前回の反省を踏まえて持っていきたいものがたくさんあった。しかし、生憎普段使いするような大き目の鞄は持っていない。いつも、学校とバイト漬けで誰かとどこかへ行く機会なんて無かったし。
 仕方が無いのでテニスバックに荷物を詰め込む。デカい分、むしろ随分と幅が余ってしまった。

 五月の終わりは夜でも過ごしやすくて助かる。手が(かじか)むことも、嫌な汗をかくこともない。冬や夏よりも、俺は圧倒的にこの季節が好きだ。
 心地よい夜だというのに、道すがらずっと落ち着かなかった。風が吹いていないのにさざ波が立っているような、そわそわとした思いに駆られる。

 彼女との時間を楽しみにしているけど、まだ大事な話とやらを聞いていない。だから、俺の心情は複雑だった。

 非常口の近くで彼女はこの前同様、大きな遮光カーテンを頭から被って俺を待っていた。こんな姿、誰かに見られようものなら怪しまれるに決まっているというのに、隠れようともせず堂々と開けたスペースに座っているのは流石、肝が据わっている。

「待っていましたよ。三分遅刻です」

 昼間と同じ彼女だった。物静かな所作が夜にぴったりだと思う。ただ、俺はあまり好きにはなれなかった。

「悪かったな。自転車だと思ったより遠いんだよな。急いだつもりだったんだけど」

「嘘ですよ。本当は約束の時間より早いはずです」

 口元だけが、緩やかに微笑んでいた。

「それでは行きましょうか」

 差し出す彼女の手を見つめる。

「どうしたんですか?」

「いや、行くのは構わねえ。ただ、」

「ただ……?」

 後頭部を掻き毟る。どう言ったらいいのか、俺にもよく分からない。
 俺を見上げる彼女は確かに雲母蛍琉だ。しかし、俺の知っている彼女ではない。

「なんつーか、いつも通りにしてくれよ。落ち着かねえから」

 ややあって、結局俺はあまり考えずに思ったことを口にした。取り繕い、何かを隠して尻込む時間はもう残されていないのだから。
 すると、彼女は俺をじっと見つめ、ようやく今日初めての小さな本当の笑顔をくれた。透き通った暗闇を穿つ、太陽のような笑みだ。それが今は独り占めだと思うと、何だか誇らしい。

「そうですね。日影くんにそのままでいて欲しいって言ったのは私なのに、私がこんな風に変わってしまってはズルいですもんね」

 スイッチを切り替えたように声のトーンが上がる彼女は、カーテンにくるまったまま俺に凭れる。その身体にはやけに力が入っていない。
 きっと、そういうことなのだ。終わりが近づいている気配がひたひたと後ろから迫る思いに、生唾を飲み込む。

 俺は有無を言わさず彼女をおぶる。この前よりも軽くなっている。何となく、そう思った。

「それで、どこか行きたいところでもあるのか?」

「はい、お手数ですがあの山の上までお願いします」

 彼女が指を差す先は、ほど近い距離に見える山道のてっぺんだった。近いと言っても、山を登ることには変わりないのだけど。

「それは本当にお手数だな」

 多分、二、三時間ほど掛かるだろう。暗がりに包まれる長い道のりにどうしてか億劫な気持ちは一切無かった。だって、その分彼女と一緒に居られるのだから。

 夜は長い。それでも、時間は平等に進むし、彼女の病もじわりじわりとその時に向けて詰め寄る。少しでも無駄にしたくなくて、俺と彼女は絶え間なく会話を続けた。どうでもいいことばかり話していた気がするけれど、その全てが暗闇をぼんやりと照らしていた。

「大丈夫ですか? せめて、荷物は私が持ちましょうか……?」

 時折、彼女は俺を伺うように同じことを尋ねた。本来なら、彼女は誰かの手を煩わせることは嫌いなのだと思う。図々しく見せかけているだけで、出会った時から彼女は俺に自分で出来ないことしか頼まない。俺に頼みごとをするとき、彼女は飄々とした面持ちの裏に仄かな罪悪感を潜ませている。
 本当なら、アイスは自分で買いに行きたいし、今も自分の足で歩きたいはず。でも、それが叶わないのだから、せめて彼女が気兼ねなく頼れる存在でありたい。そう思ってしまうのは、俺のエゴなんだろうか。

 勾配が強い道を長い時間かけて登る。等間隔に並んでいた道路灯はいつしか姿を隠し、月明りの頼りない明かりだけを目印に歩いた。正直、少し前もろくに見えやしない。光源も無しにこんな道を歩くのはどうかしている。それにテニスバックは前掛けにしているから、歩きづらいことこの上ない。
 やがて、何段あったかも分からない果てしない丸太階段が途切れた。どうやらここが所謂、何でもない山の頂上ということらしい。
 開けた原っぱは暗闇でも分かるほど色彩が強く、まるで夏を先取りしたようにその新緑を夜風になびかせていた。視界を遮る木々は無く、解放感溢れる一面の野原はここが山の上だということを忘れてしまいそうになる。

「ここでいいのか?」

「はい、私の記憶通りの場所です」

 彼女をゆっくり降ろす。手を離した瞬間、僅かによろける彼女の身体を慌てて支えた。

「ありがとうございます。実はもうあまり力が入らなくて」

「……ちょっと待ってろ」

 原っぱの中心に持参したレジャーシートを敷く。夕方に降った雨の残り香でひんやりと湿っていたから、やっぱり持ってきて正解だった。
 彼女の手を取り、座らせる。露で冷たくなった手が、余計に彼女の身体の高い熱を嫌でも感じさせた。この頃、彼女は二十四時間点滴を刺したままだったはず。そうしないと、常にこうして高熱に苛まれてしまうからだ。

「なあ、明日になったら点滴刺してなくてバレるんじゃねえのか?」

 彼女は左腕を軽く擦り、若干戸惑いがちに視線を下げる。

「まあ、そうでしょうね……」

「結局、土下座は確定ってことか」

「ふふっ、迷惑ばかりかけてしまいますね。ごめんなさい」

「気にすんな。悪いことしてる自覚はあるんだ」

 果たして、本当にそうだろうか。彼女を暗闇から救い出すことは、誰にとって悪いことなのだろう。少なくとも、彼女にとっては良いことに当たるはずだ。
 人によってこの行為の善悪が違う。それなら、俺は他の人が何人指を差そうが彼女の味方になってやりたい。

 彼女がまっすぐに俺を見つめ、そして緩やかに相貌を崩す。

「本当、日影くんは私にとっての王子様ですね」

 何の冗談味も無く、彼女は言う。

「王子様って似合わな過ぎるだろ」

「それでも、日影くんは私をこうして幸せな気持ちにさせるんですから。紛れもなく、王子様ですよ」

 彼女が俺の肩に頭を預ける。
 やっぱり、王子様っていうのは歯がゆい。だって、今も彼女は戦っている。苦しんでいるはずなのに、俺は彼女に何もしてやれない。ただ、こうして隣にいてやることしか出来ない。彼女を蝕む根本から救い出してこそ、本当のヒーローなのではないのか。

「見てください。星が綺麗ですよ」

 彼女が空を見上げ、指をさす。追いかけるように顔を上げた瞬間、俺は思わず言葉を失った。
 視界を埋め尽くさんばかりの星々が、まるで宝石のように煌めいている。それはどんなイルミネーションにも満たない光だったけど、とても美しく、眩かった。
 あまりの輝きに思わず、彼女の心配をしてしまったくらいだ。

 百八十度広がる澄み切った初夏の夜空が、俺の瞳を掴んで離さない。そよぐ夜風と共に、星が静かに息をしているみたいだった。感動という言葉が本当に存在するのなら、きっと今がまさしく最適解なのだろう。

「幼い頃に見たこの景色が忘れられなくて、どうしても日影くんと見ておきたかったのです」

 彼女の瞳がいくつもの星を映し、きらきらと輝いていた。

 彼女はよろよろと弱々しく立ち上がり、身体に巻きつけたカーテンを取り払う。暗闇を衝く真っ白なブラウス、乱れの無いプリーツの紺色のスカート。胸元には明るい朱色の細いリボンが存在感を見せていた。
 穢れを知らない制服姿の少女が満点の星空を背後に携え、そこにいた。周りの星が霞んでしまうほどに、彼女は眩かった。どんな一等星の輝きだって彼女には敵いやしない。まるで、夜に突如現れた太陽のようだった。

「えへへっ、一度着てみたかったんです。似合っていますか?」

「あぁ……。凄く似合ってる」

 瞬間、視界がぼやける。彼女に気づかれたくなくて、星空を見上げた。
 制服に毎日袖を通す。そんな俺たちにとっての当たり前な日常が、彼女にもあったかもしれない。

 彼女は満足したのか、再び俺の隣に腰を降ろした。膝を抱え、覗き込むように俺を見る。

「これでお揃いですね。放課後デートというやつです」

「にしては時間が遅すぎるだろ」

「では、制服デートです」

 俺が彼女と普通に出会えていれば、そんな未来もあったのだろうか。少し考え、俺は心の中でそっと首を振った。
 きっと、俺と彼女はあの病院で、あの日偶然出会ったことが運命なのだ。ありきたりな出会いで無いからこそ、こうして今でも隣合っていられるのだから。

「私、本当に日影くんには心から感謝しているんです」

 束の間の沈黙を彼女が破る。星空を見つめる彼女の瞳から、目が離せなかった。

「日影くんと出会う前の私って、実は鬱病だったんです。ちゃんとお医者さんにもそう診断されていました」

「蛍琉が?」

 数年前の親父の姿が浮かんだ。彼女が鬱病だったなんて、想像したことも無い。だって、彼女は俺と出会った時からいつもこっちのことなんかお構いなしに明るくて、病気なんてそこまで気にしていない素振りだったのに。

「私も鬱病なんて無縁な人間だと思っていたんですよ。それでも、やっぱり太陽の光って偉大なんですね。暗闇が、私をじわじわ蝕んでいったんです」

 確かにあの病室でずっと過ごすと考えたら、俺なら気が狂いそうだ。だから、彼女のことも最初はずっと疑問だった。どうしてこんな暗いところで生活しているのに、こんなにも彼女は明るいのだろう。今思えば、あの時の疑惑は間違っていなかったわけだ。

「何にもやる気が起きなくて、ひたすらベッドの上で黒い天井を眺め続けていました。普通にホラーですね」

「そこだけ聞くとな」

「眠たいのに寝れなくなったり、食事はよく戻していましたね。トイレの鏡に映った自分の顔が本当に酷くて、一晩中鏡を殴り続けたこともあります。まあ、割りたかったのに非力すぎて私の手が血だらけになっただけだったんですけれど」

 彼女は恥ずかしそうに吐露する。しかし、その語り口調は随分と懐かしそうなものだ。まるで、そんな姿も今の自分の一部だと言いたげだった。

「お医者さんも、看護師さんも、両親も、もちろん自分も。全員嫌いでした。みんな死んじゃえばいいのにって思ってました。寄ってたかって私をこんな暗い場所に閉じ込めて虐める最低な人たちだ、なんて。……今、口に出してみると結構キツいですね」

 そう言った彼女の表情は、どうしてか明るかった。そんな過去も今は笑って振り返ることが出来る。そう言うことなのだろうか。やっぱり、俺には想像しがたいものだった。

「俺と出会った時もその、鬱病ってやつだったんだろ?」

「そうですよ」

「でも、俺はあの時の蛍琉は普通に見えた……。いや、俺が鈍感だっただけなのかもしれないけどさ」

 不意に彼女が星空から目を移し、俺を見た。吸い込まれてしまいそうな透き通った眼光は、やっぱり出会った時と変わっていない。あの日も、確かにこの瞳に見つめられていた。

「偶然にも、あの日は珍しくテンションが高かったですからね」

「そんな日があるのか……?」

 親父は一日だって気分が良さそうな日は無かった。もちろん、精神的な病なのだから人によって症状は千差万別なのだろうけど。

「いえ、一度も無かったですよ。毎日、気分はどん底でしたね。でも、その日は特別だったんです」

「何か用事があったとか? それなら、悪いことをしたな」

 用事と言っても、病室から出ることのできない彼女を考えると浮かぶものは多くない。

「いえ、特に何てことの無い日でしたよ」

「じゃあ、どうして……」

 彼女は瞳を切なげに細めた。ちくりと小さく胸が痛んだ。

「死のうと思ってたんですよ」

 きっぱりと彼女は言いのけた。その言葉の意味を理解するよりも早く、心臓が鐘を打つ。

「それって、つまり……」

「真夏の快晴の下、病院の屋上から飛び降りてやろう。そう思っていたんです。どうせ、長くても後数年しか生きられないんだし、何よりもう独りで暗いところにいることが耐えられなかったから」

 ごろっと彼女は満天の星空に身を捧げるように寝転がる。そして、両手を握って空へと突き出した。

「よし、やってやるぞ! って意気込んで病室を出ようとしたとき、ドアの向こうから声が聞こえたんです」

 ちらっと彼女が俺を見る。

「うんも……ね」

 俺がわざとらしく呟くと、彼女はにんまり笑って「きららですよ」と答えた。
 彼女が俺の制服を引っ張る。だから、真似してシートに背を付けた。視界を埋め尽くさんばかりの星が瞬いている。夜の空はとても高く、遠くに感じた。
 きっと、この星の一つ一つに名前がついているのだろう。でも、俺には一つだって分からなかった。
 周りから見れば、俺も彼女もこの星たちと同じようにただ一つの個でしかない。ちょっと輝きが強いとか、他のとは離れたところにいるな。そんな感想に過ぎないのだろう。

 それでも、そんな有象無象にもたくさんのエピソードがあって、各々の人生がある。同じように、星にだってそれぞれ物語があるのだ。些細で、壮大で、嬉しいこと、悲しいこと、それぞれの沢山の想いがこの空には詰まっている。そんな気がした。
 昼は太陽の独壇場なのに、夜はたくさんの星が個々に輝く。一際大きな月も、星を隠そうとはしない。だから、夜空は優しい気配がする。

「私もその時に初めて知ったんですけど、希死念慮って割と些細なことでぱっと消えてしまうんです」

「だから、俺に声をかけたのか」

 彼女は小さく頷く。

「私の計画を狂わせたのだから、どうせなら退屈な時間もぶち壊してくれと思って」

 あの時の彼女はそんなことを考えていたのか。病室へと招き入れる彼女に素直に手を引かれたのも、一件明かる気に振る舞う彼女の底を、色々なことへの劣等感ややるせなさを抱えていた俺が無意識に感じ取ったせいかもしれない。
 少なからず、自分自身や周りへ飽き飽きしていたことは、程度の差はあれど同じだった。

「でも、あまり期待はしていなかったんですよ。なんせ、不思議に思って病室を覗く人はそれなりにいましたからね」

 薄暗い一角を思い返し、納得する。病室を覗くのはどうかと思うが、誰しもが疑問に思うはずだ。

「私はその都度、部屋に招いては同じように会話を試みました。しかし、二度目も訪れてくれたのは日影くんだけでした。そもそも部屋に入る前に逃げられてしまったり、入ったはいいものの不気味な暗がりと私を恐れてか足早に退散したりと、まあそれが普通なんですけどね」

「その言い方だと俺が変な奴みたいじゃないかよ」

 彼女はくすっと小さく声を上げた。

「実際にそう言ってますよ。日影くんは変な人なんです。人間、怪しいものには関わらないのが一番なんですから。じゃないと、こうして粘着されますよ」

 彼女がゴロリと転がり、俺の上にのしかかった。制服越しにも分かる熱い身体が、いつしか無意識に震えていた俺の身体へと熱を伝える。
 不意に実感してしまった。もう、本当に別れが近いのだと。
 もちろん、そんなことずっと前から聞いていたし、彼女を見て分かっていた。それでも、俺はずっと心のどこかでそれを否定し続けていた。彼女は死なない。いつまでも、こうして触れ合っていられる。その思いは、今日ここに来てからも変わらなかった。

 しかし、この瞬間、せき止めていた現実が濁流のように溢れて広がった。確かに彼女の身体が発する警鐘と、それを自覚した彼女の行動が、結びついて俺を縛り上げる。もう目を逸らすのも限界だった。

 滲んでしまいそうな視界に、歯を食いしばって必死に耐えた。本当に泣きたいのは俺じゃない。俺が泣くなんて間違っている。

 彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。今この瞬間、彼女が抱える苦しみが熱と共に俺へと移ってくれればいいのに。
 彼女が存在しない世界は俺には想像が出来ない。それくらい、俺の中で彼女の存在は大きく、今もなお膨らみ続けている。
 彼女が死ぬくらいなら、俺が代わりに死んでやりたい。だから、強く、強く、願うように必死に抱きしめた。
 後、何か月……何日こうしていられるのだろう。神様は俺たちに後どれくらいの猶予をくれたのか。それを知る術はどこにもない。

 ずっと、俺と彼女は抱きしめ合った。彼女がぎゅっと力を入れれば、俺も黙って返す。どちらかがふっと力を緩めると、離すまいともう片方がより力を込める。二人の間に会話は無くて、清涼な夜風の囁きだけが間を奏でて去っていく。
 長い間そうしていたような気がするけど、もしかしたらほんの数分だったかもしれない。

 不意に彼女が耳元で囁く。

「日影くん。私、みかんの花が見てみたいです」

 どちらからともなく背に回した腕が離れる。顔を上げた彼女は、いつかのように哀歓を秘めた瞳をしてはにかんでいた。

「……なら、俺が何とかおっさんに話を付けてやるから、近いうちに夜抜け出そう」

「いえ、私は太陽の下で輝くみかん畑が見たいです」

 疑問を示す言葉すら出なかった。彼女なら、そう言うと無意識に思っていた身体。
 喉に何かが詰まったように苦しい。

「だ、駄目だろ……。そんなことしたら、今度こそ……」

「はい。多分、私の身体は耐えられないでしょう」

 それが何を意味するのか、分かっているのか。そんな野暮なことは訊けない。
 まっすぐに見つめる彼女から、思わず目を逸らした。先ほどまで凪いでいた鼓動が、突然荒れ狂った波を立てる。

「――っ……か、帰ろう。途中でアイスでも買ってよ、もちろん俺の奢りだ。だから、今日は――」

「日影くん」

 彼女が俺の名前を呼んだだけ。なのに、俺は言葉を失ってしまった。もがくように舌が揺らぐ。

「お願いします。私の最後のわがままをどうか聞いてください」

「……だって、」

 声が震えて、上手くしゃべれない。その続きを口にすることを俺は逡巡してしまった。彼女の視線が突き刺さり、背後の星空がぼやける。

「それはつまり……死ぬってことじゃ……」

 その時、気が付いてしまった。視界は端で、彼女の手が震えていることに。

「きっと、私の身体は後、数日で本当に動かせなくなると思います」

 彼女は静かに、まるで子供を諭すように語り始めた。

「そして、今日病院に戻れば抜け出したこともバレて、もう二度と外へは出られなくなるでしょう。もしかしたら、日影くんとも会えなくなってしまうかもしれません」

 そのことは容易に想像できた。そして、彼女はまた独りであの暗闇の中に逆戻りだ。近づく死の恐怖に怯えながら過ごす日々を、彼女以外には理解しきれないだろう。

「もう暗いところに独りでいるのは嫌なんです。どうせ数か月後には私は死んでしまうでしょう。あの暗闇で死を待つことは生きていると言えるのでしょうか。ゆっくりと腐っていくくらいなら、私はさいごに思いっきり輝いていたい。――太陽になりたいんです!」

 痛いくらい、彼女の感情がなだれ込んでくる。その瞳は真剣で、とてもじゃないが否定することは出来なかった。
 俺にしか頼めないことなのは分かっている。それでも、やっぱり踏ん切りがつかなかった。彼女には一日でも長く生きてもらいたい。そう、思ってしまっている。
 そんな自分が大嫌いだ。これじゃ、周りの大人たちと一緒じゃないか。

「自暴自棄になっているわけじゃないんですよ……。もちろん、死ぬのは怖いです。本当はもっと生きたい。日影くんと色々なところへお出かけして、一緒に大人になって。ちゃんと、日影くんに好きだよって言いたい。……でも、それは叶わないんです」

 ぽたりと俺の頬に冷たいものが落ちた。白磁の頬を伝う一筋の雫が、月明かりを受けてきらりと光る。彼女の涙だった。

「えっ……?」

 彼女も気づいていなかったのか、自分の頬に手を当てて小さく声を漏らす。そして、食いしばった口が少し開くと、糸が途切れたようにぐしゃりと顔を歪ませた。
 溢れ出す大粒の涙が彼女と俺の顔を濡らす。その瞳は夜空の星を反射して、まるで空が泣いているみたいだった。

「死にたくない……。死にたくないけど……! でも、死ぬのなら私らしく死にたい……。あんな暗闇で終わるなんて、絶対に嫌なんです……!」

 その思いを皮切りに彼女は脇目もふらずに啼泣した。
 気が付けば、俺の視界も歪んでいた。世界の輪郭がぼやけて、うるうると揺らぐ。喉の痙攣は収まることなく、それに呼応するように涙がこぼれだした。

「俺だって……! 蛍琉に死んでほしくない……! 生きて欲しいに決まってるだろ! ――っ……くそっ!」

 二人で声が枯れるまで泣き続けた。山風がぴたりと止まり、俺と彼女の悲愴な叫びが一帯を響いて包む。
 神様なんていない。
 この世界に綺麗な物語なんて存在しない。
 だから、自分たちで決めるしかないんだ。この恋の終わりを、彼女のさいごを。
 互いに胸に刻み込むように、いつまでも子供の様に声を上げた。どれだけ泣いても、涙は枯れることなく溢れてくる。はち切れた感情が全て涙となって体現してしまっているみたいだ。

「ごめんなさい、覚悟してきたつもりだったんですが……。やっぱり、駄目ですね。怖くて、恐ろしくて、止められませんでした」

 彼女の頬を透明な雫が流れ星のようにすっと落ちる。月明りに照らされたそれは確かに輝いていた。炎や照明よりもずっと弱く、でも繊細に。暗い夜の草原と、悲しみに満ちた二人の間を通り抜けたそれが、俺には1ルクスの輝きに思えた。

「……付き合うよ、さいごまで。どこへだって、俺が連れて行ってやる」

 気が付けば、口を衝いていた。それが俺の出した答えだった。
 頬を濡らしたまま、彼女がゆっくりと破顔する。哀歓の入り混じった、とても綺麗なものだった。

「ありがとうございます……。私は今、とても幸せです」

「……同情だよ」

 いつかの冗談を口にする。もちろん、嘘だ。
 俺と彼女は二人で見合って同時に笑いを洩らした。すっと、空気が軽くなった気配がする。
 空が明るくなるまで、二人でちょっと泣いて、たくさん笑い合った。優しい月と星の明かりだけが、俺と彼女をいつまでも照らしてくれていた。