「おし、坊主。それでラストだ」
みかんがどっさりと入った段ボールをトラクターの荷台に乗せ、息をつく。真冬だというのに、上着が煩わしいくらいには身体が火照っていた。
みかん狩りしに来いって言っときながら、どうして俺は働かされているのだろうか。
どうせそんなことだろうと予想していたから、驚きはしなかったがやはり腑に落ちない。
相変わらず、おっさんは人使いが荒い。きっちり日暮れまで力仕事を中心に振り回されてしまった。
今回はバイト代が出るらしいから、別にいいのだけど。
「お疲れっす」
ひと段落着くと、おっさんは前と同じように自家製のお茶やら、お菓子なんかをたんまりと振る舞ってくれた。
柑橘の匂いが充満したここはやけに色彩が鮮やかで、倉庫という言葉が似つかわしくないほどだ。
「俺だけじゃ食い切れねえからな。腹一杯食って帰れ。なんせ、」
「タダっすからね。お言葉に甘えますよ」
「がははっ、分かってるじゃねぇか」
本当、仕事の時と別人だな。
睨むような鋭い目つきと不愛想な態度の先ほどとは違い、今俺を見るおっさんの目はやたらと温厚だ。昔、祖父母に向けられたものとよく似ている。
「坊主と話してっと、息子を思い出すな」
おっさんが懐かしむように表情を綻ばせる。
じわっと滲む気配にみかん茶で口の中の酸味を流し込んだ。
「息子さんいたんすね」
「もう死んじまったけどな」
あっけらかんと実に重たいことを言いのけるものだから、思わず耳を疑ってしまった。そして、ようやくおっさんの視線の意味を理解した。
おっさんは俺に自分の息子の面影を見ていたのだ。
「ちょうど、坊主くらいの歳か。懐かしいものだな」
「そんな早くに亡くなられたんすね……」
「おいおい、かしこまんじゃねえよ。そんなつもりで話したんじゃねえんだ。何より、もう二十年も昔のことなんだからよ」
確かにおっさんを包む気配に寂寞や喪失は無い。ただの世間話の延長だとでも言いたげだった。だとしたら、話題のチョイスが下手くそだなとは思う。
「病気か何かで亡くなられたんすか?」
その単語を出して、ふと彼女が浮かんでしまった。俺も俺で、会話が下手くそだ。
おっさんは足を組み、倉庫の高い天井を見遣る。そして、ややあって呟いた。
「いいや、自殺だよ」
想像もしていない返答だった。
「自殺、っすか……?」
「おう。ったく、意味分かんねえよな。男手一つだが、何不自由なく育ててたつもりだったよ。別に問題事を抱えてる風でも無かった。一体、何が不満だったやら」
自分で自ら命を絶つという想像を、俺は出来ない。そんなこと考えたこともなかったから。
気が付けば、俺もおっさんと同じようにトタン板を見上げていた。
「自殺とか考えたこともないから分かんねえっすわ。遺書とか無かったんすか?」
「もちろん、あったさ。でも、書いてあったことは今でも理解が出来ねえ……」
おっさんは言い淀んだ。もう一度、内容を自分の中で噛みしめるように小さく唸る。
「――俺が俺であるために」
「えっ?」
「遺書の最後の一文だよ。俺はこの二十年間、ずっとこの言葉の意味を考え続けてんだ。この話を出したのも、息子と同じくらいの歳の坊主になら分かるかもと思ってな」
自分であるために、死ぬ。
考えても、俺には分からなかった。その言い回しだと、自分でなくならないために、何かが変わってしまう前に終わらせる。そんな言い方にも思える。
自分が自分じゃなくなるのって、どんな時なんだろう。そもそも、俺は自らの個性を見出していない。そんなんじゃ、到底おっさんの息子の考えに及ばないのだろう。
「俺にもさっぱりっすわ」
風見の言葉を思い出す。
俺は死にたくない。風見はそう言った。それは、まるで殺されそうなのを必死に凌いでいる風な言い回しだ。
死にたくない風見と、自分であるために命を絶ったおっさんの息子。両者は酷く矛盾している。それでも、二人の思惑というか、心の内は同じなのではないかと思えた。
少なくとも、二人とも変化を望んでいない。変わってしまうことを拒絶しているのは確かだ。
今の自分から変わりたいか。そう問われた時、俺は多分答えられない。だから、二人の気持ちにも共感するのが難しいのだろう。
「坊主にも分からねえか。なら、お手上げだな。さっ、今の話は忘れてくれ」
すっかり止まってしまった手に、おっさんがみかんを差し出す。俺はそれを戸惑いながらも受け取った。
最初に彼が言ったように、これは世間話で留めておく方がいいのだろう。だから、俺はなるべく明るい話題を振り絞って口に出した。
少しでも、後味が残らないように。酸っぱい思いは普通の茶と味の違いがあまり分からないみかん茶で押し流す。
帰り際にはやっぱり、段ボールにぎっしり詰まったみかんの土産まで貰ってしまった。もうひと箱用意されていたのだけど、持って帰るまでに力尽きそうだし、消費しきれないから流石に断った。
俺一人を雇ってこれはどう考えても赤字だろう。そう思いつつも、ありがたく農園を後にする。
「まだ間に合うか……」
ここから家までの間には病院がある。俺は箱を抱えたまま向かうことにした。
前回のブルーベリーは日が開いてしまっていたから、今回は採れたてを持っていってやりたかった。みかんには追熟があるらしいから鮮度が落ちるとは言わないのだろうけど、土産話も新鮮な方が良いだろう。
途中、コンビニで昼間に撮影したみかん畑の写真を現像し、バスに乗り込む。
青かった果実が瑞々しいあざやかな橙色に染まっていたのは、夏とはまた別の感動があった。入道雲に変わる冬晴れの積雲と遠くに見える水平線の青も相まって、一つの芸術作品を見ているようだ。この写真が絵になって、そのまま美術館に飾られていたって何ら不思議じゃない。それくらい、心が突き動かされる景色だった。
知られていないだけで、景勝地としても有名になれそうなくらいだ。
今日は蜜柑色を見すぎだ。夕焼けに染まる町を車内から眺めて思う。
バスを降り、受付を済ませる。病院前にバス停があるからすごく便利だ。
薄暗い西階段を上り、いつもの病室へ向かうと、中から話し声が聞こえた。ちゃんと聞き取れないが、どうやら口論をしているようだった。
誰だろうと一瞬だけ考え、すぐに彼女の母親の顔を浮かんだ。
俺は慌てて踵を返したが、運悪く病室の扉が音を立てて開く。
疲労と少しの苛立ちを浮かべた彼女の母親が出てくる。そして、立ち尽くす俺を見つけ、その鋭い瞳で睨まれた。後ろ手で閉める扉の音がやけにけたたましく聞こえたのは、きっと気のせいではない。
「佐藤さんでしたね。もう来ないで下さいと以前、お伝えしたはずですが」
「あ……っと……」
駄目だ。返す言葉も無い。一方的に言われたこととはいえ、その後も彼女と会っていたのだから。
どこまでいっても、結局は俺は部外者だ。それが分かっているから、言葉が出てこなかった。
「――お母さんッ!」
扉が勢いよく開かれ、彼女が病室から飛び出して来た。その瞳は暗がりの中で湿っている。
一瞬、彼女と目が合う。申し訳なさそうな表情に来たことを少しだけ後悔してしまった。
彼女はすぐに目を逸らし、母親へと向き直る。
「日影くんは関係ないって言ったじゃん」
「蛍琉、お母さんを困らせないで頂戴」
「お母さんだって、私と日影くんを困らせてる! 私からたくさんのものを取り上げて、今度は大切な人まで奪うの!?」
今までに見たことのない彼女だった。苦しいくらいの痛みと、悲しみがひしひしと伝わってくる。
「お母さんは蛍琉のためを思って言ってるのよ」
「だから、それが分からないって言ってるんじゃん! 日影くんは何も悪いことはしてない。私だってもううんざりなの。それなのにまだ独りでこの暗い中に居ろって言うの!?」
普段の彼女からは考えられない、強い感情の乗った言葉だ。母親も気圧されて言葉に詰まっている。
部外者だからこそ、互いの言いたいことは分かる。多分、分かり合えることは無いのだろう。それぞれの葛藤と、譲れない思いがそこに明確に存在しているのだから。
長い言い争いの末、彼女の母親が先に折れた。重いため息をつき、肩を落とす。
「今日はもう帰るわ」
そう呟き、俺を一瞥する。到底、納得がいったようには見えなかった。
母親の視線が自ずと俺の持つ段ボールに向かう。すっかり忘れていた。
「みかんっす……。病院食にだって出てくるし、これくらいは問題ないっすよね?」
「……暗くなる前に早く帰りなさいね」
長居はするなと言うことだろう。せめてもの苦言にも思える。
「もういいです。早く入りましょう」
彼女に腕を引っ張られる。今までで、一番強い力だった。後ろ尾を引かれつつも、彼女の母親もそれ以上は何も言わずに行ってしまった。
相変わらず、彼女の母親がいる時の病室は真っ暗で、居心地が悪い。
彼女は足早にランプを点けた。きっと、同じ思いなのだろう。
医者が害は無いと言っているのだから、点けさせてあげればいいのに。そう思ってしまうのは、少なからず俺が彼女へ肩入れしているせいだろうか。それとも、彼女も俺も同じ思春期の病に侵された反骨精神の境遇だからか。
大人は皆、彼女の母親と同じ意見で、俺たちが間違っている。そんなこともあり得る話なのかもしれない。
それでも、俺はとんでもない過ちでないのなら、彼女に寄り添ってやりたい。だから、今回のことも自ら言及するのはやめにした。
「お母さんがすみませんでした。日影くんはただお見舞いに来てくれているだけだと、何度も言っているんですが。聞く耳を持ってもらえなくて……」
「別にいいよ。俺は気にしてない」
「そう言ってもらえると助かります。日影くんに会えなくなってしまっては、私はまたここで独りぼっちになってしまうんですから。……なんて台詞は重たい女ですね。すみません」
彼女は袖口で雑に目元を拭う。
段ボールからみかんを一つ取り出し、彼女の手元に軽く投げる。それを慌ててキャッチする彼女。泣いてるより、そうやって目を丸くしてほっと息をつく姿の方が彼女は似合っている。
「俺は今日だって自分の意思でここに来てんだ。来たくないって思ったら来ねーよ」
平籠に零れそうなくらいのみかんを山積みにし、床頭台の上に置く。いっぱい食ってもらわなくちゃ、俺もおっさんも困る。
彼女はみかんの皮を優しい手つきで撫で、安心したように表情を和らげる。
「これ、例のみかん畑のものですか?」
「そうだよ。俺が自らもぎ取ったやつかもしれねぇ」
あれだけ大量に収穫したのだ。手元のこれが俺の取ったものかなんて判別は付くわけもない。あのおっさんのことだから、わざわざ俺の取ったものを分けておいて持たせてくれた可能性は十分にあるけど。
「いいですねぇ、みかん狩り。私もしてみたいのになぁ」
「やめとけ、やめとけ。その後、大きさの仕分けから詰め入れまでやらされるぞ。せっかくの休みだってのにくったくただ」
重たい肩を回す。特に積み上げはかなりの重労働だった。普段、おっさん一人でやってると思うと、頭が上がらない。
彼女は何故か手元のみかんを俺に戻す。食べたくなかったのだろうか。
「剥いていてください」
「いや、それくらい自分でやれよ」
「いいから、それと後ろ向いてもらっていいですか?」
彼女がぐいっと俺の背を押すから、渋々丸椅子を回転させる。
全然、意味が分からねえ。
彼女の手が肩に触れ、ぐっと力が込められる。と言っても、正直撫でられているくらいのものだ。
「うわぁ、日影くんって肩までカチコチなんですね。全身、筋肉です」
「何言ってんだ。誰だってそうだろ」
「そういう意味じゃないんですよ。私はお肉です。日影くんは筋肉なんです」
「ふーん……」
手元のみかんに目を落とす。普段は取らない白皮を丁寧に取り除いている自分がいた。栄養あるとはいうけど、何だかそういう問題じゃないと思う。実際、おっさんもあの顔で丁寧に白皮を剥いていたし。
「おい、ちょっと思いっきり叩いてくれ」
「えっ……。まさか日影くんってそういうタイプの変態さんですか……?」
「ちげぇよ! 蛍琉の力が弱すぎてくすぐったいだけだ。やるなら、もっと力入れてくれよ」
「えー……でも、痛くないですかね?」
「痛いわけないだろ。蛍琉の力じゃ、顔を殴られたって痛かねえよ」
彼女は戸惑っていたが、俺が自ら肩を強く叩くと、生唾を飲んで腕を振り下ろした。彼女の拳が肩を叩く。
多分、全力では無いんだろうな。
「ど、どうですか……?」
「ちょうどいいぐらいだな」
「うへぇ、痛そうなんですけど……。というか、私の心が痛いです」
つるりと剥けたみかんをちぎり、彼女へ向ける。どうせ、この後に彼女が言いそうなことは分かっていたから、そのまま彼女の口元へと差し出す。
「私の事、分かって来ましたね」
そう言いつつ、彼女は差し出されたみかんを口でつかみ取る。その唇が微かに指に触れて、つい意識してしまう。
「どうせ、手がふさがってるから食べさせろって言うつもりだっただろ」
「その通りです。ほら、もう私の口が空っぽですよ?」
仕方がなく、俺は柔い力で肩を叩かれながら、彼女に餌付けする。今、誰かに見られたら恥ずかしさでおかしくなるかもしれない。
でも、二人だとこの雰囲気が心地よくて、別に悪い気はしない。
跳ねてしまいそうな鼓動を俺は必死に押さえつけた。
「はい、交替です」
彼女は一息つき、くるりとベッドの上で俺に背を向けた。
「俺もやんのかよ……」
「もちろんです。ベッドで惰眠を貪ってると、全身ばっきばきになるんですよ」
小さな背中を見て、思わず息を呑む。彼女の覚悟とはまた違った覚悟が俺には必要だった。
両肩に手を乗せる。じんわりとした温もりが布切れ越しに伝わった。ちょっとでも力を加えたら壊れてしまいそうに思える。それくらい細く、微塵も凝っていなかった。
「どうしたんです?」
「いや、怖い……」
「私の気持ちが分かったでしょう。でも、大丈夫ですよ。私、マッサージは強い方が好きなので」
壊れ物を扱うように、ほんの少し力を加える。柔らかい素肌に指がわずかに沈み込む感覚にすぐ力を緩めた。
逐一、彼女の様子を伺いながら徐々に強めていく。
「はい、剥けましたよ」
ひょいっと口元に割られたみかんが差し出される。
「いや、俺はもう食ったから」
「駄目です。それでは交替の意味がありません」
こうなっては彼女は意思が固い。大人しくそれを口でつかみ取る。顔がほんのり熱を持つのが自分でも分った。暗がりで良かったと不謹慎にも思ってしまう。
「ふふっ、何だかカップルみたいですね」
「肩たたきにみかんって、どう考えても老夫婦だろ……」
彼女は楽しそうにけらけらと笑う。
「老後にもこうしてじゃれ合えるって、理想的な夫婦なのでは?」
「どうなんだろうな」
不意に緩やかな沈黙が訪れた。
彼女の熱に手が痺れる。差し出されたみかんは運が悪かったのか、やけに酸っぱかった。
静寂を彼女が破る。
「私も、そんな未来を送ってみたかったです」
後ろ向きの彼女の表情は見えない。ただ、その背中が寂寥感に満ちていた。
「何言ってんだ。それくらい、俺がいくらでも付き合ってやるよ。どうせ、俺はいつまでも独り身予定だしな」
「駄目ですよ。こんな病に侵された私にいつまでも付き合っていては。ちゃんと、素敵な人を見つけてくださいね」
「ここまで俺のことを振り回しておいて、今さら何言ってんだ。俺は蛍琉のこと、結構……。っ、気に入ってんだよ」
ゆっくりと彼女が振り返る。哀歓を漂わせる儚げな笑みだ。俺を見つめる虹彩が潤んできらりと光る。
「とても嬉しいです。……でも、駄目なんです」
「何が駄目なんだよ。俺のこと嫌いなのかよ」
彼女が瞬きをした拍子に、頬を一筋の流れ星が伝った。暗闇をぽろりと零れ落ちた星が、彼女の服に溶ける。
「そんなわけないじゃないですか」
「だったら、どうして……。病気のことなら、俺は気にしねぇよ」
彼女は小さく首を振る。
「こんなこと伝える日が来ないといいのに。そう、思っていました」
どうしてか、胸がざわついた。息をするのも忘れ、彼女をひたすら見つめることしか出来ない。
この後に続く言葉が、俺には予想できてしまった。でも、それはあまりに非現実的で、ドラマやアニメのような物語の中だけのことだと、意味もなく否定をする自分がいた。
まっすぐに彼女が俺を捉える。そして、不意に悲し気な笑みを浮かべた。
「私、もう長くはないそうです……」
その言葉を聞いた瞬間、世界の輪郭がぐにゃりと歪んだ。揺れる視界に気持ち悪さがこみ上げる。
「な、何言ってんだ……?」
自分の声が水中にいるみたいに聞こえた。くぐもって、やけに聞き取りずらい。息が荒くなったことも相まって、まるで溺れているみたいだ。
「黙っていてすみませんでした。……元々、私は成人にはなれないだろうって言われていたんです」
自分の事のはずなのに、彼女はやけに落ち着いていた。だから、俺は余計に気持ち悪さを感じた。
「ど、どれくらいなんだ……?」
「さあ、どうでしょうか。お医者さんには半年は無理だろうと」
半年……?
視界が明滅し出す。大量のフラッシュが瞬き、思わず目を閉じた。暗闇を自分の浅い息遣いだけが支配する。喉が痙攣して呼吸すらままならない。
彼女が死ぬ。そのことだけが、脳裏を渦巻いて際限なく肥大していく。
悲しいとか、やるせないとか、そんな感情は湧き立つことなく、俺の胸中はとにかく苦しいだった。本当に苦しいのは彼女のはずなのに。
「いや、おかしいだろ。こんなにも蛍琉は元気じゃないか……。そりゃ、明るいところは無理だろうけど、だって……、だって……」
言葉が続かない。やりきれない思いに押しつぶされそうだ。
目の前の彼女は常に笑顔で、たまに見せる弱いところは年相応で、ちょっと明かりが駄目なだけな普通の少女なのに。ただ、それだけのことなのに――。
不意に温かな何かが俺を包み込んだ。
気が付けば、彼女が俺を引き寄せ、抱きかかえていた。彼女の熱が、彼女の匂いが、今までで一番愛おしくて、涙が滲む。
「大丈夫。――大丈夫ですよ」
まるで、赤子をあやすような優しい言葉だった。くぐもった世界で、彼女の声だけは鮮烈に響き、俺の心をかき混ぜて溶かす。
「どうして……。何で蛍琉ばかり……」
一度、感情を吐露してしまうと、もう止まらなかった。
みっともなく嘆く俺を、彼女はいつまでも抱きしめ続けてくれた。
縋ることしか出来ない俺は無力だ。こんな時に彼女を思うことしか出来ない。あまつさえ、彼女に宥められる始末。
理不尽を変える力なんてものは、一介の男子高校生には持ちえない。
悔しい……。何もできない自分が、もどかしい。
「知っていますか、日影くん。太陽って凄いんですよ?」
耳元で彼女が囁く。
「なんで……今そんな話を……」
虚ろな視界の中、彼女だけが鮮明に色彩を放っていた。この暗い世界で、確かに輝いていた。
「――私、太陽になりたいんです」
あどけない笑みを零す彼女に、俺はどうしようもなく見惚れてしまっていた。
みかんがどっさりと入った段ボールをトラクターの荷台に乗せ、息をつく。真冬だというのに、上着が煩わしいくらいには身体が火照っていた。
みかん狩りしに来いって言っときながら、どうして俺は働かされているのだろうか。
どうせそんなことだろうと予想していたから、驚きはしなかったがやはり腑に落ちない。
相変わらず、おっさんは人使いが荒い。きっちり日暮れまで力仕事を中心に振り回されてしまった。
今回はバイト代が出るらしいから、別にいいのだけど。
「お疲れっす」
ひと段落着くと、おっさんは前と同じように自家製のお茶やら、お菓子なんかをたんまりと振る舞ってくれた。
柑橘の匂いが充満したここはやけに色彩が鮮やかで、倉庫という言葉が似つかわしくないほどだ。
「俺だけじゃ食い切れねえからな。腹一杯食って帰れ。なんせ、」
「タダっすからね。お言葉に甘えますよ」
「がははっ、分かってるじゃねぇか」
本当、仕事の時と別人だな。
睨むような鋭い目つきと不愛想な態度の先ほどとは違い、今俺を見るおっさんの目はやたらと温厚だ。昔、祖父母に向けられたものとよく似ている。
「坊主と話してっと、息子を思い出すな」
おっさんが懐かしむように表情を綻ばせる。
じわっと滲む気配にみかん茶で口の中の酸味を流し込んだ。
「息子さんいたんすね」
「もう死んじまったけどな」
あっけらかんと実に重たいことを言いのけるものだから、思わず耳を疑ってしまった。そして、ようやくおっさんの視線の意味を理解した。
おっさんは俺に自分の息子の面影を見ていたのだ。
「ちょうど、坊主くらいの歳か。懐かしいものだな」
「そんな早くに亡くなられたんすね……」
「おいおい、かしこまんじゃねえよ。そんなつもりで話したんじゃねえんだ。何より、もう二十年も昔のことなんだからよ」
確かにおっさんを包む気配に寂寞や喪失は無い。ただの世間話の延長だとでも言いたげだった。だとしたら、話題のチョイスが下手くそだなとは思う。
「病気か何かで亡くなられたんすか?」
その単語を出して、ふと彼女が浮かんでしまった。俺も俺で、会話が下手くそだ。
おっさんは足を組み、倉庫の高い天井を見遣る。そして、ややあって呟いた。
「いいや、自殺だよ」
想像もしていない返答だった。
「自殺、っすか……?」
「おう。ったく、意味分かんねえよな。男手一つだが、何不自由なく育ててたつもりだったよ。別に問題事を抱えてる風でも無かった。一体、何が不満だったやら」
自分で自ら命を絶つという想像を、俺は出来ない。そんなこと考えたこともなかったから。
気が付けば、俺もおっさんと同じようにトタン板を見上げていた。
「自殺とか考えたこともないから分かんねえっすわ。遺書とか無かったんすか?」
「もちろん、あったさ。でも、書いてあったことは今でも理解が出来ねえ……」
おっさんは言い淀んだ。もう一度、内容を自分の中で噛みしめるように小さく唸る。
「――俺が俺であるために」
「えっ?」
「遺書の最後の一文だよ。俺はこの二十年間、ずっとこの言葉の意味を考え続けてんだ。この話を出したのも、息子と同じくらいの歳の坊主になら分かるかもと思ってな」
自分であるために、死ぬ。
考えても、俺には分からなかった。その言い回しだと、自分でなくならないために、何かが変わってしまう前に終わらせる。そんな言い方にも思える。
自分が自分じゃなくなるのって、どんな時なんだろう。そもそも、俺は自らの個性を見出していない。そんなんじゃ、到底おっさんの息子の考えに及ばないのだろう。
「俺にもさっぱりっすわ」
風見の言葉を思い出す。
俺は死にたくない。風見はそう言った。それは、まるで殺されそうなのを必死に凌いでいる風な言い回しだ。
死にたくない風見と、自分であるために命を絶ったおっさんの息子。両者は酷く矛盾している。それでも、二人の思惑というか、心の内は同じなのではないかと思えた。
少なくとも、二人とも変化を望んでいない。変わってしまうことを拒絶しているのは確かだ。
今の自分から変わりたいか。そう問われた時、俺は多分答えられない。だから、二人の気持ちにも共感するのが難しいのだろう。
「坊主にも分からねえか。なら、お手上げだな。さっ、今の話は忘れてくれ」
すっかり止まってしまった手に、おっさんがみかんを差し出す。俺はそれを戸惑いながらも受け取った。
最初に彼が言ったように、これは世間話で留めておく方がいいのだろう。だから、俺はなるべく明るい話題を振り絞って口に出した。
少しでも、後味が残らないように。酸っぱい思いは普通の茶と味の違いがあまり分からないみかん茶で押し流す。
帰り際にはやっぱり、段ボールにぎっしり詰まったみかんの土産まで貰ってしまった。もうひと箱用意されていたのだけど、持って帰るまでに力尽きそうだし、消費しきれないから流石に断った。
俺一人を雇ってこれはどう考えても赤字だろう。そう思いつつも、ありがたく農園を後にする。
「まだ間に合うか……」
ここから家までの間には病院がある。俺は箱を抱えたまま向かうことにした。
前回のブルーベリーは日が開いてしまっていたから、今回は採れたてを持っていってやりたかった。みかんには追熟があるらしいから鮮度が落ちるとは言わないのだろうけど、土産話も新鮮な方が良いだろう。
途中、コンビニで昼間に撮影したみかん畑の写真を現像し、バスに乗り込む。
青かった果実が瑞々しいあざやかな橙色に染まっていたのは、夏とはまた別の感動があった。入道雲に変わる冬晴れの積雲と遠くに見える水平線の青も相まって、一つの芸術作品を見ているようだ。この写真が絵になって、そのまま美術館に飾られていたって何ら不思議じゃない。それくらい、心が突き動かされる景色だった。
知られていないだけで、景勝地としても有名になれそうなくらいだ。
今日は蜜柑色を見すぎだ。夕焼けに染まる町を車内から眺めて思う。
バスを降り、受付を済ませる。病院前にバス停があるからすごく便利だ。
薄暗い西階段を上り、いつもの病室へ向かうと、中から話し声が聞こえた。ちゃんと聞き取れないが、どうやら口論をしているようだった。
誰だろうと一瞬だけ考え、すぐに彼女の母親の顔を浮かんだ。
俺は慌てて踵を返したが、運悪く病室の扉が音を立てて開く。
疲労と少しの苛立ちを浮かべた彼女の母親が出てくる。そして、立ち尽くす俺を見つけ、その鋭い瞳で睨まれた。後ろ手で閉める扉の音がやけにけたたましく聞こえたのは、きっと気のせいではない。
「佐藤さんでしたね。もう来ないで下さいと以前、お伝えしたはずですが」
「あ……っと……」
駄目だ。返す言葉も無い。一方的に言われたこととはいえ、その後も彼女と会っていたのだから。
どこまでいっても、結局は俺は部外者だ。それが分かっているから、言葉が出てこなかった。
「――お母さんッ!」
扉が勢いよく開かれ、彼女が病室から飛び出して来た。その瞳は暗がりの中で湿っている。
一瞬、彼女と目が合う。申し訳なさそうな表情に来たことを少しだけ後悔してしまった。
彼女はすぐに目を逸らし、母親へと向き直る。
「日影くんは関係ないって言ったじゃん」
「蛍琉、お母さんを困らせないで頂戴」
「お母さんだって、私と日影くんを困らせてる! 私からたくさんのものを取り上げて、今度は大切な人まで奪うの!?」
今までに見たことのない彼女だった。苦しいくらいの痛みと、悲しみがひしひしと伝わってくる。
「お母さんは蛍琉のためを思って言ってるのよ」
「だから、それが分からないって言ってるんじゃん! 日影くんは何も悪いことはしてない。私だってもううんざりなの。それなのにまだ独りでこの暗い中に居ろって言うの!?」
普段の彼女からは考えられない、強い感情の乗った言葉だ。母親も気圧されて言葉に詰まっている。
部外者だからこそ、互いの言いたいことは分かる。多分、分かり合えることは無いのだろう。それぞれの葛藤と、譲れない思いがそこに明確に存在しているのだから。
長い言い争いの末、彼女の母親が先に折れた。重いため息をつき、肩を落とす。
「今日はもう帰るわ」
そう呟き、俺を一瞥する。到底、納得がいったようには見えなかった。
母親の視線が自ずと俺の持つ段ボールに向かう。すっかり忘れていた。
「みかんっす……。病院食にだって出てくるし、これくらいは問題ないっすよね?」
「……暗くなる前に早く帰りなさいね」
長居はするなと言うことだろう。せめてもの苦言にも思える。
「もういいです。早く入りましょう」
彼女に腕を引っ張られる。今までで、一番強い力だった。後ろ尾を引かれつつも、彼女の母親もそれ以上は何も言わずに行ってしまった。
相変わらず、彼女の母親がいる時の病室は真っ暗で、居心地が悪い。
彼女は足早にランプを点けた。きっと、同じ思いなのだろう。
医者が害は無いと言っているのだから、点けさせてあげればいいのに。そう思ってしまうのは、少なからず俺が彼女へ肩入れしているせいだろうか。それとも、彼女も俺も同じ思春期の病に侵された反骨精神の境遇だからか。
大人は皆、彼女の母親と同じ意見で、俺たちが間違っている。そんなこともあり得る話なのかもしれない。
それでも、俺はとんでもない過ちでないのなら、彼女に寄り添ってやりたい。だから、今回のことも自ら言及するのはやめにした。
「お母さんがすみませんでした。日影くんはただお見舞いに来てくれているだけだと、何度も言っているんですが。聞く耳を持ってもらえなくて……」
「別にいいよ。俺は気にしてない」
「そう言ってもらえると助かります。日影くんに会えなくなってしまっては、私はまたここで独りぼっちになってしまうんですから。……なんて台詞は重たい女ですね。すみません」
彼女は袖口で雑に目元を拭う。
段ボールからみかんを一つ取り出し、彼女の手元に軽く投げる。それを慌ててキャッチする彼女。泣いてるより、そうやって目を丸くしてほっと息をつく姿の方が彼女は似合っている。
「俺は今日だって自分の意思でここに来てんだ。来たくないって思ったら来ねーよ」
平籠に零れそうなくらいのみかんを山積みにし、床頭台の上に置く。いっぱい食ってもらわなくちゃ、俺もおっさんも困る。
彼女はみかんの皮を優しい手つきで撫で、安心したように表情を和らげる。
「これ、例のみかん畑のものですか?」
「そうだよ。俺が自らもぎ取ったやつかもしれねぇ」
あれだけ大量に収穫したのだ。手元のこれが俺の取ったものかなんて判別は付くわけもない。あのおっさんのことだから、わざわざ俺の取ったものを分けておいて持たせてくれた可能性は十分にあるけど。
「いいですねぇ、みかん狩り。私もしてみたいのになぁ」
「やめとけ、やめとけ。その後、大きさの仕分けから詰め入れまでやらされるぞ。せっかくの休みだってのにくったくただ」
重たい肩を回す。特に積み上げはかなりの重労働だった。普段、おっさん一人でやってると思うと、頭が上がらない。
彼女は何故か手元のみかんを俺に戻す。食べたくなかったのだろうか。
「剥いていてください」
「いや、それくらい自分でやれよ」
「いいから、それと後ろ向いてもらっていいですか?」
彼女がぐいっと俺の背を押すから、渋々丸椅子を回転させる。
全然、意味が分からねえ。
彼女の手が肩に触れ、ぐっと力が込められる。と言っても、正直撫でられているくらいのものだ。
「うわぁ、日影くんって肩までカチコチなんですね。全身、筋肉です」
「何言ってんだ。誰だってそうだろ」
「そういう意味じゃないんですよ。私はお肉です。日影くんは筋肉なんです」
「ふーん……」
手元のみかんに目を落とす。普段は取らない白皮を丁寧に取り除いている自分がいた。栄養あるとはいうけど、何だかそういう問題じゃないと思う。実際、おっさんもあの顔で丁寧に白皮を剥いていたし。
「おい、ちょっと思いっきり叩いてくれ」
「えっ……。まさか日影くんってそういうタイプの変態さんですか……?」
「ちげぇよ! 蛍琉の力が弱すぎてくすぐったいだけだ。やるなら、もっと力入れてくれよ」
「えー……でも、痛くないですかね?」
「痛いわけないだろ。蛍琉の力じゃ、顔を殴られたって痛かねえよ」
彼女は戸惑っていたが、俺が自ら肩を強く叩くと、生唾を飲んで腕を振り下ろした。彼女の拳が肩を叩く。
多分、全力では無いんだろうな。
「ど、どうですか……?」
「ちょうどいいぐらいだな」
「うへぇ、痛そうなんですけど……。というか、私の心が痛いです」
つるりと剥けたみかんをちぎり、彼女へ向ける。どうせ、この後に彼女が言いそうなことは分かっていたから、そのまま彼女の口元へと差し出す。
「私の事、分かって来ましたね」
そう言いつつ、彼女は差し出されたみかんを口でつかみ取る。その唇が微かに指に触れて、つい意識してしまう。
「どうせ、手がふさがってるから食べさせろって言うつもりだっただろ」
「その通りです。ほら、もう私の口が空っぽですよ?」
仕方がなく、俺は柔い力で肩を叩かれながら、彼女に餌付けする。今、誰かに見られたら恥ずかしさでおかしくなるかもしれない。
でも、二人だとこの雰囲気が心地よくて、別に悪い気はしない。
跳ねてしまいそうな鼓動を俺は必死に押さえつけた。
「はい、交替です」
彼女は一息つき、くるりとベッドの上で俺に背を向けた。
「俺もやんのかよ……」
「もちろんです。ベッドで惰眠を貪ってると、全身ばっきばきになるんですよ」
小さな背中を見て、思わず息を呑む。彼女の覚悟とはまた違った覚悟が俺には必要だった。
両肩に手を乗せる。じんわりとした温もりが布切れ越しに伝わった。ちょっとでも力を加えたら壊れてしまいそうに思える。それくらい細く、微塵も凝っていなかった。
「どうしたんです?」
「いや、怖い……」
「私の気持ちが分かったでしょう。でも、大丈夫ですよ。私、マッサージは強い方が好きなので」
壊れ物を扱うように、ほんの少し力を加える。柔らかい素肌に指がわずかに沈み込む感覚にすぐ力を緩めた。
逐一、彼女の様子を伺いながら徐々に強めていく。
「はい、剥けましたよ」
ひょいっと口元に割られたみかんが差し出される。
「いや、俺はもう食ったから」
「駄目です。それでは交替の意味がありません」
こうなっては彼女は意思が固い。大人しくそれを口でつかみ取る。顔がほんのり熱を持つのが自分でも分った。暗がりで良かったと不謹慎にも思ってしまう。
「ふふっ、何だかカップルみたいですね」
「肩たたきにみかんって、どう考えても老夫婦だろ……」
彼女は楽しそうにけらけらと笑う。
「老後にもこうしてじゃれ合えるって、理想的な夫婦なのでは?」
「どうなんだろうな」
不意に緩やかな沈黙が訪れた。
彼女の熱に手が痺れる。差し出されたみかんは運が悪かったのか、やけに酸っぱかった。
静寂を彼女が破る。
「私も、そんな未来を送ってみたかったです」
後ろ向きの彼女の表情は見えない。ただ、その背中が寂寥感に満ちていた。
「何言ってんだ。それくらい、俺がいくらでも付き合ってやるよ。どうせ、俺はいつまでも独り身予定だしな」
「駄目ですよ。こんな病に侵された私にいつまでも付き合っていては。ちゃんと、素敵な人を見つけてくださいね」
「ここまで俺のことを振り回しておいて、今さら何言ってんだ。俺は蛍琉のこと、結構……。っ、気に入ってんだよ」
ゆっくりと彼女が振り返る。哀歓を漂わせる儚げな笑みだ。俺を見つめる虹彩が潤んできらりと光る。
「とても嬉しいです。……でも、駄目なんです」
「何が駄目なんだよ。俺のこと嫌いなのかよ」
彼女が瞬きをした拍子に、頬を一筋の流れ星が伝った。暗闇をぽろりと零れ落ちた星が、彼女の服に溶ける。
「そんなわけないじゃないですか」
「だったら、どうして……。病気のことなら、俺は気にしねぇよ」
彼女は小さく首を振る。
「こんなこと伝える日が来ないといいのに。そう、思っていました」
どうしてか、胸がざわついた。息をするのも忘れ、彼女をひたすら見つめることしか出来ない。
この後に続く言葉が、俺には予想できてしまった。でも、それはあまりに非現実的で、ドラマやアニメのような物語の中だけのことだと、意味もなく否定をする自分がいた。
まっすぐに彼女が俺を捉える。そして、不意に悲し気な笑みを浮かべた。
「私、もう長くはないそうです……」
その言葉を聞いた瞬間、世界の輪郭がぐにゃりと歪んだ。揺れる視界に気持ち悪さがこみ上げる。
「な、何言ってんだ……?」
自分の声が水中にいるみたいに聞こえた。くぐもって、やけに聞き取りずらい。息が荒くなったことも相まって、まるで溺れているみたいだ。
「黙っていてすみませんでした。……元々、私は成人にはなれないだろうって言われていたんです」
自分の事のはずなのに、彼女はやけに落ち着いていた。だから、俺は余計に気持ち悪さを感じた。
「ど、どれくらいなんだ……?」
「さあ、どうでしょうか。お医者さんには半年は無理だろうと」
半年……?
視界が明滅し出す。大量のフラッシュが瞬き、思わず目を閉じた。暗闇を自分の浅い息遣いだけが支配する。喉が痙攣して呼吸すらままならない。
彼女が死ぬ。そのことだけが、脳裏を渦巻いて際限なく肥大していく。
悲しいとか、やるせないとか、そんな感情は湧き立つことなく、俺の胸中はとにかく苦しいだった。本当に苦しいのは彼女のはずなのに。
「いや、おかしいだろ。こんなにも蛍琉は元気じゃないか……。そりゃ、明るいところは無理だろうけど、だって……、だって……」
言葉が続かない。やりきれない思いに押しつぶされそうだ。
目の前の彼女は常に笑顔で、たまに見せる弱いところは年相応で、ちょっと明かりが駄目なだけな普通の少女なのに。ただ、それだけのことなのに――。
不意に温かな何かが俺を包み込んだ。
気が付けば、彼女が俺を引き寄せ、抱きかかえていた。彼女の熱が、彼女の匂いが、今までで一番愛おしくて、涙が滲む。
「大丈夫。――大丈夫ですよ」
まるで、赤子をあやすような優しい言葉だった。くぐもった世界で、彼女の声だけは鮮烈に響き、俺の心をかき混ぜて溶かす。
「どうして……。何で蛍琉ばかり……」
一度、感情を吐露してしまうと、もう止まらなかった。
みっともなく嘆く俺を、彼女はいつまでも抱きしめ続けてくれた。
縋ることしか出来ない俺は無力だ。こんな時に彼女を思うことしか出来ない。あまつさえ、彼女に宥められる始末。
理不尽を変える力なんてものは、一介の男子高校生には持ちえない。
悔しい……。何もできない自分が、もどかしい。
「知っていますか、日影くん。太陽って凄いんですよ?」
耳元で彼女が囁く。
「なんで……今そんな話を……」
虚ろな視界の中、彼女だけが鮮明に色彩を放っていた。この暗い世界で、確かに輝いていた。
「――私、太陽になりたいんです」
あどけない笑みを零す彼女に、俺はどうしようもなく見惚れてしまっていた。