曇天な気持ちで帰宅すると、薄暗い廊下を硝子戸越しにリビングから漏れた光が照らしている。
 親父はテーブルに着き、テレビやスマホを見るわけでも無く、ただぼーっと一枚の写真を眺めていた。俺と親父、そして母親の三人のものだった。確か、小学生大会を優勝した時に撮影したものだ。
 写真に写る人物は、もう誰一人としてここにはいない。亡くなった母親、変わってしまった俺と親父。だから、その写真は懐かしいのではなく、別の家族が写っているに過ぎない。

 一体、いつからそうしているのだか。手元に置かれた食べかけの夕飯は、見るからに冷めきっていた。

「おかえり」

 俺に気が付いた親父が一言向ける。

「……おう」

 久しぶりに返事をしたような気がする。だから、親父もいつもより俺をぼんやり見つめる時間が少しだけ長かった。
 台所には親父がつくった料理がラップのかかった状態で置かれていた。生姜焼きに、豆腐とわかめの味噌汁。炊飯器は保温のランプが点灯している。
 それらを盆に乗せ、俺はテーブルに腰を掛けた。

 親父が俺の様子を窺うように覗き見する。今の親父に驚きという感情があるのかは分からないけど、少なくとも不思議に思っているようだった。
 それもそうだ。中学生以来、親父と同じ卓上で食事をしたことはない。いつも避けるように自室へと籠っていたのだから。

 どこか気まずさを覚えつつ、箸を進める。すると、親父も写真を傍に置き、ゆっくりと食事を再開した。
 久方ぶりの会話なんてものはもちろん無い。
 おかしな家族だ。

 慣れ切ったはずの沈黙が何故か落ち着かなかった。

「あのさ……」

 自分でも気づかないうちに口を衝いていた。
 生気の薄い視線が俺に向けられる。その目をまっすぐに見れなくて、俺は手元の食器を眺め続けた。

「……俺が死んだらどう思う?」

 どうしてこんな質問をしたのか、自分でもよく分からなかった。でも、多分ずっと前から気になっていたことだ。
 親父は俺のことをどう思っているのだろう。母親を殺した憎い存在? ただ同じ屋根を共有するだけの隣人? いつもやたら自分に突っかかって来る嫌な奴?
 どれもあり得そうで、それ以上は考えられなかった。
 怖くて、静黙する親父の方を向けない。思わず、返事も聞かずに逃げ出しそうになった。

 もしかしたら、親父にとって俺は既に息子じゃないかもしれない。あの時を境に家族というくくりから外されているのではないか。ずっと、そう思ってきた。
 だからこそ、答え合わせをするのが恐ろしい。言葉にされれば、それで最後なのだから。

 かちゃんという音に閉じた目を開ける。床を親父の箸が転がっていた。

「何やってんだよ。はやく洗ってこ――」

「――日影ッ!」

 震えあがるほど大きな声だった。
 テーブルを前のめりに、親父が俺の肩を強く掴む。テーブルがズレ動き、床を引きずるけたたましい音がリビングに響く。
 反動で倒れたグラスの中身が零れ、卓上の写真を侵略するように濡らした。

「お、親父……?」

 俺を見つめるその瞳に色んな感情が浮かんでいて、それ以上声が出せなかった。
 そう言えば、いつぶりに名前を呼ばれただろうか。

「日影、変なこと考えてるんじゃないだろうな!?」

 力のこもった言葉に、ふと懐かしさがこみ上げた。目の前にいるのは、紛れもなく俺の父親だ。

「な、何だよ、変なことって」

 反射的に聞き返し、同時に理解した。
 そんなつもりで言ったわけじゃない。そう伝えようとした刹那、親父が俺に(もた)れ掛かってうなだれる。

「頼む……」

 切実な、小さい悲鳴だった。俺を掴む親父の手がすごく痛いのに、温かかった。

「俺にはもう日影しかいないんだ。お願いだから、俺の前からいなくならないでくれ……。お前までいなくなったら、俺はどうしたらいい……」

 俺を掴む親父の指先は微かに痙攣(けいれん)していた。()れて、掠れた音が部屋に響く。親父の懇願が春にしては冷えた夜の空気に吸い込まれて溶け去ってしまう。
 縋る親父はいつも以上に弱々しく見える。背中は余計に丸みを帯び、その小さな身体が今にも崩れ落ちてしまいそうだった。

「落ち着けよ……。俺はどこにもいかねえから」

 親父が頭を上げる。顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れ、無精髭が光を反射して艶めいて見えた。

「日影……」

 やっと、親父のことを分かった気がした。苦く残る罪悪感と、大きな温もりが混ざり合って俺を包み込む。
 こんなにも、俺のことを思っていてくれていたのか……。
 濡れた写真を手に取る。そこに写る三人は紛れもなく明るい笑顔を浮かべていた。もう、この頃にはどうやったって戻れない。それでも、俺と親父はちゃんと家族だ。昔も、今も、これからも――。

「なあ、」

 寂しそうに埃を被る花瓶が目に留まる。この部屋に物は随分減ったけれど、あの花瓶だけは何故か捨てられなかった。日課のように、母親がいつもそこにいたことを覚えていたから。
 きっと、俺も親父と一緒で寂しかったんだ。どれだけ忙しくなっても忘れられないくらい、悲しかった。
 誰も彼も、不器用だ。神様は人間をつくるのが下手なのかもしれない。もっと、ずっと単純でいいのに。寂しい、嬉しい、悲しい、好きだ、嫌いだ。そんな感情を、素直に言えるようにすれば良かったんじゃないか。

「今度、母さんの墓参り一緒に行こうぜ」

 親父の濡れた瞳が見開かれる。
 そういえば、墓参りも一緒に行ったことは無かったな……。

「……そうだな。うん、行こう……」

 そう言った親父の声は少し震えていた。

「俺、母さんの好きな花知らないからさ、教えてくれよ」

 あの事故から、四年も掛かってしまった。あっという間なようで、すごく長かった四年間。
 ようやく、俺はあの時から一歩前進出来た気がした。