月明かりって、何ルクスなんだろうか。
二人で坂道を下りながら、ふと思う。
街灯の一本も無い、左右を木々に囲まれた通りでも、数メートル先くらいは見える。太陽が十万ルクスなのだから、月とか星だってそれなりに明るいのではないだろうか。
不安になって調べようにも、スマホを取り出すわけにはいかない。月明りよりも、絶対にスマホの画面の方が明るいのだから。
一歩後ろをついてくる彼女は、今のところ何の問題も無さそうだ。
時折、前後からカーライトを輝かせた車両が通過するが、それも遮光カーテンのおかげで彼女に光が届くことは無い。それにこれだけ暗いのだ。明かりの接近も、随分と遠くから分かる。
カーテンに身を包む謎の物体を見て、運転手がどう思うかはあまり想像したくない。車から降りて話しかけられないのを祈るばかりだ。
まあ、もしそうなれば俺が彼女をおぶって逃げるだけの話。こんなちっこくて細い彼女一人くらい、他愛もない。
後ろを一瞥すると、その都度彼女がにこっとあどけない笑みを浮かべる。それがむず痒くて、思わず毎回目を逸らしてしまう。
「なあ、何で遮光カーテンなのよ。今時、そういう服だって売ってんだろ」
「簡単な話ですよ。私一人じゃネットショッピングすら出来ないので、お洋服とかは全部家族が買ってきてくれます」
カーテンを前開きにしてわざわざ今日のズレたコーディネートを見せてくれる彼女。しかし、俺は前方から迫る明かりに、彼女をす巻きにして身体の陰に隠す。
「それで?」
「遮光性の高い洋服が欲しいなんて言えば、絶対に疑われます。この前の件で前科が付きましたし」
「なるほどね」
確かに彼女の母親の性格を鑑みるに、その想像に辿り着くことは明白だ。
「その点、カーテンであれば万が一ってこともあるので、買ってもらえました。まさか、誰もこんな風に使うなんて思わないでしょう」
「それな。俺も予想外だわ」
「ふふっ、日影くんに予想が出来ないのに、他の誰が予想できるというんですか」
彼女は可笑しそうに笑う。
「どういう意味だよ」
「そのまんまですよ。日影くんよりも私のことを理解している人なんて、私以外にいないということです」
その言葉には、どう返事をしていいのか戸惑ってしまった。
俺は本当に彼女のことを理解できているのだろうか。分かってあげられているのだろうか。
坂道を下っていくと、徐々に街灯が数を増やしていった。車通りも多い。ここからは道を選んでいく必要がある。
極力、暗くて人通りの少ない道を選んで進むが、どうやったって人工的な明かりを完璧に避けることは難しい。彼女は問題なさそうにしているけれど、俺は彼女を連れてきたことを早くも後悔しそうになっていた。
「この町って、こんなにも色づいていたんですね」
そういう彼女の瞳は、町中の明かりを乱反射しているんじゃないかってくらいに輝いていた。
「そうだな、俺も意識してみてようやく気付いたよ」
彼女の病気を知るまでは、むしろ夜道は真っ暗でどこか寂しいと感じていた。それなのに、意識すると小さな明かり一つでも目に留まって仕方がない。
小道で腰をかがめる。それを不思議そうに見る彼女。
「どうしました? 疲れちゃいましたか?」
「そうじゃねえ。こっから先はもっと明かりが増えるんだ。いちいち避けて通ってたんじゃ、いつまで経ってもご希望の場所に着かねえんだよ」
彼女は小首をかしげていたが、どうやら意図を理解したらしい。カーテンに全身をくるんだまま俺の背にダイブするようにのしかかる。
すごく、すっごく軽かった。
「へへっ、実は私は結構疲れていたんで、助かります」
耳元で聞こえる彼女の声はとても近くて、いつもより意識が削がれる。
「それならもっと早くに言えよ」
病院を抜け出してからニ十分ほど。病室暮らしの彼女にとっては十分すぎる距離だったはずだ。むしろ、俺が先に気づいてあげるべきだったのかもしれない。
前に回した彼女の両手がぎゅっと俺を締め付ける。俺の熱が彼女の冷え切った身体を包んでいく。そんな気がした。
カーテンに隠れているとはいえ、極力街灯や車通りの少ない道を選んで目的の場所に向かう。正直、今の俺と彼女の姿はかなり滑稽だ。
彼女が俺も包み込むようにカーテンを羽織っているせいで、傍から見れば外で二人羽織りをしているおかしな人たちだ。いや、周りから彼女の顔は見えていないはずだから、俺だけが変な奴だ。車通りは仕方がないとして、人通りの少ない田舎町で良かったと心底思う。
「潮の香りがします」
肩越しにひょこっとカーテンから顔を出した彼女が、子犬のように鼻をスンスン鳴らす。
「そうかぁ?」
確かにもう少し行けば、彼女が行きたいといった海辺が見えてくる。しかし、俺にはまだ潮の香りなんてものは分からなかった。
「懐かしいです……」
感慨深そうにする彼女を俺はカーテンの奥に押し戻した。同時にどうしても避けられない街灯の下を通過する。
きっと、俺には当たり前すぎるんだと思う。この眩むような明かりも、そこに集まる小さな虫たちも、そして、未だ感じられない潮の香りも。
毎日のように当たり前にそこにあるから、それを受け取る感覚も鈍くなっていく。
当たり前が当たり前じゃなくなるのって、一体どんな感じなのだろうか。
知りたい、なんて言ってしまえば、彼女に失礼だ。そんなもの、知らなくったっていい。
暗い視界にぼんやりと浜辺が見えてきた。
隙あらば顔を出そうとする彼女を抑え、砂浜に踏み込む。ビーチの入り口は街灯が明るすぎるから、もう少し進んだ。
周りを見渡しても、ひとっこひとりいやしない。俺はそっと胸をなでおろした。夏に通りかかった時はやんちゃそうな人たちが陽気に花火を振り回していたので、実は少し慎重になっていた。しかし、然しもの陽キャたちも、真冬の夜に海ではっちゃけるほどではないということだ。
せっかくだから、砂浜のど真ん中に彼女を降ろした。どうせ、誰も来やしないし、明かりが近づいてくればすぐに分かる。
「ほら、もういいぞ」
俺の言葉と同時に背から飛び降りる彼女。弾みでカーテンが砂浜に落ちる。
「うわぁー! ね、念願の海ですー!」
暗がりでも分かるほど、彼女の瞳は輝いていた。
両手を一杯に広げ、真っ暗な水平線に小さな全身を曝け出す。興奮が冷めやらないのか、彼女は俺の手を引いて波打ち際に向かって走り出した。
こうして見ると、本当に犬みたいだ。怒るだろうから本人には言わないけれど。
海の色が分かるくらい近づくと、不意に世界が変わったような気がした。
振り返ると、遠くで車道を走る車のヘッドライトが通過していく。他にも人工的な明かりが、イルミネーションのように小さな泡となって輝いている。
まるで今、向こうの世界から、こちらの世界に来てしまった。そんな錯覚を覚える。
こちらの世界は音がやかましくなくて、ただ吹き抜ける強い風と、さざ波の音だけが支配している。目が軋むような煩わしい輝きは無くて、月明りの優しい光が世界の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせていた。
ただ、砂浜を跨いだだけだというのに、こうも捉え方が変わるものなのか。
「ひゃー、冷たいっ……!」
見れば、彼女はしゃがみ込んで真冬の海に手を晒していた。
「当たり前だろ」
見ているだけで手がかじかんでくる。
彼女は口をへの字に曲げ、俺を見上げた。
「そういうことじゃないんですよ。……えいっ!」
彼女の飛ばす水飛沫が顔にかかる。あまりの冷たさに足下から震えがこみ上げた。
「おい、冷てえだろ!」
「ノリ悪いこと言っていたので、つい」
意地悪に笑う彼女が濡れ指を弾く。その流れ弾が首根に当たり、俺の体温を著しく奪い去る。
「よーし、喧嘩売ったな?」
腰をかがめて水面に片手を突っ込む。刺されてるのかと思うほど、冷たかった。
「きゃー、日影くんがついに怒りました」
楽しげにしながらも距離を取ろうとする彼女の手をもう片方の手で掴み、ぐいっと引き寄せる。
「え、あれ。ちょっ、力強い……!?」
「運動部舐めんなよ?」
ガシッと彼女の肩を掴み、固定する。
「ち、痴漢! 変態さんです!」
「安心しろよ。ここまでおぶってきたんだから、今更だろ」
引き上げた手に付いた海水を軽く払い、そのまま暴れる彼女の頬へと押し当てた。
「あわ、あわわ……っ! つ、冷たいです!」
「俺の手はひんやりしていて冷たいって言ってただろ?」
「そ、そうですが、これは違います……!」
彼女の濡れ手が俺の頬に向かって伸びる。しかし、俺は身体を逸らしてそれを強引に避けた。
「あー、ズルです!」
「残念、リーチの差ってやつだ。蛍琉の短い腕じゃ、俺には届かねーよ」
「ぐむむっ……。許すまじです……」
水をかけあうという、やけに青春ちっくなことをしているが、今は霜月だ。夏でもなければ、アオハルなんかでもない。ただの馬鹿だ。
でも、この馬鹿な時間が、息の詰まる日常ではやけに輝いていた。普段、あくせく学業にバイトまでやっているのだ。これくらい、許されたっていいじゃないか。
彼女だって、これっぽっちの悪いことは許される。医者が許さなくたって、俺が許してやる。
ひとしきり馬鹿をした後、俺と彼女は広い砂浜に肩を寄せ合って波の行方を見守っていた。といっても、水平線なんて見えやしない。少し先は真っ暗な帳が降りている。
「はぁー、楽しかったです。やっぱり、抜け出して良かったです」
「冷静になると超さみぃーけどな」
「そうですね。私はてっきりまだ十月の半ばくらいだと思ってました」
しかも、真夜中の海沿いだ。吹き荒ぶ風に耳が鈍痛を訴える。
疲労に重たい身体を軽く鼓舞し、やおら立ち上がった。
「温かいもん買ってくるわ。そこから動くなよ? 誰か来たら、カーテン被って隠れろ」
「了解です! お金は後でお支払いしますね」
「いらねーよ。バイト代入ったばかりだし」
まさか彼女を自販機に付き合わせるわけにはいかない。夜の自販機って、改めて前に立つとすごく明るいのだ。それこそ、目が痛くなるほどに。
またこっちの世界に戻ってきてしまったと、不意に感じた。彼女じゃないが、人工的な明かりの全てが身体に毒なんじゃないかと思ってしまう。実際、目には毒なんだろう。じゃなかったら、こんなに瞳の奥がズキズキと痛むことはないはずだ。
悴む手で缶を持つと、じーんっと一面が痺れた。
「ほれ、買ってきたぞ。あと、これ着ておけ。風邪引いたら大変だから」
缶のココアと一緒に着ていたコートを脱いで彼女に渡す。
「ありがとうございます。しかし、コートは大丈夫です。日影くんだって、風邪引いちゃうではないですか」
「俺は鍛え方がちげぇんだよ。風邪なんてもう五、六年引いてねえし」
「しかし……。では、こうしましょう」
彼女は座る俺の足をぐいっと手でこじ開け、その隙間にすっぽりと収まった。そして、俺ごとカーテンで全身をくるっと包み込む。
「こうすれば、二人とも暖かいですね」
「そうだけど、これは流石にちょっとハズいだろ」
ちょうど彼女の頭が前に来るわけで、ふわりと香る匂いに、不覚にも鼓動が速くなってしまう。
「誰も見ていませんよ。それに恥ずかしいのなら、キスでもしてみますか?」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、キスしちゃえば、これくらいのこと恥ずかしくもなんともないじゃないですか」
「だからって、話が飛躍しすぎなんだよ」
口に含んだ缶コーヒーがいつもより苦く感じる。
彼女は何だかやけに楽しそうだ。それなら、まあ、別にこのままでもいいかと思えた。
二人を包むカーテンは案外遮温に優れていた。おかげで、震えるほどの寒さが随分とマシになる。遮光素材なだけあって、分厚いおかげだ。その分、重たいのだけど。
「はぁー、ココア、幸せです……。いつぶりでしょうか」
「また、それかよ」
「仕方がないじゃないですか。病院食で出てくるわけもないし、こんな時じゃなきゃ飲めないんですから」
人の家庭のことをとやかく言いたくはないけれど、難儀だなと思う。過保護や神経質になってくれるのは、彼女が家族に愛されている証拠だ。しかし、それは本人の意思を無視した無償の愛であって、やっぱり互いに少しずつ寄り添い合わないと、子供は反発してしまうのだろう。
その点、俺の家はかなり寛容だ。多分、明け方に帰ろうが何も言われない。
昔の父親なら、俺を叱っただろうか。
どうだろう。正直、想像が付かない。このところ、今の父親を普通だと認識している自分がいる。だから、もう昔の父親のことがよく分からない。
「何だか、二人だけの世界みたいですね」
彼女がぽつりと呟く。
「……だな」
「日影くんはもし私と二人っきりの世界になっちゃったら、どうしますか?」
何だ、その質問。そう思いつつ、想像してみた。
「さあな、でも別に悪くないんじゃねーの」
彼女は何故か少し安心したような表情をしていた。拒絶されるとでも思ったのだろうか。馬鹿な話だ。
彼女が俺のことをそう言うように、多分、この世界で俺のことを誰よりも知っているのも彼女なのだ。こんなに何も考えず、反発も起きずに話せる相手は彼女しかいないのだから。
「いいんですか? タイプじゃない女の子と二人きりなんですよ?」
「それまだ根に持ってんのかよ……」
「当たり前です。普通に傷痕ですよ」
「そりゃ、悪かったな。宣言撤回するよ。蛍琉はすげぇ良い女だよ。俺が保証してやる」
驚いたように彼女が振り返る。甘いカカオの匂いがふんわりと香った。
「冗談でしたのに。私、別に気にしてないですよ」
「まあ、だとしても悪かったとは思ってんだよ。俺にデリカシー求めろって言うのは無理な話なんだが」
「では、素直に謝罪を受け取っておきましょう」
俺の身体に彼女が頭を預ける。ちょうど胸の位置で、高い鼓動を聞かれるんじゃないかと少し焦った。
「日影くんは温かいですね」
目をつぶり、心地よさそうな彼女は何だか猫みたいだ。犬だったり、猫だったり。彼女の前世は動物に違いない。
「冷たいんじゃなかったのかよ」
「今は温かいのです」
「都合の良い奴だな、俺って」
俺の腕を掴み、身体の前で大事そうに抱える彼女は随分と愛くるしい。
俺とは違い、彼女の穏やかな規則正しい鼓動が腕を伝う。ここまで信用されると、逆に恥ずかしくなる。
「夏でも、冬でも、暗い病室は凍えてしまいそうになるんです。ですから、もっと私に熱を分けてください。失いたくないと思ってしまうほど、たくさん……」
静かな語り口が、やけに寂寥感に満ちている。
いつしか、彼女の身体は少し震えていた。
「……大丈夫か?」
沈黙の末、結局、そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
「大丈夫だと、言い聞かせてはいるんです……。ですが、どうでしょう。私にも、分かりません……」
そこにいつもの明るく、天真爛漫な彼女はいなかった。今はただ、現実に怯える年相応の少女だ。
怖くない、寂しくない。そんなはずがない。誰だって、暗いのも、孤独なのも嫌に決まっている。そんなこと、最初から分かっていたのに。
だから、俺はせめて彼女をぎゅっと抱きしめた。細い身体で、加減を間違えれば怪我させてしまいそうだ。
それでも、こんなどうしようもない俺の熱でいいのなら、いくらでも持っていってほしい。いくらあげても足りないほど、彼女からはたくさんの熱を貰っているのだから。
「……ありがとうございます。もう十分ですよ。元気百倍、フルチャージです!」
しばらくして、彼女は無理に口調を戻した。その笑顔も貼り付けの代物だ。
だから、俺は彼女を意地でも離さなかった。彼女は少し困ったようにしていたけれど、そんなの関係ない。
「今さら俺に気なんて使うんじゃねえよ……」
本心だった。
彼女とはそんな駆け引きをしたくはない。
「ご――……っ、ありがとうございます……」
「それでいいんだよ。黙って俺の抱き枕になっとけ」
俺と彼女は顔を見合わせ、同時に笑った。その笑顔が本物で安心する。
「本当、日影くんはデリカシーが無いですね」
「だろ?」
「でも、日影くんもそのままでいてください。私はそんな日影くんの方が落ち着きます」
「それってどうなんだよ……」
誰もいない、真っ暗な砂浜に二人の明るい声だけが響く。
贅沢だなと思う。
「私が望んでいるんですから良いんですよ! さあ、夜は長いんです。いくらでもお付き合いしてあげますよ」
結局、俺たちはこのままで良いんだ。
この時の俺は、確かにそう思っていた。
二人で坂道を下りながら、ふと思う。
街灯の一本も無い、左右を木々に囲まれた通りでも、数メートル先くらいは見える。太陽が十万ルクスなのだから、月とか星だってそれなりに明るいのではないだろうか。
不安になって調べようにも、スマホを取り出すわけにはいかない。月明りよりも、絶対にスマホの画面の方が明るいのだから。
一歩後ろをついてくる彼女は、今のところ何の問題も無さそうだ。
時折、前後からカーライトを輝かせた車両が通過するが、それも遮光カーテンのおかげで彼女に光が届くことは無い。それにこれだけ暗いのだ。明かりの接近も、随分と遠くから分かる。
カーテンに身を包む謎の物体を見て、運転手がどう思うかはあまり想像したくない。車から降りて話しかけられないのを祈るばかりだ。
まあ、もしそうなれば俺が彼女をおぶって逃げるだけの話。こんなちっこくて細い彼女一人くらい、他愛もない。
後ろを一瞥すると、その都度彼女がにこっとあどけない笑みを浮かべる。それがむず痒くて、思わず毎回目を逸らしてしまう。
「なあ、何で遮光カーテンなのよ。今時、そういう服だって売ってんだろ」
「簡単な話ですよ。私一人じゃネットショッピングすら出来ないので、お洋服とかは全部家族が買ってきてくれます」
カーテンを前開きにしてわざわざ今日のズレたコーディネートを見せてくれる彼女。しかし、俺は前方から迫る明かりに、彼女をす巻きにして身体の陰に隠す。
「それで?」
「遮光性の高い洋服が欲しいなんて言えば、絶対に疑われます。この前の件で前科が付きましたし」
「なるほどね」
確かに彼女の母親の性格を鑑みるに、その想像に辿り着くことは明白だ。
「その点、カーテンであれば万が一ってこともあるので、買ってもらえました。まさか、誰もこんな風に使うなんて思わないでしょう」
「それな。俺も予想外だわ」
「ふふっ、日影くんに予想が出来ないのに、他の誰が予想できるというんですか」
彼女は可笑しそうに笑う。
「どういう意味だよ」
「そのまんまですよ。日影くんよりも私のことを理解している人なんて、私以外にいないということです」
その言葉には、どう返事をしていいのか戸惑ってしまった。
俺は本当に彼女のことを理解できているのだろうか。分かってあげられているのだろうか。
坂道を下っていくと、徐々に街灯が数を増やしていった。車通りも多い。ここからは道を選んでいく必要がある。
極力、暗くて人通りの少ない道を選んで進むが、どうやったって人工的な明かりを完璧に避けることは難しい。彼女は問題なさそうにしているけれど、俺は彼女を連れてきたことを早くも後悔しそうになっていた。
「この町って、こんなにも色づいていたんですね」
そういう彼女の瞳は、町中の明かりを乱反射しているんじゃないかってくらいに輝いていた。
「そうだな、俺も意識してみてようやく気付いたよ」
彼女の病気を知るまでは、むしろ夜道は真っ暗でどこか寂しいと感じていた。それなのに、意識すると小さな明かり一つでも目に留まって仕方がない。
小道で腰をかがめる。それを不思議そうに見る彼女。
「どうしました? 疲れちゃいましたか?」
「そうじゃねえ。こっから先はもっと明かりが増えるんだ。いちいち避けて通ってたんじゃ、いつまで経ってもご希望の場所に着かねえんだよ」
彼女は小首をかしげていたが、どうやら意図を理解したらしい。カーテンに全身をくるんだまま俺の背にダイブするようにのしかかる。
すごく、すっごく軽かった。
「へへっ、実は私は結構疲れていたんで、助かります」
耳元で聞こえる彼女の声はとても近くて、いつもより意識が削がれる。
「それならもっと早くに言えよ」
病院を抜け出してからニ十分ほど。病室暮らしの彼女にとっては十分すぎる距離だったはずだ。むしろ、俺が先に気づいてあげるべきだったのかもしれない。
前に回した彼女の両手がぎゅっと俺を締め付ける。俺の熱が彼女の冷え切った身体を包んでいく。そんな気がした。
カーテンに隠れているとはいえ、極力街灯や車通りの少ない道を選んで目的の場所に向かう。正直、今の俺と彼女の姿はかなり滑稽だ。
彼女が俺も包み込むようにカーテンを羽織っているせいで、傍から見れば外で二人羽織りをしているおかしな人たちだ。いや、周りから彼女の顔は見えていないはずだから、俺だけが変な奴だ。車通りは仕方がないとして、人通りの少ない田舎町で良かったと心底思う。
「潮の香りがします」
肩越しにひょこっとカーテンから顔を出した彼女が、子犬のように鼻をスンスン鳴らす。
「そうかぁ?」
確かにもう少し行けば、彼女が行きたいといった海辺が見えてくる。しかし、俺にはまだ潮の香りなんてものは分からなかった。
「懐かしいです……」
感慨深そうにする彼女を俺はカーテンの奥に押し戻した。同時にどうしても避けられない街灯の下を通過する。
きっと、俺には当たり前すぎるんだと思う。この眩むような明かりも、そこに集まる小さな虫たちも、そして、未だ感じられない潮の香りも。
毎日のように当たり前にそこにあるから、それを受け取る感覚も鈍くなっていく。
当たり前が当たり前じゃなくなるのって、一体どんな感じなのだろうか。
知りたい、なんて言ってしまえば、彼女に失礼だ。そんなもの、知らなくったっていい。
暗い視界にぼんやりと浜辺が見えてきた。
隙あらば顔を出そうとする彼女を抑え、砂浜に踏み込む。ビーチの入り口は街灯が明るすぎるから、もう少し進んだ。
周りを見渡しても、ひとっこひとりいやしない。俺はそっと胸をなでおろした。夏に通りかかった時はやんちゃそうな人たちが陽気に花火を振り回していたので、実は少し慎重になっていた。しかし、然しもの陽キャたちも、真冬の夜に海ではっちゃけるほどではないということだ。
せっかくだから、砂浜のど真ん中に彼女を降ろした。どうせ、誰も来やしないし、明かりが近づいてくればすぐに分かる。
「ほら、もういいぞ」
俺の言葉と同時に背から飛び降りる彼女。弾みでカーテンが砂浜に落ちる。
「うわぁー! ね、念願の海ですー!」
暗がりでも分かるほど、彼女の瞳は輝いていた。
両手を一杯に広げ、真っ暗な水平線に小さな全身を曝け出す。興奮が冷めやらないのか、彼女は俺の手を引いて波打ち際に向かって走り出した。
こうして見ると、本当に犬みたいだ。怒るだろうから本人には言わないけれど。
海の色が分かるくらい近づくと、不意に世界が変わったような気がした。
振り返ると、遠くで車道を走る車のヘッドライトが通過していく。他にも人工的な明かりが、イルミネーションのように小さな泡となって輝いている。
まるで今、向こうの世界から、こちらの世界に来てしまった。そんな錯覚を覚える。
こちらの世界は音がやかましくなくて、ただ吹き抜ける強い風と、さざ波の音だけが支配している。目が軋むような煩わしい輝きは無くて、月明りの優しい光が世界の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせていた。
ただ、砂浜を跨いだだけだというのに、こうも捉え方が変わるものなのか。
「ひゃー、冷たいっ……!」
見れば、彼女はしゃがみ込んで真冬の海に手を晒していた。
「当たり前だろ」
見ているだけで手がかじかんでくる。
彼女は口をへの字に曲げ、俺を見上げた。
「そういうことじゃないんですよ。……えいっ!」
彼女の飛ばす水飛沫が顔にかかる。あまりの冷たさに足下から震えがこみ上げた。
「おい、冷てえだろ!」
「ノリ悪いこと言っていたので、つい」
意地悪に笑う彼女が濡れ指を弾く。その流れ弾が首根に当たり、俺の体温を著しく奪い去る。
「よーし、喧嘩売ったな?」
腰をかがめて水面に片手を突っ込む。刺されてるのかと思うほど、冷たかった。
「きゃー、日影くんがついに怒りました」
楽しげにしながらも距離を取ろうとする彼女の手をもう片方の手で掴み、ぐいっと引き寄せる。
「え、あれ。ちょっ、力強い……!?」
「運動部舐めんなよ?」
ガシッと彼女の肩を掴み、固定する。
「ち、痴漢! 変態さんです!」
「安心しろよ。ここまでおぶってきたんだから、今更だろ」
引き上げた手に付いた海水を軽く払い、そのまま暴れる彼女の頬へと押し当てた。
「あわ、あわわ……っ! つ、冷たいです!」
「俺の手はひんやりしていて冷たいって言ってただろ?」
「そ、そうですが、これは違います……!」
彼女の濡れ手が俺の頬に向かって伸びる。しかし、俺は身体を逸らしてそれを強引に避けた。
「あー、ズルです!」
「残念、リーチの差ってやつだ。蛍琉の短い腕じゃ、俺には届かねーよ」
「ぐむむっ……。許すまじです……」
水をかけあうという、やけに青春ちっくなことをしているが、今は霜月だ。夏でもなければ、アオハルなんかでもない。ただの馬鹿だ。
でも、この馬鹿な時間が、息の詰まる日常ではやけに輝いていた。普段、あくせく学業にバイトまでやっているのだ。これくらい、許されたっていいじゃないか。
彼女だって、これっぽっちの悪いことは許される。医者が許さなくたって、俺が許してやる。
ひとしきり馬鹿をした後、俺と彼女は広い砂浜に肩を寄せ合って波の行方を見守っていた。といっても、水平線なんて見えやしない。少し先は真っ暗な帳が降りている。
「はぁー、楽しかったです。やっぱり、抜け出して良かったです」
「冷静になると超さみぃーけどな」
「そうですね。私はてっきりまだ十月の半ばくらいだと思ってました」
しかも、真夜中の海沿いだ。吹き荒ぶ風に耳が鈍痛を訴える。
疲労に重たい身体を軽く鼓舞し、やおら立ち上がった。
「温かいもん買ってくるわ。そこから動くなよ? 誰か来たら、カーテン被って隠れろ」
「了解です! お金は後でお支払いしますね」
「いらねーよ。バイト代入ったばかりだし」
まさか彼女を自販機に付き合わせるわけにはいかない。夜の自販機って、改めて前に立つとすごく明るいのだ。それこそ、目が痛くなるほどに。
またこっちの世界に戻ってきてしまったと、不意に感じた。彼女じゃないが、人工的な明かりの全てが身体に毒なんじゃないかと思ってしまう。実際、目には毒なんだろう。じゃなかったら、こんなに瞳の奥がズキズキと痛むことはないはずだ。
悴む手で缶を持つと、じーんっと一面が痺れた。
「ほれ、買ってきたぞ。あと、これ着ておけ。風邪引いたら大変だから」
缶のココアと一緒に着ていたコートを脱いで彼女に渡す。
「ありがとうございます。しかし、コートは大丈夫です。日影くんだって、風邪引いちゃうではないですか」
「俺は鍛え方がちげぇんだよ。風邪なんてもう五、六年引いてねえし」
「しかし……。では、こうしましょう」
彼女は座る俺の足をぐいっと手でこじ開け、その隙間にすっぽりと収まった。そして、俺ごとカーテンで全身をくるっと包み込む。
「こうすれば、二人とも暖かいですね」
「そうだけど、これは流石にちょっとハズいだろ」
ちょうど彼女の頭が前に来るわけで、ふわりと香る匂いに、不覚にも鼓動が速くなってしまう。
「誰も見ていませんよ。それに恥ずかしいのなら、キスでもしてみますか?」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、キスしちゃえば、これくらいのこと恥ずかしくもなんともないじゃないですか」
「だからって、話が飛躍しすぎなんだよ」
口に含んだ缶コーヒーがいつもより苦く感じる。
彼女は何だかやけに楽しそうだ。それなら、まあ、別にこのままでもいいかと思えた。
二人を包むカーテンは案外遮温に優れていた。おかげで、震えるほどの寒さが随分とマシになる。遮光素材なだけあって、分厚いおかげだ。その分、重たいのだけど。
「はぁー、ココア、幸せです……。いつぶりでしょうか」
「また、それかよ」
「仕方がないじゃないですか。病院食で出てくるわけもないし、こんな時じゃなきゃ飲めないんですから」
人の家庭のことをとやかく言いたくはないけれど、難儀だなと思う。過保護や神経質になってくれるのは、彼女が家族に愛されている証拠だ。しかし、それは本人の意思を無視した無償の愛であって、やっぱり互いに少しずつ寄り添い合わないと、子供は反発してしまうのだろう。
その点、俺の家はかなり寛容だ。多分、明け方に帰ろうが何も言われない。
昔の父親なら、俺を叱っただろうか。
どうだろう。正直、想像が付かない。このところ、今の父親を普通だと認識している自分がいる。だから、もう昔の父親のことがよく分からない。
「何だか、二人だけの世界みたいですね」
彼女がぽつりと呟く。
「……だな」
「日影くんはもし私と二人っきりの世界になっちゃったら、どうしますか?」
何だ、その質問。そう思いつつ、想像してみた。
「さあな、でも別に悪くないんじゃねーの」
彼女は何故か少し安心したような表情をしていた。拒絶されるとでも思ったのだろうか。馬鹿な話だ。
彼女が俺のことをそう言うように、多分、この世界で俺のことを誰よりも知っているのも彼女なのだ。こんなに何も考えず、反発も起きずに話せる相手は彼女しかいないのだから。
「いいんですか? タイプじゃない女の子と二人きりなんですよ?」
「それまだ根に持ってんのかよ……」
「当たり前です。普通に傷痕ですよ」
「そりゃ、悪かったな。宣言撤回するよ。蛍琉はすげぇ良い女だよ。俺が保証してやる」
驚いたように彼女が振り返る。甘いカカオの匂いがふんわりと香った。
「冗談でしたのに。私、別に気にしてないですよ」
「まあ、だとしても悪かったとは思ってんだよ。俺にデリカシー求めろって言うのは無理な話なんだが」
「では、素直に謝罪を受け取っておきましょう」
俺の身体に彼女が頭を預ける。ちょうど胸の位置で、高い鼓動を聞かれるんじゃないかと少し焦った。
「日影くんは温かいですね」
目をつぶり、心地よさそうな彼女は何だか猫みたいだ。犬だったり、猫だったり。彼女の前世は動物に違いない。
「冷たいんじゃなかったのかよ」
「今は温かいのです」
「都合の良い奴だな、俺って」
俺の腕を掴み、身体の前で大事そうに抱える彼女は随分と愛くるしい。
俺とは違い、彼女の穏やかな規則正しい鼓動が腕を伝う。ここまで信用されると、逆に恥ずかしくなる。
「夏でも、冬でも、暗い病室は凍えてしまいそうになるんです。ですから、もっと私に熱を分けてください。失いたくないと思ってしまうほど、たくさん……」
静かな語り口が、やけに寂寥感に満ちている。
いつしか、彼女の身体は少し震えていた。
「……大丈夫か?」
沈黙の末、結局、そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
「大丈夫だと、言い聞かせてはいるんです……。ですが、どうでしょう。私にも、分かりません……」
そこにいつもの明るく、天真爛漫な彼女はいなかった。今はただ、現実に怯える年相応の少女だ。
怖くない、寂しくない。そんなはずがない。誰だって、暗いのも、孤独なのも嫌に決まっている。そんなこと、最初から分かっていたのに。
だから、俺はせめて彼女をぎゅっと抱きしめた。細い身体で、加減を間違えれば怪我させてしまいそうだ。
それでも、こんなどうしようもない俺の熱でいいのなら、いくらでも持っていってほしい。いくらあげても足りないほど、彼女からはたくさんの熱を貰っているのだから。
「……ありがとうございます。もう十分ですよ。元気百倍、フルチャージです!」
しばらくして、彼女は無理に口調を戻した。その笑顔も貼り付けの代物だ。
だから、俺は彼女を意地でも離さなかった。彼女は少し困ったようにしていたけれど、そんなの関係ない。
「今さら俺に気なんて使うんじゃねえよ……」
本心だった。
彼女とはそんな駆け引きをしたくはない。
「ご――……っ、ありがとうございます……」
「それでいいんだよ。黙って俺の抱き枕になっとけ」
俺と彼女は顔を見合わせ、同時に笑った。その笑顔が本物で安心する。
「本当、日影くんはデリカシーが無いですね」
「だろ?」
「でも、日影くんもそのままでいてください。私はそんな日影くんの方が落ち着きます」
「それってどうなんだよ……」
誰もいない、真っ暗な砂浜に二人の明るい声だけが響く。
贅沢だなと思う。
「私が望んでいるんですから良いんですよ! さあ、夜は長いんです。いくらでもお付き合いしてあげますよ」
結局、俺たちはこのままで良いんだ。
この時の俺は、確かにそう思っていた。