応援ありがとうございます!」
全部ひっくるめて一言で良いのに。相変わらず、律義な性格なのだ。
「最後、ちゃんと先輩の声聞こえたっす!」
「あの状況で? お前、すげぇな」
にかっと歯を見せて笑う笠木。当たり前っすよ、と言いたげだった。
「次は全国だな」
「はい! 先輩の分まで、俺が頑張ってきます!」
「俺はもう卒業して部員じゃねえんだけどなぁ」
「気の持ちようっすよ」
それなら、まあ別にいいか。
俺もあの時、笠木の分まで、と意気込んでいたわけだし。
「応援来てくれるっすか?」
「仕事の休みが取れたらな。まあ、大丈夫だろ。七月はそこまで忙しくないしな」
数か月先の約束をするのは、実はあまり好きではない。人生何が起きるか分からないんだ。だから、どうせおっさんは休みをくれるんだろうけど、断言はしないでおいた。
会場に設置された音響設備から、大会の閉幕を告げるアナウンスが流れる。見る見るうちに人が捌けていく最中、俺は胸の疼きをずっと感じていた。
斜陽で寂しそうになったコートから、目がなかなか話せない。
少しくらい、欲を出しても良いだろうか。
「なあ、」
「どうしたっすか?」
「一試合、やらね?」
ようやく息の整った笠木の表情が一気に明るくなる。まるで、花が咲いたみたいだ。
「はい! もちろんっすよ!」
ネットを挟み、コート上で笠木と向かい合う。遠慮はいらないと言っておいたけれど、果たしてどうだろうか。
その疑問は、すぐさま消え失せた。内側から抉るような猛烈なファーストサーブが飛んできて、俺はラケットを振る間もなく息を呑む。
「どうしたんすか、どんどん行きますよ!」
もちろん、試合はコテンパンにされた。それでも、久しぶりに一心不乱にコートを駆ける時の昂る気持ちと、得点を取った時の高揚感にどうしようもなく痺れた。
次第に、思考が目の前のことだけに支配されていく。他の何もかもが頭の隅に塵となって消え、今はただ、眼前のことだけしか考えられない。
ラリーを交わしながら、自然と笑みが零れ落ちる。激しく打ち鳴らす鼓動が心地よかった。
もうどうにも間に合わない最後の一球まで、全力で追いかけた。届かないと分かっていても、懸命に腕を伸ばした。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 7-1っす」
大の字でコートに倒れ込む俺に笠木が手を差し出す。俺はその手をありがたく取って、身体を起こした。まだ、うるさいくらいに心臓が暴れている。
「はぁー、お前強すぎんだよ」
「1ゲームも渡すつもりは無かったんすけどね。やっぱり、先輩は流石っす!」
その言葉に皮肉は混じっていない。笠木の純然たる俺への感想だった。
やっぱり、過大評価だ。そう思ったけど、口には出さないでおいた。こんな俺でも、誰かの道しるべになれているのなら、わざわざ自分で否定する必要も無いのだから。
「先輩、また試合してくれますか?」
コートを見渡す。風にそよぐネット、土をつけた蛍光色の球。自分だけがヒーローになれる、強く輝ける場所。
なあ、母さん。蛍琉。俺はやっぱり――
「あぁ、もちろん。俺、テニス好きだからさ」
それでも、昨年よりは記憶に残ったはずだ。最近は意識的に草花に目を向けることが増えたから。
スマホを見ながら、ぼんやり歩くことは無くなった。ブルーライトから発せられる何ルクスかの明るさは、太陽と違ってすごく身体に良くない気がして。
変わらない趣味の悪い応援を遠巻きに、観客席からコートを見下ろす。約七十九坪のフィールドを、ネットを挟んで二人が駆ける。
青を塗りたくった空から陽射しが二人を穿つように照り付け、白熱する試合により熱をもたらしている。
激しく行き交う蛍光色の球の行方を、俺は固唾を呑んで見守っていた。
「ファイトーッ!」
気が付けば、自然と大きな声を張り上げていた。遠巻きに眺める人たちは声を出していない人が多かったこともあり、周りから視線が集まる。だけど、そんなこと関係なかった。心の底から、とにかく、彼に勝ってほしかったから。
一時間近くに及ぶ長丁場の試合の最後は、彼のネット前でのプレーで締めくくられた。迫真という表現が正しい、ポール際のダイビングボレーだった。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 6-5」
審判が審判台から降りるのを見て、俺はそっとその場を後にした。思ったよりも長引いた試合に、今日は休みを取ってきて正解だと心の中で独り言ちる。
隣県から電車で帰ってたんじゃ、夕方の納入にも間に合わなかっただろう。それに、おっさんも気兼ねなく行って来いと言ってくれたし。
最後の試合が終わり、設備の整った広いテニス場はいつもと違う、哀愁を感じる空気が漂っていた。テニスコートが立ち並ぶくせに、球を弾く音が一切聞こえないのは変な感覚だ。同時に部活終わりの懐かしさもこみ上げてくる。
夕照に染まりつつある橙色の景色が、笠木の優勝を持って一日の幕を降ろす準備をしているみたいだった。
「――先輩!」
ふと背から声がかかる。バレずに帰るつもりだったが、彼を相手にはそうもいかないらしい。汗だくで息を切らした笠木が、ラケットを手放すことも忘れてそこにいた。
「おう、東海大会優勝おめでとさん」
「ありがとうございます! あ、えっと、応援ありがとうございます!」
全部ひっくるめて一言で良いのに。相変わらず、律義な性格なのだ。
「最後、ちゃんと先輩の声聞こえたっす!」
「あの状況で? お前、すげぇな」
にかっと歯を見せて笑う笠木。当たり前っすよ、と言いたげだった。
「次は全国だな」
「はい! 先輩の分まで、俺が頑張ってきます!」
「俺はもう卒業して部員じゃねえんだけどなぁ」
「気の持ちようっすよ」
それなら、まあ別にいいか。
俺もあの時、笠木の分まで、と意気込んでいたわけだし。
「応援来てくれるっすか?」
「仕事の休みが取れたらな。まあ、大丈夫だろ。七月はそこまで忙しくないしな」
数か月先の約束をするのは、実はあまり好きではない。人生何が起きるか分からないんだ。だから、どうせおっさんは休みをくれるんだろうけど、断言はしないでおいた。
会場に設置された音響設備から、大会の閉幕を告げるアナウンスが流れる。見る見るうちに人が捌けていく最中、俺は胸の疼きをずっと感じていた。
斜陽で寂しそうになったコートから、目がなかなか話せない。
少しくらい、欲を出しても良いだろうか。
「なあ、」
「どうしたっすか?」
「一試合、やらね?」
ようやく息の整った笠木の表情が一気に明るくなる。まるで、花が咲いたみたいだ。
「はい! もちろんっすよ!」
ネットを挟み、コート上で笠木と向かい合う。遠慮はいらないと言っておいたけれど、果たしてどうだろうか。
その疑問は、すぐさま消え失せた。内側から抉るような猛烈なファーストサーブが飛んできて、俺はラケットを振る間もなく息を呑む。
「どうしたんすか、どんどん行きますよ!」
もちろん、試合はコテンパンにされた。それでも、久しぶりに一心不乱にコートを駆ける時の昂る気持ちと、得点を取った時の高揚感にどうしようもなく痺れた。
次第に、思考が目の前のことだけに支配されていく。他の何もかもが頭の隅に塵となって消え、今はただ、眼前のことだけしか考えられない。
ラリーを交わしながら、自然と笑みが零れ落ちる。激しく打ち鳴らす鼓動が心地よかった。
もうどうにも間に合わない最後の一球まで、全力で追いかけた。届かないと分かっていても、懸命に腕を伸ばした。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 7-1っす」
大の字でコートに倒れ込む俺に笠木が手を差し出す。俺はその手をありがたく取って、身体を起こした。まだ、うるさいくらいに心臓が暴れている。
「はぁー、お前強すぎんだよ」
「1ゲームも渡すつもりは無かったんすけどね。やっぱり、先輩は流石っす!」
その言葉に皮肉は混じっていない。笠木の純然たる俺への感想だった。
やっぱり、過大評価だ。そう思ったけど、口には出さないでおいた。こんな俺でも、誰かの道しるべになれているのなら、わざわざ自分で否定する必要も無いのだから。
「先輩、また試合してくれますか?」
コートを見渡す。風にそよぐネット、土をつけた蛍光色の球。自分だけがヒーローになれる、強く輝ける場所。
なあ、母さん。蛍琉。俺はやっぱり――
「あぁ、もちろん。俺、テニス好きだからさ」